第十八話 不安
事件はそれから程なくして起こった。
その日、ヘロデの宮殿では城主であるヘロデの誕生日を祝うため、その宴会の準備で大わらわだった。
ヘロデの妻のヘロディアスも、この日の為に前々からいろいろと準備にいそしんでいたが、それでも当日はいっそう細心の注意を払って手筈を整えていた。
実は、これほどヘロディアスが今日の宴会にこだわるのには、ある理由があった。
それは、ヘロデの前妻であるファセリス姫の父、アラビア王のアレタス4世との決戦が間近に迫っていたからだった。
妻の座を奪い取ったヘロディアスにしてみれば、自身の結婚の正当性を内外に示すためには決して負けられない戦争だった。
それに、ここで一気にアレタスを叩き潰せば、ユダヤ領の拡大も考えられる。
国際都市として名高い、あのアラブの首都ペトラを我が物にできる・・・。
そう考えると、ヘロディアスの胸は震えた。
そのためにも、何としてでも家臣を始め、ローマや地元の有力者達の信望を集めて、夫ヘロデを盛り立てなければならない。
だからこそ、今夜の宴会は絶対に失敗できなかった。
地元の貴族やローマの人々がわたし達の結婚を認めてくれたら、ファセリスが何と言おうと、決してアラブに負けることはない。
ユダヤがアラブに屈するなんてことは、当のユダヤ人達が一番、嫌うはずだ。
それに、ローマのティベリウス皇帝は夫ヘロデを誰よりも気に入ってくださっている。
だから、アラブが先に事を荒げたとなると必ずご支援くださるだろう。
何より、あのアラブの年増姫に負けたら、我がハスモンの名がすたれようというものだ。
そうして、いつものようにヘロディアスの心にはその強いプライド(自尊心)だけがひたすら踊っていた。
しかし、今日はいつになく不安めいたものも彼女は感じていた。
おかしいわ。
さっきから妙な胸騒ぎがする。
心配することなんて何もないはずなのに・・・。
準備に手抜かりはないし、ローマへの根回しも済ませてある。
すべてが順調なのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう?
ヘロディアスは、宴会用に新調したばかりの衣装を身にまとい、召使達に入念な化粧をしてもらいながら、さっきからずっとそんな物思いにふけっていた。
確かに、すべては順調に進んでいた。
前妻ファセリス姫の劇的な実家への逃避行でヘロディアスとの再婚話が公になってからというもの、ヘロデの行動はヘロディアスの予想以上にすばやかった。
ファセリス姫の男勝りな性格をよく知っているだけに、必ず彼女が父親のアレタス王と共に反撃してくるだろうと読んだヘロデは、先手を打つべく、ヘロディアスを迎える前に単身、ローマへと赴き、事の次第をティベリウス皇帝に何もかも打ち明けていた。
そのローマ皇帝ティベリウスとは、前皇帝アウグストゥスの頃から家族ぐるみの付き合いをして親しくしていたが、表向きとは関係なく、ティベリウス自身がヘロデとは馬が合うらしく、何くれとなくヘロデには目をかけてくれていた。
だから、水と油のユダヤとアラブに同盟を結ばせ、パックス・ロマーナ(ローマ帝国による平和)を築き上げた前皇帝アウグストゥスの深慮遠謀をヘロデが今回、勝手な離婚話でもって踏みにじろうとしているにもかかわらず、ティベリウスは激怒するどころか、さほどヘロデを咎めるつもりはないようだった。
とは言え、ローマではそもそも離婚や浮気話など日常茶飯事だったし、まして、これまでのユダヤ教徒の激しい暴動や派閥争いを鑑みれば、ユダヤ国内の安定を図るにはユダヤの正統な血筋とされているハスモン朝との婚姻は不可欠というヘロデの大義名分が、ティベリウスには何となく妥当なようにも思えたからだった。
それに、実はティベリウスは密かにアラブを狙ってもいた。
ここでとりあえず様子見を決め込んでおいて、そのうち戦争を吹っかける機会ができたらすぐさまそれに便乗し、アラブの自治を取り上げて砂漠交易でもたらされる莫大な富をそっくりそのまま奪い取ってしまおうと考えていた。
だから、ティベリウスにしてみれば、労せずしてアラブとの戦争をするきっかけを作ってくれたヘロデに感謝こそすれ、決して怒る気にはなれなかったのである。
一方、自分の地位を守ることで精一杯のヘロデは、そんな事とは気づかず、思い通りに事が進んだのは自分の政治手腕によるものとすっかり勘違いし、ますます変な自信を持つようになった。
だから、今日の誕生祝いの宴席も、そうした鼻持ちならないヘロデの過信を見せつけるかのような、やたらと金をかけただけの趣味の悪い豪勢さが目立っていた。
また、宴席の招待客も内外からのローマの有力者に、地元の裕福な貴族や地主、サドカイ派とファリサイ派の宗教関係者なども多数、招待されていた。
むろん、カエサリア・パレスティナに駐在するユダヤ総督、ポンテオ・ピラトにもヘロデは一応、声をかけたのだが、それはあくまで外交上の儀礼であって、決してピラトが自分のところにまでわざわざ足を運んでくることがないのをヘロデはよく分かっていた。
ヘロデとピラトが初めて顔を見合わせたのはピラトがユダヤに赴任してきた時だったが、その時点でお互いを忌み嫌うようになった。
実直で軍人肌が染み込んだようなポンテオ・ピラトと、金のスプーンで育てられた貴族肌のヘロデ・アンティパスとでは、所詮、そりが合わないことは火を見るよりも明らかだった。
「あの田舎総督が」ヘロデは影でピラトのことをしょっちゅうそう呼んでいた。
ヘロデから見れば、ピラトなど単なるローマから派遣された駐在役人程度でしかなかったし、ピラトの方もヘロデの慇懃無礼な態度が鼻につくらしく、滅多なことではヘロデに近寄ろうとさえしなかった。
だから、お互い、どうしても必要な時しか交流することはあまりなく、今回も礼儀として招待はしたものの、ヘロデの本音としては最初からピラトの出席をあまり歓迎していなかったのだった。
しかし、それほど毛嫌いしているピラト以上に今度の招待客の中でヘロデが一番、歓迎していなかったのは、甥のヘロデ・アグリッパだった。
ヘロデと甥のアグリッパとは、その血縁関係が因縁じみていた。
アグリッパは、ヘロデ・アンティパスの実父であるヘロデ大王と、その大王に処刑されたマリアンヌ1世との間にできたアリストビュロス王子の忘れ形見で、そのアリストビュロス王子も王位継承権を巡って父親のヘロデ大王に処刑されていた。
そもそも、ヘロデ大王という男も息子のヘロデ・アンティパスと同様、非常に女癖が悪く、ハスモン朝の姫であるマリアンヌ1世の美貌の虜となると、途端に最初の妻だったドリスとその息子をすげなく追い出し、マリアンヌ1世を自分の二番目の妻に迎えていた。
だが、その後、ヘロデ大王はマリアンヌ1世を寵愛し過ぎたあまり、嫉妬心から無実の彼女に姦淫の罪を着せ、自ら処刑してしまったのである。
そして、そのマリアンヌ1世が生んだ息子であり、アグリッパの父でもあるアリストビュロス王子も、一度はユダヤ王位継承者としてヘロデ大王から認められながら大王自身の異常な疑心暗鬼からあえなくその首をはねられてしまった。
そんな不吉な因縁に包まれた生い立ちを持つアグリッパは、母親からも引き離されてまるで人質のように幼少期からユダヤから遠く離れたローマに預けられ、生まれてからは一度も祖国であるユダヤの地で育つことはなかった。
そうして、小さい頃からそんな寂しい環境に彼は置かれていたのだが、実際のところ、アグリッパの生活は他人が思うほど大して暗くはなかった。
洗練されたローマの宮廷で、皇帝の庇護を受けながらユダヤの名門の王子として皆からちやほやされ、また、ハスモンの血を色濃く継いだその美男子ぶりが宮廷内の女性達にはかなりの人気を博していた。
その上、皇帝ティベリウスの息子で次期皇帝候補だったドルトスとも親友扱いされるほど仲が良く、権力にも事欠くことはなかったのである。
だから、その生活はローマの誰よりも派手で豪奢なものであり、アグリッパも暗い生い立ちなど微塵にも思わず、大いにローマでの生活を満喫していたのだった。
ところが、その皇帝の息子ドルトスがあっけなく暗殺されると、アグリッパの豪奢な生活は途端に陰りが見え始めた。
元々、贅沢な上に金遣いの荒さも手伝って、借金に借金が積み重なり、結局、夜逃げ同然でローマを去らねばならなくなったのである。
そして、アグリッパが結局、頼った先はユダヤの叔父であるヘロデ・アンティパスのところだった。
ヘロデは自分の甥であり、ローマでは顔が広いと評判のアグリッパを受け入れるのはそれほど自分に損ではないだろうと思っていたが、それでも、アグリッパの派手な生活ぶりは遠く離れたユダヤでも十分、耳にしていたので、今回の訪問でいくら甥からせびられるかと思うと気が気ではなかった。
正直言って、ヘロデ自身もかなり贅沢な方だったが、その上を行くぐらいアグリッパの金遣いは荒かったからである。
とにかく、当座、満足させる額を渡したらさっさとローマにお引取り願うに限る。
ヘロデはアグリッパが来ると知って、どう追い払おうかとずっと心の中で算段していた。
一方、ヘロデがアグリッパのことをそんな風に思っているとは露知らないヘロディアスは、自分の血縁に近く、ローマでは名の知れたアグリッパに会えることをとても楽しみにしていた。
もしかして、アグリッパならサロメの嫁ぎ先にちょうどいいかもしれないわ。
ローマでの人脈や人気もなかなかいいらしいし、血筋にも問題がない。
彼が今夜、ここに来ることはきっと神の思し召しかもしれないわ。
さっきまでの胸騒ぎをどうにか振り払ったヘロディアスは、今度は未来へと思いを馳せ、今ではすっかりアグリッパとサロメがローマで華やかな新婚生活を送り、彼らのとりなしでローマ皇帝からヘロデが王位を認められて、自身がユダヤの王妃として納まっている姿を思い描いていた。
「お母様、今夜は一段と素敵ですこと!」
その時、そんなヘロディアスの物思いを打ち破り、鈴が鳴るようなサロメのかわいらしい柔らかな声が部屋の扉あたりから響いてきた。
サロメが感嘆した通り、ヘロディアスが今夜の為にあつらえた紫のキトン(古代ギリシャ風のチュニック)はとても美しかったが、目が覚めるようなサロメの真っ白い絹のキトンも彼女の初々(ういうい)しい美しさをいっそう際立たせていた。
それに、カラスのように真っ黒に染めた彼女の髪には真珠をちりばめたヘアピースがつけられ、その頭上にこれまた薄い白のベールを身につけた姿はまるで結婚式に望む美の女神アフロディテを思わせた。
今夜の宴席はサロメにとっても特別な日だった。
ローマおよび地元の有力者や貴族達が集まり、ヘロデが初めて世間に向かって妻となったヘロディアスと、その娘であるサロメを社交界に紹介する大切な日だったからである。
だからこそサロメもまた、ヘロディアスと同じぐらい入念に身なりを整えていた。
「まぁ、なんて美しいっ!
わたくしの方がお前の姿にほれぼれするわ。
きっとお義父様も今夜のお前を見て、とてもお喜びになることでしょう」
そう言ってヘロディアスは娘の姿に目を細めた。
すると、サロメは恥ずかしそうにその頬をピンクに染め、少しはにかんだ。
「お母様。わたくし、今夜のことを思うとドキドキして眠れませんでしたわ。
ほんとにちゃんと、できるかしら?」
サロメはまだ、世間知らずの娘らしい不安をのぞかせ、そう言って母親に甘えてみせた。
だが、ヘロディアスは娘の性根が勝気であることをよく知っているだけに、サロメのかわいらしい様子を見て微笑ましく思いながらも今夜の成功を確信していた。
「大丈夫ですよ。お前のその魅力ならばどの殿方であっても、きっとお前の思いのままにすることができるでしょう。
それに、今夜のお前はまさに神から祝福された姫として宴席の方々から賞賛されますよ。
わたくしには、お前の輝かしい未来が今にも目に浮かぶようです」
「まぁ、お母様。およしになって。
そんなことおっしゃられたらますます緊張してしまいますわ」
ヘロディアスの褒め言葉にまんざらでもない様子で、サロメは再びコロコロと鈴を鳴らしたかのように笑って見せた。
だが、そんなかわいらしい清純そうなサロメを見る限り、まさか彼女の心の奥深くには、今まさにとぐろを巻いて毒牙をむき出そうとする真っ黒い蛇のような邪念が潜んでいようとは誰も想像すらできなかった。
ヘロディアスが泣き伏して以来、サロメの頭の中ではある考えがずっと離れなかった。
洗礼者ヨハネの話を耳にしたサロメは、母とはまったく違ったある憎悪がその心に芽生えてしまった。
それはある意味、世間知らずな彼女の子供っぽさや母親から植えつけられた気位の高さが生み出したものだったが、子供の頃から徐々にその心に培われてきた、歪んだ正義心や自分とは別世界に住む人間を人とみなさず、アリか虫けらとしか見ていない非情な残虐性から来るものだった。
ハスモンの女王である母親が、どこの馬の骨ともしれない偽預言者ごときに不当に糾弾され、そのプライド(自尊心)をズタズタに傷つけられた。
それを聞いたサロメは、ただ、もうこの世からヨハネを葬り去ることしか頭になかった。
だが、そんな身勝手で冷酷な幻想に囚われているサロメではあったが、彼女も彼女なりにこの世の誰よりも母親を愛していた。
ヘロディアスと二人きりでやって来たこのヘロデの宮殿には、心情的にまだヘロデの前妻だったファセリス姫の肩を持つ者も何人かいて、露骨ではないにしろ、子供のサロメにも母親が宮殿内においてあまり歓迎されていない空気を肌で感じ取っていた。
だから、サロメとしては、義父のヘロデ以外でヘロディアスを守ってやれるのはもう、自分しかいないのだと、子供心に変な警戒心やそれに伴った攻撃心を他人に対して抱くようになったのだった。
そうして、今夜の宴席こそ彼女がその頭の中でかねてから練っていた残酷な計画を実行に移す、まさに絶好の機会だった。
これまで、お義父様がわたくしの願い事を一度だって拒否なさったことはないわ。
まして居並ぶ客人達の前で何かをお約束なさったら、絶対に撤回なさることなどできないはず。
だから、今夜は何としてでもお母様を悩ませるご心配の種を取り除いておかねば・・・
そうやって、サロメが心密かに邪悪な謀をしている時、彼女の心の奥深くに潜む毒蛇がまさにその尻尾を振ってうごめいているかのように、彼女の目には怪しい光がちらついていた。