第百十六話 汚水 後書き(注1)その3
アニメ『北斗の拳』の主題曲
『愛(神)を取り戻せ』↓
https://youtu.be/PWzf-p06GSY
“Return, faithless people; I will cure you of backsliding.”
“Yes, we will come to you, for you are the Lord our God.
「戻ってくるがいい、不信心者共、
わたしが退化していくお前達の間違いと過ちを正して癒してやろう。」
「はい、私達は戻ります、主よ、
なぜなら、あなたこそ、この天と地の主であり、
私達、人類の神様だから」
(エレミア3章22節)
折しもその当時は中央アジアでローマ帝国のコホート(ローマ軍の組織体制。第32話『出会い』後書き(注1)参照。)を真似て千人隊を組織し、侵略戦争を繰り返すことでその土地での好き勝手な放牧や現地女性達との強姦婚、食糧その他物資を戦利品として巻き上げるなどの集団テロ活動により幅を利かせていたモンゴル帝国(=The Mongol Empire または元とも呼ぶ。帝国と言ってもローマ帝国のように一貫した憲法や法律を制定して自分達が征服または同盟を組んだよその土地の人々の暮らしに関わり、一つの国(共同社会)になろうとしていた訳ではなく、あくまで馬を駆ってヤク(長毛牛)や羊、山羊といった家畜を放牧させるため各地を渡り歩いていた遊牧民族の中からグレた不良少年のようなチンギス・カン(=Činggis Qan、中国語では成吉思汗。意味は中国語で「于吉になれると思っている蒙古族の部族王」で、シャーマン(巫者)が後から名付けた名前であり、本名はテムジン(鉄木仁)、これも中国語で「ソテツの実」という意味で、ソテツとは恐竜がいたとされる時代からシダと共に地球上に生えていた植物のことであり、今でもインドやスリランカ、東南アジア、中国南部、アフリカ南部、オーストラリアなど世界中の熱帯及び亜熱帯地域に繁殖しており、日本でも沖縄や九州地方を中心に全国各地の行政機関が積極的に植栽したり、樹齢が長いものだと国の天然記念物に指定されるほど丁重に扱われている。見た目はどちらかと言うと椰子の木に見えなくもないが、それほど早くも大きくも成長しないので大体が低木でズングリとしており、シダに似て羽のような葉が何本も生えているが、シダとは違って葉は剣のように鋭く、棘もあって刺さると痛い。そして、名前になっている赤い実(テムジン)はサイカシンと呼ばれる毒素を含んでおり、手間暇かけて毒抜きや発酵処理でもしない限り、そのまま食べてしまうと第99話『人災』(注1)で話した水俣病と同じ急性アルコール中毒のような神経障害を起こし、呼吸不全などにより中毒死する。そのため、明治維新以来、重税や経済不況、さらに軍拡が原因で起こされた沖縄明治大干ばつ(第107話『革命(2)』後書き(注2)その1参照)により飢饉に陥った沖縄島民達が飢えで十分な毒抜きもせずそのままソテツの実(テムジン)を食べて死んでしまったことから沖縄ではその時代を「ソテツ地獄」と呼ぶそうで、そんな有毒の実にちなんだ名前を我が子に付ける親も親だが、テムジンの親もまた、イエスゲイ(トルコ語またはテュルク語で「高僧イエス(ヨシュア)に続く部族の者」の意味。)という名前なので、中世になっても文字を知らなかったモンゴル民族に聖書のような深遠な文学を読解できたはずはなく、当然、外国人から宣教されたゾロアスター教(=Zor-O-Aster、別名、拝火教。第82話『玉石混淆』で説明したようにBC6世紀頃に中央アジアで成立した宗教ではあるが、それよりも前のメソポタミア文明から言い伝えられてきた迷信や作り話、シャーマニズム(交霊術)なども混ぜ合わせた世界最古のオカルト宗教であり、ユダヤ教、キリスト教にも影響を及ぼし、中世になると中央アジアではイスラム教やマニ教に変化し、中国では中国仏教からさらに時代が下るとけん教や道教、チベット仏教へ、日本では密教を始めとした各宗派の日本仏教そのものに生まれ変わることとなった。つまり、世界中で今なお信仰され続けているありとあらゆる宗教の元祖こそ、このゾロアスター教である。そして、このゾロアスター教が世界を最初に戦争(大量殺戮)へと導いた邪宗でもあった。なぜなら、ゾロアスターとはペルシャ語で「Zor=暴力、武力、苦難、怒り」、「O=と」、「Aster=アスターは英語読みなので正しくはサンスクリット語のアストラ、インダス文明で使われていた原子爆弾」なので軍隊を整え、武力(暴力)を正義と教えるキリスト教やイスラム教、仏教と何ら変わりはない。原子爆弾は第111話『歴史書』でシュメール文明(=メソポタミア文明)の「天の牡牛」について話したと思うが、元々はインダス文明の頃のインドで開発されたもので、その顛末については後ほど詳しく説明するつもりだが、ともかくこれが開発されて以降、各部族や周辺諸国がその開発方法や技術を習得しようと躍起になった。その原子爆弾の開発方法はもちろん、それ以外のあらゆる戦争(大量虐殺)の手段について教えようとしたのがこのゾロアスター教である。だから、別名が拝火教になっているのは火で鉄や青銅の武器を造る冶金術、爆弾を作る火薬術、そしてソテツの実(テムジン)のような植物や動物を火で炙ったり、煮たりして作る毒薬術といったように戦争(人殺し)でのあらゆる人や物を焼き尽くす“煉獄の火”(カソリック(キリスト教伝統派)では清めの火とも呼ぶ。)を崇めるからである。そして、テムジンの父の名前につけられているイエスとはナザレのイエスというより、ユダヤ教の開祖であるモーゼの後、ゾロアスター教に感化された高僧ヨシュア(ギリシャ語では「イエス」)のことであり、ユダヤ教もまた、ゾロアスター教の一派であることは第81話『終りへの道』で話した通りなので、モンゴル民族がユダヤ教に帰依していたというより、単に戦闘手段が知りたくて中央アジア一帯で流布されていたゾロアスター教にまつわる様々な宗教を何でも自分達の部族に取り入れていたからだった。なお、旧約聖書において神から「食べたら死ぬぞ。」と忠告されていたにも関わらず、蛇から「食べても死なないよ。」と嘘を言われてつい、人間がそそのかされて食べてしまい、運よく死ななかったものの、結局、神経障害による幻視、関節麻痺、筋肉委縮などの後遺症で後々、出産や労働に支障をきたすことになったという知恵の実とはこのソテツの実(テムジン)のことであり、確かに水にさらせば毒が溶けて食べられないことはないのだから多少、知恵がついたと言えなくもないが、他にも身体に良くて美味しい果実を山ほど与えられ、事前に危険な実も教えてもらっているのに何でも知っていて何でも出来、まして悪い事など何一つしない全知全能の神様の裏をかき、こっそり知恵をつけて出し抜こうとあえて神様に逆らってまでこのソテツの実(テムジン)を食べた人間達が果たして賢いと言えるかどうか甚だ疑問だが(まるで「危険だ、死ぬよ」と教えられながらその心ある忠告を侮って麻薬に手を出す一部の現代人達とどこか似てる気もするが)、ともかく恐竜のような爬虫類がいた時代からソテツは生えていたのだから、旧約聖書の記述はあながち嘘ではない。しかも、ゾロアスター教に感化されたモーゼが蛇の青銅像を作って拝んでいた(2列王18章4節、または第81話『終わりへの道』参照)ということからしてゾロアスター教は人類(の文明)が誕生した頃から戦争(人殺し)の兵器開発に携わり、蛇毒などを扱っていた人物が興した宗教であることは何となく想像がつくかと思う。)に帰依していたらしく、テムジンという名前を自分の息子につけたのも毒の実にちなんだというよりそのソテツの実(テムジン)を始めとした植物などを使って生物兵器を作ることができたタタール人(=Tatar、中国語では塔塔児、日本語では韃靼と呼び、トルコ(テュルク)系の中国人またはモンゴル人のこと。トルコ系と書いた通り、元は黒海周辺を拠点に中央アジア一帯を駆け巡っていた遊牧騎馬民族で、遠い祖先は翼を持った半身が人間、半身が雄牛の人頭有翼雄牛像で知られるアッシリア人だったのだが、このアッシリア人というのが第111話『歴史書』で話した通り、「天の牡牛」と呼ばれるメソポタミア文明時代の原子爆弾について書かれた『ギルガメッシュ叙事詩』という小説を公文書館に保管し、国(税金)を挙げて兵器の開発研究に取り組んでいた軍事大国で、その国名のアッシリアとは日本語にすると「阿修羅」、つまり、仏教の素でもあるインド神話で他の神々と戦う魔族の神(王)の「アスラ」が語源であり、アスラ(阿修羅)とはサンスクリット語の俗語で「人でなし(人間ではない者)」という意味で、インド神話や仏教では血生臭い地獄の世界を好んで鬼畜同然で延々と争い続けようとする人や場所を「修羅のような人」とか「修羅場」と呼ぶように、アッシリア人達はその魔族(阿修羅)の本性を彷彿とさせ、非道の限りを尽くし、その軍事力(暴力)でもって中近東を中心に世界帝国を築こうとした人でなし達の国(共同社会)でもあった。その人でなし達の国の象徴が翼を持った男、またはアッシュール神と呼ばれるアッシリア宗教の最高神であり、彼らアッシリア人達がなぜ、それほど翼を持つ男にこだわり、その石像を彫っていたのかと言うと、実は彼らはアストラ(原子爆弾)以外に既に戦闘機も造っていたからだった。その詳細は後々、本文で語るとして、タタール人の祖先であるアッシリア人達はそうした戦闘機を操って周辺諸国を攻撃し、罪もない赤ん坊も含んだ一般庶民を恐怖と血みどろの地獄へと突き落としていったのだが、そもそも軍事力(暴力)で広大な土地やそこに住む大勢の人達を支配していくにはその軍事力(暴力)を常に強化しておかなければならず、その恐怖(暴力での威嚇)政治を支える為の莫大な軍資金(税金)繰りに追われることはイギリス政府(王室)を例に挙げた通りなので、アッシリア帝国も結局、軍資金(税金)繰りに失敗して植民地にした同盟諸国に重税を課し過ぎた上、度重なる戦争(人殺し)で労働人口も減少し、産業基盤そのものも荒廃して食糧や物資を供給することが難しくなり、ソロモン王の死後、分裂してアッシリアの属国(植民地)にされていたイスラエルのうち、南部のユダ王国を始め、とうとう重税に耐え切れなくなった中近東諸国から次第に納税を渋ったり、拒否する国々が出るようにもなった。そこで、アッシリアのセンナケリブ王は納税を拒否してきた中近東諸国に自分の武力(暴力)を誇示しようとBC701年に侵略戦争をけしかけてきたのだが、ところがこの時、宇宙では飛んでもない出来事が起こっていた。何と太陽の距離が地球から11日分ほど後退したのである。(2列王記20章8-11節またはイザヤ書38章7節参照)つまり、この時から太陽と月が地球の周りを公転する回数に差ができたことになり、それまで教えられてきた人類の文明(神の智慧)にも理解できる者と理解できない者、西洋と東洋にも大きな差が生まれることになるのだが、それについても追々、説明するとして、ともかくこの太陽の後退がアッシリアのセンナケリブ王が率いる軍隊に大打撃を与えることになった。なぜなら、彼らは天文学的知識を利用して塔を建て、戦闘機が起こす空気の渦で飛行機雲を作り、雷を誘導して空爆を行っていたからである。だから、計算違いの太陽の後退は彼らにとって命取りとなり、一夜にして18万5千人もの兵士達が落雷で自滅することとなった。(イザヤ書37章36-37節及び2列王記19章35-36節、2歴代誌32章21節参照)むろん、太陽が後退したことなど全く気づいていないアッシリア人達は訳が分からず這う這うの体で退却し、その後、センナケリブ王が王座を巡る争いで自分の息子達に暗殺されてからはアッシリア帝国は目に見えて凋落していった。こうして、太陽の後退でそれまでの天文学的知識に基づいた塔作りや兵器を開発する際の計算が合わなくなったアッシリア人達は元々、インダス文明から伝えられた知識や技術をそのまま真似て悪用していただけでそれを“正しく”理解していた訳ではなかったため、ほんの少し状況が変わっただけで理解が追いつかず混乱し、もはや戦闘機を飛ばすことも雷を誘導することもできなくなり、さらにそうした軍事機密を知っていた限られた者達も戦死したり、老いて死んでゆくとそれらを受け継ぐ者達もいなくなり、いつしか翼を自在に操って空爆を行っていた兵士達の話など神話かおとぎ話としか思われなくなっていった。しかし、それでも全くアッシリア帝国の生き残りがいなくなった訳でもないため、国土を失い、滅亡した民族ではあるものの、移住していった先で祖先達から受け継いだわずかな知識や技術を頼りに再び世界帝国に返り咲く日を待ち望んでいた。それがモンゴル高原や中国北部のユーラシア大陸の果てにまで移住していったタタール人であり、彼らが中国語で“塔塔児”と呼ばれるのはかつてアッシリア帝国が築いていた戦闘機や雷を誘導させる“塔”を復興させようとしていたからである。そして、それはアッシリア帝国だけでなく、インダス文明で培われた知識や技術を“間違って”伝えたゾロアスター(暴力礼賛)教を信奉する中近東一帯はもちろん、同じくゾロアスター(暴力礼賛)教に感化されてもはやインダス文明の頃の“正しい”知識や技術を蔑ろにしてしまったインドやその周辺の中国、東南アジア、朝鮮半島、日本なども同じで、仏教(密教)を通じて英語でパゴダ(=Pagoda)、日本語では仏塔と呼ばれる五重塔や三重塔などがやたらと造られたのも(建前では釈迦の遺骨などを納める為の“聖なる(?)”塔らしいが)そういう理由からで、青銅器時代のバビロニアに築かれていたバベルの塔(第92話『ロゴス(言葉)(2)』の(注7)参照)も全く同じ目的の建物だった。しかし、インダス文明のウーツ鋼(第105話『欺瞞』(注3)参照)が現代に至ってもなお、造れないのと同じで、“正しく”理解できていない知識や技術はどう足掻いても“正しく”は再現できない(間違った教育は必ず失敗する)のだが、金と武力(暴力)さえあれば何でも手に入ると嘘を教えるゾロアスター(暴力礼賛)教に洗脳されて狂信し、自分達の能力を過信し切って四六時中、戦争(人殺し)で使う兵器を造ることばかり考えている頭の逝かれた連中にまともな理屈=理性が通用するはずもなく、どの国(王朝)も呪縛にでもかかったかのように雷を自在に操る為のバベルの塔を始め、戦闘機やらアストラ(原子爆弾)、動植物を悪用した生物(細菌)兵器と、青銅器時代に作られた様々な兵器(人殺しのおもちゃ)を再現しようとその国力(税金)のほとんどを軍拡費用に注ぎ込み、ありとあらゆる人や物を犠牲にしてでもその研究開発を優先させ、その軍事費の増大と戦争(人殺し)による労働人口の減少で国家経済が立ち行かなくなり、結局、どの国(王朝)もあれほど「自分達の国(王朝)は世界を支配している大国だ」と豪語し、金と武力(暴力)の強大さを誇示して社会的弱者(庶民)を馬鹿にしていたのにその社会的弱者(庶民)がもはや納税できなくなったり、本当にいなくなってしまうと、まるで風が吹くと消えて無くなる塵屑のように跡形もなく滅亡していった。それでも一度、洗脳されてしまうとゾロアスター(暴力礼賛)教の呪縛(執着心)から逃れることは相当、難しいらしく、タタール人のように自分達が生きる為の家や田畑、国土を失ってもなお、自分達の国(共同社会)を潰してしまった邪教にしがみつき、いつまでも修羅(人でなし)のごとく延々と争い続けようとする。だから、ゾロアスター(暴力礼賛)教は親から子へ、子から孫へと世代を超えて連鎖し続け、かつては人類が知っていたはずの文明(神の智慧)を消さんばかりの勢いでアジア一帯を血の海にした後、AD4世紀になる頃にはローマ帝国の衰退でそれまでの法律や秩序が乱れ、お互いに奪い合うことで生き残ろうとする人達がヨーロッパ各地に増えていったことからこの間違ったインダス文明を伝えるゾロアスター(暴力礼賛)の教えが中近東から東ヨーロッパを経て西ヨーロッパにも拡散されていき、山奥や洞窟のような人里離れた場所でヨガなどの厳しい戦闘訓練を行ったり、こそこそと自分達の知る軍事知識や技術を隠して兵器の開発研究に明け暮れるインドの仙人を真似た修道士(=MonkまたはFriar、サンスクリット語の「mokŞa(解脱、覚醒)」がMonkに、「bhṛjjati(丸焼きにする)」がFriarに変化したもので、特に後者のFriarにはたくさんの意味が込められており、スペルがいろいろあってややこしいが、読み方一つで「fry(焼く、または電気ショックで処刑する)」が「fly(黒いハエ、または空を飛ぶこと)」になり、「fryer(丸焼きを行う者)」は「Flyer(宣伝チラシ、または空を飛ぶ者)」にもなるため、修道士(Friar)達がなぜ、黒いフードをかぶるのかは大体、想像していただけるかと思う。)と呼ばれる隠者達がローマを中心にヨーロッパ各地に出没するようになった。とは言え、ゾロアスター(拝火)教自体、“元は人類が未来永劫、繁栄して生存していく為の”文明(神の智慧)を間違って伝えている邪教であることに加え、その邪教を教えたアッシリアやバビロニアが滅んでから既に1千年以上は経っており、言葉も変わり果てているのに、それを縁もゆかりもない後世の外国人達が彼らの教科書を解読してその頃の知識や技術を再現しようとしても、その教えがどこから伝わってきたのかも全く分からなかったため、ゾロアスター(暴力礼賛)教の出所も当初はインドではなくエジプトの宗教だと思い込み、アレクサンドリアのような見当違いの場所で無駄に修行や研究に励む者も少なくなかった。それでも、アッシリア人の生き残りは何もロシアや中国、モンゴルなどの東方へ移住したタタール人だけではなく、黒海周辺のトルコや東欧といった西方にも移住していったため、彼らを通じて人類にとって負の遺産と言うべき軍事知識や技術が断片的ながらもしつこく伝えられ続け、さらにこうしたアッシリア人の子孫以外にも青銅器時代の文明(神の智慧)の名残を受け継いだ民族はいて、それが第94話『水源(2)』で話した戦争(人殺し)を避ける為に水のないネゲブ砂漠に移住したアブラハムの子孫のベドウィン民族(=The Bedouin、アラブ語でbadawī,「砂漠の住人達」の意味。)であり、特にベドウィン民族は相手が敵だろうと外国人だろうと訪問客は必ず丁重にもてなさなければならないDiyafaというおもてなしの掟があって、その掟につけこんで彼らから青銅器時代の軍事知識や技術の手がかりを得ようとする者もいた。そこでAD4世紀頃からエジプト内というだけでなく、ベドウィン民族が住むネゲブ砂漠やシナイ半島にも近い東部砂漠に聖アントニウス修道院(=The Monastery of Saint Anthony、AD300年前後創設)が建てられたのを皮切りに、同じ東部砂漠でルクソールからも近い聖バコミウス修道院(=Saint Bakhomuos El Shayeb、AD320年前後創設)や“ナイルデルタ”と呼ばれるナイル川の河口域(または三角州)と西部砂漠の境目にあり、カイロやアレクサンドリアから今では車で2時間弱ほどで行けるワジ・エル・ナトロン(=Wadi El Natrun、アラブ語では「ナトロン(天然ソーダ)の谷」、ヘブライ語では「神が与えしナトロン(天然ソーダ)湿地」で、エジプトのコプト語では「人の真意を測る場所」の意味。)という地域に造られた聖大マカリウス修道院(=Dayr Aba Maqār、The Monastery of Saint Macarius the Great、AD360年創設)やパロメオス修道院(=The Paromeos Monastery、AD335年創設)などいろいろな修道院が建てられるようになった。中でも聖バコミウス修道院(St.Bakhomuos El Shayeb)は、第二次世界大戦の終結に向けて歩き始めた世界とは裏腹にエジプトが再び第一次中東戦争(第105話『欺瞞』(注2)参照)に向けて戦争準備をし始めた1945年、旧約聖書の写本である死海文書(第100話『智慧(1)』(注3)参照)とよく似た状況で壺に隠されていたナグ・ハマディ文書(=The Nag Hammadi library)またはグノーシス福音書(=Gnostic Gospels)と呼ばれる初期キリスト教の写本が近くで発見されたため有名になった修道院で、この写本を隠したのも聖バコミウス修道院の修道士達らしく、なぜ、彼らがわざわざ書いた写本を土中深くに埋めて隠していたのかと言うと、地元の村人達が農業で使うサバッサ(硝酸塩を含んだ軟土)を採っていた際に写本を見つけたという話や当初、写本が入れられていた壺にジン(=アラビア語ではJinn、英語ではGenie、蛇の妖怪もしくは大蛇。元々はアッシリア帝国で崇められていたWinged Genie「翼を持った軍神、戦争(人殺し)の守護霊」または「戦闘機が造れる賢人、学者」のこと。)が入っているのではないかと恐れた話、さらにはその土地では報復措置としてリンチや拷問、殺人を犯すことが風習になっており、しかも殺した死体を食べる“共食い”(=Cannibalism)まで行っていたと言うのだから、そんな風習が残っていることからしてローマ時代から宣教のような教育活動を地元民に行ってきた修道士達が拷問や解剖などの人体実験を繰り返し、サバッサ(硝酸塩)のような1985年に北海道で硝酸性窒素を含んだ乾草を食べた牛が18頭中16頭も死んでいたり、1956年にもアメリカで同じく硝酸性窒素を肥料に使ったほうれん草を離乳食として与えられた赤ん坊が真っ青になって突然死したブルーベビー事件など、第二次世界大戦後から1986年までに約2千件の中毒事件を起こし、うち160人もの乳幼児が死亡していて、過剰に摂取すれば血中の酸素を奪って窒息死し、少量でも成育を阻害して発がん性もある物質を肥料と偽って作物に混入させ、生物兵器を地元民に栽培させてきたことは村人達の証言から分かるので、写本に書かれていた内容も門外不出の軍事機密だったから土中に隠したというのが真相らしかった。しかも、それを再び掘り起こしてきて学術的遺産と偽り、欧米の学者達がナグ・ハマディ文書に群がって研究した結果が第二次世界大戦直後からアメリカでブルーベビー事件のような硝酸性窒素による乳幼児の中毒死が相次ぎ、北海道で牛が“不自然に”大量死した原因でもあった。そのため、バコミウス(Bakhomuos)という名前も、実は元はローマ兵だったエジプト人の男の名前で、軍事大国だったローマ帝国ではアウグストゥス皇帝時代からゾロアスター(拝火)教系ミトラス宗が長く信仰されており、流行により宗教の名前だけキリスト教に替えられたものの、教義の内容は依然、ゾロアスター(拝火及び暴力礼賛)教に変わりはなく、また、ガリア人傭兵の多いローマ軍の影響からかガリア語(現代の英語やドイツ語、フランス語、オランダ語といったヨーロッパ言語の祖語)でBak「焼く」とHumus「人々」の二語を合わせてBakhomuos、「戦火により人々を焼き殺す者」という意味の造語である。だから、前述のワジ・エル・ナトロンにいろいろな修道院が建てられたのもそこで採れるナトロン(天然ソーダ)がお目当てで、元々、ナトロンは第102話『腐敗』で話した通り、古代エジプトではミイラ(遺体)の防腐剤や殺虫剤、石鹸、消毒液、その他、陶器の釉薬などに使われていたもので、もっと時代を遡るなら海水が混じった強酸性土壌を中和して作物が育ちやすい土壌に変え、病原菌を殺菌し、雑草の除去までしてくれるという優れた農薬として使われており、こちらは硝酸塩とは違い、人体に害はなく、むしろ雨が降ると溶けてなくなるため地球にも優しい。だが、使い方を誤るとペニシリン(アオカビ培養液)と同じでそれは凶器になる。そのため、化学用語では炭酸水素ナトリウム、日本では別名、重曹とも呼ばれ、掃除に使う洗剤としても知られているが、現代で最もよく使われるのは洗剤よりもパンやケーキを膨らませるベーキングパウダーやソーダ飴に入れる食品添加物、胃液の分泌を促す胃腸薬などの医薬品の方で、本来、虫や病原菌を殺菌し、雑草の成長を抑制できるような農薬を人が直接、食べて体に蓄積される食品や病気を治す薬にする方がおかしいのだが、少量で一時、口にするだけなら害は出ないので毒だとは気づかれにくい。しかし、長期に渡って毎日、パンやケーキ、薬などを体内に入れていけばいつしかそれは毒に変わる。それを狙って修道士達はワジ・エル・ナトロンに集まってきた訳で、彼らの本当の目的は一息に人を殺傷するのではなく、医学や薬学に無知な大衆に向かって除草や土壌の殺菌ができるなら人体の病原菌をも殺菌して病気を治す薬になると偽って販売し、長期に渡って服用した人を徐々に病気にして疲労や嘔吐、しびれや呼吸困難などの症状が出てきたところで違う病名や原因の言い訳をしてそれを治す為にまた別の薬を売りつける、現代の医学で例えるなら“多剤併用大量処方”(=Polypharmacy)が真の目的だったらしく、ワジ・エル・ナトロンがアラブ語やヘブライ語では「ナトロンの谷」や「ナトロンの湿地」という意味にしかならないのに、コプト語では「人の真意を測る場所」の意味になるのはそういう所以からだった。そうして、国家(王朝)が莫大な税金をかけて兵器開発に力を注ぐように、修道士(軍事研究者)達も強力な兵器を造ることでそれを軍事国家(王朝)に売るか、もしくは下克上(身分の下の者が上の者を倒して政権奪取すること)を狙って自分の立身出世の為にその兵器を使うか、いずれにせよ、どちらもあらゆる税金や私財を投げ打ち、人や物を破壊し、殺傷する為だけの兵器開発に国家や個人の生涯を賭けてまで取り組み、さらにその兵器が使い物になるまでに何度も人体実験や爆破実験を繰り返して無駄に年月と費用を費やし、現代でも5,500kmほど飛ぶらしい大陸間弾道ミサイル(=Intercontinental Ballistic Missile、略してICBM)が開発費だけで95億米ドル(日本円で約9,900億円)以上、製造して配備するのに1兆米ドル(約105兆円)以上もするそうで、さらに日本の自衛隊でも戦闘機一機を買うのに約112億円~119億円、開発費だと3千億円以上もかかっていて、古代だろうと現代だろうと関係なく、それだけの費用を注ぎ込んで国家や個人が破産しない訳はなく、しかも「無敵の核兵器」だの「レーダーに探知されず敵を迎撃できる」だのと謳い文句だけは強そう立派そうに聞こえるものの、実際のところ、日本の戦闘機に至っては「飛行中に操縦桿が外れて無理やり押し込んだ」とか、「機体に穴や亀裂がしょっちゅう入る」とか、最悪は「墜落してパイロットが重症を負った」とか(三菱重工製F-2戦闘機の談話より)、人や物を運ぶ民間飛行機にすら使えそうにない不具合だらけの飛行機の為に毎年5兆円もの日本国民の血税が費やされており、アメリカのICBMも似たようなもので、これまでにも「液体燃料が漏れて作業員が死んだ」とか、「コンピューターにバグがあって発射できなかった」とか、しょっちゅう異常を起こし、その度に検証実験を行い、その試行錯誤の為にまた莫大な追加費用が上乗せされていく。だから、古代も今も変わらず、キリスト教の修道士達を始め、インドの仙人達(=Rishi、その他、Sadhu、Yogiとも呼ばれる。)、中国や朝鮮半島、日本などの仏僧や修行僧、山伏、行者といった類の人々が粗末な形で貧しい暮らしに甘んじ、世俗を避けて結婚はもちろん、恋愛もせず、時折、街角に立ってお経や説教を唱える見返りとして持参した鉢や器などに“寄付金”を入れてもらう托鉢(乞食)修行をするのも、聖書や仏典その他の古い文献に書かれてあるだろう青銅器時代の兵器を解読して研究するには多額の資金が要るからで、それをかき集める為に彼らは街角や寺院、教会のような大勢、人が集まる場所でいかにも正しそうな耳触りのいい説法を唱え、聖歌やお経を歌い、時には踊りまで披露して人々の財布の紐を緩ませているのであって、大衆の方もよもや自分達を殺傷する兵器を造る為に自分達が寄付させられているとは思いもよらず、つい、人の多さも手伝ってその場の空気に合わせてお布施や賽銭、寄付金を箱や器に入れてしまう。もちろん、彼らが世俗を避け、禁欲するのも(といっても表向きだけで現実には自分達だけの掟も守れていないようだが)軍事機密の漏洩を防ぐのが目的であり、無知とか弱さを装うのがたしなみとされる女達につい、気を許してしまうと、相手が尼僧や信者の場合、同業者(軍事研究者または傭兵)でスパイされることもあれば、一般女性と結婚しても家計の状態から何をやっているのかすぐに彼らの仕事の実態を疑われてしまう。だから、当初はそれぞれ引きこもって研究を重ね、資金が必要になった時だけ世間に顔を出し、偽善的な説法や“奇跡の業”と称した奇術(=Magic、元の語源はギリシャ語のMageia「ゾロアスター教の司祭とその補佐役の女達から伝わる儀式」の意味。)などの大道芸または催しを披露して寄付金を集めるか、あるいは自分達が考案した軍事知識や技術を国家(王朝)や武器商人などに直に販売するといった自営業だったのだが、そのうち偽装の宣教活動(または大道芸や催し)が大衆の人気を博すようになると、寺院や神殿、教会といった大きな建物を建てて人をさらに集め、大規模な寄付金(賽銭)集めをするようになった。そうして集まった大衆の中から信者が生まれ、その信者達が軍事技術や戦略を実戦してくれる傭兵や後継者となりそうな修道士(軍事研究者)の役割を担ってくれるようになると、個人経営だった修道士(または仙人、修行僧)はいつしか集団で同じ仕事をする会社組織へと変貌していき、そこへさらに国家(王朝)や資金力のある商人などが顧客となって加われば、そこがいかに人殺しや暴力を円滑に行う為の製品やサービスを製造販売する会社であっても、それは国家(共同社会)に認められた公認の優良企業と世間からも見られるようになり、ついでに軍隊や研究施設も併せれば、現代でいうところの“軍産学複合体”(=Military–Industrial–Academic Complex、人間が同じ生物種の人間を殺す武力(暴力)こそ絶対的な自衛手段と信仰して軍需産業を主業とし、国家(政治や法律)、企業(経済)、大学(教育)、軍隊(大衆)が連携して暴力に強い者が弱い者の生命と財産を蝕み続けて寄生することで生き延びようとする社会を形成すること。1961年1月17日に第34代アメリカ大統領のドワイト・アイゼンハワーが大統領を辞職する際に行ったテレビ演説に出てきた造語である。アメリカの国家財政の破綻を予期したアイゼンハワーは第二次世界大戦以降も戦争(人殺し)を続けたがる世界とアメリカ全国民に警鐘を鳴らすと共に最後に「危機感と良識を備えた市民の皆さんこそ(その税金と労働力を注ぎ続けたことで)巨大化させてしまった軍需産業とその兵器の数々を(軍需産業への納税や従事、兵役を拒否するなどの)平和的な方法と意思でもって一網打尽にして一掃することができ、そうすることで自由と安全を同時に享受できるようになるのです。非武装こそが人類にとって永続的にしなければならない神からの絶対命令、つまり“人としての義務”であり、その点においてわたしは自分のこれまでの公の責務に未来はないと言わざるを得ず、第二次世界大戦時の悲痛な叫びと恐怖を目の当たりにし、次の戦争(人殺し)が何千年と長い月日をかけ、様々な労苦を積み重ねて築き上げてきた人類の文明(生きる為の智慧)を単に破壊するだけでしかないということを知る者として、永続的な平和=神とはただの幻想ではなく、皆さんのすぐ“目の前に在る”ということを今夜、皆さんにお伝えすることができたらと願っております。」との言葉で締めくくった。)の誕生である。その間、侵略戦争を繰り返して領土を広げてきたローマ帝国は自ら大量の移民流入と経済不況を招いて崩壊し始め、暴動や内戦が頻発するようになり、その需要に合わせ、ナザレのイエスが世界(大衆)の為に十字架上で殉教死(犠牲死)した後、復活したとの“嘘”を教義に掲げて徴兵と寄付金集めに成功したキリスト教教会(=軍事会社または警備保障会社)がローマ帝国(政府)内で政権争いをする軍人や役人、商人などを顧客にしてその勢力(商圏)をヨーロッパ全域にまで拡げることとなった。しかしながら、同じキリスト教教会(軍事会社)であっても当然、創設者(宗派)はそれぞれ異なるため、今度は教会(企業)間での熾烈な勢力(商圏)争いが生じることとなり、イエスの名の下、殉教(集団自死)を全く厭わない狂信的なキリスト教信者(傭兵)達の戦力で覇権争いに勝利し、ローマ皇帝の座を勝ち取ったコンスタンティヌス1世はその見返りに帝国内でのキリスト教の布教を容認したものの(ミラノ勅令AD313年)、利権争いで教会が分裂してそれぞれ自分の得意客を次の皇帝候補に擁立し、再び内戦を起こされることで逆に自分が皇帝の座を奪われることを恐れ、帝国内にあるキリスト教教会の合併や同盟を促せるよう大規模な会議を招集した。(第一ニカイア公会議AD325年)そこで論争の的になったのが、神の子=天才と自ら名乗ったナザレのイエスが果たして世界最強の兵器開発技術の秘密を握っていたかどうかだった。もちろん、彼らが兵器開発の教科書にしている聖書を正しく“理解していた”からこそナザレのイエスは自分を神の子と名乗り、神の国のように富や安全、自由や平和が永遠に続く国を造る初歩的な掟が『人を殺すな』という神の教えだと伝えたのだが、そこからして全く理解していない彼らキリスト教教会創設者達にナザレのイエスの正体=奇跡の真実など分かるはずもない。案の定、イエスは秘密を握っていた、握っていなかったという全く見当違いの無益な論争に終始し、結局、イエスの言葉の中に必ず兵器開発の手がかりがあるはずだという結論に達して、それに異を唱えたアリウス派を始めとしたキリスト教のいくつかの宗派とキリスト教以外で聖書を説く他の宗教も含め異端(=heresy)と呼ばれることになった。以来、ナザレのイエスの教えに手がかりがあることを前提に、それはイエスだけでなく、彼の家族や一族(血族)の言い伝えによって代々、教えられてきた知識や技術だと信じる者と信じない者とが論争を繰り広げるようになり、その度に大勢の意見や考えに合わない宗派(軍事会社)は異端とされて、ローマ帝国内、特にヨーロッパ周辺での布教(営業)活動で爪はじきにされることになった。その結果、全く兵器のヘの字も唱えていないナザレのイエスの言葉(教え)に剣や武器を造る冶金術(工学)、戦闘機や雷を誘導する塔作りの為の天文学や物理学、毒薬を始め生物(細菌)兵器を作る為の薬学や医学など、兵器開発の為の科学教育の基礎を見出そうとした西洋は中世暗黒時代と呼ばれる通り、あらゆる自然科学教育において迷走し始めるようになった。一方、ナザレのイエスの言葉(教え)に手がかりはないとしたアリウス派やイエスの一族はもちろん、ユダヤ民族にも手がかりはないとしてゾロアスター(暴力礼賛)教が興ったバビロニアやアッシリア帝国があった土地に拠点を移したネストリウス派(=Nestorianism、古代ギリシャ語でNéstōr「元の地へ戻る」の言葉に即し、ゾロアスター(暴力礼賛)教の起源を探って兵器開発の手がかりをつかもうとしたAD5世紀頃のキリスト教宗派の一つ。)などの異端派はある意味、真実に迫ったかに見えるだろうが、邪教(間違っている教育)の起源を探ったところで所詮、邪教(間違っている教育)は邪教(失敗するだけ)なのでいくら大金を注ぎ込んで研究してもそこに彼らの求める正解(真実)などあるはずもない。ところが、この邪教の起源を探っていたネストリウス派、もしくはマンダ教(=Mandaeism、アッシリア人やバビロニア人の公用語だったアラム語のmandaʻ「知識」から名付けられた宗派で、元はAD1世紀頃に流行し、これまたキリスト教の異端とされたグノーシス派(=Gnosticism、古代ギリシャ語でgnōstikós「知識を得る」)の流れを汲む分派でもある。)の修道士(軍事研究家)は探求の旅の途中で知り合ったキャラバン(隊商)の使いっ走りをしていた12歳の少年兵から偶然、その起源を教えられることとなった。その少年兵が後にイスラム教の開祖となるムハンマドである。もちろん、ムハンマドは彼の本名ではなく、本名はAl-amin、アラビア語で「(インドの)アミン村出身の者」を意味し、先祖は現在のインドの首都圏のニューデリーから北に向けて車で4時間弱の所にあるクルクシェートラ(=Kurukshetra、サンスクリット語で「クル族王の領土、または聖地」の意味)という、今ではヒンズー教の聖都となっている街までの途中、ほんの8kmほど手前にある小さな村からアラビア半島に移った遊牧民だったらしく、後に付けられたムハンマドと言う名前も現代のアラビア語では「賞賛すべき者」や「預言者」、「神の言葉を知らせる者」という意味の称号になっているが、実際にはサンスクリット語のMuh「狂気の中でうっとりして」と、Āmād「人肉を屠る者」の二語を合わせてMuhammadとした、戦争(人殺し)慣れして暴虐非道かつ恐ろしそうな印象を世間(顧客)に抱かせられるよう傭兵業を営む彼自身が自分の宣伝用につけたあだ名である。そのため、先祖の頃からインドで傭兵業をしてきた家系で、自身も親の家業を継いだムハンマドがゾロアスター(暴力とインダス文明の頃の原子爆弾を礼賛する)教の起源がインドにあることを知っていても不思議でも何でもない。その上、インド洋からアラビア半島にかけて交易するキャラバン(隊商)に雇われていたムハンマドにとってインダス文明の頃の軍事兵器の技術や知識を“伝承販売”(教育出版)することは難しいことではなく、多少の語学力(交渉力)と軍事知識さえあれば目ぼしい資料を見つけてくるだけでそこに書かれてある内容や絵にどんな意味(価値)があるのか“全く分からなくても”その資料だけで高値がつくのだからこんなおいしい商売はない。それで気を良くしたムハンマドは自分でイスラム教(軍事会社)(=Islam、アラビア語で「世界人類を捕虜にできる方法を教えます」会社)を設立して『コーラン』(=Qur’an、サンスクリット語で『クル族からもたらされる覚醒の光』610年頃発刊)というインドで見つけてきたインダス文明の頃の兵器にまつわる資料や逸話をまとめた聖書(軍事教本)を出版し、これがたちまちヒットして飛ぶように売れたため今度は中近東諸国のみならず、キリスト教が定着したヨーロッパ(旧ローマ帝国)市場を目標にして売り出すことにした。(Da’wah、アラビア語で「イスラム教への入信勧誘活動」のこと。AD625年頃から開始)その結果、世界人類を自由に豊かに幸せにしてくれる文明(神の智慧)は世界最強の兵器(暴力)によってもたらされるはずと信じて止まないキリスト教諸国とイスラム教諸国が対立することになり、諸悪(邪教)の根源を突き止めたイスラム教が西洋と比べれば多少、真実の自然科学の知識に迫ったことでほんの少しキリスト教諸国より軍事力の面において優利になったのだが、かと言ってムハンマド自身、商売柄、目利きと口は達者でも実際は文盲だったため自分が集めてきた軍事資料や逸話の内容(価値)など全く分かっておらず、それをもっぱらイスラム教の僧侶や信者達が研究&実験検証を重ねるだけでキリスト教の修道士(軍事研究家)達がこれまでユダヤ人達から伝えられた聖書を解読する作業と何ら変わりはない。だから、依然、彼らが求める戦闘機や雷を誘導できる塔建築の為の天文学、物理学、剣や武器、戦闘機を造る為の製鋼技術などの工学も進まず、毒薬や生物(細菌)兵器で簡単に人を殺傷できる兵器は作れても逆に自分達の身を守れるような薬学や医学は全く発展しなかった。それでも彼らはキリスト教、イスラム教と名前こそ違え、どちらもゾロアスター(暴力礼賛)教という邪教の呪縛(執着心)に囚われたままだということに気づかない。どちらに帰依しようと邪教(間違った暴力教育)に真実も、正義も、救いもないのにその邪教(暴力教育)こそが神からの教えと信じて止まない。こうして両宗教の暗黒世界の攻防戦は(現代でもまだ続いているようだが)目立った出来事に限定するなら14世紀まで続き、その間、スペイン、ポルトガルのあるイベリア半島にイスラム教国家のウマイヤ朝が侵攻して地中海地域を制圧したり、逆にキリスト教諸国がイスラム教諸国に占領されていたエルサレムを奪還しに十字軍遠征をけしかけたりと、一進一退を繰り返し、どっちも間違っているのに「自分達の側に正義(神)があり、真実(神)の教えだ」との掛け声と、綺麗に脚色された話術(説法)や目くらましの奇術(儀式)にそそのかされた大衆(軍隊)が自ら自分の生命と財産(税金)を投げ出し、我先に殉教(犠牲死)せんと無益な争いに加わって、自由も富も幸福も全く得られることなく、単に膨大な数の死体と破壊された町や村の瓦礫の山だけが延々と積み重ねられていく。そして、この極めつけに起こった出来事がそれまでにイスラム教、キリスト教のネストリウス派(中国では景教)、さらにゾロアスター(拝火)教(中国ではけん教)の教えを受けて育ってきたタタール人(旧アッシリア人)達がその軍事教育の産物として開発した生物(細菌)兵器をテムジン(チンギス・カン)達、モンゴル民族に渡したことによりこの当時の世界人口を半分近くまで減少させることになる黒死病(ペスト菌)の大流行だった。)の軍事的才能が自分の息子にも受け継がれるよう自分が捕らえて処刑したテムジン・ウゲという男の名を勝手に採って名付けたものだった。要は教育を受けたことがなく、文字も知らないモンゴル人のイエスゲイにしてみれば、疑似科学の知識や技術をひけらかし、人を傷つけ、殺すだけで何の役にも立たない我楽多を造っているだけのタタール人達でも英才教育を受けた立派な専門家や科学者に見えたらしく、これまた学(教育)のない者にありがちな迷信を信じて死んだばかりの人の名前をつけたらその魂や能力も乗り移るとでも思っていたようだった。むろん、名前をつけたからと言ってその人自身の能力や個性に変化など起きる訳がない。だが、親がどんな意味(心)を込めてその名前を自分に付けてくれたかを子供が知ると、よほど親が嫌いでもない限り、子供はできるだけ自分の名前に込められた親の愛(心)に応えようとし、その名にふさわしい恥じない生き方をしようと努める。なぜなら、名前は自分が好きでも嫌いでも生涯、背負っていくものであり、自分を覚えてくれている人達がいる限り、自分が死んでも残っていってしまうからである。だから、毒の実を専門とした生物兵器の開発者の名前を付けられたテムジン(チンギス・カン)は自分の父イエスゲイの期待に応えようと、学(教育)がないモンゴルで軍事教育を広め、軍拡を行うことこそよその土地での放牧や食糧はもちろん、女達の強奪においても有利になると考え、今後、自分達、モンゴル民族を繁栄させる道だと信じてその名(毒薬開発者)にふさわしいよう、傭兵の勧誘や寄付金を集めて歩くキリスト教の修道士やイスラム教のコーラン(軍事教本)を売り歩くキャラバン(隊商)、ゾロアスター(拝火)教の名は時代遅れになったものの、中身が同じキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教といった様々な教義を混ぜ合わせ、呪術や占術、歌や踊り付きの奇術(儀式)、交霊術にインチキ医術と実に多彩な“見世物”を披露してくれる巫女や霊媒師、占い師、偽預言者に僧侶、インチキ医者に薬剤師、等々、あの手この手で寄付金(お布施)を集めようとする、現代でいうところのオカルト商売やカルト宗教団体に属する人達からモンゴル民族の教育水準では知ることができず、また、開発もできなかったあらゆる兵器の知識や技術を無理やり強奪したり、買い取ったりしてそれを自分の配下になったり、同盟を結んで味方になった周辺部族の人々にも教え広め、独自の軍事教育体制を敷くようになった。何より、父イエスゲイの勧めもあってテムジン(チンギス・カン)が結婚したのはボルテ・ウジンという、これまたタタール人と同じくアッシリア人を祖先に持つ部族の出なのだが、タタール人がどちらかと言えばロシア人か欧米白人種に近い容貌を持つのに対し、ボルテ・ウジンを生んだコンギラト部族は黒髪の黄色人種の顔形が多く、この二つの部族がテムジン(チンギス・カン)のモンゴル部族を挟んでお互い敵視したり、いがみ合っていたのも多少、その容貌の差も起因していたかもしれないが、大きく違っていたのはそれぞれの部族で生産されている兵器の違いだった。前述した通り、タタール人はテムジン(ソテツの実)を始めとした植物の特性を悪用し、現代の日本でも食されている大量に摂取すればアレルギー症状を起こすこともある苦味(ルチン成分)の多い韃靼ソバやシナモン(スリランカ原産、別名セイロン肉桂)によく似ていることからそう呼ばれているものの、過剰に摂取すれば肝障害を起こしやすくなる肉桂(中国原産、別名シナ肉桂、またはカシア)など表向きは漢方薬を製造販売している部族で、一方のコンギラト部族はボルテ・ウジンの名前にある通り、Börteはモンゴル語で「灰色のまだら模様」を指し、蛇の中でも特に攻撃的で猛毒を持ち、灰色でまだら模様のあるハブを生きたまま馬乳酒に漬けこんで精力増強を謳ったハブ酒(=Snake wine)を製造販売すると共に、Üjinはインドのヒンズー教で伝えられてきたUjjayi「勝利の為の呼吸法」、今で言うヨガのことで、中国語では気功または拳法を意味し、「皇室中心、国家主義」を建学の精神とした県立熊本高校を卒業した集英社の堀江信彦氏が編集を務め、自衛隊出身の武論尊(本名、岡村善行氏)が原作を書き、学習院卒で貴族議員の松平頼寿が創設した中高一貫校の本郷高校でデザインを学んだ原哲夫氏が漫画を描いて1984年に出版された『北斗の拳』の話の基がこのボルテ・ウジンである。『北斗の拳』でも一子相伝の秘法とされる北斗神拳なる暗殺拳法を継承する主人公のケンシロウが婚約者のユリアを敵対する南斗聖拳の拳法家に奪われる話になっているが、実はボルテもテムジン(チンギス・カン)と結婚後間もなく、別の部族に強奪されていて、仮死状態のハブを入れた酒壺を標的者に振舞ってしこたま酔わせ、頃合いを見計らって蛇に咬ませて殺す“生きた匕首(短刀)”の使い手であり、さらに中国では鍼灸、気功、拳法、インドではMarma(『北斗の拳』の用語だと“秘孔”、要はそこを強く押したり、傷つけると死ぬこともある「急所」のこと。)、日本では鍼灸、指圧の名で親しまれている人体のツボ(経穴)までも心得た鍼灸師または指圧師でもあったボルテはテムジン(チンギス・カン)とモンゴル軍にとっては何者にも代え難い貴重な人材のため苦心して彼女を奪い返している。こうして、コンギラト部族とタタール部族、その他、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教から仏教に至るありとあらゆるゾロアスター(暴力礼賛)教の兵法を世界中からかき集め、各部族の秘法(軍事機密)としてひた隠しになっていた知識や技術をまとめることで世界最強の兵器を造れるようにしたのがテムジン達、モンゴル帝国だった。だから、そんな究極の悪知恵を思いついたテムジンを先祖の頃からモンゴル部族に仕えてきたシャーマン(巫者)であるココチュはモンゴル部族の国教というべきか、土着信仰だった“道教”(=Taoism)または“太平道”(=The Way of the Taiping、道教から派生した分派で、中国の歴史書『三国志』で有名な魏、呉、蜀の三国時代が始まる前の後漢末期(AD2世紀)に中国北部で流行したカルト宗教である。元々、道教自体、仏教のカルト宗教で、これまた仏教もキリスト教がイエスの教えを誤解したように仏陀(または釈迦)の教えを誤解したゾロアスター(拝火)教系の邪教なのだが、その顛末は後で詳しく述べるとして、いずれにしても邪教に邪教を合わせたのがこの太平道である。インダス文明の邪教であるゾロアスター(暴力礼賛)教を真似て創られた仏教は、人類の文明(神の智慧)が発祥した土地で創設されたことと、様々な族名で呼ばれるアッシリア人の末裔である狩猟騎馬民族がアッシリア帝国滅亡後に数多く移住していった先がヨーロッパや中近東よりさらに東の中国やモンゴル、朝鮮半島、そして日本だったため、軍事(人を傷つけ、殺す暴力)の知識や技術面ではキリスト教やイスラム教より遥かに上手で、その軍事力(暴力)を称えて今でも世界の四大文明として中国“文明”の名も挙がるが、実際のところ、中国に文明(神の智慧)が存在したことは一度もなかった。それは“しつこいぐらいに何度も”本作品で申し述べてきたと思うが、「人を殺すな」と教えた神の命に逆らって建国して以来、一時でも人殺し(戦争)のない人と人とが互いを思いやって生かし合う平和な国=天国を造ろうとしてこなかった中国に文明(人類が繁栄して生き残っていく為の神からの智慧)などあろうはずもなく、それを知ったとしても人の道(神の命)から外れた生き方しか教えない親や先祖の命に従う孝廉(孝行。第104話『蒙昧』(注1)参照)の方がよっぽど大事だと思っている彼らに文明(愛の智慧)など理解できないからである。だから、仏教であれ、道教(中国語で「仙人=文明人になる道」という意味。)であれ、太平道(中国語で「平和への道」という意味。)であれ、どれも口先では善意を装うものの、仏陀(釈迦)=善意の教えなどは微塵もなく、あくまで兵法(人殺しの知識と技術)のみを教えているだけであって、そういう意味では孔子、老子、荘子、孟子、墨子、荀子といった学者達(諸子)が興した儒家、道家、墨家、名家、法家といった学派(百家)、すなわち、諸子百家と呼ばれる中国教育はどれも同じ軍事(暴力)教育=プロパガンダ(専制君主や特権階級などの少数の人々が多数の人々を支配して徴税や徴兵ができるよう大衆を洗脳する為の)教育でしかなかった。そのため、仏教から道教へ、道教からさらに時代が下って興された太平道も結局、軍事教育が主体の邪宗だったのだが、太平道がそれまでの諸子百家と大きく異なっていたのは中国人自身で創設された宗教ではなかったことだった。では、中国人とは一体、誰を指すのかと言うと日本で倭人(琉球民族)と大和民族のどちらを日本人だと信じるかで違ってくると思うが、それと同じように少なくとも太平道というカルト宗教を興したのはタタール人やボルテ・ウジンを生んだコンギラト部族と同じアッシリア人を先祖に持つ西域(現在は中国・新疆ウィグル自治区。第110話『灌漑』参照)、つまり、タリム(塔里木)盆地出身の張角という男だった。西域(タリム盆地)は今でも様々な独立運動や民族紛争の絶えない修羅の地域だが、張角が生きていたAD2世紀頃も同じで、タタール人達が元々、住んでいた楼蘭やコンギラト部族の故郷である車師、焉耆、亀茲、于闐、莎車、疏勒と、常時30以上もの部族や小国がひしめき合い、それぞれ自慢の兵器をキャラバン(隊商)を通じて世界各地の国家(王朝)や商人達に宣伝販売し、どの部族(兵器)が軍需産業市場で世界最強かを競う為に争い合って暮らしていた。だから、第87話『母の願い(1)』でサーラブという野生ランのお茶に振りかけるシナモン(シナ肉桂)がイエス達、一般庶民の年収分もする高値で売られていたのも、食品というより医薬品もしくは毒薬兵器としてタタール人達が販売していたからである。そんな軍産複合体国家群の中に于闐(現、新疆ウィグル自治区南西部ホータン地区)という国があったのだが、それが太平道の創始者だった張角の祖国であり、元来、仏教国の于闐で中国ではまだ、知られていなかったナザレのイエスの話やキリスト教、ユダヤ教の儀式を張角が混ぜて“于吉”という架空の道士(道教の修行僧)を神格化し、祭り上げたのも于闐が中近東に近い西域にあったことと、キャラバン(隊商)の行き交うオアシス(砂漠地帯にある交易中継都市)国家だったこと、そして、前述したキリスト教グノーシス派がゾロアスター(暴力礼賛)教の起源を求めてうろうろしていた土地でもあったことから、訳の分からないインチキでたらめの呪文を唱えて指で空を切り、大袈裟に力を込めて水を張った器に指を入れ、「その護符水を飲めばたちまち病が治る」との宣伝文句でたちまち中国の一般庶民を虜にした。なお、8世紀頃の日本の大倭朝廷で設けられた占いやら呪詛、祈祷などを行って国政についてアドバイスをする陰陽師という職位も元はこの太平道の于吉(の弟子を装う張角)がモデルになっている。では、一体、なぜ、張角が太平道なる胡散臭いカルト宗教商売を中国で始めるようになったかというと、祖国である于闐を中国の後漢王朝に滅ぼされたからである。もちろん、于闐だけでなく、タタール部族の楼蘭も、コンギラト部族の車師もほとんどが中国に乗っ取られたことから彼らは戦争移民として中国に移住せざるを得ず、その子孫は中国北部でモンゴル部族らと共存する“中国人”になっていったのだが、言うなれば現代の大企業が提携を結んでいた小企業を騙して無理やり傘下に収め、その後、その小企業の従業員だった技師が大企業に移ってから肩身の狭い思いをして大企業への恨みつらみや復讐心をたぎらせるようになるというお定まりの筋書きであり、張角も中国に移住してからはいつの日か中国への復讐を果たすべく機会を伺い、その軍資金と徴兵集めの為に始めたのが太平道だった。だから、“于吉”という名前は正確には于闐の吉士(今の漢字で書くと騎士)を短く縮めたもので、張角自身が未知なる力を持つ宗祖を演出する為に創作して付けたキャラクター名であり、病気治癒を謳った護符水も現代で大衆が宣伝に乗せられて買わされるインチキ浄水販売のようなものだった。ところが、無害な水を法外な値で販売しているだけだったらそれほど悪質な詐欺商売ではなかったかもしれないが、張角の故国である于闐やタタール人の楼蘭、コンギラト部族の車師などの西域はあくまで軍需工場地帯であり、いわば、張角もそこで働いていた生物兵器開発者または毒薬製造技術者だったため、ただの水を売るはずもなく、軍資金や信者(徴兵)集めはもとより自分が開発した毒薬の人体実験も一緒に行っていた。ただし、水に毒薬を混ぜていた訳ではない。護符水なる水を飲ませる前にこっそり病気にかからせるのである。要は毒キノコなどの食べ物を事前に分け与え、知らずに食べた人が食中毒にかかると今度はそれらしい呪文を唱えて用意しておいた黄土水(黄土を混ぜた水。中国、朝鮮半島では地漿水とも呼ぶ。後者は黄土ではなく、赤土を混ぜてかき回した後、上澄みだけをすくって作る泥水である。どちらも石英や長石などのケイ酸塩鉱物を含んだ水であり、少量であれば人体の毒素を電解して溶かし、尿や便として排出してくれるが、大量に摂取すれば第105話『欺瞞』でナイル川の水が爆弾の原料の珪藻土(二酸化ケイ素)に汚染されて毎年何千人もの幼児が亡くなっている話をしたと思うが、解毒どころか逆に腎臓障害や免疫(病気への抵抗力)低下による伝染病などにもかかりやすくなり、また、黄土の砂(=黄砂)も頻繁に吸い込んでいると珪肺と呼ばれる肺炎や結核に似た肺疾患にかかりやすくなる。なお、現代の日本でも黄土水はシリカ水と呼ばれて市販されている。)を差し出せば、張角が与えた護符水で病気が治ったかのように錯覚してしまう。こうして、毒キノコの他にも自分が研究途中の生物毒や植物毒を与えて人体実験しながらその記録を『太平清領書』または『太平経』という経典に書き記し、独自の兵器開発を進める一方、その研究資金(軍資金)と自分に狂信する信者(兵士)を集め、ついに移民になってから積年の恨みを中国と中国人達に晴らすべくAD184年、黄土にちなんだ黄色い頭巾をかぶり、「蒼天(中国語で「天国」または「神」)は已に死んだ。 だから、この黄土水の天公将軍が奮い立つ。 于闐国が倒れて甲子年。ついに天下は于闐の吉士(騎士)が大勢を占める。」とのスローガンを掲げて挙兵したのが“黄巾の乱”だった。しかし、既に死んでいたのは神ではなく、張角の方で長年、いろいろな毒薬や伝染病の兵器研究に明け暮れていたのと、齢を重ねた身体はすっかり衰えており、ペニシリン(アオカビ培養液)の研究をし続けて感染性心内膜炎で死んだフレミング達と同様、自分の造った毒に当たって張角は病死し、中国の後漢王朝への政府転覆も失敗に終わった。とは言え、張角が遺した『太平清領書』(または『太平経』)は当時から熱狂的な信者(兵士)達の間で受け継がれることになり、次にその書を手に入れたのが張角と同じく後漢王朝の政府転覆を狙って野心をたぎらせ、後に三国時代の魏の建国者となる曹操だった。もちろん、魏に朝貢していた日本の倭国もこの太平道の経典に書かれていた生物兵器を魏から技術指導してもらっていたからこそ、AD6世紀から8世紀頃にかけて天然痘のパンデミック(感染症拡散)が日本でも起こり、蘇我馬子と中臣(藤原)鎌足、どちらも自分達が仕掛けた天然痘で一族郎党、死ぬ羽目になった(第97話『不浄(1)』 参照)のだが、そもそも『太平清領書』(または『太平経』)に限らず、中国医学の始まりとされて中国最古の医学書として世界遺産に登録されている『黄帝内経』(BC5世紀発刊)、道教の経典である『道蔵』(AD5世紀発刊)、その他、中国最古の薬学書である『神農本草経』(AD3世紀発刊)、そして100人近くもの親戚を伝染病で亡くしたことから後漢王朝の官僚を辞めて医者になったという張仲景が書いた『傷寒論』と『金匱要略』(どちらもAD3世紀発刊)、いずれも“人の病気を治す為に”書かれた医学書ではなくて“人を病気にさせてから症状を緩和させて人心を掌握する方法”について書かれてある兵書(戦術書)である。そのため、この後、中国仏教や道教と共にキリスト教、イスラム教、ヒンズー教など世界中のゾロアスター(暴力礼賛)教の兵法を集めて独自の軍事研究をすることになるモンゴル帝国は、何千年と受け継がれてきた道教の経典にこれらの兵法も加え、全7800巻余りという(壮大な紙の無駄遣いとしか思えない)『元玄都宝蔵』を出版することになるのだが、元寇(モンゴル軍の日本への侵略戦争)が失敗に終わったことでこの兵書は時代遅れだとされて他の道教の経典と一緒に焚書され、今ではもう数篇しか残っていない。)の神書(聖書)を授かったと言われる教祖の于吉にちなみ、チンギス・カン(成吉思汗)「于吉になってやると思っている蒙古族の部族王」とテムジンを称えて呼ぶようになった。)が1211年から中国北部に侵攻してさらに西へと進み、ほぼ中央アジア一帯を掌握した後、チンギス・カン自身が長年、愛用の兵器として使ってきたハブ毒を塗った矢が血豆のできた指に当たって感染し、さすがに老年の身体でハブ毒への免疫はもはやなかったのかそのまま毒死してしまったのだが、武勇をおだてて臣下に下れば敵対していた相手だろうと外国人だろうとすぐに気を許してモンゴル部族の一員にしてもらえる気安さも手伝い、また、侵略しようとする国々に蛇のように潜む悪意を持った裏切り者達の手引きによってモンゴル部族の侵略戦争はますます拡大していき、1241年には東ヨーロッパにまで侵攻するようになった。しかし、その後は皇帝というより狩猟騎馬民族(暴走族)グループの族長の座を巡っての後継者争いが頻発するようになり、17世紀にイギリスのスチュアート王朝でジェームズ1世、その王妃アンヌ、その子供達が家督を巡って生物(細菌)兵器で互いを殺し合い、皆、死んでいなくなっていったようにモンゴル帝国(部族)も先祖の頃から税金(戦利品)を注いであらゆる人や物を犠牲にし、苦労して研究&実験を重ねて開発してきた生物(細菌)兵器を他人に向けるだけでなく、今度は自分の家族や仲間を殺す為にも使うようになり、5代目の部族王(皇帝)になったクビライの頃にはチンギス・カンの一族郎党は既に皆殺しになっていた。それでも彼らはゾロアスター(暴力礼賛)教がもたらす飢餓や貧困、病気といった地獄の呪縛から逃れ、誰もが豊かに健やかに繁栄して生きていける神の智慧=“文明”を知らないため、結局、食糧その他の産業が興せず、新たにそれらの略奪先を求めて中央アジア近辺をうろうろとさ迷いだす。しかし、戦争(人殺し)ばかりで当時の世界人口の1割以上を殺して回り、産業基盤も壊しまくっていて当然、国力(徴税や兵力)は衰える一方のため食糧や兵力がかさむヨーロッパへの遠征は難しく、そんな家計の事情から近場で狙ったのが日本だった。そうは言っても、地球の大半を占めるユーラシア大陸を縦横無尽に遊牧しながら駆け巡り、ほとんど大国とだけ戦ってきたモンゴル帝国にしてみれば日本のような地球の果てにある小さな島国などそれほど戦利品が期待できる土地にも思えず大して乗り気でもなかったのだが、ゾロアスター(暴力と原子爆弾礼賛)教の起源はイスラム教により明らかにされたものの、依然、原子爆弾や雷を誘導できる塔、戦闘機の造り方が分からず(それどころか火薬の造り方すら欧米人達はまだ知らなかったため)ローマ法王を始めとしたキリスト教ドミニコ会(=the Dominicansもしくはthe Dominican Order、1215年にスペインの修道士のドミンゴ・ガルセスがその当時、カタリ派という中近東のカタール出身のキリスト教作家ガブリエルが書いたグノーシス派やネストリウス派の教義についての本を基にフランスの南部やイタリアの北部で結成されていた別の異端信者を改宗させようと宣教しているうち、彼らの儀式に使われていた十字架がバベルの塔(避雷針ならぬ誘雷針)の構造物の一つであることに気づき、その研究を目的に南フランスに建てた修道院である。なお、十字架がキリスト教徒達にとって必須アイテムになったのはこのドミニコ会の創設者のガルセスが広めたからだと言われており、十字架を“ロザリオ”(=the Rosary、バラの花輪、花冠)と呼ぶようになったのもイエスの母マリアを象徴して称えた装飾品というのは表向きで、実際は衣服や性欲を堕落の象徴だとして男女共、裸になって懺悔ならぬ乱交パーティーを行っていたカタリ派が女性器を“バラの花輪”と呼んでいたことからカタリ派を真似して似たような乱交儀式を開くようになったドミニコ修道院の特に尼僧や女性信者達を指して呼ぶ隠語だからである。また、カソリック(伝統キリスト教)の有名な教本の一つである『Summa Theologica(邦題は『神学大全』執筆期間1265年~1273年12月6日まで)』はこのドミニコ会の修道士だったトマス・アクイナスによって書かれたもので、Summaとはラテン語のsummus「至高の、集大成」の意味から名付けられたと思われがちだが、実際はイスラム教のメヴレヴィー教団で催されるsema、「くるくる回って陶酔しながら神の声を聞く」という儀式のことで、このことから『Summa Theologica』とはキリスト教について書かれた本ではなく、イスラム教神秘主義派についての神学書である。そのため、トマス・アクイナスもヨーロッパ社会の規範(常識)ではキリスト教修道士を装っているものの、本当は隠れイスラム教徒であり、この『神学大全』を書いている途中、メヴレヴィー教団の開祖であるジャラール・ルーミーが急死し、彼の危篤の知らせにトマスはかなり悲嘆にくれたらしく、それ以降、ぷっつり『神学大全』を書かなくなっている。)の修道士達を顧客に持つヴェネツィアの武器商人のマルコ・ポーロから“ジパング”(=Cipangu、日本。東シナ海沿いの上海市や浙江省で話される呉語(中国語の方言)では日本をリィーベン、またはジーパンと発音するためその地域の人達の話を聞いたマルコ・ポーロが『Il Milione(邦題は『東方見聞録』1300年頃発刊。原題は彼のあだ名のEmilioneから採られたらしく、ラテン語でeliminare「抹殺する」の準動詞(不定詞)に接尾辞の-one「大量に」をつけて「大量に抹殺する」という意味になる。つまり、武器商人なので『大量破壊兵器についての見聞録』が正しい本のタイトルである。)の中で日本のことをそう呼んでヨーロッパに紹介した。ちなみに、魏の時代(AD3世紀)から中国人達には倭国と呼ばれてきたのに、なぜ、突然、“日本”という国名が中国人達の口から出てくるのかというと、945年頃に出版された『旧唐書』によれば、「日本国は、倭国の別種なり。その国日辺に在るを以て、故に日本を以て名となす。或いは曰く、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となす、と。或いは云う、日本は旧く小国なれども倭国の地を併せたり、と。」の記載がある通り、そもそも倭国と日本国は“全く別の国”だったので、ある中国人が言うには、倭人達は自分達の国名を嫌って日本=“理知の光が昇る国”、“天国の境目となる国”という国名を羨ましがり、自分達も同じ日本という国名にしたそうで、また、別の中国人の話では古くからある日本という小さな国を倭国が併合したためまとめて日本と呼ぶようになったとも言われている。なお、なぜ、倭人達が自分達の“倭”という名を嫌ったのかと言うと、漢字で人偏に委ねると書いて倭=“人を委棄した国”、“人心を捨て去った国”、つまり、「人でなし、野蛮人、非文明人達の国」という意味だからである。倭国と日本の文明度の差については第110話『灌漑』(注2)をご参照ください。)という小さな国にはかつて原子爆弾らしき大量破壊兵器があったとの情報をつかんだのと、ちょうどその頃、日本もモンゴル部族の家督争いと同じく鎌倉幕府を挟んで皇位継承を巡っての後深草上皇(北朝または持明院統)と亀山天皇(南朝または大覚寺統)のお家騒動が勃発していて、元は西域から流れてきて現在の中国東北部や北朝鮮辺りに住み着くようになった濊と貊という二つの遊牧騎馬民族がまだ朝鮮半島や中国大陸、日本列島が地続きだった頃にさらに南下してきて現在の北海道や九州、沖縄に居ついてしまい、それが大倭朝廷(現在の皇室)の祖先だったので(だから、アイヌ民族や琉球民族、一部の九州人達の容貌が今も欧米人やトルコ人達と似ていて日本本土の人達と少し異なるのはそういった理由からである。)、親戚である琉球王朝(沖縄)の英祖を通じてこれまた親戚の高麗の皇太子である忠烈王に禅鑑という禅僧を密偵として送った亀山天皇は、モンゴル帝国で人質として暮らしてきた忠烈王からクビライに働きかけてもらい、日本を襲撃して欲しいと(まるで関東大震災や第二次世界大戦時にイギリスやアメリカなどの欧米諸国連合軍をおびき寄せ、日本全土を攻撃してくれるよう頼んだ彼の子孫の昭和天皇始め皇族一同と全く変わらない売国奴ぶりなのだが、本人はひたすら自分が天皇(日本の支配者)になることこそ日本国の為になると妄執しているため)自分と自分の直系子孫だけ天皇にしてもらえるならモンゴル帝国に仕えて朝貢(納税)もするからという約束で日本への侵攻を依頼してきたこともあって、1260年、モンゴル帝国の皇帝(部族王)クビライはイタリアの武器商人のマルコ・ポーロから聞いた「日本には大量破壊兵器がある」との情報と、亀山天皇からの朝貢(納税)の約束に心惹かれ、ついに元寇(日本への侵略戦争)を決意した。ところが、彼らにとって大きな誤算だったのは侵略する予定のモンゴル軍も、手引きするはずの亀山天皇と臣下の鎌倉幕府軍も誰一人として海戦の経験がなかったことだった。平たく言うと、彼らは全く海を知らなかったのである。そう言うと、鎌倉幕府ができる前の源平合戦、壇ノ浦の戦い(1185年)を思い起こす読者の方々もいらっしゃるだろうが、そもそも鎌倉幕府を興した源氏と言う武家一族は騎馬武者が多く、海戦が得意だったのはむしろ源氏と敵対していた平氏の方である。しかも、その源平合戦や壇ノ浦の戦いからもはや90年近くも経っていて今更、その軍歴を挙げたところで無意味なことは明らかで、その前にもっと重要な誤算はそもそも戦利品(食糧や物資、金銀財宝)を求めてくるモンゴル軍にも、それを貢納すると約束した亀山天皇始め鎌倉幕府にも金銀財宝はもちろんのこと、そんな食糧や物資などどこにもなかったことだった。6年に渡る源平合戦(治承・寿永の乱)だけでもすっかり国土を荒廃させてしまっていたのにそれに続いて鎌倉幕府内においても源頼朝と義経兄弟による家督争いや地方豪族達による反乱、大倭朝廷からの倒幕の動きや皇位継承権を巡るお家騒動など、依然、戦争(破壊と人殺し)の日々に終わりはなく、そのため鎌倉幕府も、大倭朝廷も、地方豪族達もこぞって当時、世界中で研鑽が積まれていた最新兵器を中心に軍拡に励んでいた。その最新兵器こそ“てつはう”(=鉄砲)である。恐らく今もなお、誤解されているだろうが、第一回目の元寇(文永の役 1274年)での戦闘の様子を描いた『蒙古襲来絵詞』の中に出てくる“てつはう”(鉄の砲弾)はモンゴル軍のものではなく、鎌倉幕府軍からモンゴル軍に向けて放った爆弾である。もちろん、2011年に長崎県松浦市の鷹島沖で引き揚げられた元(モンゴル)の軍船から見つかった“てつはう”も日本製で、鉄砲と言うと銃身のような構造ばかりが頭に浮かぶかもしれないが、鉄砲が人を傷つけ、殺すのは火薬(=Gunpowder、Black powder)があるからで、銃身に殺傷能力がある訳ではない。そして、この火薬の技術にかけて日本は元(モンゴル)に勝るとも劣らなかった。なぜなら、火薬を発明したのは仏教僧だったからである。むろん、日本を併合してすぐに仏教導入を始めた倭国で火薬の技術が伝わらないはずはなく、空海などの遣唐使や鑑真のような中国僧が危険を冒してでも日本海を行き来していたのも、第110話『灌漑』(注2)で話した通り、軍事兵器の知識や技術の伝達、武器供与を頻繁に行っていたからだった。しかし、いつしか中国側から武器の材料を貢納するよう迫られたり、遣唐使も廃止されるようになったのは日本製の軍事技術が上がってきたからで、火薬の技術も当然、その中の一つだった。だが、それだけ技術が向上したということは何度もその実験を重ねてきたという証でもある。第107話『革命(2)』(注1)で度重なる核実験によって地球の土壌に棲む微生物が死に絶え、それによって飢饉や地震、異常気象が起きた話をしたと思うが、それと全く同じ事象がこの鎌倉時代にも起きていた。1230年~1231年にかけて鎌倉時代で最大規模の寛喜の飢饉が起こり、真夏に雪が降るという大冷害によって9世紀から様々な兵器実験記録をつけてきた『立川寺年代記』にも「天下の人種三分の一失す」とあるほど全国規模の被害に見舞われている。さらにクビライが日本への侵攻を決意した前年である1257年~1259年にも正嘉の飢饉で大地震が起きており、この時には法華宗(日蓮宗)及び現代の創価学会の宗祖と呼ぶべき仏僧の日蓮も著書である『立正安国論』(1260年発刊)の中で「天変、地夭(地震、洪水、噴火など)、飢饉、疫癘(疫病)、遍く天下に満ち」と書いていて、そんな状態で田畑の作物が実るはずもなく、景気はもちろん最悪である。それでいて元(モンゴル帝国)に朝貢(納税)を約束しているのだからいかに亀山天皇が世間知らずか能天気だったかはっきりしているのだが、現代でも天変地異が起ころうが、景気が悪かろうが関係なく、相変わらず米軍から戦闘機などを購入して軍事(暴力)政権への朝貢(納税)は行われているのだから亀山天皇を過去の暗君と今の日本人は笑えない。それはともかく、そんな困窮状態にある小国の日本を、これまた貧乏になってきた当時の世界帝国であるモンゴル帝国が略奪に来たところで何の足しにも救いにもならないのだが、本人達は至って“理知に富んだ正常な人間”のつもりでいるのだから周りが心配になって多少、忠告したり、諫言したところで聞く耳は持たない。まして、クビライは“忽必烈”と名付けられたぐらい、必ず突然(忽)、烈火のごとく癇癪を起す性質で、周囲も腫物に触る対応で接するしかなく、暴君を絵に描いたような人物だった。その暗君と暴君が手を組んだ侵略政策でどう考えても上手くいく訳はないのだが、本人達は周囲の懸念をよそに1264年には本格的な侵攻を前に日本への渡航演習を行おうと、大倭朝廷の親戚筋に当たる北海道のアイヌ民族を襲撃させることから始め(モンゴルの樺太侵攻)、この時の演習で日本への渡航にも自信がついたのか1266年から鎌倉幕府に国書や使者を送ったり、対馬に住む一般住民を拉致した後、帰還させるといった情報交換を行い、着々と侵攻計画を進め、1270年~1273年まではモンゴル帝国(部族)に忠節を誓った高麗の忠烈王に娘を嫁がせて彼の王座と傀儡政権の足固めをするため高麗に侵攻し、これを攻略した。そして翌1274年10月5日、ついに900の船団を率いて対馬西海岸を攻撃をし始めた。一応、鎌倉幕府軍はモンゴル帝国との密約があるため負ける予定ではいるものの、大倭朝廷や鎌倉幕府などの軍上層部と前線を戦う兵士や一般国民とでは思惑はまるで違うため(これも太平洋戦争の時と変わらないだろうが)、戦う(人殺しをする)ことが国を守る唯一の手段だと信じて一般兵士達は死に物狂いで戦おうとする。しかも、この時、鎌倉幕府軍は開発したばかりの最新兵器もこれまで世界中の兵器を買い漁ってきた大口見込み客であるモンゴル帝国軍にお披露目しようと一緒に携えてきていた。それが鷹島沖で見つかった“てつはう”なのだが、これがただの砲弾ではなく、連続して爆発する連射式爆弾または時間差爆弾だった。この最新兵器を開発したのがあの法華宗(日蓮宗)の開祖である日蓮で、この男もまた、チンギス・カンのようにそれまで秘伝とされて門外不出だったあらゆる仏教宗派の経典を漁って研究し、その結論に至ったのが「南無妙法蓮華経」だった。「南無」とは中国語で「天に命を帰す、仏教やヒンズー教に帰依して身命を捧げる」という意味で、「妙法」も中国語で「魔法または不可思議な方法」、そして「蓮華経」は蓮の根を用いた華火(花火)について書かれた本である。つまり、「南無妙法蓮華経」とは「蓮根に火薬を詰めた爆弾で大量に人をあの世に送れる魔法の本」が本当の意味であり、法華宗(日蓮宗)に限らず、大倭朝廷が導入した仏教で信者達が意味も分からず唱えさせられてきた「南無~」というお経を訳すなら、「天子(神の子の天皇)様、私達をいつでもあの世に送っていただいて構いません。」が日本語での意味になる。そのため、この大量破壊兵器を開発したことで自信を持った日蓮は前述の『立正安国論』を書いて鎌倉幕府に直接、自論を売り込もうとしたのだが、キリスト教各宗派(軍事会社)がしのぎを削って信者獲得の縄張り(商圏)を守ろうとするように仏教各宗派もそれぞれ縄張り(商圏)や暗黙の掟(市場ルール)があるため、それを侵そうとする掟破りの日蓮が周囲に受け入れられるはずもなく、当初はかなりの弾劾に遭って流罪にまでなったのだが、運良くと言おうか、運悪くと言おうか、大倭朝廷の初期メンバーの中臣(藤原)鎌足(第110話『灌漑』(注2)参照)の子孫で、伊豆(現、静岡県伊東市)の地頭大名(後の守護大名。今で言う知事)だった伊東祐光が法華宗(日蓮宗)に帰依したことからにわかに日蓮の名が世間に浮上するようになった。と言うのも、この当時、大倭朝廷が帰依(科学学術分野で信用)していた宗派(学派)は大覚寺統の亀山天皇、持明院統の後深草上皇、どちらも密教(ゾロアスター教日本版)の僧侶だった空海が興した真言宗で、それを打ち破って「南無阿弥陀仏との念仏を唱えれば誰でも極楽浄土に行ける」(阿弥陀仏とは仏教やヒンズー教で仏陀の女弟子または尼僧のことで、つまり、キリスト教のカタリ派と同じく「女を犯せば誰でもあの世に逝ける」が僧侶の法然や親鸞が唱えた念仏の本当の意味である。)との宣伝文句で多くの信者(兵士)を獲得し、大衆の力=兵数で大倭朝廷から実権を奪い取った鎌倉幕府が信仰していたのは浄土宗や浄土真宗だったため、大倭朝廷の現、天皇(国家元首)である亀山天皇としては何としてでも鎌倉幕府から実権を奪い返そうと大衆を圧倒できる新たな宗派を求めていた。そこでモンゴル帝国のクビライが信仰していたチベット仏教に色濃く影響していた禅宗や鑑真が伝えた律宗を真言宗に混ぜた真言律宗、そして鎌倉時代の新興宗派を輩出してきた密教(ゾロアスター教日本版)の総本山である比叡山延暦寺の天台宗と、ありとあらゆる仏教宗派を取り揃え、鎌倉幕府に対抗しようと日夜、研究に励んでいたのだが、その結果、モンゴル帝国でチベット系禅宗によって開発された新しい火薬の作り方を入手できるようになった。それがヨモギである。別に言い換えるなら、鍼灸で使われるあのモグサである。このヨモギ(モグサ)に尿をかけることでダイナマイトに匹敵する威力を持つ硝安爆薬(またはANFO(Anmonium Nitrate Fuel Oil)爆薬とも呼ぶ。)になることを発見したのがチベット系禅宗だった。開祖の達磨でよく知られる禅宗は元々、手足のない達磨人形のように主に解剖や人体実験を行って人体を研究する宗派だったのと、その中でチベット系禅宗は特に尿を研究していたため生まれた爆薬だった。その威力は凄まじく、最近では2020年にレバノンの首都ベイルートで起きた硝酸アンモニウムが原因とされる倉庫爆発でも203人が死亡、6千人以上が負傷し、核爆発かと思われるようなキノコ雲を伴った激しい爆風と共にマグニチュード3.3の地震まで観測され、地面が幅124m、深さ43mもえぐられていたほどで、その上、どこにでもヨモギ(モグサ)が生えているように硝安爆薬(ANFO爆薬)はどこでも安く材料が手に入れられるためテロリストがよく使う兵器でもあり、2011年にノルウェーで起きたノルウェー連続テロ事件でもこの硝安爆薬(ANFO爆薬)が使われている。その火薬の威力が増すよう蓮根の穴に火薬を詰めて鉄で覆った“てつはう”を鎌倉幕府に提案してきたのが日蓮だったのである。しかも、泥水に蓮の花が浮かんで咲くように蓮根は防水性があり、水雷としても使えそうだったことから伊東祐光から話を聞いた亀山天皇は早速、日蓮に新兵器を実演させるよう取り計らった。それが龍ノ口の法難と呼ばれる日蓮の出世物語でよく語られる処刑未遂事件で、亀山天皇が贔屓にしていた真言律宗の忍性という僧侶と宗派闘争するよう演出してわざわざ裁判になるよう運ばせ、さらに何の罪かも定かでないまま処刑判決を下し、誰を想定して創った芝居か見え見えな展開で(でなければ、ナザレのイエスの話は現代にまで伝わらなかっただろうが)市中を引き回した挙句、日蓮の顔と名前を世間に宣伝して回ってから処刑場に送るという猿でも引くぐらい臭い芝居をした後、現在の神奈川県藤沢市にある龍ノ口刑場で斬首刑を執行する直前、江の島近辺の海上で“てつはう”を試験爆破させるようにした。何せ、その威力は現代でも世界中を驚かせるほどなのだから初めて見た一般人からすれば天災にしか思えなかったに違いない。しかも、日蓮が造った“てつはう”は単発ではなく、連続して爆発するようになっているため一瞬では済まない。そのため、海水の温度までも上昇し、残暑厳しい9月だったこともあって翌日には雨まで降りだす始末だった。だが、この時、雨が降ったという気象の変化に気づいていれば鎌倉幕府軍が惨敗を予定していた侵攻作戦(文永の役)も違ってきたかもしれないが、あれほど『立川寺年代記』のような事細かな実験記録をつけてきた割には大きな変化には全く気づかないらしく(真夏に雪が降っても全く頓着しないのだから当然と言えば当然かもしれないが)、新兵器“てつはう”の威力に気を良くした亀山天皇は日蓮を大いに認めて処刑を免除し、引き続き兵器開発の研究を続行させるため“倭国の頃から占領してきた佐渡島”(別名、鬼ヶ島。皇室直轄の傭兵訓練施設や兵器開発研究所が建てられた軍事拠点が九州・対馬・壱岐・四国・本州・隠岐・淡路島・佐渡島の八岐にあるため隠語でそう呼ばれる。)に流罪という落ちにして新興軍事企業の法華宗(日蓮宗)を生き残らせることにした。こうして、モンゴル帝国にこの新兵器を売り込み、世界帝国(世界大企業群)の傘下に入って既に貧窮し切っていた国家経済の巻き返しを図ろうとしたのが亀山天皇の国策だったのだが、モンゴル帝国軍も鎌倉幕府軍も海や気象、地球という天体はもちろん、日本になぜ、湾が存在しているのかその理由すらも知らなかった。日本の湾については第110話『灌漑』の本文の中で話したと思うが、元々、大型船が出入りしやすいようにする為と魚をおびき寄せることを目的に造られており、周りを山や崖で囲むことで強風が通り抜けるようになっていて盆地なので海水の表面温度も高くなるようになっている。これらを全て計算した上で湾を造ったのが日本の原住民だった大和民族であり、渡来してきた“遊牧騎馬民族”の倭人達にこの湾の仕組みなど知る由もない。そのため、九州に居ついてから彼らは日本人達(大和民族)の漁獲高が多かったことから自分達も見様見真似で湾を造ったのだが、人心(理知の心)を捨てた倭人達には人の生命を守ろうとするきめ細やかな思いやりのある設計は難しいため、結局、自分達の利益だけを死守しようとする意図が強く、魚を逃がさないよう湾の入り口を狭くしたためかえって湾外の海水との入れ替えが遅く湾内の水が汚染されやすかったり、山や崖、川から湾内に流れ込んでくる土砂もたまりやすく浅瀬になるため大型船が湾内を航行しにくく、さらに海水の温度も上昇しやすいためそれによって雨や風、濃霧といった気象の変化も起こりやすくなり、逆に船が座礁や難破もしやすくなる。しかし、そうした人や物が傷ついたり、苦しんだり、悲しんだり、死んだりしないよう心を配ることがない倭人(人でなし、野蛮人、非文明人)達には湾がどう造られているかはもちろん、なぜ、湾が日本に存在しているかすらも全く気にしないため、いつまで経っても自分達の間違いや失敗にも気づかない。それゆえ、倭人の部族王(天皇)である亀山天皇は“てつはう”を試験爆破させた時の気象の変化など全く気にせず、海水温度が高くなりやすい博多湾でその新兵器を対馬から進軍して博多湾に迫ってきたモンゴル帝国軍に向けて放ったのだが、その前から兵器実験で異常気象を何度も繰り返し、日本全土を温暖化させていたところへ博多湾内に長時間に渡って連射式爆弾(時間差爆弾)を放り込んだのだから突風や大雨が降って来ても何らおかしくはない。結局、空気を読まずに猛攻撃を仕掛けてしまった為に一夜にして突風や大雨に見舞われたモンゴル帝国軍の船は大破し、海戦に不慣れな兵士も多かったため4万人のうち1万3千人以上もの兵士が溺死したらしく、期せずして形勢が逆転してしまい、収拾がつかなくなったモンゴル帝国軍はそのまま撤退することとなった。これを見て鎌倉幕府の当時の執権である北条時宗はこの兵器があれば逆にモンゴル帝国に勝てるのではないかと勘違いし出し、亀山天皇を失脚させてから後深草上皇の子孫を次の皇位継承者に据える動きに出始めた。しかも、モンゴル帝国が撤退してから翌年、再度、密約を果たすよう使者が訪れたのだが、これを有無も言わさず斬り捨てて挑発し、防塁を築かせるなどして本格的な戦闘態勢に入ると、逆に高麗からモンゴル帝国へと打って出る計画まで練り始めた。これに対して、京都にまで攻め入った勝利の話をマルコ・ポーロに前もって世界に向けて宣伝させていたぐらい日本との合併に乗り気だったモンゴル帝国に大恥をかかせ、退却させてしまうという大失態を演じてしまった亀山天皇は鎌倉幕府にも後深草上皇にも頭が上がらずしばらくは大人しく鎌倉幕府の指示にも従っていたのだが、高麗出兵を計画し出した鎌倉幕府は軍資金が必要となり、亀山天皇の所領(財産)にまで口を出し始めたことから不安になった亀山天皇は再びモンゴル帝国に自分の地位の安泰を求めて密使を送るようになった。一方、クビライの方は撤退した理由が“てつはう”より嵐で船が難破したからだと聞かされていたため、まさか鎌倉幕府の方から密約を反故にし、本気で自分達を追い払おうとしたとはまだ思っていなかったので、とりあえず日本へ再度、使者を送って様子を見ることにした。その間、侵略(人殺し)して略奪することが国家の主要産業であるモンゴル帝国は日本以外の地域を襲うことに忙しく、また、遠征の費用もかさんできて国家財政がさらに悪化していたためいくら亀山天皇から再遠征を頼まれてもそうそうすぐに日本に行く訳にもいかなくなっていた。それでも、クビライが日本遠征にこだわったのは自分達の船を大破させた原因である嵐が何となく引っかかったからだった。なぜなら、モンゴル帝国にしても、キリスト教諸国やイスラム教諸国にしても、これまで彼らが必死になって探し求めてきたゾロアスター(暴力礼賛)教の最強兵器の一つが雷を誘導できる塔(=バベルの塔)だったからである。つまり、気象を自由に操って雨や風、嵐や雷を神のごとく呼べる軍事知識や技術を持つことが彼らの探し求める最強兵器だった。そして、確かにインダス文明ではそれができてしまった為に跡形もなく滅亡していったのだが、その話は後で話すとして、ともかくその失われた禁断の軍事知識や技術をそれこそインダス文明が滅亡して以降、数千年と(現代に至ってもなお)世界中の国家(王朝)が膨大な時間と費用をかけて探し続け、見つからないままどの国も地上から消えていったのだから、クビライがその手がかりのありそうな日本にしつこくこだわったのも無理からぬことだった。それでなくても、1268年には6万人超の死者を出したトルコ南部のキリキア・アルメニア王国の大地震でヨーロッパやアジアの一大交易拠点であり、イスラム教諸国に対抗しようとモンゴル帝国とも軍事同盟を結んで朝貢(納税)もしてくれていた、いわばモンゴル帝国にとっては金庫のようなキリスト教系同盟国が一つ消え、さらにこの頃には散々、それまでキリスト教諸国とイスラム教諸国、モンゴル帝国などが軍拡に励んできた結果がそのまま地球環境にも影響して北半球一帯が温暖化で異常気象を繰り返しており(The Medieval Warm Period(MWP)中世の温暖期)、長雨やそれとは逆の干ばつも続き、作物の収穫高は年々、減る一方で、しかも上述したように、この頃の地球人口の約1割も殺して回っているのだから労働人口(納税額)もどんどん減っていく。それでどうやってこの先、食べていけるか全く先行きは不透明のまま、社会(国家)で役に立つ訳でもない、人殺し(戦争)の知識や技術しか知らず、図体と食欲と性欲だけは人並み以上の兵士達を国庫を削って養っていかなければならないのだから、暴君と言われ、人々から恐れられるクビライでも日々、不安は募る一方なのだが、兵士達と同様、戦争(殺人&暴力)の知識と技術だけを叩き込まれて育ってきたクビライにはそれ以外の方法など頭には浮かばず、ひたすら世界最強の兵器を手に入れ、その兵器(暴力)の凄さに圧倒されて恐怖に震える大衆(兵士達)をかしずかせ、これまで以上の朝貢(納税)や戦利品(食糧、物資と女達)を巻き上げることぐらいしか考えられなかった。その為にもまた、戦争(人殺し)をする経費(税金と食糧と物資)が必要となる。そこで法律や様々な社会の仕組みはもちろん、文字すらも知らなかった自分達、モンゴル民族より文字や金勘定に明るそうな外国人達を味方に引き入れ、前述のマルコ・ポーロもその一人で、自分達に代わって法律や社会制度、税金のやり繰りをしてもらうことになったのだが、人でなし(犯罪者)の仲間になるのは人でなし(犯罪者)しかいないため口先では「不正はしない」と誓っても、実際のところ、そんな約束など守られた例はない。案の定、軍事機密も各国に売られて漏洩されていたり、徴税額を増やそうと雇ったアフマド・ファナーカティー(中国名は阿合馬。阿は「媚びる、へつらう」、合馬は「馬が合う、お互いに意気投合する」という意味なので、中国人達がどれくらいクビライに取り入ったこの男を嫌っていたかはお分かりいただけるかと思う。)というイスラム教徒の家に生まれたが本人はチベット仏教徒(禅宗)だった男にも財務の管理を任せたのだが、中国では紀元前から庶民の反感を大いに食らった結果、暴動が起き、度々、滅亡の元凶にもなってきた悪法である専売制(=State monopoly、Government monopoly。国家(王朝)が塩やお茶、食料品といった生活必需品やタバコ、アルコール、賭け事など大衆が好む嗜好品に高い税金を掛けてそれを国家(王朝)が独占販売すること。)を敷き、さらにその税金の取り立ても本作品で何度も話したナザレのイエスの頃と全く変わらない取り立て業者の割り増しが許されるオークション(落札)形式の闇税制で、当然、税収は増えるものの、その分、大衆への暴行件数もうなぎ上りになり、モンゴル帝国、ひいては皇帝クビライへの大衆の恨みつらみや憎悪もさらに倍増する。その上、伸びる税収に加え、クビライからの信任が厚く、さらにクビライの正妃の浮気相手にもなっていたアフマドの専横ぶりはまるでクビライの次の後継者(皇帝)だとでも言わんばかりのひどいもので、当時、第一皇位継承者だったチンキムとその家臣達、そしてアフマドの派閥の間で熾烈な権力闘争が巻き起こることとなった。ところが、この権力闘争で所詮、一臣下に過ぎないアフマドとその一派はクビライの正妃が死ぬとすぐに暗殺されたのだが、その暗殺行為をクビライに正当化する際、ついアフマドと正妃が浮気している話も密告してしまったため、事はそれだけでは済まなくなり、クビライはチンキムを自分の本当の子かどうか疑い出し、結局、チンキムを密かに殺して、そのチンキムの息子で、自分の孫と公表しているものの、実際はチンキムの妻という名目で自分の愛人にしていた女に産ませた自分の本当の息子のテムルを次の皇太子にすることにした。こうして、外も内も腐敗し切って崩壊しつつあるモンゴル帝国を何とか建て直そうと、海上貿易の稼ぎで中国南部に残っていた南宋王朝を倒し、ようやく中国全土を手中に収めるようになったクビライはこの南宋王朝から海戦の経験がある軍略家や船舶技術者などを新たに雇い入れ、地球上で最強の兵器を求めて再び日本への遠征計画を練り始めた。一方、鎌倉幕府の北条時宗も一時は日蓮が提案してきた“てつはう”でモンゴル帝国への侵攻を夢想したものの、敵国の内情を知るため南宋から無学祖元という禅宗の僧侶(兵器開発研究者)を日本に招いて話を聞いたのだが、もはやモンゴル帝国の火薬兵器は日蓮の“てつはう”どころか、火薬の量も尋常ではない上、元々、“震天雷”と呼ばれる爆弾は中国の金王朝で使われていた物がモンゴル帝国に伝わったのだが、たった一発でも50km先まで轟くような音で空から黒い雨のごとく鉄片が混じった火薬が炸裂し、現代であれば小さなビル一つ分ぐらいの土地を燃やすことができ、さらにその火力も鉄まで溶かすと言うのだから比較にすらならない。しかも、それ以外にも銃の前身のような紙に巻いた火薬を矢尻につけて放つ火矢もあれば、槍に火薬の弾を仕込んだ火槍、これまた銃身の前身となる手で持ち運びできる携帯大砲、何百本もの火矢を入れて一気に打ち放つことができるロケットミサイル発射器、導火線を張り巡らしてある場所に敵が足を掛けると導火線をねじって巻き付けてある鉄のろくろが回って火打石に当たり(第96話『合金(2)』~はずみ車の作用~参照)、導火線でつないで土中に埋めてある全ての爆弾に火がついて炸裂するようになっている地雷や、牛の腸などを使って防水した爆弾に線香の導火線をつけてアヒルの人形や木箱などに仕込んで偽装し、敵船が通過する時間を見計らって炸裂させるようにする水雷も作られており、その上、中国語で猛火油、アッシリアのアッカド語ではナフト、ギリシャ語やラテン語、現代ではナフサと呼ばれる瀝青(液状のコールタール。第95話『合金(1)』(注1)参照)を箱に入れてポンプで汲み上げ(油圧ポンプもしくはピストンポンプのこと。)、火をつけると“猛火油櫃”という火炎放射器になるというのだから、現代で例えるなら前述した国産戦闘機F-2だけでアメリカや中国といった軍事大国と十分、戦えると息巻く一部の日本人を名乗る人達でも日本の軍用機が2019年時点で1,561機、戦艦が155隻、戦車が1,004台、そして軍事費が約5兆3千億円、インドだと軍用機が2,123機、戦艦が285隻、戦車が4,292台、軍事費は約711億米ドル(日本円で約7兆7千億円)、中国では軍用機が3,210機、戦艦が777隻、戦車が3,500台、軍事費は約2,610億米ドル(日本円で約28兆4千億円)、ロシアならば軍用機が4,163機、戦艦が603隻、戦車が12,950台、軍事費は約651億米ドル(日本円で約7兆1千億円)、そしてアメリカに至っては軍用機が13,264機、戦艦が490隻、戦車が6,289台、軍事費約7,320億米ドル(日本円で約79兆8千憶円)と、公表されたデータを見ただけでも桁違いの差があることはすぐに分かるかと思うが、それと同じようにいかに「南無阿弥陀仏(女を抱かせるから生命を天皇と鎌倉幕府軍に捧げよ)」のお経でもって大衆(兵士)を釣ってのし上がってきた無学の武家の出である北条時宗でも鎌倉幕府軍とモンゴル帝国軍とでは勝負にすらならないことが嫌でも分かってしまった。そうなると、意気盛んにモンゴル帝国からの使者を斬り捨てて反抗しようとした自分の浅はかな行動が思い出されてきて震えが止まらなくなったのだが、もはや犯してしまった使者殺害の罪をなかったことにはできず、今度は北条時宗の方が大倭朝廷の亀山天皇にも後深草上皇にも頭が上がらなくなった。結局、一時はモンゴル帝国との合併を破棄しようと思った時宗も亀山天皇が机上の空論で妄想してきた国策に同意し、日本はモンゴル帝国の属国(同盟国)になったと世界の大衆に向けて宣言する為に再度、日本へ遠征に来て欲しいとクビライに依頼することとなった。そこで、海戦の準備も整ったモンゴル帝国軍は1281年、2度目の元寇(弘安の役)として朝鮮半島からは兵数約5万人と軍船900艘 、中国東部からは兵数約10万人と軍船3,500艘を派遣し、今度は抜かりのないよう万全の体制で日本に向かった。対して日本は、もう失敗は許されないためできる限り、戦力を控えようとは思ったのだが、一時、モンゴル帝国に対抗しようと兵士や一般国民の士気を安易に高めてしまったため、ここぞとばかりに出世や恩賞を求める兵士や一般国民までが集まってきてしまい、結局、約6万5千人もの人員でモンゴル帝国軍を迎え撃つこととなってしまった。クビライには既に送られてきた使者達を時宗が無残にも斬り捨ててしまった話は伝わっており、もはや幕府側に反抗の意思はないにせよ、誤解されて本気で“震天雷”のような強力な爆弾でも投げ込まれたらひとたまりもなく、かつて自分達が滅亡に追い込んだ平氏一族どころか、残党など一人たりとも許されず一族郎党、皆殺しの上、この日本の国土そのものが焦土と化してしまう。その恐怖から北条時宗は何とかして自分達には反抗する気はなく、むしろ、一般国民にモンゴル帝国への朝貢(納税)を納得させられるぐらいの被害の少ない穏便な侵攻作戦で済ませてもらえるよう渡航してきたモンゴル帝国軍上層部と秘密交渉する策を練った。そこでまず、5月末に渡航してきたモンゴル帝国軍は大倭朝廷の軍事拠点である対馬、壱岐を占領し、さらに元々、密使とのやり取りで落ち合う予定にしていた志賀島に移動したことから夜、日本とモンゴル、双方の何も知らない一般兵士達が寝静まった頃を見計らって夜襲を掛け、それに気づいた兵士は無情に殺害してモンゴル帝国軍の将軍達と日本のどこをどう攻めるのかの事前交渉に入った。そうして、その事前交渉で進路計画が決まったモンゴル帝国軍は九州から一転して古代から大倭朝廷が重要軍事拠点にしてきた現在の山口県長門市や萩市にあった長門探題(探題とは元は寺院で行われる経典(兵書)の討論で議長を務める僧侶のことで、鎌倉幕府では地方での軍事基地の指揮や裁判などを行う、いわば幕府直轄領のこと。鎌倉幕府の探題は京都の六波羅探題、博多の鎮西探題と、この長門探題の3拠点である。)を目指して航路を取り、ここで日本国民に披露する為に持参した“震天雷”を挨拶代わりとして陸ではなく、またしても海に放り込んだ。だが、これがモンゴル帝国軍にとって悲劇の始まりだった。なぜなら、彼らが爆弾による攻撃を始めたのが夏至の数日前だったからである。つまり、ただでさえ気温が高くなる季節に、日本海には対馬暖流という温度の高い海水が九州から北海道や青森に向かって流れている。そこへ高温多湿の梅雨前線もやってくるため雲も多く、大気も不安定になりがちなのだが、そんな季節の変わり目など日夜、人殺し(戦争)のことしか頭にない倭人達自身が日本に住んでいてもほとんど頓着しないのだから日本とは地形も気候も違う土地で生まれ育った中国人やモンゴル人達にその季節の変化が何をもたらすのか分かるはずもない。そのため、一発で鉄をも溶かし、広範囲に燃え広がる爆弾を何発も海に投げ込んだため海はたちまち熱くなって荒れ、水蒸気が舞い上がって大気に取り込まれると今度は豪雨となって船団を襲い出す。しかも、彼らは定番の遠征グッズとして爆弾だけでなく、生物(細菌)兵器も一緒に持参してきたため荒れた海の高波で船内が揺れて貨物が崩れ、生物(細菌)兵器が漏れ始めた。こうなってくると、勝手に自分達で殲滅していっているようなものなので、鎌倉幕府側も負け戦を演じようにもモンゴル帝国軍に一体、何が起きているのかさっぱり分からなくなった。結局、戦力を保てなくなったモンゴル帝国軍は一旦、軍人拠点にした壱岐に戻り、既に中国東部から日本に向かってやってくるはずの援軍と合流してから再度、攻撃を掛けることにした。その間、鎌倉幕府軍はモンゴル帝国軍の様子を伺おうと戦闘を装って壱岐に出向いたのだが、敵役であるはずのモンゴル帝国軍はそれどころではなく、船内に漏れ出た黒死病(ペスト菌)がまさに感染拡大している真っ最中だった。そのため、兵士達が次々と倒れていき、ものの一週間もしないうちに壱岐の島内はどす黒く変色した死体の山があちこちに散乱した野戦病院と化しており、やってきた鎌倉幕府軍の兵士達もそれまで見たこともないような黒い死体の山に震えおののき、慌てて島から逃げ帰ったのだが、若気の至りで意気盛んに戦闘ゴッコをしようとその場に居過ぎた19歳の武将である少弐資時とその祖父で84歳の少弐資能が感染し、どちらも壱岐から戻ると日を置かずしてそのまま病死した。それでも、あれほどヨーロッパを始め世界中で感染が拡大した黒死病(ペスト菌)がなぜ、この日本ではパンデミック(伝染病の拡散)にならなかったのかと言うと、後ほど詳しく説明するが、一言で言えば、撒かれた場所が海上の島や船内だったからである。さらにもう一つは、撒いたモンゴル帝国軍がその生物(細菌)兵器を造った犯人だったため(感染者の治療はできないけれど)どうすれば感染を止められるかだけは知っていた。だから、黒死病(ペスト菌)にかかって死にかけている、もしくは死亡した3千人以上の兵士達を見捨て、自分達の間でこれ以上、感染が広がらない処置だけをしてモンゴル帝国軍は壱岐を後にし、今度は長崎県の平戸島に軍事拠点を移した。もちろん、この平戸島も大倭朝廷の52代目の嵯峨天皇の子孫で、水軍を結成して倭寇(海賊、またはテロ活動)を平安時代から繰り返していた松浦党(嵯峨源氏)が占領してきた島である。ちなみにこの松浦党の一員だった武将の安倍貞任は2020年9月に辞職した元内閣総理大臣の安倍晋三氏の先祖でもある。その前の壱岐もこの松浦党が占領してきた島で、いずれも大倭朝廷の息がかかった島ばかりを来日して間もない外国の軍隊であるモンゴル帝国軍は迷うことなく移動し、それだけでも怪しい事、この上ないのだが、あれほど防塁を築いて元寇(モンゴル帝国軍の日本侵攻)に備えていたのになぜか、この平戸島には全く防備が無かったというのだからモンゴル帝国軍ご一行様の到着を最初から待ちわびていたとしか言いようがない。なぜなら、平戸島は古代から海外交易の重要拠点とされてきた島であり、食糧や物資も豊富に貯め込まれていて、そこを無防備に明け渡すのは黒死病(ペスト菌)で食糧や物資が一挙に失われたモンゴル帝国軍の慰安や骨休めが目的だったからである。つまり、一般国民の多くが長年、汗水たらして努力し、築き上げてきた自分達の国(土地)を軍事力(暴力)の差に怯えた大倭朝廷の皇族達と鎌倉幕府はむざむざと敵国に明け渡し、敵軍をおもてなしする場所がこの平戸島だった。だから、現代もなお、平戸島のすぐ前の佐世保市に自衛隊と一緒に在日米軍基地が設けられているのも似たような理由からである。おかげで中国東部から援軍が到着するまでの間、食糧や物資の補給ができるようになったモンゴル帝国軍は安堵して再び士気を取り戻し、大軍を率いてやってきた援軍をどうにか戦闘態勢が整った状態で出迎えられるまでになった。そうして6月末から7月中旬までは援軍共々、長い船旅の疲れを癒すかのように平戸島で過ごし、その間、鎌倉幕府軍も何ら攻撃することなくモンゴル帝国軍が平戸島に防塁を築き出しても黙って見て見ぬ振りし、モンゴル帝国軍は鎌倉幕府軍と共演する壮大かつひたすら有害無益な茶番劇の舞台となる伊万里湾の鷹島へ役者(兵士)達を送って、運命の最終決戦の日となる1281年7月27日を迎えた。なぜ、彼らが鷹島を最終決戦の場に選んだかは彼らなりにこれまでの博多湾や長門探題での失敗を回避しようと大倭朝廷や鎌倉幕府側と合議を重ねた結果に違いない。伊万里湾は確かに標高1,000m級の背振山地や三郡山地に囲まれた博多湾と比べたら湾に吹き下ろす風の影響を受けにくく、長門探題近くの仙崎湾のようなクジラが入れるぐらい湾口が日本海に開けている訳でもないため波も穏やかで嵐になることも滅多にない。だが、いくら彼らが頭をひねって失敗や危険を回避しようと考えたとしても、そもそも海や自然、そして湾は人と人が戦争(人殺し)をする為に造られている訳ではなく、人と人が互いに助け合って生きる為に創られたものなので、その善意(神)に逆らって自然(神)の掟を覆そうと挑んだところで結局、無駄死にするだけなのだが、なぜか根拠も成功実績もなく自分達の能力、中でも腕力(暴力)を過剰に評価して信じられる人達というのは明らかに自分達の犯した失敗や間違いであっても「自分のせいじゃなく周りが悪かっただけ」とか、「たまたま運がなかっただけ」とか、「まだ知識や技術力が足りなかっただけ」などと、自分以外の誰かや何かに都合よく責任転嫁し、その失敗や間違いを大した問題ではないとすぐに誤魔化せてしまうものらしく、この時のモンゴル帝国軍や鎌倉幕府軍、大倭朝廷も自分達の前回の作戦失敗を「モンゴル帝国軍の航行技術がまだ未熟だったからだ」とか、「偶然、嵐が来てしまったせいだ」とか、「湾に大きな波が入ってきて船が揺れたからだ」などと全て自然(神)のせいにした。そうして、何ら本当の失敗の元凶に気づかないまま迎えた決戦日はちょうど大暑から立秋へと向かっていく時期だった。つまり、夏の暑さの絶頂期で、そんな時に博多湾よりも狭く閉じられた湾内でモンゴル帝国軍の“震天雷”と鎌倉幕府軍の“てつはう”が次々と投下されていくのだから何も起こらないはずはない。案の定、3日後には凄まじい暴風雨が14万人以上の大軍と4,400艘の船を襲ったのだから全く神(自然)はその天地が創られた時に定められた掟=宇宙と地球の法則を裏切らない。まさしく“神風の勝利”とはこのことだった。そうして、12万人の兵士達と4千艘の船を深い水底へ引き込んで荒れ狂っていた海は再び沈黙し、夜が明けるといつもと変わらない美しい波がおびただしい数の死体と大破した船の残骸を無残にも浜辺に打ち上げただけに終わった。結局、大倭朝廷と鎌倉幕府にお膳立てされて楽勝気分だった侵略作戦がものの見事に破綻し、狂乱状態に陥ったモンゴル帝国軍は戦地を放棄して逃げ帰るしかなかった。将軍も一般兵士も関係なく、誰もが少しでも早くこの神風が吹く恐ろしい日本の地を離れ、生きて故郷に帰ろうと他人を蹴倒し、我先に船に乗らんと残った少ない船にしがみつく。将軍や軍の将校達は何とか暴風雨を逃れて岸にたどり着くと大倭朝廷や鎌倉幕府の密かな支援や、平戸島に残しておいた船もあって生きて帰ることもできるだろうが、悲惨なのは自国の政府に騙されて出世や恩賞、戦利品の金銀財宝を求めて参戦しに来た一般兵士達で、当然、残されたモンゴル帝国軍の兵士達はこの戦地で起きた本当の顛末を洩らさないよう口封じの為に一人残らず惨殺された。もちろん、日本に住む一般国民の方も自国の政府に裏切られて女子供も関係なく、モンゴル帝国軍の兵士達に強姦、拷問、虐殺されているのだから、モンゴル帝国(=中国や朝鮮)と日本、どちらも痛み分けなのかもしれないが、この戦争(人殺し)を引き起こした張本人であるモンゴル帝国(=中国&朝鮮)と日本の政府関係者の方はそんな一般国民の痛みなど分かち合うどころか、理解すらできないので、相変わらず涼しい顔をして神風を起こした天子(神の子の天皇)様だの、死闘にひるまず立ち向かった勇気ある武者だの、悲惨な戦争(人殺し)を目の当たりにした被害者などと、恥知らずにも人畜無害の善人を装う。あくまで自分達は悪くないと思い込んで反省もせず、後悔もせず、武力(暴力)こそ唯一無二の国家繁栄の道だと信じ、それを何度も唱え続け、一般国民にひたすら呪縛と暗示をかけ続ける。「天子(神の子の天皇)様は生まれが違う」、そう言って姿形から頭脳、身体機能、寿命、どれを採っても一般国民とどこも変わらないただの地球上の“動物”でしかないのに、なぜか一般国民の多くがそれを疑問にも思わず信じてしまう。それは何も知らない、どう歩いて(生きて)いっていいのかも分からない幼い子供の頃から親や先祖を始めとして生き残る方法を知っていそう、または知っていると豪語する大人達によって威圧的かつ強制的かつ虐待気味に心と身体に叩き込まれてきた暗黙の教えだったからである。「誰のおかげで飯を食わせてもらってるんだ?」、親からそう言われてひるまない幼い子供はまず、いない。それと同じように政府(皇室)に飯を食わせてもらっていると信じている一般国民はどれだけ政府(皇室)が悪事を犯そうと、失策を連発しようといつまでも健気に彼らを庇い続ける。虐待され続けていても、本当は血の繋がりはなくとも、親(天皇)は親(国の代表者)なので、その親(国の代表者)を守ることが自分も幸せに生き残っていける方法だと信じ、大切に敬って尽くそうとする。だが、それはあくまで真実(彼らの本性)を知らない一般国民だけが信じることであって、真実を知っている者達からすれば馬鹿らしいの一言でしかない。まして、親(国の代表者)の権威を振りかざし、威張り腐ってふんぞり返っている割には働きもせず、稼ぎもなく、実際にその親(国の代表者)に飯を食わせているのは子の立場の一般国民だったりする。そのため、元寇(モンゴル帝国の日本への侵攻)が大失敗に終わったことで、大倭朝廷と鎌倉幕府が財政赤字解消の為に当てにしていたモンゴル帝国との大々的な合併(同盟)もご破算となり、それまでにこの元寇作戦にかかった莫大な軍事費の穴埋めにも追われて、鎌倉幕府と大倭朝廷の財政はいっそうひっ迫し、彼らの真実(密約や国策)を知る者達を中心に次第に造反者が出没するようになった。その最初の造反者となったのが北条時宗の正妻だった堀内殿(後に出家して覚山尼)という女性で、わずか9歳で何も知らないまま御家人(官僚)である親兄弟の出世の道具として1歳上の時宗に嫁がされてきた彼女は、現代でいうところの家庭内暴力を時宗から受けていても離婚などは許されず、常に自分の行動を監視して支配しようとする嫉妬深い夫に付き従っているうち、彼女は夫と南宋から来た禅僧の無学祖元が話すモンゴル帝国の兵器事情やその開発方法を知るようになった。そして、自分も夫と一緒に無学祖元の寺に帰依して兵器開発研究にのめり込むようになり、その後、元寇作戦に失敗した夫のそれまでの行動や考えをよく知っていた彼女はこれ以上、時宗に国政やお家の存続を任せることは無謀と非情に判断し、自らの手で夫に毒を盛った。こうして、鎌倉幕府の最高権力者だった北条時宗は妻の手にかかってあっけなく亡くなり、さすがに武士の総大将が女に打ち取られたとあっては表沙汰にもできず病死としたものの、この堀内殿(覚山尼)の造反をきっかけに、それまで「天照大御神は日本の国(土地)を大倭朝廷の天皇に与えられ、それを鎌倉幕府が武力(暴力)でもって守ってきたからこそ、我々は土地(田畑)を恩給(給料)としていただき、生きていけるのだから、その御恩を忘れず、お上(天皇または主君)には命を捧げて仕えなければならない。」(御恩と奉公)との親や先祖からの教えに従ってきた武士達も、神から日本国(土地)を相続したという当の亀山天皇が旗を振って国家事業として取り組んだ元寇計画が神自身が起こしたとしか言いようがない嵐のせいで跡形もなく吹き飛んだ上、強大な武力(暴力)を誇って自分達、武士の上に君臨してきた鎌倉幕府の総大将も自分の女房に寝首をかかれる始末なのだから、もはや何を信じていいのか分からず、次第に不信や不満といった本音が漏れるようになり、増えすぎた腕力(暴力)だけが取り柄の武士(公務員)達は自分達を養う為の経済政策に行き詰った政府(大倭朝廷&鎌倉幕府)を見限り、自分達の唯一の技能である腕力(暴力)に頼って国内にある食糧(田畑)や物資、金品を奪って生きるしかなくなった。しかし、何度もしつこく言うようだが、武力(暴力)でもって下克上(下の身分の者が上の身分を倒して実権を握ること)を狙うには結局、軍資金や武器、兵士といった数を集めなければ何の力にも“脅し”にもならない。だから、所詮、昔からずっと権力や富を独占してきた皇族や上位職に就いている武家(官僚や財閥企業)出身者が優利になりやすく、改革だの、幕府転覆だのと叫んでも、全く後ろ盾のない一般庶民がのし上がることは皆無に等しく、以前と大して変わらない氏族が国家(共同社会)の富と権力を奪い合う戦争(人殺し)を繰り返すだけになるのだが、それでも彼らの中で“何か”が終わったことは確かだった。そうして、日本は壇ノ浦の戦いで“神器”(天照大御神から日本の国(土地)を相続し、これを支配するよう神から命令されたことを証明する八咫鏡、天叢雲剣(または草薙剣)、八尺瓊勾玉の三つの宝物のこと。八咫鏡については第110話『灌漑』(注2)で説明したが、元々、大倭朝廷の所有物ではなく、原住民の大和民族が造った物だった。それ以外の剣と勾玉については後ほど説明するが、要は彼ら大倭朝廷にとって文明(神の智慧)の利器=国家産業(全国民の雇用と生活費を保障する産業)の象徴がその三種類の宝物だったから神器と呼んでいる。だが、物さえあれば文明(神の智慧)を知っている証明になる訳ではないのだが、皇室と彼らを神の子孫と信じる人々にはこの三種の神器が日本国を相続して国民に雇用を与え、国を繁栄させたという証拠品になっているため天皇は必ずこの3点を継承することになっており、現代でも八咫鏡と八尺瓊勾玉は古代からの本物ということで保管されている。ただし、天叢雲剣(または草薙剣)だけは源氏と平氏の政権争いの最中、大人達の争いに巻き込まれた8歳の安徳天皇が祖母と一緒にこの剣を持ったまま海に身を投げて戦死したため、以後、別の剣を代用して三種の神器としている。)を失くしたまま即位した後鳥羽天皇を臣民(天皇が支配する民)の立場の鎌倉幕府が正統な天皇と認めず廃嫡したことはあったものの(1239年3月28日)、それ以外は天皇が全国民を支配する絶対天皇政(王政)の国家だったのだが、この時を境にヨーロッパよりも300年以上早くこの絶対王政が崩れることとなり、自ら“てつはう”で自爆して二度も元寇計画に失敗し、それでもしつこくモンゴル帝国に再遠征を頼んで絶対天皇政にこだわり続ける亀山天皇やその子孫である大覚寺統とこれと対峙して後深草上皇の血統である持明院統が鎌倉幕府を挟んで交互に皇位継承することになっていた両統迭立という制度も、血は争えないのか、亀山天皇の孫の後醍醐天皇が祖父の悲願である絶対天皇政を目指して足利尊氏や楠木正成、新田義貞といった武将達を新たに雇い入れ、何度か倒幕を試みたことでせっかく仲裁役となって両統迭立で天皇制を維持してくれていた鎌倉幕府を自ら倒してしまい、雇い入れた足利尊氏ら成り上がりの武将達に所領(財産)の整理や恩賞(給料)の配分など国家財政(税金)に関わる権力を自由に使わせてしまったため当然、彼ら武将達が国民を生かすも殺すも自由に支配できる形になり、天皇制そのものが有名無実となった。それでも天皇という職位が全国民に知れ渡っている一方でその正体を国民が全く分かっていないからこそ「天皇は神の子孫だから自分達は安泰に暮らせる」と信じて止まない国民から徴税できる恰好の口実になっているのだから、その宣伝マスコットを使わない手はない。そのため、既に天皇を知り尽くした足利尊氏は後醍醐天皇を始め宮廷の公家(貴族)達がいつまでも神様気取りで自分を臣民(天皇の奴隷)扱いして小馬鹿にしてくる態度に愛想を尽かし、さっさと後醍醐天皇を見限り、持明院統の光厳上皇とその弟の光明天皇を擁立して新たな政府(=室町幕府。ただし、この頃はまだ首都が鎌倉だったので室町幕府と呼ばれるのは3代将軍の足利義満が京都の北小路室町、現在の御所と同志社大学の近所にある大聖寺の敷地辺りに自分の家を移してからのことである。)を立ち上げることとなった。その結果、絶対天皇政をあきらめきれない後醍醐天皇が現在の奈良県吉野町や大阪の住吉区に開いた大覚寺統の朝廷である南朝と、足利尊氏らが擁立した持明院統の北朝の二つの大倭朝廷が日本にできることとなり、しばらく南北朝時代と歴史用語では呼ばれる時代が続くことになるのだが、実を言うと、この北朝と呼ばれる大倭朝廷は真っ赤な偽物だった。なぜなら、持明院統の血統は後醍醐天皇が足利尊氏らと結託して鎌倉幕府を倒すことになる元弘の乱(1331年6月5日~1333年7月17日)の最中に鎌倉幕府側に守られていた後伏見上皇や花園上皇、光厳天皇の歴代の3天皇達が戦火に巻き込まれて落ち延びようとしたところ、後醍醐天皇に命じられた足利尊氏とその配下の佐々木高氏(佐々木家の分家である京極氏の生まれでもあるため京極高氏、または本人が好んであだ名として使っていた法名の導誉、または道誉とも呼ばれる。平安時代から設置されていた検非違使という市中の治安維持や皇族の道中警護を担っていた、今で例えれば皇宮護衛官または側衛官だった。)が放った野伏(または山伏。山に籠って軍事訓練を行い、普段は一般人を装っているものの、一度、指示命令されると暗殺やゲリラ活動、テロ行為などが主な任務となる、現代で例えるならスパイや秘密警察官のような職業である。そして、こうした山伏達を統括して指示命令を出していたのが現在も京都御所の東側にあって皇室と所縁が深い天台宗の聖護院と京都市伏見区にある真言宗の醍醐寺である。)達に見つかって襲い掛かられ、彼らを従えていた佐々木高氏は悪党または婆娑羅大名(悪党も婆娑羅も似たような意味で、それまでの既存の法律や規則、上位者からの指示命令などを無視して武力(暴力)でもって実力行使することで下克上、革命、政府転覆などを狙う者を意味する。なお、婆娑羅とは仏教の経典を求めて天竺(インド)や西域を旅して廻ったAD7世紀の中国の仏教僧である三蔵法師から伝わったビンビサーラ(頻婆娑羅)というBC5世紀頃のインド王の名前にちなんだ俗語で、キリスト教徒達がイエスの話を軍事知識や技術の話と誤解したようにこのビンビサーラ(頻婆娑羅)も仏陀の話を誤解し、仏教に基づいた民間軍事会社を設立して王舎城(現、ビハール州ラージギル)という大都市を築き(実際は元から在った国や都市を乗っ取って衰退させただけ)、権勢を振るったとされている人物で、日本でも仏教を通じて彼の話に共感し、その絶対軍事(暴力)主義的な考え方や生き方に憧れを抱いて真似をする人達を総称して婆娑羅と呼ぶようになった。)として名高く、それまで公家達でさえ畏れ多いとかしこまってきた天皇達にも全く頓着しなかったため、捕虜にせよとしか指示しなかった後醍醐天皇にあえて逆らい、その場で3天皇共、斬り捨ててしまい、既に血統そのものが途絶えていたからだった。なのに、なぜ、彼らがまるで生きているかのように北朝というもう一つの大倭朝廷ができることになったのかと言うと、当初は後醍醐天皇の指示命令を無視したことを誤魔化す為でもあったが、代々、勝ち馬に乗るように皇族や有力武将達と姻戚関係を結んで社会的地位や財産を保持してきた西園寺家を始めとした一部の公家達が足利尊氏達と手を結んだからだった。特に西園寺家は鎌倉幕府が設立された頃から源氏と親戚関係だったため幕府(政府)と朝廷の間を取り持つ関東申次という役職に就いており、同じく源氏の子孫で鎌倉幕府の執権職を担ってきた北条家とも姻戚関係にあった足利氏と親しくなる機会があっただけでなく、何より持明院統の後伏見上皇には寧子という娘を、大覚寺統の後醍醐天皇には禧子という娘を嫁がせており、どちらかの天皇に人や金が多く集まって傾けばそちらの天皇を正義(神)と見て味方し、逆に人や金が離れて軽くなればたとえ親兄弟であろうとも情け容赦なく切り捨てる、そんな損得勘定の天秤で人や物事を推し量るのが西園寺家の家風であったことから、親族の寧子が産んだ光厳天皇であっても殺されて力を失えばもはや西園寺家にとっては神の子孫と崇められる天皇でも何でもなく、むしろ、彼を殺した足利尊氏の方がよっぽど現人神(天皇)だった。それに、これまでに何人も一族の娘を皇族に嫁がせ、その間に生まれた子孫を天皇に即位させてきたのだから、西園寺家は臣下というより自分達こそ大倭朝廷そのものだという自負もあった。そのため、出産も育児も妻の実家で行われるのが当たり前で、天皇に即位しても限られた者達以外、天皇の顔や姿を見ることもない大倭朝廷のしきたりもあって、既に死んでいる後伏見上皇や花園上皇、光厳天皇の3天皇達を西園寺家の者達がなりすますことになった。上皇達は隠居の身なのでなりすます人間がいなくてもどうにかなるが、問題は現職の光厳天皇で、一応、政務があるのでどうしてもその存在が必要になる。そこで当主である西園寺公宗は一計を案じ、光厳天皇の典侍(乳母&女官長&妾)でその顔や身体を隅々まで知っている日野名子をあの手この手で口説いて妻にし、自分が後醍醐天皇の暗殺を鎌倉幕府の残党と一緒に企てていると南朝側に味方させていた異母弟の公重にわざと密告させ、楠木正成と足利氏の側近だった高師直に自分を逮捕させて一旦、自分の存在を消してもらう処刑劇を自作自演し、その後、まんまと光厳天皇になりすました。だが、その一方で自分が自分でなくなるということに言い知れぬ後ろめたさや罪悪感、不安を感じるようになった公宗は、何とか後醍醐天皇と西園寺家の間に血筋を残すことでこれまでと同様、元の正統(?)な大倭朝廷の血統に戻そうとどうしても男子が産めない禧子を暗殺し、後伏見上皇と寧子の間に生まれた娘の珣子内親王を後醍醐天皇の後妻にして皇子を産ませようと躍起になった。そうして、あれほど神(善)を侮り、金や武力(暴力)があれば自分が神(善)となってこの世を全て思いのままに操れると思い上がってきた公宗も自分の命運が全て神(善)に握られていると知るや、あらゆる仏教僧や後醍醐天皇まで総動員して歴代最高の66回ものお産祈祷を行ったのだが、そんな人殺し達の祈祷がそもそも神様の耳に届くはずもなく、生まれてきたのはまたしても皇女だった。これに焦ったのは公宗に限らず、後醍醐天皇も同じで、皇子がいなければ大倭朝廷は断絶するのだから何とかして自分の息子を“誰かに”産ませなければならない。しかも、その“誰か”は誰だっていい訳ではなく、それまでの大倭朝廷と西園寺家の秘密をある程度、知った上で皇子を生んでくれそうな娘でなければ自分達の地位や財産どころか、神の子孫の皇族でも構わずに斬り捨てられる悪党や婆娑羅(無法者)のような庶民に自分達の嘘が発覚すれば、生命さえもその場で尽きてしまう。そして、ここからまた、濊と貊の2つの遊牧騎馬民族が日本に渡来し、倭国を築いて以来、原住民だった大和民族を殺して日本人になりすまし、神功皇后(天照大御神の日本人信者)の子孫と偽ってカルト仏教団体を立ち上げ、大倭を大和にすり替え、実在しない人物やら時代、名前もいろいろ誤魔化した継体天皇や蘇我氏、中臣氏達と同じく(第110話『灌漑』(注2)参照)、西園寺家主導による皇室家系図の塗り替え作業が始まった。もちろん、あわよくば皇族の親戚となって権力や財産が手に入るかもしれないこの作業に足利尊氏や西園寺公宗の妻となった名子の実家である日野家や阿野家といったその他の氏族も加わり、それはもう支離滅裂、荒唐無稽、しっちゃかめっちゃかとも言える家系図が出来上がった。まず、光厳天皇になりすました公宗は母の寧子は後伏見天皇の間に自分の弟を生んでいて、それが光明天皇だと言い出し、彼に皇位を譲って自分はよりいっそうその姿が隠せるよう上皇になった。さらに後醍醐天皇と叔母である禧子との間に生まれた懽子内親王を保安寺(現、京都市東山区の泉涌寺。皇室の墓所のある寺。)に出家させて日野家の養女にさせ、日野宣子(後に室町幕府の三代将軍である足利義満が建てた岡松殿に住んでいたことから岡松一品とも呼ばれる。一品とは、一品親王という皇族にしか与えられない位階である。)と名乗らせて本当の妻の日野名子とは別に光厳天皇(西園寺公宗)の正妃にして重婚した。加えて、自分の典侍(女官長&妾)達に自分の息子として崇光天皇と直仁親王を産ませ、このうち、直仁親王を花園上皇の息子にして本当の血筋を分かりにくくし、崇光天皇より先に直仁親王に皇位を譲ろうとしたのだが、世間的には実子の崇光天皇がいるのになぜ、先に従弟の直仁親王に皇位を譲るのか理解されず、結局、自ら花園上皇の典侍と密通して産ませた子が直仁親王だから次の天皇にするのは弟の直仁親王にすべきと兄の崇光天皇に言い聞かせ、苦し紛れに真実の一部分を告白するしかなかった。その間、足利尊氏を始めその他の氏族も西園寺家がでっち上げた北朝に相乗りして姻戚関係を結び、身分や財産を我が物にしようと公家出身でもない足利尊氏は娘の鶴王を西園寺家の崇光天皇に嫁がせて表向きは皇妃に仕立て、逆に66回もの祈祷の末に後醍醐天皇と珣子内親王の間に生まれた皇女の幸子内親王を足利氏の家来になっていた渋川義季の養女にして渋川幸子と名乗らせ、自分の息子の足利義詮の正妻にして大倭朝廷の血を持つ跡継ぎを産ませようとしたのだが、あれこれ苦心して縁を結ばせた割に西園寺家、足利家、どちらも男子には恵まれなかった。ただし、公宗の本当の妻である日野名子の母方の実家の阿野家からは既に阿野廉子という後醍醐天皇と禧子に仕えていた内侍(八咫鏡などの神器を保管する内侍所や皇族の寝所の連絡調整、事務管理などを行う女官)が恒良親王、成良親王、義良親王と3人の皇子達を、その他にも廉子のような女官達に男子を生ませていて、彼らは確かに大倭朝廷にとっては血筋正しき(?)皇子様達なのかもしれないが、西園寺家を始めとする高位の公家達には一般庶民とさして変わらない下賤な血筋の女達との間にできた皇子達で、自分達の地位や財産を脅かす目障りな存在でしかない。そのため、これらの皇子達は西園寺家はもちろん、足利尊氏にも目の敵にされ、特に後醍醐天皇と仲違いするようになってからはことごとく殺されていった。唯一、残った皇子も後醍醐天皇の最初の皇妃である二条為子の姪だった二条藤子の生んだ子だったからで、二条家は高位の公家ではあるが、和歌の歌人で有名な藤原定家の子孫であり、現代で例えるなら単なる芸能一家か、公共広告機構の天下り官僚のようなもので政権争いからは程遠い。こうして、存続させようとあらゆる手段を用いて縁結びをしてきた大倭朝廷の血筋を持った子供達を自分達の手で根絶やしにしてしまい、大倭朝廷は一旦、断絶した。それでも、他人の、まして皇族のお家事情など知りもしない庶民からしてみれば大倭朝廷は依然、清く、正しく、美しい“天上人”の住む世界なのでまさか皇位相続争いで既に断絶しているとは全く気づかず、相変わらず畏まってせっせと納税するのだから、その税金が何より欲しい西園寺家や足利尊氏、その他の氏族としては内情はともかく、納税義務を唱える大倭朝廷の表看板だけでも建て直さなければならない。そこで大倭朝廷の血統を再度、仕切り直しする為に西園寺公宗は自分がなりすましてきた光厳天皇、弟の光明天皇、自分の子の崇光天皇、そして同じく自分の子で表向きは従弟の直仁親王、この4人が南朝側に拉致されたことにして大倭朝廷の最後の天皇となりそうな後醍醐天皇に降伏したかのように振舞い(正平一統 1351年)、南朝にある神器を奪ってこれを倒し、それまでのしきたりを打ち破って光厳天皇(西園寺公宗)の3人目の皇子の弥仁親王を、天皇でも上皇でもないただの皇妃でしかない祖母の寧子が宣下(天皇の命令)をして後光厳天皇と名乗らせて即位させ、改めて自分達、西園寺家の血統だけを大倭朝廷の正統な(?)血筋にすることにした。この西園寺家の破茶滅茶な陰謀に便乗し、自身の実家の家督相続争いもついでに一掃した足利尊氏は誰にも言えない西園寺家=大倭朝廷の秘密を握ることで以後、前述の光厳天皇の皇妃となって後に出家し、無相定円禅尼と名を改めた日野宣子を尊氏の孫である足利義満が北小路室町に建てた岡松殿(現、大聖寺)に住まわせたり、元は後醍醐天皇の実の娘で内親王だった渋川幸子を息子の義詮の妻にさせ、義満の養母にもして足利氏は皇族と同格のようにして幕府も室町幕府にすり替え、権勢を振るようになった。かくして、公家(西園寺家)と足利氏に限らず武家が姻戚関係になる公武合体はこの頃から既に始まっており、第107話『革命(2)』(注2)その3で話した西園寺公望が絶対的な元老(影の天皇)となって武家出身者が多くを占める立憲政友会(現、自民党)政権と大倭朝廷の間を取り持ち、日本を支配するようになったのもこの時を境に西園寺家が2020年時点で第126代目の徳仁天皇までの歴代天皇の血統になったからである。ちなみに、足利尊氏の配下で本当の光厳天皇を殺害した佐々木高氏の子孫が2009年から2013年にかけて靖国神社の宮司を務め、1997年に設立された日本最大の極右団体もしくは婆娑羅(無法国家主義)を現代風に言い換えた超国家主義(=Ultranationalism。ある特定の人物や民族、国家、組織の利益の為にそれまでの法律や規則、秩序を壊し、多くの他人を犠牲にしてでも暴力や暴言でもって自分達の利害を社会に強要しようとする思想のこと。)団体として名高い日本会議の代表委員にもなっている京極高晴氏でもある。また、佐々木(京極)高氏の子孫が神社の宮司になったり、高氏自身も導誉(または道誉)と名乗って出家するように、公家と武家が合わさったことでそれまで皇族の間だけで内々に研究され、伝承され続けてきた密教(ゾロアスター教日本版)の軍事知識や技術が次第に武将達にも伝えられることとなり、醍醐寺という、五重塔と共に後の16世紀の安土桃山時代に武将の豊臣秀吉が「醍醐の花見」と呼ばれる宴会を開いてその名が後世にも知られることになる密教(ゾロアスター教日本版)の寺の座主となり、さらに空海を開祖とする真言宗(密教新興派)の総本山である東寺の長者(実質的な最高責任者)にも選ばれることになる賢俊(本名、日野資朝。持明院統の伏見天皇から大納言(事務次官)に抜擢された日野俊光の次男で、西園寺公宗の正妻の名子の叔父である。日野家は元々、浄土真宗を開いた親鸞を輩出した氏族で、代々、浄土真宗を信仰してきた家柄なのだが、父、俊光の密命を受けた資朝は1322年に父から勘当されたことにして後醍醐天皇の南朝に派遣され、それと同時に持明院統所縁の醍醐寺に帰依して座主の賢助から賢の字と父の名の俊を採って賢俊に名を改め、一人二役で北朝と南朝の連絡係として暗躍するようになった。ところが、1326年に後醍醐天皇が立てた鎌倉幕府の倒幕計画が発覚し(正中の変)、資朝と従弟の日野俊基、そして、父の俊光がその計画に関与していたと鎌倉幕府側に疑われることになり、確かに浄土真宗のお題目である「南無阿弥陀仏(女を抱かせるからその生命を天皇に捧げよ)」を謳った無礼講と呼ばれる乱交パーティーを開いて資朝が倒幕の為の徴兵&寄付金集めを行っていたため、その罪をかぶって父の俊光と従弟の俊基が鎌倉幕府に処刑され、資朝は佐渡に流罪となった。その一方で倒幕計画を指示した後醍醐天皇や持明院統の後伏見上皇、花園上皇、その他の公家達もだんまりを決め込んで長年、忠節を尽くしてきた父、俊光をあっさりと見捨てたことから資朝と兄の資名、姪の名子は以後、密かに大倭朝廷に恨みを抱くようになった。その後、元弘の乱が起きたことで兄の資名は足利尊氏の配下となり、尊氏の伝手で資朝は佐渡で処刑されたことにして脱出し、兄の資名や佐々木高氏らと共に父の仇を討つべく蓮華寺で光厳天皇達を殺害するに至った。そして、醍醐寺の座主である賢助は光厳天皇達が偽物というだけでなく、賢俊が資朝であることもよく知っていたため、口封じに賢助を殺して資朝(賢俊)はその座主をまんまと乗っ取ることとなった。)は、足利尊氏との家督争いに敗れて武装解除を迫られ、延福寺(現、神奈川県鎌倉市浄明寺)に幽閉されていた尊氏の弟の足利直義(または法名で恵源)がそれでもなおあきらめずに持明院統の歴代天皇達の護持僧である京都実相院の憎基らと図って再起を窺っていることを知り、日野家の養女となって後に足利義満から与えられた岡松殿から大聖寺(臨済宗)の住持となる後醍醐天皇の娘の日野宣子(本名、懽子内親王。法名は無相定円禅尼)から教えられた蚕を用いた落雁を直義の元に贈って毒殺した。その暗殺のあらましは1991年に放映されたNHK(日本国民の税金と受信料で支えられている“公共”放送)の大河ドラマ『太平記』の中でも描かれており、何よりこの白い落雁(和菓子)こそ中央アジア一帯に敷かれることとなったシルクロードの起源だった。なぜなら、中国が養蚕を始めた理由は絹糸や絹織物の生産の為ではなく、蚕を使った食品や医薬品を販売したかったからである。元々、蚕以外に絹糸を吐く絹糸昆虫と呼ばれる昆虫は知られているだけでも約10万種類もいて、主に野蚕と総称して呼ばれるクワコやヤママユ、ウスタビガの他、楠蚕、神樹蚕、与那国蚕と蚕よりもずっと丈夫で綺麗な絹糸を吐く昆虫はアジアのどこにでも飛んでおり、モンシロチョウやミノムシでも絹糸を出すだけでなく、天蚕(ヤママユガ)という野蚕は緑色の繭を、インドのムガサンは金色の繭を作ることができ、人工飼育も可能なのだから人の手で飼育されなければ全く生きられず、桑の葉以外の餌も食べられず、さらにすぐに病気にかかって死にやすく、時には絹糸を吐けなくなることも稀でないそんな金と時間を無駄にしがちな蚕をなぜ、中国が国家を挙げて量産したのかと言うと、蚕という昆虫自体、中国が人を殺傷することを目的に税金と時間をかけて交雑を繰り返し、人為的に開発した生物(細菌)兵器だったからである。蚕の元祖は上述した野蚕であるが、野蚕は蛾の一種なので蝶と同じように飛びながら花の蜜を吸ったり、木の葉に引っ付いているアブラムシ、キジラミ、カメムシなどが樹液を吸ってお尻から排泄する甘露(蜜)を野蚕がまた吸って集める習性がある。その習性から桑の木に引っ付いているクワキジラミに“稲こうじ病菌”というカビ菌を吸わせ、その甘露(蜜)を野蚕にさらに吸わせることでもはや桑の葉以外の餌を受け付けない蚕(天の虫)なる昆虫にして手懐けるのだが、この稲こうじ病菌とは日本では酒や味噌、醤油を造る時に入れるあの麹カビの一種であり、欧米では麦角菌とも呼ばれる植物の病原菌である。稲こうじ菌や麦角菌は、第100話『智慧(1)』(注1)で説明した黒穂病と似て稲やライ麦、小麦、大麦などに寄生してこびりつき、実を破壊して収穫期になると穂先に黒い爪のようなものが現れ、これを人が実だと勘違いして食べると血管収縮を起こして火傷のような痛みと共に手足が黒ずんで壊死したり、脳神経も侵して精神錯乱やけいれん、意識不明になって死に至るという恐ろしい毒性がある一方、現代で幻覚剤としてよく知られるLSDの原料にもなっているぐらい中毒になりやすい成分があり、精神科医や製薬企業にそそのかされてLSDを接種した人が薬物中毒になるのと同じように、野蚕も自然(神)の創りし食物連鎖を人が悪用して与えた稲こうじ病菌で麻薬中毒になり、その中毒症状が遺伝したまま生まれたのが桑の葉しか食べられず、人の手で飼われないと地球上で生きることもできない最弱で欠陥だらけ、なのに製品名だけは「天の虫」などと大層な名前がつけられた生物(細菌)兵器、それが“蚕”だった。その蚕を死ぬまで散々、太らせてカビ病で殺した死骸をすりつぶして粉薬にし、てんかんや中風(脳卒中の後遺症による麻痺症状)などによく効くと(本当は逆に症状が悪化するだけなのだが)大衆にはその効能を偽り、世界各国政府(王朝)には密かに生物(細菌)兵器として肉桂と同じく法外な値段で売っていた。また、見た目は健康そうに見える生きた蚕をそのまま調理して簡易食品や菓子として販売することもあり、中国では「蚕蛹」という蚕の揚げ物や炒め物、煮物がある他、韓国では「ポンテギ」と呼ばれる佃煮が屋台で売られていたり、タイでも蚕のさなぎを揚げたスナック菓子がスーパーや売店の棚に今でも並べられていたりする。日本でも長野県や群馬県では食品として「どきょ」や「まゆこ」と呼ぶ佃煮があるそうで、東京では蚕を使ったハンバーガー屋もできているらしく、また、医薬品として2020年から巷を賑わしているコロナウィルス(=Coronavirus、ラテン語でCorona「王冠」を意味し、「王冠のウィルス」という名前の医学的に証明されていない未確認の生物(細菌)兵器。その症状も発生当初から風邪のようだと言ったり、咳や発熱が特徴だと言ったかと思えば、“無症状”で感染している場合もあると公表されるなど説明が二転三転しており、医学的に実証されてもいないマスクの着用を全国民に強要するなど明らかに実在しない病原菌で、経済不況と食糧危機に見舞われている世界各国政府(王室)が自然災害(神様による災害)と偽ってプロパガンダ(大衆洗脳教育)活動を行い、大衆を経済苦境に陥らせ、そのまま餓死や病死、自殺、捨て鉢な気持ちや怒りを抱いた大衆が政府への抗議から起こすデモや暴動などで警官や軍人に暴行死(リンチ処刑)させて人口を減らし、財政赤字と食糧難を乗り切ろうとする国連加盟国全政府(王室)が連携して考えた、大衆の心を壊すイメージ(想像上)もしくはバーチャル(仮想世界の)兵器でもある。)のワクチンをこの蚕から作ると九州大学が発表しており、その臨床試験をマウスで行うとも言っているようだが、そもそもこの後、説明するつもりの黒死病(ペスト菌)は鼠が拡散すると言われており、鼠やリスなどのげっ歯類は“人間とは違い”、病原菌を保菌していても大抵、無症状なのだが、その鼠を使って一体、何の試験を九州大学がするつもりか今更、その目的について説明するまでもないだろう。ともかく、中国が蚕の生物(細菌)兵器を東洋から西洋へと輸出した交易路が“シルクロード”と呼ばれる全長約6,400km、19世紀にブレスラウ大学(=Universität Breslau、現、ポーランドのヴロツロフ大学(=Uniwersytet Wrocławski、University of Wrocław、1702年に神聖ローマ帝国皇帝だったレオポルト1世がイエズス会系の学校として設立した大学。)とフンボルト大学(=Humboldt University of Berlin、上述のペニシリン(アオカビ培養液)の開発者の一人だったエルンスト・チェーンがいた大学)で医学を学んだ後、日本を含む中国やスリランカ、フィリピンなどを歴訪して、『China, Ergebnisse eigener Reisen(邦題は『中国、私の調査結果とそれに関する研究』1877年発刊)』という著書の中でBC5000年から何千年とヒスイや香辛料を運ぶ道にしか思われておらず、地元民は誰も絹という言葉を使っていないのになぜかアジア人でもないドイツのボン大学地質学教授であるフェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵がアジアの交易路に初めて「Seidenstraße/Seidenstraßen(絹の道)」と名付けることとなる道だった。ちなみにリヒトホーフェン男爵の弟子が特に西域(タタール人や張角らの故郷である楼蘭や于闐があった地域)を探検し、第110話『灌漑』で青銅器時代の人々が灌漑(水を引き入れる)によって造ったタリム盆地の塩湖がなくなった理由を探して歩き、干上がっている川底の堆積物が時と共に風で削られて地面が下がれば川の流れが南と北で交互に変わって塩湖の位置も交互に変わるという「さまよえる湖」という学説を唱えたスウェーデン人地理学者のスヴェン・ヘディンで、第116話『汚水』でも話した通り、この頃の欧米人達は灌漑はもちろん、水を上下水道に分けて水質を管理するといった衛生観念がまるでなかったため、まさか人が川の流れを変えて引き入れていたとは考えが及ばず、「さまよえる湖」などとトンデモ説を言い出したのだが、元よりリヒトホーフェン男爵やヘディン達、欧米人達が多額の支援金を募って探検隊を結成し、何度もアジアやシルクロード近辺を調査したのもそんなアジアの片隅にある、誰も気にも留めないような干上がった塩湖を探す為ではなく、かつての三蔵法師と同じく西域で研究開発されていた生物(細菌)兵器を知る為だった。だからこそ、その謎の湖を“Lop Nor”と名付けたのだが、彼らの説明によると「ロプ湖」という意味のモンゴル語をアルファベットにした名前らしいが、本当は中世英語でLoppe「蚕、ダニ」で、Norは北欧のノルウェーを建国したとされる王の名前であり、英語でNorwayと書くようにノルウェーは「ノール(北の)王の道」という意味なので、スウェーデン人のヘディンにとってロプノールとは「蚕やダニで西洋が王になれる場所」との隠語である。なお、このヘディン達の探検隊に出資していたのはヨーロッパ各国の王侯貴族はもちろん、ロシアのロマノフ王朝の皇帝だったニコライ2世(第107話『革命(2)』(注2)その1参照)やノーベル賞候補者(軍需産業の投資先)を求めるノーベル財団の他、日本からも大谷光瑞という浄土真宗本願寺派の第22代法主で大正天皇の皇后の義兄だった男もまた、このヘディン達の探検隊に支援金(お布施&宗教法人での免税金)を出しており、その上、自分でも大谷探検隊というシルクロードの学術調査隊を立ち上げ、明治から大正にかけて3度もこれを派遣している。しかも、この大谷光瑞は浄土真宗を開いた親鸞と落雁(蚕の和菓子)で足利直義を毒殺した賢俊(日野資朝)の末裔でもあった。だから、自分の遠い祖先である倭人(人でなし)達の足跡を求めてヘディン達の調査隊にも出資したのだが、そもそも自分の傍系先祖である賢俊(日野資朝)が既に落雁(蚕による生物(細菌)兵器)を作っているのに何を今更、現地の言葉もまともに分かっていない欧米人に多額の資金を積んでまでかつての生物(細菌)兵器の作り方を調べてもらわなければならなかったかというと、それぐらい倭人(人でなし)達というのは頭が“悪かった”。大谷光瑞にしてもチャールズ・ダーウィン並みに(第114話『細胞』(注1)参照)入った学校はことごとく退学させられており、倭人達の神様(天皇)のご親戚であらしゃれる西園寺公望にしても地球は丸いということが20歳を過ぎるまでどうしても納得できなかったというぐらいの(第107話『革命(2)』(注2)その3参照)頭の悪さだった。だから、本当のところ、中国が蚕を開発する遥か昔から蛾や蝶、野蚕などの昆虫の習性を生かして自分達の食糧にする方法は世界中で知られており、例えば、聖書に出てくる“マンナ”(第29話『離反』参照)とはヘブライ語でMānまたはMannaと書き、英語のMan「人間」の語源なのだが、実はこのマンナとは蛾をすりつぶした粉を使ったパンのことで、生きた野生の健康な蛾は他の昆虫が吸った樹液から甘露(蜜)を得てそれを体内に蓄積しているためこれを採ってパン種(=Yeast、イースト菌または酵母菌)にすることは人間にとって必須栄養素であるタンパク質のみならず、ミネラル(栄養塩)を始めとした他の栄養素も豊富に摂れる上、免疫(病気への抵抗力)を向上させ、血流も改善し、さらに天然の甘い蜜(甘露)までも混ざっていることから疲労を回復してくれて癒しにもなり、上質で味わいの深い美味しいパンになる。もちろん、パン以外にビールやワイン、日本酒、味噌、醤油、お酢、甘酒と、実に多彩で心躍る食品ができる上、私達、人間の身体の細胞を形成し、その生命を健康に維持してくれているのだから、Mān/Manna「食べ物」=Man「人間」だと考えたとしても何らおかしくはない。また、その栄養ある樹液をいつでも採取できるよう蛾や野蚕の蛹をすりつぶした粉を肥料として果樹や田畑に撒いたり、魚釣りの餌にすることだってできる。こうして人類は微生物や細菌から樹木を育て、樹木から昆虫が樹液(甘露)を得て受粉を行い、受粉を得て果実や麦、稲が実って収穫できるようになり、そこへ再び微生物や細菌を混ぜて“発酵”(第101話『智慧(2)』させることで味や栄養を高めて自分達、人間の生命に欠かせない食糧を作ってきたのである。それを今更、滅亡して廃墟と化した砂漠に行って調べるまでもなく、そんな初歩的な食品科学の知識や技術などいくらでも自分達の住む土地に転がっているのだが、何せ、いつも「神は死んだ」だの、「この兵器こそ神器」などと言っては四六時中、人を殺傷することしか頭になく、自分達には神様並みの頭脳があって何でもできると何の根拠も成功実績もないのになぜか激しく信じ込める方々なので、自分達に分からない事はこの国(土地)の誰にも分かるはずがないという思い込みからか、多額の資金や膨大な時間をかけて砂漠くんだりまで行って調べてきたようだった。そして、そこでようやく見つけてきたのがその蚕やダニなどによってもたらされる病原菌を使った生物(細菌)兵器だった。だから、19世紀以降、彼らの間違った食品科学の知識や技術に基づいてパンやケーキ、チーズ、ヨーグルト、ワイン、ビール、日本酒など、いろいろな発酵食品や飲み物が作られるようになったのだが、あくまで彼らが砂漠で覚えてきたのは人を健康に長生きさせる食糧についてではなく、人を殺傷する生物(細菌)兵器についての知識と技術なので、例えば、蚕に与えられる稲こうじ病菌(麹カビ)は当然、人が飲む日本酒にも使われており、彼らの間では稲こうじ病菌と麹カビはそれぞれ違う名前にして別種だとか変異種などと屁理屈をこね、言い訳して「違う」と言い張るのかもしれないが、第102話『腐敗』(注3)や(注6)でも話した通り、増やす必要もない病原菌をわざわざ培養して増やしたり、切り離したりして何種類にも分け、それにペニシリン(墓場の精液)だとか、シゲーラ(開発者である志賀 潔の名前からつけられた赤痢菌の学術名。第102話『腐敗』(注3)参照)といった、“自分なりに思い入れのある名前”をつけたがるのもそれが丹精込めて自分が造り上げた生物(細菌)兵器だからで、彼らにとって神が創りしカビ菌は不衛生で不完全な病原菌でしかなく、自分達の頭で考えた“殺菌”や製造方法で生まれ変わった物(兵器)こそ完璧な食品や医薬品になると心底、信じているようだった。そうして、『古事記』に出てくる大気都比売(中国語で「あらゆる食べ物に大気を入れて膨らまして(発酵させて)売る女」の意味。)のように頭から蛾を使った食べ物ができ、目から稲が生まれ、耳から粟が、鼻から小豆が、陰部から麦が、尻から大豆が作られたと表現されるほど地球上のあらゆる生物の特徴を“生かして”自分達の食べ物を作っていた大和民族(日本人)を始め、小麦を発酵させて保存食にし、石灰岩の特徴からピラミッド(食糧備蓄倉庫)を造ってエジプトと周辺諸国の人々を救ったヨセフ(第100話『智慧(1)』参照)など、文明(神の智慧)の本当の意味(心)を知る人々の考え方や仕事のやり方、生き方をどうしても理解できない倭人(人でなし)達は元々、ちゃんとできていた方法を嘲笑して無視し、それに逆らってわざわざ中国から蚕(生物兵器)とその製法が書かれた兵書を仕入れ、それを真似て自分達も蚕を飼うようになり、室町時代からは大倭朝廷から足利将軍家に秘伝として伝承された灰(カルシウムやマグネシウム、リンなどの灰の成分はカビの栄養源である。第99話『人災』参照)を加えてさらに稲こうじ病菌(麹カビ)を増殖させる製法が室町幕府(政府)から許認可をもらった麹衆と呼ばれる半官半民業者に売り渡されるようになり、その製法から作った麹種を国営的に大衆に向けて独占販売して室町幕府(政府)と麹衆(政府系企業)が利益を得るようになった。そして、19世紀以降、ゾロアスター教(暴力礼賛教)が興った西域や中東地域、エジプト、インド、中国などを調査し直した欧米人達からその科学知識や技術を教わった結果、人の栄養素になるはずの細菌や微生物は最初から雑菌として取り除かれ、逆に人の害になる稲こうじ病菌(麹カビ)が特化して味噌や醤油、日本酒などに添加されて食べ物や飲み物が作られるようになり、少量ならばペニシリン(アオカビ培養液)と同様、免疫(病気への抵抗力)が上がったり、血流が改善することもあるだろうが、過剰または日常的に摂取していけば稲こうじ病菌の弊害が症状として現れるようになり、アルコール中毒や肝硬変、心筋梗塞、癌、腎臓障害、記憶障害、身体麻痺など、医者から生活習慣病だとか、お酒の飲み過ぎとたしなめられる症状や、元々、栄養不足で害のある食品からどうにか栄養を摂ろうと無意識に食べ過ぎて太ってしまったり、逆にそうした肥満体形を嫌って食欲不振(不信)になり、自ら痩せて栄養不足に陥るなど、本来、人々の生命と健康を維持する為の食べ物や飲み物そのものが兵器となって人々の生命と心身を蝕むようになっていった。だが、それでも人心を失った倭人や欧米人達はその悲惨な病死体の数々を見ても、彼らの手で作った食べ物や飲み物で病気になり、痛みや苦しみでうめき、泣き叫ぶ声を聞いても何とも思わない。いわんや、自分達の知識や考え方、仕事のやり方が間違っているとも、悪かったとも決して思わない。それどころか、その痛みや苦しみでうめき、泣き叫ぶ大衆を自分の思うままに支配できる絶好の機会とばかりに、かつて西域で育った張角が黄土水を人心掌握の為に使ったように一度、切り離したり、取り除いた細菌や微生物を再び稲こうじ病菌(麹カビ)に合わせて一時的に症状を緩和させる医薬品を販売したり、解剖手術で病巣だけを取り除いたりしてそれまでの自分達の犯罪や失敗の全ては一切、見て見ぬ振りし、まるで自分達こそ大衆を救ってあげている神様だと言わんばかりの態度を取るようにもなった。そのため、日本で初めてこの食品や医薬品による生物(細菌)兵器を紹介して大衆に広め、その脅威により徴兵や徴税を行ってきた倭国の天皇とその一族が21世紀の現在もまだ、天照大御神の子孫を詐称して日本に君臨しているのだが、その自称、日本の神様とやらも当初の大倭朝廷を創った一族は前述した通り、鎌倉時代の末期にとっくに断絶しており、彼らご自慢の神器(疑似文明の兵器)もどうやら自分達の生命や財産すらまともに守れない代物のようだが、これまでにも何度か伝えてきた通り、一度でも密教(ゾロアスター(暴力礼賛)教日本版)の呪縛にかかるとそこから脱却するのはやはり難しいらしく、また、そうした兵器や戦争(人殺し)をする為の軍資金や軍隊(大衆)を集めるにはどうしても自分の考える軍略や軍事機密を分かち合う仲間が必要となってその呪縛の教えが拡散されることになり、結局、お互い暴力の呪縛にかかった利害を譲らない者同士が手を組んでも必ず仲間割れするため、最後はお互い殺し合って誰もいなくなり、滅亡するという結末が今のところ、古今東西に関係なく人類史上で延々と繰り返されてきたパターンなのだが、その時代毎のご当人達はそんな結末(未来)が待ち受けているとはついぞ思わず、今、自分が嫌悪し、憎んでいる目の前の敵(相手)を打ち負かすことだけに必死になる。そのため、自分の差配にケチをつけ、国権を奪おうと目論む弟の直義が許せなくなった足利尊氏も醍醐寺の座主となった賢俊(日野資朝)を通じて落雁を自分の弟に贈って自分の家族を殺すようになった。なお、この落雁は今では乾燥させたご飯をすりつぶして粉にしたものに水飴または砂糖で練って型にはめ、焙炉で乾燥させたお菓子を指すが、この頃はカビ病で死んだ毒になる蚕の蛹を焙炉で蒸してすりつぶした後、そこに灰を加えて麹カビ(稲こうじ病菌)だけを増殖させ、布で包んで発酵させて麹種を作り、上述のウィートラコッシュ(カビさせたトウモロコシ)と同じように発酵途中で猛毒のアフラトキシンが残ったまま型にはめ、それを乾燥させた毒菓子のことで、菓子名の落雁とは「雁首を揃える」という俗語が今も残っている通り、皇族や公家にとって雁とは下賤な者達、つまり大衆を指す言葉だったので(南北朝時代の軍事研究家で公家と足利氏の調整役も務めた兼好法師が書いた随筆『徒然草』118段参照)、「雁首(大衆の首)を落とす」ということから落雁と名付けられたというのが真相である。また、この落雁(毒菓子)作りに使われる焙炉については本物の光厳天皇が生まれた際に金蓮寺(現在、新京極という京都の有名な商店街にある染殿院)という名に改め、その後、その光厳天皇を殺した佐々木高氏(道誉)がその霊を弔おうと寄進したとされる寺の僧の素眼が書いた『新札往来』という明治の初め頃まで庶民の子供達が通う寺子屋の教科書になっていた本でも紹介されているのだが、あくまで習字用の見本だったので焙炉が本当は何の為に使われていたかは誰にも知られないまま現代に伝わることとなった。それでも、蚕の毒素を採り出す以外で焙炉は茶葉を炙りながら手で揉んで煎茶を作る時にも用いられ、日本が誇る伝統芸とされる茶道や華道が日本で普及し出したのもこの鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけてであり、後醍醐天皇や光厳天皇を始め大倭朝廷から広められた飲んだ水やお茶の産地を当て合う闘水や闘茶と呼ばれる賭け事が流行したことから茶道が始まり、亀山天皇や後醍醐天皇の一門の呼び名に使われている大覚寺は華道嵯峨御流の家元であり、華道も茶道も見た目は単なる遊興や芸事のように見えるかもしれないが、どちらも植物の毒素を引き出す兵器開発研究の為に設けられた学術団体で、イギリスを始めとした欧米で王立園芸協会やキューガーデン(第114話『細胞』(注2)参照)などの似たような団体がフリーメイソンにより設立されるようになったのも欧米人達が日本や中国(モンゴル)を真似て兵器開発を行おうとしたからである。その他、蚕の落雁を作った賢俊(日野資朝)が座主を務めた醍醐寺の醍醐とは、仏教の経典の『大般涅槃経』に出てくる五味相生の譬という一節から採った名前で、「牛より乳(乳酸菌または乳糖、甘味)を出し、乳より酪(乳清またはタンパク質、酸味)を出し、酪より生蘇(ヨーグルトまたは栄養塩、塩味)を出し、生蘇より熟酥(腐って水っぽい黄色のヨーグルト、辛味)を出し、熟酥より醍醐(カビ毒のアフラトキシン、苦味)を出す、醍醐は最上なり。もし服する者あらば、衆病(この世の苦悩一切、死んで)皆除く・・・。」との発酵過程から毒素抽出に至るまでを例えた言葉で、仏教(ゾロアスター(暴力礼賛)教中国版)における真実の教えとされ、「味わい深い」「本当に面白い」という気持ちを表す際に使われる“醍醐味”という言葉の語源である。ついでに付け加えておくと、2016年に福岡県出身の吾峠呼世晴氏が集英社から出版後、2019年に神奈川県鎌倉市出身のプロデューサーの高橋祐馬氏がアニメ化した漫画の『鬼滅の刃』(本当は誹謗中傷して相手を滅ぼすとの意味の室町時代の言葉である「毀滅」が正しい漢字だろうが・・・。)に出てくる甘露寺蜜璃というキャラクター名は後醍醐天皇から寝返って北朝(西園寺家)の蔵人頭(首席秘書)を務めていた甘露寺藤長という公家の名前から採っていて、蜜璃の璃とは鉱石の琉璃(ラピスラズリ)のことで、滅多と手に入らない宝石だったことから皇族だけの持ち物とされており、この琉璃の話は後で詳しく語るとして、とにかく琉璃という言葉が使われている時点でこの漫画は国策で製作されているアニメであり、やたらとマスコミが持ち上げて宣伝する理由もうなずける。だから、甘露寺蜜璃というキャラクターが変異個体なのも蚕がモデルになっているからで、明治から皇居内に紅葉山御養蚕所を設けて代々、皇后や内親王達がなぜ、養蚕を行うのかその理由もお分かりいただけたかと思う。ちなみにもう一つ言っておくと、東京都福生市にある永昌院は京都の醍醐寺から派遣された山伏達が軍事訓練を行っていた修験寺であり、イギリスと薩摩藩が江戸幕府を倒す為に自作自演した薩英戦争(第103話『略奪』(注1)参照)が始まる1863年に茨城県つくば市にある蚕影神社から蚕の神も合祀するようになり、今も養蚕業者の寺として知られているのだが、なぜ、その年に養蚕を修験寺で始めたかは言うまでもなく、それだけ醍醐寺と養蚕が切っても切れない関係にあって、日本の皇室が蚕を使って日本国民にこれまで何をしてきたかということも今更、否定はできないと思う。このように、室町幕府以後、下克上(身分の低い者が高い身分の者を倒して国権を奪う)の戦国時代になっても武将達がいつまでも大倭朝廷の天皇を祭り上げたり、皇族や公家と結婚同盟を結びたがるのも天皇という国民向けの徴税用のマスコット(広告塔)が必要という事情もあるが、何より大倭朝廷が創設されて以来、神器と称した密教(ゾロアスター(暴力礼賛)教日本版)に基づく軍事知識や技術があるからで、この当時の日本で最高峰とされた東寺(今で例えるなら東大とか京大)の兵器開発研究所を手に入れた足利尊氏が(実際には何度か敗戦してても)日本の最高権力者の地位に就くことになった。
NHK大河ドラマ『太平記』から足利直義が暗殺される場面↓
https://www.nicovideo.jp/watch/sm6522448
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そんな世の中はもう終わりにしていただきたい。