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第十三話 迷い

そんなシナゴーグでの事件が起きてからまもなく、イエスは母マリアと弟ヤコブ、さらにその下の弟ヨセフ、シモン、ユダ、そしてヨハネから引き取った弟子達も一緒に引き連れて、ナザレからクファノウムへと引っ越していった。


弟達は、見知らぬ土地への憧れもあってか、ナザレを出ることにさほど反対はしなかった。

だが、母マリアはさすがに年を取ってから知らない土地で新しい生活を始めることに少し不安を感じているようだった。

とは言え、このままナザレにいても経済的には決して楽でなかったし、それにナザレのような田舎町よりガリレー海岸沿いの大きな町なら、イエスだけでなく、弟達にももっといいかせぎ口が見つかるだろうとマリアはいろいろと考えたようだった。

それでも、長年、夫と共に暮らしてきたナザレを離れることは、マリアにしてみれば随分と寂しいことだった。

だから、クファノウムへの旅の途中でも、マリアの表情は心なしかいつもより硬く、イエスはその母の顔を眺めながら、彼女の“ 老い ”を感じずにはいられなかった。


ナザレを離れてからしばらく見ないうちに、マリアは確実に年を取っていた。

そして、彼女はこれからもどんどん老いて行く・・・。





わたしは彼女を連れてくるべきだったんだろうか?



果たして、本当にこれで良かったんだろうか?




イエスはマリアの顔に刻まれたしわを見ているうち、自分の心の中にまだ迷いがあることに気がついた。

クファノウムに行くことに迷いはなかった。

これから自分がしようとすることも間違っているとは思わなかった。

ただ、自分がする事にマリアを巻き込むことになったのが本当に良かったかどうか、イエスには分からなかった。


あれほど反発し、母を母と認めてこなかったイエスだが、それでも彼の心にはずっと追い求めてきた“ 母 ”への密かな未練がまだ残っていた。

口ではよそよそしくマリアのことを呼んでいても、イエスの心の底ではいつも母の幸せを願っていた。

その気持ちに偽りはなかった。

だからこそ、母には失望してほしくなかった。



だが、わたしが今、やろうとしていることは、おそらく母を裏切ることになるかもしれない。

いや、きっとそうなるだろう。

それでも、わたしはあの、神の言葉が忘れられない・・・。


- 全知全能の主の言葉がわたしの心にもたらされた。

  神の心がわたしにこう、おっしゃた。

  『わたしは、子宮の中でお前を形作る前からお前のことを知っている。

   お前が生まれる前からわたしはお前を他の者とは別にしていた。

   わたしはお前を、生まれる前から国々への預言者として定めていたのだ』


  ああ、エリ(ヘブライ語で「わたしの神」の意)、エル・シャダイ(全知全能の主)よ

  わたしにはそんな大それたことはできません。

  わたしはただの世間知らずな子供です。

  人を束ねるような力もなければ、

  何をも恐れないような勇気もありません。

  人を圧倒するような知識もなければ、人をうならせるほどの知恵もございません。

  それで、どうしてわたしなんかが人々に向かってものを言えるでしょう?


  『お前は自分を世間知らずな子供だなどと言ってはならない。

   お前はこれから、わたしが指示するあらゆるところへおもむき、

   わたしが言え、といったすべての事を話すのだ。

   彼らを恐れることはない。

   わたしはいつもお前と共にいる。

   わたしが必ずお前を救い出してやる』

                     (エレミヤ記1章5~8節) 




彼は心の中でそんな自問自答を繰り返していたが、やはりしばらくするとマリアの顔から目をそむけ、未練を断ち切るようにしてまた前を向いて歩き出した。





その後、クファノウムに到着して、イエスはしばらく弟子達と共に住む家を探したりして忙しかったが、やがてそれも決まると、今度は家族や弟子達を残し、一人、エルサレムへと旅立った。


ちょうど、イエスがエルサレムに着いたのは、その年のペサハ(過ぎ越し祭)がもうすぐ来ようとしている時だった。


“ ペサハ ”(過ぎ越し祭)とは、ユダヤ教三大祭りの一つで、ヘブライ暦におけるニサン月(第1の月。現代では大体、3~4月ぐらい)の15日から一週間ほど続けられる祭りのことである。


(ちなみに“ ヘブライ暦 ”とは、別名、ユダヤ暦ともいい、一年を主に月の満ち欠けで決める“ 太陰太陽暦たいいいんたいようれき ”のことである。

ヘブライ暦は、現代で使われている太陽の周期で決める“ グレゴリオ暦 ”(もしくは太陽暦)とは違い、一年がたった354日しかないため、3年に一度、閏月うるうづきを入れて太陽の周期とのズレを調節しなければならないが、それでも農業や漁業を行う際に一年の予定が立てやすかったことから、古代においては世界基準のこよみだった。)


この祭りの起こりは、かつてヘブライ人達(古代ユダヤ人)がエジプトで奴隷として働かされていた頃、ファラオ(王)の圧政に耐えかねたモーゼという男がヘブライ人達を代表し、自由と亡命を求めて一人、ファラオのところへ直訴じきそしにいったことに端を発する。

もちろん、ファラオは一笑にふしてこれを了承せず、そこでモーゼは“ 神 ”はファラオを始め、エジプト人達の非道をいきどおり、このエジプトの地に数々の天災を降り注ぐだろうと預言した。

そして、そのモーゼの預言が現実となり、エジプトではファラオの子供を含めて人間はもちろん、牛や豚といった家畜に至るまで、生まれたばかりの子供達が次々、死んでいくという摩訶不思議な現象が起きた。(出エジプト記12章参照)


ところが、なぜかヘブライ人達だけはモーゼから伝えられた“ 神 ”の指示に従って無発酵のパンを食べたり、玄関の柱に羊の血を塗ったりして事前準備をしていたため、厄災から逃れられただけでなく、当時、強大な世界帝国だったエジプトの追跡をまんまとかわして、見事、数十万人にものぼるヘブライ人全員の亡命を成功させたのだった。

以来、ヘブライ人達は、神が玄関に塗ってあった血を見てヘブライ人達の家々を“ 過ぎ越し ”てくれたものと信じ、災難から逃れられたこととエジプトでの隷属から救ってもらえたことに感謝して、“ ペサハ(過ぎ越し) ”という祭りを行うようになったのである。


(ちなみに、このペサハ(過ぎ越し祭)の顛末てんまつは、どこをどう伝わったかは知らないが、中近東から遠く離れた日本にも伝えられ、日本で神社の鳥居が朱色しゅいろに塗られるようになったのは、ヘブライ人達が玄関の柱などを血で染めて厄災を逃れたことにあやかったものだといわれている。

また、沖縄では現在でも、“ ユタ ”と呼ばれる巫女が羊の血を塗る儀式などを行ったりするが、これもヘブライ人達のペサハの名残だとされている。

なお、新生児が突然死した不思議な現象については、おそらく雑菌処理が十分でなかった古代の発酵パンを出産前の妊婦などが食して、免疫力のない新生児のみがリステリア症【注釈1】のような感染症に集団感染したのではないだろうか?

まぁ、真相はどちらにしろ、モーゼが起こした亡命事件は、この当時、かなり衝撃的でグローバル(地球規模)なニュースだったに違いない。

でなければ、日本にまでその話が伝わることもなかっただろう)






そして、イエスがエルサレムに到着したのは、まさにそんな大きな祭りを前に、エルサレムの街全体がその準備で大忙しの頃だった。


街の至るところが人であふれかえっており、通りには人の群れに加えて、さまざまな商品を積んだ荷馬車などが大きな音を立てて激しく行き交っていた。

いくら地中海交易で賑わっているとは言え、イエスが住むガリレー海岸沿いの町々はエルサレムと比べれば一地方に過ぎず、人や物で埋め尽くされたエルサレムの通りを一度も何かや誰かにぶつからないで歩くことは、都会に不慣れな人間にはかなり難しかった。

それでも、イエスがどうにかこうにか通りを突き進んでいくと、さらに買い物客で混雑している市場が目の前に現れ、通りに連なった商店の店先には世界中(ローマ帝国中)から集められてきた様々な品物が所狭しと並べられていた。

肉や魚、新鮮な野菜はもちろん、珍しい異国の品々や目も覚めるような美しい織物の数々、市場のあちこちからは店員達の生き生きとした威勢のいい掛け声が聞こえてきて、通行人が通る度に店員達は陳列棚から色鮮やかな布や装飾品などを取り出しては大きく掲げて、通行人達の気を引こうと躍起になっていた。

イエスも彼らに足止めされてなかなか前に進めそうになかった。

まるで宝石箱とおもちゃ箱を一緒にひっくり返したような、きらやびかで騒々しい市場の雰囲気に、イエスは圧倒されながらも次第に浮き浮きとした楽しい気分にもなっていた。

誰もがそんな活気あふれる市場の雰囲気に触発されるらしく、市場を行きかう者は老若男女を問わず、皆、そうした高揚感からいっそう買い物気分が高まるようだった。

また、そんな大人達に混じって子供達までもがうれしそうに通りをはしゃぎまわっていた。

そうして、買い物客やら店員などの人並みに押されてもたもたしていたイエスの横を、元気盛んな子供達が疾風のごとく駆け抜けて行った。



そんなのどかな様子からすれば、エルサレムの街はまさしく平和で豊かそのもののようにも思えた。


だが、しばらくじっと見ていると、そうやって元気盛んに走り抜けていった子供達の一人が店先に並べられた食べ物を一つひょいと盗んでいき、他の子供達と共に急いで街角の影に隠れると、そこで待っていた別の小さい子供達に自分が盗んできた食べ物を戦利品のようにして見せびらかし、お互いそれを分け合って食べていた。


どうやら彼らの身なりからして、ひもじさから常習的に盗みをしていることは明らかだった。


そこからさらに目を移すと、今度はやせ細って汚れた身体を通りに投げ出し、もらえるかどうかも分からないような通行人の情けを求めて物乞いをしている大人達も道端にはちらほらいた。




そうして目を凝らさないまでも、大都会エルサレムの一角にあるその賑々(にぎにぎ)しい通りには今まさに両極端の人生が繰り広げられていた。



一方は、豊かで何の不自由もなく、安心と自信に満ち溢れ、この世を謳歌おうかしているような人生。

もう一方は、生きているのか死んでいるかもはっきりしない、先行きがまさしく漆黒の闇にでも包まれているかのような、ただ、ただ不安と恐怖のみにさいなまれる人生・・・。


そんなまるっきり正反対とも言える人生が周りのそこかしこで起こっているのに、その光景を誰も異様とは思わず、よくある当たり前の風景として受け止めていて、それを見て大騒ぎしたり、嘆く者など誰一人、いなかった。

「C’est la vie(セ、ラビィ)、「それが人生だ、仕方がないさ」)」と肩をすくめ、皆、その現状を変えることをどこかあきらめているようだった。


だから、通りを行き交う人達も、店で働いている人達も、そして物を盗んだ子供達も、道端で物乞いをしている人達も、皆、同じ“ 人間 ”であり、何より同じ国土に住む“ 仲間 ”でありながら、彼らはまるでお互いが存在しないかのようにまるっきり無視して、まったく異なる世界で生きているようだった。

しかも、彼らの接点がわずかながらあったとしても、それはお互いが持つ肉(利益)を奪い取ってむさぼり合うことだけで、結局、そんな醜い争いを飽きずに繰り返しながらお互いその日、その日をむなしく生きているようだった。




この世では強い者だけが生き残り、弱い者は不要だ。




誰もがそれを“ 疑問にも思わず、大した根拠もないのになぜか絶対的にそう確信している ”ようだった。

だが、イエスはその様子を見ていて何か著しい不合理を感じ、どうにもそれに対する疑問が頭から離れなかった。




なぜ、疑問を持とうとしないんだろう?


このまま行けば、ユダヤは間違いなく衰退していく。

これでは、モーゼ達が外国で奴隷として苦労していた頃と何も変わっちゃいない。

それどころかもっと悪いことに、エジプトのファラオ達がやっていた事を今では同じ国のユダヤ人が自分達の仲間のユダヤ人に対してやっている。

なのに、彼らはそれが“ おかしい ”とは思っていない。

そうすることがまるで「当然だ」とか、あるいはそれを「しなければならない」と思ってやっているのだ。







イエスがそうやって立ち止まって考えている間にも、どこからともなく人がたくさん通りに出てきて、立ち止まっているイエスを邪魔だと言わんばかりに軽く小突くようにして、どこへともなく足早に通り過ぎていった。

イエスは、その人の波に押されながら仕方なくまた歩き出したが、それでもじっと下を向いたままさらに考え続けた。

そうしていると、彼の足はそのうち自然とエルサレム神殿の方へと向かっていた。



実は、イエスがクファノウムからエルサレムにわざわざやって来た理由は、この神殿を訪れるためだった。


家族と共にクファノウムへと引っ越して行った際、イエスは自分の心の中の迷いに気づいていた。

だから、それを払拭ふっしょくしようと、一人、エルサレム神殿を訪れたのだった。



その神殿も、市場と変わらず、ペサハ(過ぎ越し祭り)の礼拝に訪れた世界各地からの参拝客達で埋め尽くされていた。

神殿近くにも出店が軒を連ねていて、その並びはどうやら境内の奥にまでずっと続いているようだった。

しかも、そうした出店の雰囲気も市場で見たのと大した違いはなく、どこも似たような商品が並べられ、牛や羊、鳩を売っている食材店や小物などを売る土産物みやげもの店、その他には外国人観光客向けに小さなテーブルの上で外貨の交換を行っている両替店などが主だった。



首都エルサレムは、人の心を疲れさせる街。


神殿まで来た時点で、イエスはエルサレムという街を「どこも同じで、人の温もりが感じられない冷たい所」だと思うようになっていた。

似たような店や商品が延々と続き、これまた似たような格好をした通行人やら参拝客達が行き交う通りを見ていて、イエスはずっと同じところをぐるぐると巡らされているような、そんな迷路に迷い込んだ気分にさせられていた。

そうして、華やいだ店やその雰囲気はやたら目に付くが、人々が本当の意味で生き生きと暮らしているような本当の意味での活気はまったくなく、“ 無理に実情を押し殺して見てくればかりを着飾っている ”、そんな嘘臭い印象さえも感じられるほどだった。




とは言え、そうやって整然と続いているように見える街の中にも、エルサレムに住む人々の普通の家々があり、それらはまるで表通りから包み隠されているかのごとくひっそりと建っていた。

薄暗い路地の向こうからは人々が話している低くこもった声や何かを調理している温かい匂い、それと日常の様々な生活臭が一緒になって漂ってきた。


エルサレムに到着してからよそ者のイエスは、ずっと緊張しっぱなしだったが、その路地裏を見てようやく人の住む気配を感じ、何だか少しホッとした。




すると突然、どこからか激しく言い争っているような声がイエスの耳に飛び込んできた。


「払うものをとっとと払え、と言ってるんだ!」


声のした方にイエスが目を向けると、一人の男が別の年老いた男の肩を乱暴に引きずりながら家の表へと飛び出てきた。

「止めてください! うちにはもう、お金なんてないんですっ。

食べ物だって買えないのにどうしてこれ以上、払えるって言うんです?

お願いします、今月だけは勘弁してください」

争っている男達の後を追ってまた一人、女が飛び出てきて男の前にひざまずき、そう懇願した。

「何を悠長なことを言ってやがる! 納入日はとっくに過ぎているんだっ! 

ここに住まわせてもらっている以上、お前達が税金を支払うのは当然の義務だろう」

男は取り付く島がないくらいの剣幕で、年老いた男をまた乱暴に引きずりまわした。

「止めてくださいっ! お願いですから。

父は今、病気で身体がとても弱っているんです。

それで先月から休みがちでちゃんと働けなくてお金がないんです。

病気を治したらちゃんとお支払いしますから、もう少し待ってください」

女は年老いた父親をかばって暴力を振う男の前に勇気を振り絞って立ちはだかった。

「ふん、そんな言い訳が通用するとでも思っているのか?

親父が働けないって言うんなら、お前がどっかの通りへ行って働けばいいじゃないか。

そうすればすぐに払えるようになるさ、へへ」

そう言うと、さっきまで荒々しかった男の目は、今度はいやらしい目つきに変わって女の身体をなめまわすようにして見ていた。

女はそれに気づくと、男の卑猥ひわいな視線から逃れようとおぞましそうに顔を背け、身体を硬くして立っていた。


「とにかく今日は帰ってください。

お金は何とかしますから。これ以上、父に何もしないでください」


しばらくすると、女は何かを決意したように毅然とした態度で男に向かってはっきりとそう言い放った。

すると、男はそれ以上、何も言わずフンと鼻を鳴らすと、「明日、また来るからな」と言い残し、その場をおとなしく立ち去って行った。

その後、女は弱った父親の身体を支えて急いで家の中へと戻っていった。



彼らのやり取りからして、暴行を働いていた男はローマの徴税役人のようだった。





ローマ帝国は通常、領土内における税を徴収するのにその地域に密着した民間人を起用していた。


これは、大きく広がった帝国領土の納税地域を統括するにあたって、各地域に精通した人物を登用し、金銭以外に税として徴収した海外の土地や物品をローマのお金に換金する手間を省いたり、税を取りはぐれないようにするためであり、また、地域の人間を積極的に行政に関わらせることでローマの統治に対する現地人(ユダヤ人)達の反感を和らげる狙いもあった。

だが、少なくともこの後者の狙いは大きくはずれてしまっていた。


と言うのも、直接、税を徴収するユダヤ人達自身、税の意義や目的を指導されておらず、加えて、彼らのモラル(倫理観)にも問題があったからだった。


実は、ローマ帝国というのはその強大な軍事力で脅して幅を利かせていたと言うより、むしろ他の国にはない最新の都市設備と行政サービスを拡充し、その経済的な豊かさでもって征服した先住民達を満足させ、彼らを従属させることでその領土を拡げてきていた。

だから、帝国内のどの地域においても道路はもとより、水道橋や下水溝のような給水・排水設備、アンフィテアトルム(円形闘技場)や神殿、劇場などの文化施設、さらには医療や年金といった生活保障制度などが色々と整えられ、それらを管理・維持していく為には常に多額の費用が必要だったのである。


そのため、税収入こそまさにローマ帝国の大動脈と言えるものだった。



そこで、ローマは税を徴収するのに、まずは入札形式、つまりオークションでもって税徴収という仕事の特権を地域の民間人に広く売ることにした。

ローマではこのような特権売買は税徴収に限らず、時にはローマ市民の選挙権なども売られることがあり、高く買い付けた人なら誰にでもその権利が行くようになっていた。

そうして、ローマは徴税権を高く売りつけてこの料金を先払いさせる代わりに、購入者が実際に徴税する税額にはまったく上限を設けなかったのである。


こうなれば、買った金額の元を取るばかりか、徴収する税額をそれ以上に増やしたとしても、それは買い付けた側の勝手になる。

そのため、特権を獲得した人のほとんどは、さらに別の人材を雇ってビジネス(商売)として税の取り立てを行うようになっていた。

もちろんビジネス(商売)なので、税額が高ければ高いほどより大きな利益を生むことになる。


こうして、税を取り立てる側が税額をどんどん増やしていき、その取り立ての手段として暴力を振るうことも少なくなかった。

しかも、彼らは暴行した後の言い訳としていつもローマ帝国の名を出してくるので当然、取り立てられる側の心にはローマへの反感が募ることになる。

そのため、表向きはローマ帝国だけが悪者のように思われがちなのだが、実際はユダヤ人自身が仲間のユダヤ人を食い物にしているというのが実情だった。




誰もが自分の利益だけを最優先に考えていた。

そうしなければ、この弱肉強食の社会では生き残れないと強く信じてもいた。

そうやって、人々はその『弱肉強食のおきて』に何の疑問も持たず、素直に従い、しょっちゅう税を巡って争っては日々、暴力的な取り立てにおびえて暮らしていた。


そのユダヤ社会の縮図こそ、イエスがエルサレムの街角や路地裏で見たものだった。


まさしくエルサレムの街の風景は、ユダヤの国全体の光と闇を表していた。

人が大勢、集まる表通りは、いかにも豊かで華やかな出店が立ち並び、最新の高度な都市機能が備わっていて、いかにも何不自由なく人々が暮らしているように思えるが、その裏では黒々とした大きな影が真実の世界を覆い隠しているかのようだった。

しかも、日の当たる場所はどんどん限られていくようで、さらにその限られた狭い場所に日が差せば差すほど、なぜか大きな影がいっそう色濃く、大きくなっていくようだった。


その悲惨な現状をまざまざと見せつけられたイエスは、さっきの切なく悲しい気持ちが一瞬にして何だか訳の分からない激しい怒りに変わっていた。





どうして、これをおかしいと誰も言わない?

強い者が弱い者を食らうのが当然だ、そうしないと生きていけないなんて、誰が決めたんだ?

自分達だけが豊かで幸せだったらいいのか?



そうじゃない、そうじゃないだろうっ!



ほんのすぐそこに苦しんでいる同じ仲間がいるんだ。

誰もこれを何とかしてやろうとは思わないのか?

情けと言うものはこの土地にはないのか? 

この現状をどうにかしてやろうと言う人間はこのエルサレムには誰もいないのか?



ただ、彼の心には言いようのない怒りだけがぐんぐんと拡がっていった。


何とかできないのか? 

何ともならないのか? 



イエスの頭の中にはそうした怒りがぐるぐると渦巻いていき、その怒りから突発的に自分の腰にある飾り帯をほどいていた。

そうして、イエスはエルサレム神殿の中へとそのままずんずん、進んでいった。



イエスが神殿の境内に入っていくと、案の定、出店の列は奥まで続いていた。

そこでイエスは、無言のまま突然、自分の帯を大きく振り上げ、その場に群がっていた出店はもちろん、売られていた牛や羊、そしてそれを売り買いしていた人々を脅すようにそれを振り回し、全てを追い出しにかかった。

目の前で外貨交換を行っていたテーブルも彼は容赦なくひっくり返し、次にそこで商売をしていた人も手で追い払った。


そのあまりの暴挙に、テーブルを囲んで座っていた店員や客達はもちろん、その場にいた誰もがイエスの暴挙にびっくりして恐れをなし、すぐさま彼の傍から離れていった。

だが、鳩を売っていた店主はすぐに我に返り、反撃しようとイエスの前に進み出た。


「おい、おい、てめぇ、何しやがんだ?! 商売の邪魔しやがってっ!」

主人は、イエスの勢いに負けまいと、けんか腰で怒鳴ってきた。

すると、イエスもすぐさまキッとした目を主人の方に向けて、

「全員、すぐにここから立ち去れっ! 

ここは、お前達、金儲けの場所ではない! 

人が心静かに自分の心の中の神と向き合うためにわざわざ作られた場所なはずだ。

それをよくもまぁ、御父の家をあさましい市場になどしたものだっ!」

地が唸るような低い声でそう言い返した。


そのイエスの不思議な凄味すごみに、言いようのない恐怖を感じて店主は無意識に後ずさっていた。

そこへ、今度は仲裁に入ろうと、参拝客の一人がイエスと店主の間に割って入った。


「まぁ、まぁ、ちょっと待て、そこのお若いの。

一体、何が気に入らなくてこんなことをしなさったのだ?

おっしゃることは分かるが、それは神のご指示か?

それとも、お前さんの勝手な考えからこんな手荒な真似をしなさるのか?」

物知り顔の老人は、軽くあしらうようにしてイエスの暴挙をたしなめた。

イエスはその老人の自分を見下すような物言いに、もっと腹が立ってきてその時、頭に思い浮かんだ律法書(旧約聖書)の句を唱え始めた。


「嘆くがいい、金と武器を抱え込んで市場に住まう者達よ。

 堕落した全ての悪徳商人達は消し去られる。

 銀貨をちらつかせて、悪意でもって取引してきた全ての者達はきっと滅びるだろう。

 神は、その時、あらゆるところに光を当ててエルサレム中の犯罪をくまなく暴き、

 今の自分に満足しきって得意がっている者達を罰するだろう。

 彼らは自分の力におぼれ、

『どうせ主は何もしないさ、

  いいことであれ、悪いことであれ』

 などと神をあなどっているが、一体、お前達は何様なのだ?


 すぐに彼らの富は奪い去られる。

 彼らの家々は跡形もなく崩れ去っていく。

 たとえ、彼らが自分に居心地のいい場所を建てようとしても、

 そこは彼らの住まう場所ではない。

 たとえ、彼らが大いなる収穫(利益)を期待してすばらしいブドウ畑を作ったとしても、

 その収穫を得てワインが飲めるのは、決して彼らではない」

                        (ゼパ二ア1章11-13)

そうして、イエスはエルサレムの崩壊を告げる預言者ゼパニアの呪いの言葉をとうとうと唱えてみせた。



その句を聞いた参拝客達は皆、一様に顔をしかめ、イエスの正気を疑って恐ろしそうに身をすくめて押し黙った。

だが、老人は冷静な態度を崩さず、今度はイエスをたしなめるよりも、なだめにかかった。

「お若いの、お前さんが言いたいことはよく分かった。

じゃが、お前さんはどうやら誤解しておる。この神殿の境内で商売をしている者は皆、神殿の方々から許可をもらった者達ばかりだ。

神の召使である聖なる方々からちゃんと認められた者達だけが、わたし達、参拝客に必要な物を持ってきて、ここで商売しておるのだ。

だから、お前さんの言うような悪徳商人なぞ、ここには一人もおりゃあせん。

意気盛んなのは結構じゃが、物をよく知らんのにも程がある。

さぁ、皆さんに謝りなされ、これだけ暴れて皆さんに迷惑をかけたんじゃから。

わしからすれば、お前さんの乱暴の方がよっぽどこの神聖な境内を汚してしまったとしか思えんがのぉ」

老人は弱々しい作り笑いを浮かべながら、そう言ってイエスを冷たく皮肉った。

「ここのどこが神聖な場所なのだ?

こんな人の手で作った寺など壊してしまうといい、そしたらわたしが3日で寺を建ててやるっ!」

イエスは老人の皮肉に、カッとなって怒鳴りつけるようにして言い返した。

本当は何も分かっていないのに、ちっとも分かろうとしないくせに、いつだって何でも知っているような振りをする、よくあるそんな老人の物知り顔にイエスはどうにも我慢できなくなった。



確かに、老人の言う通り、イエスがやったことは愚挙に過ぎなかった。



しかし、それでも、イエスがどうにも我慢できず出店を壊したのには、ある深い事情があった。


それは、貧しいユダヤ人達の税負担を重くしていた最たる原因が、他ならぬこのエルサレム神殿の僧侶達だったからである。

いや、正確に言うと、僧侶を含めて“ 神 ”という名をちらつかせて人々の欲望やら不安を掻きたて、人々の上に君臨するようになってしまったユダヤ教という宗教組織(団体)が原因だった、と言い換えるべきかもしれない。

そして、この宗教組織(団体)が、ユダヤの国全体の政治、経済、教育のすべてを牛耳り、人々の生活=生命を根幹からおびやかしていたのである。


実は、ローマ帝国の税制は、初代皇帝アウグストゥスの改革により、統計調査が行われるなどして、イエスが生まれた頃にはある程度、税額の上限が設けられるようになっていた。

なのに、なぜユダヤだけがいつまでも重い税負担のままかと言うと、税の取り立てを行う業者の不正に加えて、ユダヤではローマへの納税以外にエルサレム神殿にも税を納めなければならなかったからである。


つまり、実際にはローマへの納税額が減っていたとしても、それ以外に『10分の1税』 【注釈2】やら『寺院税』といったユダヤ独自の様々な宗教税が敷かれていて、それらの税がどんどん庶民の肩に課せられていくことで、“ いつの間にか何の為に支払わされているのかまったくわからなくなるような ”、そんな不公正で不明瞭な重税を生み出していたのだった。


しかも、人々の暮らしが重税でどんどん困窮していっているのとは裏腹に、神殿や僧侶達の暮らしはますます富んで裕福になっていった。


だから、イエスの心にはそういった社会の様々なひずみに対する怒りが何層にも渦巻いていて、それを皆にはっきり伝えようにもすぐには説明できない、そんなもどかしさに彼はずっとあがいていたのだった。


だが、目の前にいる人々にイエスのそんな複雑な思いが分かるはずもない。

悔しそうに唇を引き結んで黙っているイエスを、誰もが白い目で見つめるばかりだった。中には老人と同じようにイエスの正気を疑い、いかにも気の毒だと言わんばかりに哀れみの目を向ける者もいた。


「いいか、お若いの。この神殿は46年もの歳月をかけ、大勢の人達の手を借りてようやく築き上げられたものなのだ。

敬虔な信者達が神様のお住まいになられる神殿を、それこそ心を込めて、力を合わせて築いたのだ。

それをそんな3日ごときで、しかも、お前さん一人で建てられるものではない。

さぁ、馬鹿な事を言っていないで、早く皆さんにお詫びをしなさい」

イエスに怒鳴られた老人は、深くため息をついて首を横に振った後、あきれたようにイエスにそう言った。


そうじゃない、そうじゃないんだ。あなた達は何も分かっちゃいない。


この美しくきらびやかな神殿の周りにはもはや、“金銭と物質だけを唯一の絶対神だと信じる”、そんなドロドロとした汚水のような世界しか流れていないのに、あなたも、そこにいる参拝客達も、誰もそれに気づかない。


いや、気づこうとしないのだ。


この神殿の壮麗な外観ばかりに目を奪われて、その裏でひっそりと住む人々がどんな痛々しい嘆きを上げようとも、あなた方は決してそれに耳を傾けようとはしない。

あなた達はただ、神殿に群がる出店やその他の商人達と一緒になって、彼らと同じようにひたすら金と物だけを追い求め、それをここで参拝しているようなものなのだ。

そう、あなた達が本当に祈って敬っているのは、神じゃない!

あなた達が心底、祈ってすがっているのは、鉱山で発掘した金や銀の石ころなのだ。

あなた達が心を込めて築いた神殿は、神の為じゃない。

ただ、金や銀の石ころの為なのだ。



だが、イエスはこれ以上、どうにもその老人に反論することはできなかった。

感情だけが先立って理性を失ってしまったイエスに、今は神が与えてくれる“ 言葉 ”などその心にあるはずはなかった。

だから、無性に腹立たしさだけを抱えたまま、イエスはその場を無言で立ち去るしかなかった。


一方、その場に残された人々は、イエスの襲来があまりにも唐突で、しかも何を彼が怒っているのかもよく分からない出来事だっただけに、皆、呆気に取られてイエスの去っていく後ろ姿をずっと眺めていた。

それでも、訳が分からないながらも、イエスが皆の前で唱えてみせた、あのゼパニアの句だけはなぜか妙に彼らの心に強く残った。



一体、あいつは何者なんだ?

めでたいペサハ(過ぎ越しの祭り)の前に神の呪いを告げに来るなんて、何て不吉な野郎なんだ。

それともひょっとすると、本物の預言者なのか?


ユダヤの人々にとって、正月とも言える国内最大の行事であるペサハ(過ぎ越し祭)を前にして、わざわざ不吉な句を唱えてみせたイエスは、ちょっとした驚きだった。

と言うのも、ペサハになると、国内外からたくさんの参拝客やら観光客がやってくるのを見越して、金品を狙ったにわか預言者たちがあちこち出没する。

だが、彼らが決まって預言するのは、「今年はこれまでにない繁栄が訪れるだろう」とか、「わたしの指示する通り、神殿で参拝したらあなた方には決して災難は起こらない」といった、人が喜ぶ縁起の良い話だけだった。


だから、イエスのようにわざわざ人から嫌われるような災難を預言してお布施ふせをもらい損ねる、そんな商売下手なにわか預言者など見たこともなかった。


ただの愚か者か、それとも本物の預言者か?


そうして、このイエスの預言は、打ち壊し事件と共にその年のペサハの間中、エルサレムの人々の密かな話題の的となった。



【注釈1】

“ リステリア症 ” とは、リステリアモノサイトゲネス菌なる食品腐敗菌に感染して発症する病のことで、平たく言えば、食中毒のようなものである。

感染してから発症するまで大体、数時間~数週間ぐらいで、健康な大人はほとんどかからず、子供やお年寄りといった免疫力の低い人がかかりやすい。

症状としては、頭痛、悪寒に始まり、重症になると敗血症、流産、髄膜脳炎などを起こして死にいたることがあり、現在も欧米では年間、数千件ほどが起きている。


【注釈2】

“ 10分の一税 ”とは、作物や所得の10%を全国民が寺院や教会に支払う税金もしくは寄付金のことで、古くは古代バビロニアで行われていた税制の一つです。

これをモーゼの時代にユダヤ独自の税制として採用し、その後、この10分1税はローマ帝国から中世ヨーロッパのキリスト教教会に引き継がれていきます。

現在でも、ヨーロッパのキリスト教徒は所得の約1%~2%程度の教会税を払うようになっていたり、また、実際には支払ったつもりはなくても一般税に組み込まれていたりすることがあります。

例えば、日本の宗教法人は非課税になっていますが、逆に彼らの課税分を一般国民が負担していることになるので、これも一般税に組み込まれた宗教税と言えるでしょう。



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