第十六話 教団誕生
この時、イエスの元には、ヨハネから引き継いだ弟子達に加えて、一般の信者などもついてくるようになっていた。
そこで、弟子達は自分達を含め、人々をまとめられるよう12人のメンバーを筆頭にして次第に組織化するようになっていった。
この12人のメンバーというのが、洗礼者ヨハネの元からイエスの弟子となったアンデレとその弟ペトロ(本名はシモン)、
同じくヨハネの弟子だったナサニエルとフィリポ、
その他、家族で熱心に入信して来たヤコブ・ゼベダイとその弟ヨハネ、
さらには、イエスの叔父のヤコブ・アルファイとその息子タダイ、
元は徴税役人という職歴を持つマタイに、いろんな職歴がありすぎて謎の多いトマス、
熱心党と呼ばれる政治グループに所属し、時には武装してまでローマ帝国への反対運動を行なっていたシモン、
最後は、かつて商人をしていたユダ・イスカリオテといった弟子達だった。
そして、この12人の中でも真っ先にリーダー格を務めるようになったのは、最初にイエスの弟子となったペトロだった。
彼はヨハネの弟子だった頃から元は漁師と思えないほど弁の立つ有能な男で、何より積極的によく働く男でもあった。
だから、誰かれとなく好かれてその評判も良く、ペトロが自分達のリーダーになることには誰も反対しなかった。
だが、本来ならば、ペトロよりもイエス自身が率先して弟子や信者達を統括していかなければならないのだろうが、彼にはそういった才覚はまったくなく、幸か不幸か、彼自身も最初から自分のところに集まってくる人々を組織化しようと考えたことが一度もなかった。
イエスが思っていたのは、ただ単に人が集まってきて自分の話を聞いてくれ、そしてそれをそのまま誰か他の人に伝えてくれさえすればそれで良かった。
だから、実際に説法を行うにしても、場所を探してきて準備したり、たくさんの人々に聞いてもらえるよう宣伝したり、あるいは人集めに奔走したりするような現実的な活動にイエス自身はまったく関心もなければ、それを思いつくようなアイデア力にも長けていなかった。
そこで、そういった活動方法は全てリーダーであるペトロに一任され、彼の差配によって弟子達の手で行なわれるようになっていったのである。
しかも、ペトロはそういう現実的な活動に関しては目から鼻に抜けるようにそつがない男だった。
だから、イエスは安心してペトロに全てを委ね、彼に弟子や信者達の統率も任せたのだった。
また、この12人の弟子達の中で、ユダ・イスカリオテという男もペトロと同じくくらいそつがない男と言えば、確かにそうだった。
彼は、妻を病気で亡くしてから幼い娘を抱えて交易の仕事で生計を立てていたが、偶然、イエスの話を耳にし、それに心打たれてからは自ら商人を辞めてイエスの元へ入信してきた。
そして、商人だった頃から金庫番をしていたこともあり、その実績を買われてイエスのところでも金庫を預かるようになったのである。
そんなユダは、見た目からしてまじめで几帳面、口数の少ない気弱そうな男だったが、こと、自分の娘の話となると途端に相好を崩し、いつも目尻を下げては娘についてあれこれ話すほど子煩悩なところがあった。
だから、イエスはそんなユダ・イスカリオテの優しさや几帳面さに惹かれ、ペトロとは別の意味で彼を信頼していた。
そうして、ペトロをリーダーとしてイエスの弟子達が一般の信者などをまとめる活動をするようになってくると、次第にそこにはイエスの当初の思惑とはまったく違った、ある種の集団=“ 教団 ”というものができるようになっていった。
だが、イエスにしても、ペトロや他の弟子達にしても、それが後々、彼らの“ トラブルの種 ”になろうとはこの時、誰も予想していなかった・・・。
だから、彼らはそれぞれの願いや希望を胸に、積極的に自分達の集団=“ 教団 ”を大きくしていこうと広く活動を行っていった。
そして、イエス自身もそんな彼らの期待に応えるかのように、彼らの活動方法に関してこんな提案をした。
「考え方が根本からまったく違う異教徒や様々な宗教を信仰するサマリア(エルサレムとカエサリア・パレスティナとの中間に広がる地域)の町へ行くより、むしろ先に道を失ったイスラエルの民達のところへ行きなさい。
そして、そこで彼らに向かってこう伝えるのだ。
『天国はすぐそこにある。
病に倒れる人を癒そう、
死者をよみがえらせよう、
今こそデーモン(悪魔)を追い払おう!
無料で神の愛を受け取ったなら、無料でそれを人に与えよ』と。
そうして、出かける際はお金を持っていく必要はまったくない」
イエスは弟子達を部屋に集めて、彼なりの活動方法をじっくりと彼らに説明し始めた。
彼が突然、こんなことを言い出したのは、あのエルサレム参詣からクファノウムに戻る途中、偽預言者の男が言った事にヒントを得たからだった。
世間の人はまず、センセーショナル(衝撃的)な奇跡話に飛びつく。
欲望をそそのかし、現実を一時でも忘れさせてくれる、そんな夢物語に最初は救いを求めるものだ。
だから、最初は人々の気を引く話から始めよう。
そうすれば、彼らは好奇心から必ず寄って来る。
最初は、それでいい。
とにかく話を広めなければ・・・。
できるだけ早く多くの人達の耳を開かないといけない。
それにはまず、自分達の足元から始めていかなければ・・・。
イエスはそう考えながら、さらに弟子達にこう指示した。
「いいね? 今、言った通り、出かける際には何ら一切、持っていく必要はない。
かばんも、替えのチュニック(服)もサンダルも、その他、全てのものをここに置いて、ただ自分の身体を覆うだけの服と靴だけあれば、それで十分だ。
そして、町や村に入ったら、私達の話を分かってくれそうな、心ある人達の探してその人の家に行くといい。
その町や村で活動している間は、ずっとその人に頼んでその家に滞在させてもらいなさい。
最初にその家の人達に挨拶し、これからその町や村でしようとしている活動内容を話し、それで快くあなた達を迎えてくれたら、それで良し。
逆にあなた達の話を聞いて快く出迎えてくれなかったら、黙ってそのままその家を立ち去ればいい。
話の分からない人達に神の御言葉を伝えても無駄だ。
そして、これだけははっきりと覚えておきなさい。
これからあなた達を世間に送り出すことは、狼の群れの中に羊を放り込むようなものだ。
だから、あなた達は蛇のように世間の人達の心を鋭く見抜きながら、安易に人々に流されないよう、真っ白な鳩のごとく自分の良心を保ち続けなければならない。
これは正直、簡単なことじゃない。
人にはよくよく気をつけることだ。
時にはあなたを裏切り、ナザレで起こったのと同じようにシナゴーグ(集会所)からあなた達を追い出した挙句、暴力を振るってきたり、あるいは不当な言いがかりをつけて役人に訴え、あなた達を法に引き渡すことだってあるかもしれない。
だが、そうなっても尚、彼らを恐れることはない。
たとえ、どんなに強大な敵に襲われようとも、あなた達が恐れるべきは人ではない。
神だ。
だから、あなた達がそんな危機に立った時は、必ず“ 神 ”が教えてくれる。
何を話すべきか、どうするべきかはちゃんと神が教えてくださるのだ。
神の御心があなた達の心に宿り、ちゃんと勇気を持って彼らに立ち向かっていけるだろう」
イエスがそこまで話し終えると、彼はふと、弟子達の様子に気がついた。
彼らはどうやらイエスの熱心な口ぶりにだけ心奪われているようで、実際には話の内容まではあまり飲み込めていないようだった。
そこで、イエスは弟子達にもう一度、釘を刺すつもりで同じ言葉を繰り返した。
「もう一度、ここではっきり言っておこう。
わたしがこれからしようとすることは、あなた達が期待しているようなことじゃない。
わたしがこれからしようとすることは、そのうち人々に誤解されて捻じ曲げられ、兄弟が同じ兄弟を裏切ったり、親が子を、子が親に逆らって死に追い詰める原因になるだろう。
それは律法書(旧約聖書)にちゃんと預言されている。
― 愛と平和を心から愛し、
“神”に仕えようとする人々は
もうこの地上から追い払われてしまった。
人々の間では良心ある者こそ触れてはならないイバラのようであり、
まっすぐで心清らかな人の方が
誰も近寄らない刺だらけの垣根よりも最悪なものとして扱われる。
だから、息子が父の顔に泥を塗るような真似をし、
娘がその母親に、嫁が姑に逆らって立ち上がる。
また、敵を家族の一員のように思ってしまい、
自分の家に迎え入れ、わざわざ手厚くもてなしてしまう。
(ミカ7章2−6節、またはマタイ10章35−36節参照)
今ですら善(神)を悪(人間)のように思い、悪(人間)を善(神)だと人々は勘違いしている。
そんな世間の人々に真実を説けば、きっと彼らはわたしを裏切り者だと思うだろう。
あるいは、わたしこそ悪魔の使いと見る人もいるに違いない。
そしてもちろん、あなた達もわたしのせいで全ての人達から嫌われるだろう。
だが、それでも最後までわたしを、そして神を信じてくれた人には必ず救いはある。
もし、一つの場所で追い出されたら、別の場所へ行きなさい。
それでもくじけてはいけない。
人は誰も神を超えられない。
人は人から教わったことしか知らないし、分からない。
もちろん、天の主人(神)に逆らえるような召使(人間)などどこにもいない。
まして、上に立つ者がベルゼブブ(ハエの姿をした悪魔の王子)のような間違った考えに染まっているなら、その下にいる者達はもっとその間違った考えに染まっていることだろう!
だから、そんな彼らを恐れることはない。
あなた方には神がいる。
この世では決して隠しきれるものもなければ、人に決して知られない事もない。
あなた方が人々から何を言われ、何をされようともそれらはすべて神がご覧になっている。
また、逆にあなた方が言った事、やった事も皆、神はすべて知っておられる。
だから、人を恐れる必要はない。
むしろ、あなた方の肉体を滅ぼす悪魔(人)よりも、その肉体と魂を地獄に落とすことができるこの天の唯一のお方を畏れなさい。
そうして、わたしが秘密めいてあなた方にそっと話した事であっても、あなた方はそれを堂々と人々に話すといい。
たとえ、あなた方の耳元でささやいた言葉だったとしても、あなた方は屋根の上からそれを人々に広めるがいい。
わたしはまさしくそれをして欲しい。
それをしてもらいたくてあなた方を呼んだのだ」
「神を畏れなさい。
この天(宇宙)と地(地球)を司る“ 神 ”を畏れなさい。
“ 神 ”とはあなた方のすべてを、あなた方の髪の毛一本にいたるまで、何をしようと、どこにいようと、何を言おうと、何を考えようと、すべてご存知だ。
この天(宇宙)と地(地球)において知らないことなど何もない。
だから、誰かがわたしを認めてくれたのなら、わたしもその人を天の御父の前で認めることだろう。
だが、逆に誰かがわたしを見捨てたなら、わたしもまた、その人を天の御父の前で見捨てるだろう。
わたしはあなた方の期待しているような平和や救いを持ってきたわけではない。
わたしはむしろ、その平和を根底から壊す剣をもたらすだろう。
子が親を、親が子を、友人が友人を裏切り、隣人が隣人を陥れ、裁きを行う者が裁かれる者に屈して弱き者をくじく。
こんな本末転倒し、腐りきった世の中の膿を出しきるための剣をわたしは持ってきたのだ」
そして、イエスは最後にこう言った。
「だから、わたしにとってこの世の人々の期待に応えようとする人はいらない。
わたしの話を聞いてそれよりも親や祖先の教えが大切だ、家族や我が子が心配だ、今の生活を維持していたいと思っている人はわたしの元から去るといい。
わたしと同じようにこれからすべてを捨てて、自ら苦難の十字架を背負ってやろうと言う人こそ、わたしにとっては最も価値のある、必要な人だ。
その人は確かに何かを失う。
だが、命を賭けてわたしを信じてくれた人は必ず後で失ったはずの命の火を見つける。
きっと希望の光を見出すことだろう。
だから、わたしの話を伝えるあなた方を受け入れる人はわたしを受け入れる人だ。
そして、わたしの話を信じてくれた人は、わたしをこの地上に送ったこの天で唯一のお方をも受け入れる。
人は誰でもそれまで生きてきた人生の報酬を受け取る。
預言者は預言者の報酬を、正しい事を行う人はその行いに対する報酬を、だが、たとえ一杯の水でも勇気を持って正しい事をしている者達に与えた者もまた、天からの報酬を決して失うことはない」
そう話し終えると、イエスは再び弟子達を見渡した。
彼らはイエスの勢いに圧倒されたまま、ただ呆然とした様子で座っていた。
だが、あれほどイエスが語気を強めて彼らに警告しても、彼らにはイエスがこれからしようとする事が一体、何であるかも分かっていなかったし、これから一体、何が起こるのか、どうなっていくのかなどもまったく予想できなかった。
それどころか、イエスの言っている言葉の意味すらまったく理解できなかった。
この時、彼らが求めていたのは、イエスの言葉ではなくて、自分達の将来への不安を一瞬でも吹き消してくれそうな、ただ一時でも現実を忘れさせてくれそうな彼の力強い声だけだった。
ただ、彼らの心の中にあったのは、
- きっとこの人についていきさえすれば、何とかなるだろう。
- 何かが起きたら、この人が何とかしてくれるはず・・・。
そういった無責任な思いしか彼らの心にはなかった。
だから、イエスを信じている者など、この時はまだ、誰一人としていなかった。