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第十七話 別れ

その頃、宮殿内の牢に投獄されている洗礼者ヨハネは、世間から既に忘れられた存在になっていた。



ヨハネも初めに尋問された頃の饒舌じょうぜつさとは打って変わり、ずっと沈黙したままだった。

暗く閉ざされた洞穴ほらあなのような牢獄は、湿気と糞尿の入り混じった強烈な匂いに包まれ、わずかばかりのパンを与えられるだけで日の光すら拝ませてもらえず、彼はひたすらそこで孤独と屈辱に耐えていた。

時々、ナサニエルやフィリポといったかつての弟子達や一部の信者などが、ヨハネをねぎらおうと差し入れなどを持って牢を訪れたが、みるみるうちにヨハネの巨体はやせ細り、昔の面影など今ではどこにもなかった。

それでも、ヨハネの剛毅ごうきと優しさはその巨体が消えても健在で、ヨハネの姿に驚いて涙を流す元弟子達や信者達を逆になぐさめ、彼らの悩みや苦しみを聞いてやって、時には叱り飛ばし、時には豪快に笑い飛ばして憂さを晴らしてくれるそのさまは昔と変わらない“ 洗礼者ヨハネそのもの ”だった。


だが、逮捕以来、日が経つにつれて次第に人の数は減っていき、そのうち、定期的に牢を訪れるのはナサニエルとフィリポだけになっていた。


その日、ナサニエルとフィリポがヨハネの牢を訪れると、ヨハネは子供のように目を輝かせ、待ちかねたようにうれしそうに彼らを出迎えた。

「ラビ(先生)、お加減はいかかですか?

何か食べたいものや欲しいものがあったら、おっしゃってください。

できるだけ、差し入れできるよう計らいますから」

ナサニエルは師のいっそうやせ細った姿を見て悲しそうにそう言った。

「ははは、よしてくれ。

お前達が差し入れを持ってくる前に早くここからおん出てやる!

それよりもお前達の話が今すぐ聞きたい。

だから、この間からずっとお前達が来るのを待っていた。

ナサニエル、フィリポ、お前達の新しいラビ(師)となったイエスとはどんなお人だ?」

ヨハネはそう言って、少し興奮した様子でイエスのことを尋ねてきた。


だが、ナサニエルとフィリポは、ヨハネがイエスの名を口にしたのに驚いてお互い顔を見合わせ、黙り込んでしまった。


というのも、ナサニエルもフィリポも、牢にいるヨハネの心痛を思ってこれまで自分達がイエスの弟子になったことをヨハネには話していなかった。

それに、何だかヨハネを裏切っているような気がして、イエスのことを話しづらかったせいもある。

だから、ナサニエルもフィリポもヨハネに何て言っていいか分からず、言葉にきゅうしていた。


しかし、ヨハネはそんな二人の様子に頓着せず、いつになく明るい様子で話を続けた。



「牢の看守や新しく入ってきた囚人達が退屈まぎれによく巷の噂話を聞かせてくれる。

その中でイエスやお前達の名前もちらほら出てきた。

だから、そうなんじゃないのかと思ってずっとお前達を待っていたのだ。

ナサニエル、イエスとはどういうお人だ?」

「・・・まだ、よく分かりません。

正直、あの方が一体、何をなさるおつもりなのか、わたしにはまだ、よく分かりません」

ナサニエルは正直に今の気持ちを言った。

「ふむ。そうだろうな。

では、ナサニエル、フィリポ、すまないが、わたしの質問をイエス先生に直接、聞いてきてくれないだろうか?」

ヨハネはさっきの明るい表情から一変して、今度は重々しい口調でそう言った。

「し、質問ですか? 一体、何を?」

フィリポは少し戸惑い気味にヨハネに聞き返した。


「イエス先生にこう尋ねてくれ。

あなたは来たるべき人か、それともわたしはもっと別の誰かを待たねばならないのか?と」



そのヨハネの質問にナサニエルとフィリポは首をかしげた。


一体、ヨハネ先生はイエス先生の何を知りたいと言うのだろう・・・?

来るべき人? 

何だ、それは?


ナサニエルとフィリポは訳も分からずヨハネの質問をたずさえ、とりあえずヨハネの牢から出て、イエスの元へと帰って行った。


二人がヨハネの元から戻ってくると、イエスはちょうど集まったガリレーの人々に向けて説法をし始めるところだった。


だが、二人を見ると、イエスはすぐさま話し始めるのを止めて二人の方へとやってきた。

「ヨハネ先生のご様子はどうだった? お元気でおられたか?」

イエスは真っ先にヨハネのことを尋ねた。

「はい、お元気そうでした。

ところで、先生、ヨハネ先生がイエス先生に質問があるそうなのですが、一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」

ナサニエルはイエスの問いに答えると、すぐさまヨハネの質問を伝言した。

その言葉にイエスの目が一瞬、警戒するように鋭く光った。

「何を聞きたいとおっしゃったのだ?」

そのイエスの目をナサニエルは真剣に見つめながら、さらに言葉を続けた。


「ヨハネ先生はこうお聞きになりました。

『あなたは来たるべき人か、それとももっと別の誰かをわたしは待たないといけないのか?』と」


そこで、ナサニエルはイエスの隠された心を読もうとするかのように、もう一度、イエスの目を挑むようにして見つめた。

傍で彼らの会話を聞いていた人々もまた、イエスの答えを興味津々で待っていた。

「来るべき人か・・・。

では、ヨハネ先生にこう伝えなさい。


“ 真実 ”が見えなかった人達はようやくそれが見えるようになるだろう、と。


神の声が聞こえなかった人達もまた、その声を耳にすることになる。

これまで自分の足で立って生きていけなかった人達は、自分でちゃんと歩けるようになり、

姿、形ばかりにとらわれて心病んでいた人々もまた、その心が癒されるだろう。

そのために、死者はよみがえり、心貧しき人々に神の御言葉を伝える。

いい知らせは彼らの元に届くだろう。

そうして、わたしのせいで自分を見失い、堕落しない人に祝福あれ」


イエスがそう答えると、ナサニエルとフィリポは再びヨハネの元へと向かった。

そして、二人が出て行くと、イエスは人々の方に向き直り、話し始めた。


「皆さんの中で洗礼者ヨハネを知らない人はまず、いないでしょう。

きっとこれまで彼の洗礼を受けにわざわざヨルダン川まで行った人も多いはずです。

では、あなた方は砂漠を越えて何を見に行きました?

世間の風にたなびき、いつも人に振り回されているようなそんな弱いあしを見に行ったのですか?

それとも、高価な衣装を身にまとった美しく魅力的な男でも見に行ったのでしょうか?

そんな人を見たいなら、王宮にでも行って見てきたらいいでしょう。

では、一体、何を見に行ったのです? ただの預言者ですか?

いいえ、あなた方が見に行ったのは単なる預言者以上の人です。

彼は、律法書(旧約聖書)にちゃんと書かれてあった人です。


― お前達、人間というのは好き放題な事を言って、

 “ 神 ”の御心を傷つけ、疲れさせる。

  『どうやって私達が“ 神 ”を傷つけ、

   疲れさせていると言うのでしょう?』

  とお前達は聞く。

  だが、お前達はいつもこう言うではないか。 

  『悪を行う者ほど主の御目にかなっているようだ。

   主は悪を好む人々をえこひいきしている』とか、

  『一体、どこに正義の神はいるのだ?』と。

  だから、ほら、わたしはメッセンジャー(伝言者)を送ってやろう、

  わたしが行く前にちゃんと道を用意してくれる者を、

  と全知全能の主はおっしゃった。

  その時、お前達が求める主が突然、神殿にやってくる。

  そして、お前達が待ち望んでいた神が約束したメッセンジャーも

  その時、やってくるだろう。

             (マラキ2章17節及び3章1節)


正直言って、これまで女の腹から生まれ出た“ 人 ”の中で、洗礼者ヨハネほどこの世界の為に立ち上がった素晴らしい人はいませんでした。

洗礼者ヨハネが活動し始めたことによって、より天の王国がこの地上に近づき、心強き人達の信念をさらに強めることとなりました。

すべての偉大な預言者や律法書(旧約聖書)はヨハネの到来をずっと預言してきました。

あなた方がそれを真実だと受け入れるなら、彼こそまさしく来るべき預言者エリヤだったのです。

それでもこの地上の多くの人達は、律法書(旧約聖書)に書かれている事や預言者達の警告を一笑に付し、ヨハネのことをあざ笑うかもしれません。

この愚かな現代いまを例えるとするなら、ほら、最近、市場の角で若者などが人々に向かってこう歌っているでしょう?

― 私達はあなたの為にせっかく笛を吹いてあげたけれど、

  あなたはちっとも踊らない。

  わざわざあなたの為に哀しい歌を歌ってあげても、

  それでもあなたは嘆きもしない、

って。


あれほどヨハネが寝る間も惜しんで、あなた方の住むこの世界の為に食べたい物を断ち、飲みたい酒もやめてせっせと働いても、人は彼を認めず、挙句、『彼は悪魔つきだ』とののしりました。

それほどこの現代の人々は、我が身の事に必死で、愛や情けに冷め切った世代です。


けれど、神が選んでこの地上に送った“ 人の子であるわたし ”は、食べたい物も食べるし、飲みたければ酒もたしなみます。

そうなれば、きっと人々はわたしを指差し、こう言うでしょう。

『神殿の掟に背いて食べてはいけない物を食べ、酒をたしなむとは何て罰当たりな奴だ』とか、

けがれたローマの徴税役人の仲間らしいぞ』とか、

あるいは、『あいつは罪人だ』と言って、わたしを馬鹿にし、迫害するでしょう。


でも、神から授かった智恵というのは、必ずその行動によって正しさが証明されるのです」


イエスはそう言ってヨハネを賞賛したが、それを聞いていた人々の方はヨハネの名を聞くと、ばつが悪そうに下を向き、誰も何も言わなかった。

かつては熱心に彼の洗礼を受けに行き、彼を熱狂的に支持していた人々も、一旦、彼が逮捕されると、まるで潮が引くようにヨハネのことを口にする者は誰もいなかった。



とかく、人の興味は移ろいやすく、過ぎたる者にはとても冷たい。


まして、公然と政治批判していたヨハネを支持することは、自分の身を危険にさらしかねないだけに、誰もが口をつぐみたくなるのはある意味、仕方ないことだった。


だが、口をつぐんでいるならまだよかったが、問題はヨハネに人気があった頃は率先して彼と同じような政治批判をしていた人達が、まるで手の平を返したように保身に走り出し、逆にヨハネのこれまでの活動を否定したり、非難する者さえ出てくるようになったことだった。

そうして、あれほどユダヤを心から愛し、堕落したユダヤの人々の更生を願いながら文字通り、自分の命を賭けて働いてきた洗礼者ヨハネは、当のユダヤの人々から裏切られ、あっさりと見捨てられたのである。


だから、そんな世間の人々の冷たい仕打ちにイエスは我慢できず、この時とばかりにヨハネを大いに賞賛したが、それでももはや人々の反応は鈍かった。

そして、結局、この時を最後に、イエスとヨハネはお互い二度と、話を取り交わすことはなかった。





その後、ナサニエルとフィリポが再びヨハネのいる牢に戻ってきてイエスの答えを彼に伝えると、ヨハネは少し唇をかみ締めながら目をうるませ、イエスの言葉を聴いていた。


そして、しばらくすると、ヨハネはおもむろにその口を開いた。


「ナサニエル、フィリポ、わたしはお前達に会えて本当によかった。

わたしは本当に幸せだったと思う。

お前達が傍にいてくれたおかげで、わたしは好きなことを思う存分できた。

それもこれもお前達がわたしを支えてくれていたからだ。

だから、わたしはお前達のラビ(師)よりずっと幸せ者だ。

だが、お前達のラビはわたしよりもずっと、ずっと苦しむことになるだろう。

お前達もこれから試練の時を歩むことになる。

できれば、お前達があの方を支えてやればいいのだが、それは難しいかもしれん。

あの方は、お前達には計り知れない“ 試練 ”というものを背負って生まれてきている。

だから、あのお方はお前達とは違う。

そうであるからこそ、最後まで耐え抜けるお人だ。

わたしはそう信じている。

いや、そう信じたい。

お前達にこれが分かると良いのだが・・・。


しかし、それはわたしが決めることじゃない。

“ お前達の心が決めるものだ ”。

これで、わたしが今までやってきたことに一つの区切りが来たような気がする。

お前達もこれからいろんな苦難が襲ってきても、それにめげず、お前達なりに考えて、自分の道を思う存分、進むがいい。

わたしに言えることはそれだけだ」


ヨハネはそう言うと、これまで一度も見せたことのないさびしげな表情をその顔に浮かべた。

そして、二人に礼を述べると、早くイエスの所に戻るよう彼らを促した。




こうして、ヨハネを師と仰ぎ、彼を心から慕ってきたナサニエルとフィリポも、この牢でのやり取りがヨハネを見た最後となった・・・。



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