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第百十五話 生命 後書き(注1)

今話のイメージソングです。↓


https://www.youtube.com/watch?v=L-Bzhpm8h0o


「Prayer X」by King Gnu より

(注1)

優生学(=Eugenics)は、チャールズ・ダーウィンの従弟いとこだったフランシス・ガルトンが創設した疑似学問である。


前話(第114話『細胞』(注2))でも話したが、ダーウィンの父方の祖母には二人いて、ポートモア伯爵令嬢で継祖母ままそぼであるエリザベスの血筋を継いでいるのがこのフランシス・ガルトンである。

父親のサミュエル・ガルトンは銃器メーカーと銀行を営んでいた実業家で、ダーウィンの祖父であるエラスムス・ダーウィンと同じ“ルナー・ソサイエティー”(=the Lunar Society of Birmingham、18世紀に当時のイギリスの二大政党の一つだったホイッグ党支持者達が集まって政治や軍事機密を交換し合う社交サークルのこと。(ホイッグ党については前話の第114話『細胞』(注2)を参照)元々は、ボールトン&ワットという軍艦などに搭載する蒸気機関を製造し、イギリス王室造幣局で硬貨の鋳造も行っていた会社社長のマシュー・ボールトンとダーウィンの祖父のエラスムスが親しかったことからお互いの友人、知人を招いた乱痴気パーティーが発端ほったんである。いわゆる軍事秘密結社のフリーメイソンのようなもので、ロンドンに次いで第二の首都であり、重工業産業で栄えたバーミンガム市で事業を営むウェッジウッドなどの実業家達が中心となって定期的に秘密集会を開催していた。サークル名のルナーとは満月の夜に集まるという意味もあるが、隠喩いんゆLunaticルナティック(キチガイ)を意味する。なお、陶磁器会社のウェッジウッドがなぜ、兵器開発に関係するかは後ほど、本作品にて詳しくご説明する。)のメンバーだったことからダーウィン家と縁を結ぶようになった。


そんな両親の下で生まれたフランシス・ガルトンも、祖父エラスムスや従兄のダーウィンと同じく勉強嫌いで、またしても医者という見栄えのする肩書だけを求めてバーミンガム医大や王室直属の“キングス・カレッジ・ロンドン”(=King’s College London、イギリス国王ジョージ4世と初代ウェリントン公爵のアーサー・ウェルスリーが1829年に設立した研究所兼総合大学で、“白衣の天使”と称えられているイギリス人看護師のフローレンス・ナイチンゲールが1860年に世界初の看護師及び助産師養成の為の学部を設置したことでもよく知られ(ナイチンゲール看護学校とも呼ばれる。)、医学教育においてはかなり有名な大学とされているが、そもそもナイチンゲールが看護教育を受けたのはイギリスではなくドイツであり、しかも、この頃は看護師というよりもプロテスタント(新興キリスト教)教会の女性奉仕員として病人の介抱や出産のお手伝いなどを宣教活動の一環で行っていただけで、特に難しい医療知識を習っていた訳ではない。しかし、ドイツでは19世紀頃から諸国民の春(第106話『革命 (1)』参照)のような革命運動や戦争などで男達が徴兵され、不景気もあって無賃または低賃金で働く労働者が欲しかったことから、若い女性や囚人に型通りの仕事を教える職業訓練校のような施設が“富裕層からの奇特な寄付金”によって設立されるようになり、ナイチンゲールもそこで看護師教育を受けることとなった。だが、裕福なイギリス人家庭で育ち、結婚を申し込もうとする恋人までいたらしい彼女が一体、どうしてドイツくんだりまで行って低所得労働者向けの職業訓練を受けようと思ったのかと言うと、巷でよく言われる医療奉仕活動に目覚めて自らを犠牲にし、人に尽くそうなどという博愛精神から看護師の道を選んだ訳ではなく、当時、イギリス陸軍事務長官を務め、後年、クリミア戦争の責任者となるシドニー・ハーバート男爵から直接、スカウトされたからだった。つまり、ハーバート男爵を始め、イギリス政府(王室)としては4ヶ月だけナイチンゲールを看護留学させた後、彼女をクリミア戦争に派遣し、医療物資に不足して劣悪化する野戦病院で看護の専門家として献身的な看護活動を行わせ、夜もランプを手に病床の兵士達を見回らせるなど、待遇の悪さで兵士が集まりにくいイギリス軍のイメージを払拭するマスコットガール(広告塔)にナイチンゲールを雇ったからで、彼女としてはたとえ裕福でも自分の持参金(財産)すら自由に所有できない(第112話『女傑』参照)結婚を選ぶより職に就いて女も自立した方がこれからの時代は得だと計算したようだった。その結果が今でも巷で語り継がれる“白衣の天使”や“ランプを持った貴婦人”といった看護師の代名詞ともされるキャッチコピー(宣伝文句)であり、ドイツのライン川沿いにあるユダヤ人の多いカイザーヴェルト(現、デュッセルドルフ)の施設でたった4か月間、習っただけの受け売りの知識で看護学部教授とナイチンゲールが名乗れるほど、キングス・カレッジ・ロンドンは元から高度な医療技能を教育するのが目的の大学だった訳ではなく、あくまで軍事において必要な簡単な医療措置を教えていただけだった。そのため、戦後、国連憲章を掲げて「二度と戦争(人殺し)はしない」と国際的に平和を誓い合ったはずの現代でもなお、公然と戦争(人殺し)の為の外交や法律、軍事戦略、歴史、マスメディア(情報戦術)などを研究する“戦争学学部”(=the Department of War studies)が世界で唯一、設置されているイギリスが誇る高等教育(?)機関でもある。)にも在籍していたが、結局、遊び回っていて成績が届かず、その厄介な彼の面倒を何とか引き受けてくれたのがケンブリッジ大学で数学を教えていたウィリアム・ホプキンスという男だったのでそれに合わせて今度は医学から全く関係のない数学科に転向した。

しかし、そこでもまた、麻薬に溺れて学業に身が入らず、卒業試験も通らなかったため、仕方なくロンドンに戻ってきて医学部に入り直したところで突然、父サミュエルが病死し、多額の遺産が転がり込んできてもはや口うるさく堅気かたぎの就職を彼に迫る人もいなくなった。



しかも、その頃にはスパイ活動を主に行う軍事機密結社であるフリーメイソン(第105話『欺瞞』(注5)参照)に入会していたガルトンは、スパイの特権としてどんな職業を口にしても政府(王室)や組織フリーメイソンが口裏を合わせてくれるのでわざわざ一般人のように真面目に勉強して就職活動をする必要すらもなくなった。


だから、医師免許や大学卒業にこだわって大学構内でくすぶっているよりもスパイ活動に専念した方がいいと考え、エジプトの領有権を巡ってムハンマド・アリがオスマン帝国と争ったエジプト・オスマン戦争(1839年~1841年、第105話『欺瞞』参照)が終結して間もない頃の両国を観光客を装いながら渡り歩き、そこで軍事情報を収集して回るようになった。

さらにその後、ダーウィンと同じように王立地理学会に加盟して地質学者を名乗り、まだ欧米人には未開の地だった南西アフリカ(現、ナミビア共和国)の調査探検にも参加したことからこれを王立地理学会は高く評価して金メダルを彼に授与することとなった。

だが、元よりそれが授賞理由ではなく、彼がスパイである以外にガルトンの出自(血筋)も大いに関係していただろうが、ともかく地質学者とか、探検家といった世間をあざむくのにちょうどいい職業の肩書が経歴プロフィールについたことで一応、ガルトンも恰好かっこうはつくようになった。

ところが、これで満足すればよかったのによほどガルトン自身が見栄っ張りだったのか、それともスパイ活動上、やむを得なかったのか、いずれにせよ、これ以後、彼はさらなる肩書を求めて迷走し始めた。


それが天気図や高気圧の概念を創って気象学に貢献しただの(『Meteorographica(邦題にすると『気象学図』)』1863年発刊)、何らかの音を聞くと自分の“想像で”様々な色が頭に浮かぶ心理的な感覚(心理学用語では共感覚)を実証しただの、人の指紋と統計学を併せて分析した本を書いただの(『Finger Prints(邦題にすると『指の紋章』)』1892年発刊)と、あんなに学校を転々として結局、医者にも数学者にもなれなかった男が突然、降って湧いたかのように学術的才覚を次々と表すようになったのだが、どれもこれも他人が考案したものをそのまま盗用して脚色しただけで、天気図はガルトンの本が出版される40年ほど前に既にドイツの数学教授で気象学者だったハインリッヒ・ブランデスが『Beiträgen zur Witterungskunde(邦題にすると『気象学への貢献』)』(1820年発刊)の中で公表していたし、それに加えてダーウィンが調査探検に行く際に乗った軍艦の船長を務めていたロバート・フィッツロイという海軍将校が軍務に失敗して引退を余儀なくされ、左遷とは言え、新設されたイギリス気象庁にダーウィン達、イギリス学界の後押しで配属されることとなり、航行中の船に天気予報を知らせる仕事をするようになったことから、イギリス学界に頭が上がらなくなったフィッツロイがガルトンに代わって高気圧の概念と天気図を併せた本を書いたからであり、心理学も『若きウェルテルの悩み』(1774年発刊)という小説を出版してヨーロッパの若者達の間で本の主人公を真似た自殺が流行したほど社会現象を巻き起こしたとされるドイツの有名な詩人で小説家でもあるヨハン・ゲーテがちょうどイギリスと同盟していたワイマール王室(=Saxe-Weimar、ドイツ語ではSachsen-Weimar、イギリス人にとっては先祖の地であるドイツ北部及び中部を領有していたザクセン選帝侯(神聖ローマ皇帝を選出する権利を持つ諸侯の一人)の子孫だったカール・アウグスト大公が首都ワイマールに建てていた王室のこと。キリスト教の改革を訴えて、プロテスタント(新興派)運動を始めたマルチン・ルター(第103話『略奪』(注1)参照)はこのザクセン選帝侯領の修道院にいた人物で、それ以降、この領内ではプロテスタント(新興派)が主教となっており、同じプロテスタント教を信仰するイギリス王室(政府)とは当然、親しかった。また、“アングロ・サクソン”(=Anglo-Saxons、現在のドイツ北部及びデンマークがあるユトランド半島からブリテン島へと移住していったアングル人、ジュート人、サクソン人などのゲルマン民族の総称)というイギリス人の先祖を意味する呼び方もこの“ザクセン”の名前にちなんだものである。)に仕えながら優雅に詩や小説を書き、人間の色彩感覚について研究する生物学にも傾倒する一方、イギリス王室(政府)を支援するフリーメイソンのメンバーとしてアメリカ独立戦争の際は前科者やゴロツキを雇い入れて戦地に送り込む傭兵業も営む抜け目なさからイギリスでもゲーテに憧れる若者は少なくなく、ガルトンもいつかはゲーテのようなスパイになろうと思っていたようだが、彼と比べると文才はなかったため、仕方なく自分の妻で、ハーロー校(=Harrow School、エリザベス1世時代の1572年に設立された王立の寄宿学校。1868年の学校制度の改革で(第104話『蒙昧』参照)学費が有料となり、現在、イギリス国内ではイートン校などと並んで4番目に学費が高い寄宿学校でもある。)の校長の娘でもあったルイーザにゲーテの書いた『色彩論』(1810年発刊)を真似た本を書いてもらっただけだった。(『Inquiries into Human Faculty and its Development』1883年発刊)



そして、指紋について本を出版したのもガルトン本人が最初に指紋を見出した訳ではなく、インドや中東、中国では紀元前から母印が契約書の捺印なついんに使われていたり、犯罪捜査でも指紋や足型の採取が既に行われていて、欧米と違ってアジアではとうの昔から指紋は個人を表す身体的特徴である事は分かっていたのだが、欧米では16世紀になってからようやく少しずつ知られるようになり、犯罪捜査に指紋検証をするようになったのも19世紀からで、イギリスでも指紋が個人を識別できると分かったのは実は日本人に教わったからだった。

というのも、明治政府の“文明開化”政策の招へいで東京の築地病院で働くことになったイギリス人軍医で宣教師のヘンリー・フォールズが院内で起きた窃盗事件に出くわした際、日本では犯罪捜査で指紋検証をして犯人を割り出していることに気が付いた。

そこで、これを人類の起源を研究する人類学者として高名なダーウィンに報告したのだが、元より代筆してもらった自分の本すら面倒臭がってほぼ何も読まない(第114話『細胞』後書き(注2)参照)ダーウィンは、この指紋検証について知らせてきたフォールズの手紙をこれまた、ダーウィンと同じで勉強も研究もしたことのない名ばかり学者でありながらその当時、“イギリス科学協会”(=the British Science Association、ドイツのGDNÄ(ゲーデーエヌアー)(=Gesellschaft Deutscher Naturforscher und Ärzte、ドイツ自然科学者及び医師の為の協会)をお手本にロイヤル・ソサイエティ(王立学会)ではできない人体解剖実験が行えるよう1831年に設立された闇学会である。この闇学会の設立に合わせたかのようにその翌年の1832年には医師や医学生、医学を教える教師などがより自由に解剖できるよう免許制度を設ける法律まで制定されている。(The Anatomy Act 1832)要は、免許さえ持っていれば誰でも合法的に解剖(人殺し)が行えるとあって、それまで限られた教会や医学校でしか解剖実験が許されていなかったイギリスでもより強大な生物化学兵器の開発の為に次々といろいろな学会が設立され、そのメンバーには何ら制約のない解剖の許可を与えていった。それはドイツのGDNÄも同じで、前述の詩人のゲーテや彼の推薦でワイマール王室の兵器開発研究所であるイェーナ大学の医学助教授となったローレンツ・オーケンなど植物から人間を含めた動物、化石や鉱石といったありとあらゆる物体を解剖してその構造を比較し、“理想の形態(人間像)”を追究する“形態学”(=Morphology、ドイツ語ではMorphologie)と呼ばれる学究分野を設け、その研究を口実に公には言えないようなおぞましい人体及び動物実験をGDNÄ(現、イェーナ大学)内で繰り広げていった。加えて、その実験結果をわざわざ『ISIS』(邦題にすると『イシス』、エジプト神話でバラバラの遺体となった夫を繋ぎ合わせて復活させたと言い伝えられる女神イシスにちなんで名づけられた疑似科学雑誌。1816年~1848年刊行。)に掲載して公表してしまったため、さすがに血生臭い人体実験をワイマール王室が手放しで奨励する訳に行かず、雑誌を編集したオーケンはトカゲの尻尾切りのごとく王室の汚名をかぶる形で教授職を解職されることとなった。しかし、その後もイェーナ大学では数多くの残虐な人体実験を行っていたナチス政権時代も併せて兵器開発を目的とした人体及び動物解剖実験が続けられ、現代では遺体の水分や脂肪分を合成樹脂プラスティックに置き換えることで遺体の標本を作るプラスティネーション(=Plastination)と呼ばれる技術を開発し、“死の医師”との異名を持つ元ナチス党員のグンター・フォン・ハーゲンス氏がお腹に胎児が入ったままの妊婦の遺体や拷問されて処刑された囚人の遺体などを解剖して展示する「人体の不思議展」(=Body Worlds)を開催してイェーナ大学で氏が教えられた解剖技術を世界に披露している。なお、GDNÄやイギリス科学協会などもそうだったが、「人体の不思議展」を主催する業者や学会、博物館などは実は解剖する為の死体(もしくは、まだ死体になっていない人体)を集める人身(臓器)売買の仲介業者ブローカーになっていて、死因や身元が不明な死体(臓器)をこうした仲介業者ブローカーが医学や科学の発展の為という大義名分の下でボディローンダリング(死体洗浄)することで医師や医療業界の医療過誤ミスや殺人を覆い隠し、さらに臓器移植手術における価格の設定や臓器取引市場の独占などもできるようになっている。そのため、1988年~1995年にイギリスの“公立病院で”故意に危険な心臓手術を行って死亡させ、104,000以上の臓器や210体もの赤ん坊の遺体などを親の許可なく移植手術や製薬会社の臨床実験の為に転売していた事件が発覚し(The Alder Hey organs scandal)、人体組織法(=the Human Tissue Act 2004)が制定されて人体組織委員会(=the Human Tissue Authority)のような公的機関が人身(臓器)売買を監視したり、取り締まってるように公言しているが、実際にはこの人体組織委員会が中心となって人身(臓器)取引市場の犯罪の数々を隠す協力をしているため「人体の不思議展」を主催する業者には相変わらず許可を与えて人身(臓器)売買を容認している。)という学会の中で人類学部門の理事長を務めていた従弟のガルトンにそのまま渡してしまった。



しかし、その時はガルトンもその指紋がどう役に立つのか分かっていなかったので放置し、さらにイギリス学界の本当の仕組みが分かっていない一般庶民のフォールズ(第114話『細胞』(注2)参照)は、自身の発見した手柄を何とか学界に認めさせようと科学雑誌の『Nature』に論文を掲載し、偶然、これを目にしたウィリアム・ハーシェル2世“男爵”から盗用疑惑をかけられることとなった。

(ちなみに、このウィリアム・ハーシェル2世男爵とは第112話『女傑』(注1)で話した、あのハーシェル式望遠鏡を開発した偽天文家のウィリアム・ハーシェルの孫である。)


盗用と言っても、ハーシェル2世はインドに駐在していた役人で、インドも日本と同じく母印を契約書の捺印なついんに使っていたのでその現地の風習を真似しただけでハーシェル2世が指紋を利用することを思いついた“考案者(特許権者)”という訳でもなかったのだが、これがなぜか“イギリス国内では”この二人のうちどちらが先に指紋の価値に気づいたかで争うようになり、さらにおかしなことにこの二人の論争に横から飛び入り参加してきたのが長年、指紋の“価値になどまるで気づいていなかった”はずのガルトンだった。

むろん、ガルトンが今更、指紋の有用性を論じたところで胡散臭うさんくさいことこの上ないのだが、そこはガルトン家という高位の“貴族として国家権力を特別に振り回せる立場”を利用し、フリーメイソン及びイギリス学界と連携して活動しているバーミンガム市の軍事秘密結社、ルナー・ソサイエティからオックスフォード大学で言語学を学ぶアイルランド人の学生と名乗るガルトンと同じスパイ仲間のフランシス・エッジワースという男を紹介してもらい、キングス・カレッジ・ロンドンの教授職に就けさせるという条件でエッジワースが独学で学んだという統計学を交え、指紋の識別についてガルトンの名で論文を書いてもらうことにした。



元々、統計(=Statistics)は、聖書で民数記があるように徴税や徴兵する際に人口や収入、商取引数といった国家(共同社会)の数字を集めて政策(国家を安定的に運営する方法)を考える際の“資料”だったり、王侯貴族達が暇つぶしに行っている賭け事でその勝率を研究したり、戦時に交わされる“暗号”の創作や解読の為に覚える“遊びの知識の一つ”に過ぎず、調べて表れた数字に深い意味はまるでないのだが、17世紀頃から賭け事の勝率を予測する際に使われていた“確率論”(=probability theory)を、徴税役人だった父親の仕事を補佐する為に数学者となり、後に「人間は考えるあしである」や「クレオパトラの鼻がもう少し低ければこの地上(=歴史)は変わっていただろう。」と『パンセ』(=Pansée、邦訳では『瞑想録』、1670年発刊。)の中で書き残したフランスの哲学者であるブレイズ・パスカルが宗教論争においての皮肉な冗談として「神はいるか、いないか」という賭けに用いたことからフランスの数学者や哲学者の間で脚光を浴びるようになり、これを偶然、フランスからイギリスに宗教上の理由で亡命していたフランス人数学者のアブラーム・ド・モアブルが『The Doctrine of Chances』(邦題にすると『幸運の教義』、1718年発刊)という本に英語で書いて紹介したためこの確率論(統計)が単なる遊興上の雑学からなぜかイギリス人達の間では“高等(?)な”学問と考えられるようになって、この確率論(数字)を示せば何となく正しい結論だと思わせられることから、いつしか自分の意見や論文で確かな証拠はなくても何かとこの統計(確率論)を持ち出す人が増えるようになった。



だからこそ、ガルトンとエッジワースも指紋の話に統計という付加価値を付けたのだが、かと言って、そんな付加価値をつけたところで、既に何千年も前からアジアでは知れ渡り、指紋は個人を識別できるとの“明確な事実”を今更、証明する必要もないのだが、それをわざわざ実験と称して多数の指紋を採取して回り、それを数字や数式に書き換えただけでイギリス国内では“科学的検証に基づいた正確な結果”だと言い張れる、

それがイギリス自然科学界の実態レベルだった。




その為、一介の軍医でしかないフォールズがロンドン警視庁に指紋検証による犯罪捜査を勧めても誰も取り合わなかったのに、それから10年以上も経ってガルトンがいくつか本や論文を出しただけでわずか数年足らずの1901年にロンドン警視庁は指紋による犯罪捜査を採用するようになった。(『Finger Prints』1892年発刊、『Decipherment of Blurred Finger Prints』1893年発刊、『Fingerprint Directories』1895年発刊)

だから、フォールズの功績(?)が認められるようになったのも最近のことで、2007年にようやく彼の家にブルー・プラーク(表彰状付きの表札のこと。第104話『蒙昧』参照)が掲げられるようになったらしいが、それでも依然、イギリス国内ではガルトンの功績(?)によって指紋識別を利用しての個人証明や犯罪捜査が世界で初めてできるようになったと勘違いされている。


そうなったのも、彼の出自(血統)やそれまでの肩書に加え、この確率論(=統計学)を駆使した優生学というダーウィンの進化論を“もじった”(=流行している学説に似せて冗談ぽくじ曲げた)学問を提唱したからだった。

ただし、優生学がその当時、既に世間一般に知れ渡っていたという訳ではなくて、むしろ、指紋の話をガルトンとエッジワースが本に書いて宣伝したからこそ、優生学も指紋識別の“事実によって証明される”形で科学の一分野として認められるようになった。

つまり、ガルトンは自分の詐称できる肩書の一環として冗談半分で提唱していた優生学を“高等な学問=科学”と世間に認知させる為にフォールズの手紙が届いて以降、10年以上、何の興味も関心もなかったはずのフォールズとハーシェル2世の指紋論争に参戦してきて、突如とつじょ、優生学をイギリス自然科学界に広めだしたのである。




と言うのも、この時、ガルトンのみならずダーウィンを始めとしたイギリス自然科学界はこの優生学を何としてでも世間に認めさせなければならないある事情があったからだった。



それが本文(第115話『生命』)で書いたフランシス・コッブスの興したNPO団体による動物実験反対運動であり、世間を欺き、虚栄心から人や動物へのイギリス王室の優しさを演出しなければならないヴィクトリア女王も大衆を、特に同じ女性の大衆を手懐てなずける為にこの動物実験反対運動に共感せざるを得ず、また、コッブス達が女性の参政権や大学への入学資格を求めたことからも分かるように単純に動物実験に反対している運動ではなくて、あくまで動物ペットに名前を借りて自分達、女性陣の生活手段(仕事)や権利拡大を求めてデモ(暴動)を起こしていたため、コッブスが法改正を取り付けてからもそう簡単には騒ぎは収まらず、それどころかイギリス国内だけでなく、世界中でこの動物実験反対運動(=the Anti-vivisection movement)が広がりだし、もはやフランス革命で主婦達が起こしたあのヴェルサイユ行進(第112話『女傑』参照)と変わらない様相を見せ始めた。

(動物実験に反対するNPO団体の例として、イギリスはNational Anti-Vivisection Society (NAVS)、創設者フランシス・コッブス、1875年設立。British Union for the Abolition of Vivisection (BUAV) (現、Cruelty Free International)、創設者フランシス・コッブス、1898年設立。Animal Defence and Anti-Vivisection Society、創設者ニーナ・ハミルトン侯爵夫人とスウェーデン人のリジー・リンダ・アフ・ハゲビー、1906年設立。アメリカはAmerican Anti-Vivisection Society、設立者キャロライン・ホワイト、1883年設立、等々。)




イギリス王室を廃止させるような革命は絶対に阻止しなければならないことはもちろん、人体も含めて生体解剖実験なしでは軍事兵器開発はほぼ不可能になる。




だからこそ、ガルトンを始めとしたフリーメイソンや彼にエッジワースを紹介したルナー・ソサイエティなどの軍事秘密結社が中心となって何とかして世間に「生体解剖実験は医学や科学を“より良く”発展させる為に行わざるを得ない“必要悪”だ。」と矛盾した詭弁きべんを信じ込ませようと本や論文はもちろん、雑誌や娯楽小説(The Eugenic College of Kantsaywhere 1910年発刊)などありとあらゆるメディアを駆使して優生学を宣伝し、「指紋で個人が識別できる」という“事実(真実)”を知った大衆が自分達の指紋を見て科学的な裏付けがあることを確信してようやく優生学は科学と認められるようになった。

そうして、コッブス達、動物実験反対運動やフェミニズム(女権拡大)運動に対抗すべく1907年にはシビル・ネヴィル・ロルフという女スパイに“優生学教育学会”(=The Eugenics Education Society (EES) )という、いかにも女性の出産や育児の支援を装ったNPO団体を立ち上げさせ、裕福な家庭の子女には結婚、出産、子育てを推奨する一方、“救貧院”(=Workhouse、14世紀の百年戦争(第107話『革命(2)』(注1)参照)中に兵器として拡散させたネズミののみを介して戦地のフランスからヨーロッパ中に黒死病が蔓延し、イギリス国内でも約3分の1が感染して死亡したことから労働者の数に不足したイギリス政府(王室)が一定数の労働者をそれぞれの教区(地区)に確保しようと賃金を保障して住居を提供したことが始まりである。戦争が終わって安定した労働数が確保されるようになると救貧院には病人、高齢者、障害者、未婚の母、孤児、アルコール中毒患者や精神病患者といった比較的、就業しにくい人達が増えていき、19世紀になる頃には貧しい民衆を救済する為と言ってはあの手この手で法律を変えてイギリス政府(王室)からの補助金を増額させながら救貧院を建てさせ、実際は収容者には賃金を一切、支払わず教区の富裕層や司祭などが上前をはねる、いわゆる現代でいう貧困ビジネスの温床になっていたのだが、19世紀に解剖学が流行し、イギリス科学協会のような学会が設立されて医者や科学者達が自由に解剖を行えるよう法律が改正されてからは収容者のほとんどが人体解剖実験の為の人身(臓器)売買の対象となった。ちなみに収容者の半分近くが親がおらず行く所がない孤児だった。)の人々には避妊や断種手術(=Compulsory sterilization、強制的に精管や卵管を切除して生殖能力そのものをなくす手術。)を勧めたり、アルコール中毒や貧困に陥るのは遺伝が原因だとして遺伝子(交配)研究の臨床実験に強引に参加させていった。


さらに、より短時間で簡単に大量殺戮ができるような殺傷能力の高い兵器を作り出すには救貧院の収容者だけでは人体実験の統計データとしては物足りないため、精神病法(=the Lunacy Act 1845)や白痴法(=the Idiots Act 1886)、精神薄弱法(=The Mental Deficiency Act 1913)などの法改正を行い、統計学(確率論)から編み出された“知能(指数)検査”(=Intelligence Quotient test、略してIQ test、ガルトンが1883年に出版した『Inquiries into Human Faculty and its Development』の中で人間の頭蓋骨の大きさや反射運動能力、握力などと知能は比例すると考えて作ったテストが世界初の知能テストである。しかし、ガルトンの知能=容姿(見た目)という仮説は立証できず、代わりにフランスの精神病院の精神科医からソルボンヌ実験心理学研究所所長(=現、Laboratoire de Psychologie du Développement et de l'Éducation de l'Enfant(児童発達心理教育学研究所)、略してLaPsyDÉ)となったアルフレッド・ビネーとその補佐だった医学生のテオドール・シモンが年齢別に数人の児童を分けてその知識の程度を測り、それぞれの年齢毎の平均値を基準にしたテストを作ったのが現代でも使われているIQテストである。ビネーの経歴から見ても分かる通り、IQテストは現代で噂される知能の高い天才を見つけだす為のテストではなく、精神病を患ってるか、知能が低いと思われる人物をあぶり出し、精神病院に収容する為のテストだった。その為、テストする側の求める答え(知識)や解答方法さえ知っていれば誰でも簡単に高得点が叩き出せる知識偏重型テストでもある。元々、精神病院は戦争体験で正気を失った人々などを収容する場所だったが、AD9世紀頃から第97話『不浄 (1)』(注1)にて話した麻疹はしか天然痘てんねんとうの人体実験をしていたペルシャ(現イラン)のエセ医者のアル・ラーズィーが当初、精神病院で働いていた通り、イスラム帝国の首都バクダードで精神病院ビマリスタンが建てられるようになったのは患者を治療する為ではなく、あくまで生物兵器を開発する際に精神病患者を人体実験に使うからだった。このように精神病院は病気治療を目的とする病院ではないので患者は常に劣悪な環境下で半ば犯罪を犯した囚人のような手酷い扱いや拷問などを受け続け、最後は解剖や人体実験に使われるだけだったのだが、そんな状況を一変させたのがフランス革命の最中さなかの18世紀に精神病院の管理人となったジャン・バプティスト・プサンとマルグリット夫妻だった。夫のジャンは元々、フランス東部の小都市でなめし革職人として暮らしていたのだが、甲状腺腫瘍こうじょうせんしゅようと呼ばれる首の喉仏のどぼとけの辺りに腫瘍しゅようができる病に倒れ、パリ郊外にあるビセートル病院に入院することになった。9年間もの長い闘病生活の末、ようやく完治したジャンはその間、ビセートル病院の劣悪な環境と病院に併設された孤児院の子供達の悲惨な生活に心を痛め、自身の闘病中にも度々、子供達を見舞うようになり、結局、病院で荷物運びとして働くこととなった。以来、彼が心掛けたのが精神病患者達であっても決して邪険に扱わず、忍耐強く観察と対応を心掛け、事細かく病状日誌をつけて患者の精神状態を把握し、患者が暴れないよう鎖でつなぐのが当たり前だった精神病院の悪習を彼はあっさり断ち切って見せた。また、そんなジャンと結婚したマルグリットも妄想で激しく食事を拒否して暴れる患者の前でおどけて歌ったり、踊ったり、冗談を言って笑わせ、最後は大人しく食事をさせるといったような患者の気をなごませる手腕に長けていて、この夫婦がビセートル病院の管理人になったことでそれまで薬漬けにされて拷問を受け続け、殺されるだけだった精神病院のあり方を根底からくつがえし、患者の治療を目的とした本来の“病院”に生まれ変わらせた。そうしてこのプサン夫妻の治療で治った患者の口コミからビセートル病院への評判や信用度が上がり、患者も増えるようになったのだが、これに目を付けたのが当時、医師資格が認められず医療雑誌の記者を経験した後、精神科に転向したことでようやくビセートル病院に勤務するようになった研修医のフィリップ・ピネルだった。精神病はもちろん、臨床(実際に患者を診療する)経験がほとんどなかったピネルは同じく政府(王室)から認められた医師資格はなくても臨床経験だけは豊富だったジャンに教わらざるを得ず、ビセートル病院に勤務して以来、ジャンに言われるまま患者の拘束こうそくを解いて人道的な診療をするようになった。それが功を奏してピネルはその後、フランスでも1、2位を争う精神科医としてその名をとどろかせ、今も記念像がまつられ、絵画や本などで描かれるほど有名になったのだが、そうなったのも別に彼らの診療態度を政府(王室)が心から感動して歓迎していた訳ではなく、フランス革命で王室(政府)への批判が高まる中、大衆に迎合する政策を取らざるを得なかったことと、ついでに人道診療モラルトリートメントを掲げることで大衆の警戒心や不信を解いて精神病院にやってくる患者の数を増やし、これまでと変わらず兵器開発の為の人体実験を続けたかったからだった。そのため、プサン夫妻やピネルが死んでいなくなると途端に精神病院の悪習は元に戻され、表向きは人道診療モラルトリートメントを提唱していても実際はイスラム帝国時代と変わらない非人道的な拘束や拷問、人体実験が再び続けられることとなった。そして、ピネルがプサン夫妻を連れて転属したことでビセートル病院と同じく巷の評判が高まったピティエ=サルペトリエール病院に勤務していた精神科医のアルフレッド・ビネーや医学生のテオドール・シモンも、そうした悪習が戻ってから欧米の植民地政策で生物兵器の為の解剖や人体実験が何よりも必要とされていた頃に精神病院で勤めていた人々だったため、人道診療モラルトリートメントなど彼らの頭には毛頭なく、ましてビネーは偶然、彼の恩師で神経科医と精神科医を名乗っていかがわしい催眠療法を提唱していたジャン・シャルコーが失脚したことから彼の汚名のとばっちりを受けて医学界からつまはじきとなっていたため、何としてでも名誉挽回しようとしていたところへ、ちょうどパナマ運河疑獄事件(第113話『内部者インサイダー』(注1)参照)で国内世論が荒れていたフランス政府から反発する大衆の言論を封殺する一手段として少しでも政権に反抗的だったり、国家にとって不要と思われる大衆をあぶり出し、精神病患者に仕立てて収容できるような検査法を作ってほしいと依頼され、作成したのが“IQテスト=知能検査”だった。だから、反抗しやすく自分の意見や考えを持ちたがる者や政府(王室)が保護を放棄し、教育の機会や限定的な知識しか得られない病人、障害者、貧困者、孤児、外国人移民などは排除してあくまで政府(王室)に従いやすく、政府(王室)の求める均一的な大衆だけを選択できる手段としてIQテスト(知能検査)はたちまち各国政府に採用され、いろいろ改編されてはいるものの、ビネーが作成した当時と“その検査目的は変わらず”、今日まで続けられることとなった。)のような適者を選別する方法でふるいに掛け、政府(王室)にとって不要と判定された人々を精神病院へ送り込み、解剖や人体実験台にして次々と淘汰とうたしていった。




そうして、フランシス・コッブスのような無知蒙昧むちもうまいな大衆が二度とイギリス政府(王室)のご下命を受けた疑似科学者達の行う生体解剖実験を妨害したり、非難できなくするため貧民層が多く住む下町イースト・エンドにあえてイギリス政府(王室)を批判したり、反抗する振りをして大衆を懐柔するスパイ達を大勢、まぎれ込ませ、本や雑誌などのメディアによる宣教の他に、仕事や住居などのえさをばら撒いて彼らを抱き込むことにした。



そのスパイの一人がベアトリス・ウェッブという女性社会運動家で、彼女の父親は材木を輸入する商社を経営しながら軍の仮兵舎建設という公共事業を任されていたイギリス政府(王室)のスパイであり、あのアメリカ機械学会を創らせたスパイ仲間のイサムバード・キングダム・ブルネル(第103話『略奪』(注2)参照)や看護師を装うナイチンゲールと共にクリミア戦争の際にはイギリス軍の為の病院も建設していた。

また、祖父は自由党(前身はホイッグ党(第114話『細胞』(注2)参照)の議員であり、自分達に有利な選挙制度に変えようとそれに賛同する企業経営者や新聞記者、雑誌編集者などを自宅に招いてリトル・サークル(=Little Circle)と名付けた会合を開き、少数の仲間内だけで法律や政策を決めるといった寡頭かとう政治を行う金権政治家で、世間では彼らの会合が開かれる客間を“陰謀の応接室”と呼んでいたほど黒い噂の絶えない家系であり、そうした裏工作で長年、稼いできた一族の地位や財産を維持していくため、ベアトリスも姉のキャサリンも父や祖父からイギリス王室(政府)のスパイとなるべく育てられていて、彼女達の役割はもっぱら慈善事業やキリスト教宣教活動、反戦運動、社会改革運動などを通じて支援を求めてやってくる貧民層に食料や住居などを施し(The East End Dwellings Company 1882年設立)、救済する振りをしながら実際は“協同組合”(=the Cooperative、略してCo-op、出資金などを出し合って一つの経済集団(団体)を形成し、その経済集団(団体)内だけで互いに欲しい物品やサービス、衣食住を満たそうとすること。いわゆる国家(共同社会)の中にもう一つ別の共同社会(国家)を築いて最終的に自給自足を目標とする自治組織(団体)を指す。16世紀のトマス・モアが描いた理想郷ユートピアの構想(第107話『革命(2)』(注2)参照)を体現しようと18世紀頃からスコットランドやウェールズなどイギリス国内で相次いで協同組合が結成され、またたく間に世界的な流行となった。その流行のきっかけを作ったのがウェールズ出身の織物商人のロバート・オーウェンという男で、市民革命鎮圧の為のナポレオン戦争で大量生産方式が必要になったことから工場制が導入されるようになり、この工場制に機械工業を組み合わせ、たくさんの労働者を集めて工場制機械工業(=the Mechanized Factory system)を始めたのがこのロバート・オーウェンだった。根っからの偽善家で口だけは達者なオーウェンは自身が始める工場への出資者と労働者を集める際に「出資額に応じて利益を還元します」とか「高賃金な上に労働時間も短くし、工場で働いてくれる貧しい子供達にも教育を受ける機会を提供します」といったいろいろな福利厚生(=Employee benefits)を盛った誘い文句で釣ったため、現実は中身の薄い教育にサービス残業、賃金から組合費や福利厚生費などを“天引き”(まるで天の神が人間達に貸している日光代や空気代を徴収するかのごとくあらかじめ所得から雇用主が税金や借金などを差し引くこと。)されてかなり低賃金な上に、会社(組合)内で良質な食料や物品が手に入るといった触れ込みも実際は劣悪な商品だったり、あるいは巷で買う商品よりも価格が微妙に上乗せされていて利益のほとんどをオーウェンと彼の仲間である一部の高額出資者だけが独占するような経営システムになっていたのだが、オーウェンが雇った労働者のほとんどが前科者だったり、今日、食えるか食えないかの貧しい人ばかりだったため、たとえオーウェンの誘い文句が嘘だったとしてもそれを非難して解雇されることを恐れて真実を暴露できなかったのと、何より衣食住などの生活の基盤となるような商品やサービスを彼らに提供してできるだけ外界との接触を絶たせ、徹底した洗脳教育を施すことでオーウェン教徒(奴隷)化することに成功したからだった。その結果、大量の労働者を抱えて大工場の主となったオーウェンは新聞社や雑誌社なども買い込んで自分の思想を宣伝したことで一躍、人気者となり、欧米各国にその名が知られるようになった。そして、この彼の思想に基づいて1844年に結成されたのが“ロッチデール先駆者協同組合”(=the Rochdale Pioneers Co-operative、またはThe Rochdale Society of Equitable Pioneers)である。今日では『ロッチデール原則』と呼ばれる1. 出資額や購買高に応じた利益の分配、2. 出資額に関わらず一人一票制とし、組合員は全て平等(?)、3. 政治及び宗教において中立、4. 組合員の教育の促進といったオーウェンが成り行きで宣教した誘い文句をルール(原則)に定め、協同組合なる経済集団(=共産主義経済)がイギリスに誕生することとなった。この協同組合の誕生がフランス革命で存続の危機に立たされていたイギリス王室(政府)の救いになったことは言うまでもない。徹底した洗脳教育を行うことで市民革命を抑えられることを知ったイギリス王室(政府)は以後、このオーウェン主義(=Owenism)または空想的ユートピア社会主義(=the Utopian socialism)を実践するようになり(第103話『略奪』、第104話『蒙昧』参照)、特に植民地にしたアメリカやロシア、中国、日本などにおいてこの協同組合の制度を敷いていったことで後にソ連邦や中国共産党を創設させることにも繋がっていった。日本でもこのオーウェンの思想をどこからか聞きつけた大原幽学おおはらゆうがくという男がまだ江戸時代だった1838年に先祖株組合せんぞかぶくみあいという農業協同組合をイギリスに先駆けて結成したが、元々、流浪の放蕩者ほうとうもの用心棒ようじんぼうや占い師などのヤクザ稼業で生計を立てていて農業などさっぱりやったことのない男だったのに突然、農村指導や農業改革などを訴えてカルト宗教じみた学問を掲げて信者を増やし、共同で農地や農具を購入するからと偽って、いわゆる現代で言うねずみ講(自分も出資するが、他人も誘って出資してもらうと他人の出資額の半分が自分に戻ってくると言われて騙される詐欺商法)を行い、そうして集めた金を勝手に賭博とばくに使っていたのだが、博打ばくち仲間の裏切りにあって江戸幕府にたれ込まれ、結局、先祖株組合は解散することとなって破綻はたんし、無一文になった幽学は切腹自殺した。このように当初から資金集めの口実に過ぎない協同組合の仕組みはお互いに技術や品質を競い合って切磋琢磨せっさたくますることは滅多とないため、産業を向上させたり、発展させることはほとんどなく、ソ連や中国共産党の政党幹部達が価格操作して利益を独占し、国家経済が崩壊した歴史が証明している通り、協同組合を提唱したオーウェン自身も時と共に世間の関心が薄れ、資金集めが難しくなってくると組合員同士の配当を巡る利益争奪戦に敗れ、破産した。そんな最初から失敗が目に見えているような制度でもイギリス政府(王室)やその他の国々の政府にとって協同組合は多勢の組合員が徒党でもって個人の経営者を駆逐くちくしてくれ、談合的に価格操作する上でも都合がよく、そのため協同組合はどの国でも独占禁止法の適用を除外されていて補助金や税率の優遇なども設けられている。現代での協同組合の例としては、全国農業協同組合中央会(JA全中)、全国農業協同組合連合会(JA全農)、全国共済農業協同組合連合会(JA共済連)、農林中央金庫(農林中金、富裕層を中心に個人投資家から金を集めて運用する日本最大のヘッジファンドである)、日本生活協同組合連合会(生協)、全国労働者共済生活協同組合連合会(こくみん共済Coopまたは全労済)、全国漁業協同組合連合会(JF全漁連)、大学生協などがある。また、洗脳教育を行う協同組合の例としては“幸福会ヤマギシ会”が悪名高く、1958年(昭和33年)に組合員達に嘘をついて呼び寄せ、監禁して講習を受講させたとのヤマギシ事件を起こし、1994年(平成6年)にはヤマギシズム学園内で暴力や食事制限などを受けていた子供達の証言が報道されて児童虐待が発覚した。それでもヤマギシ会は現在も農林水産省が認定し、税優遇されている農事組合法人の中でも日本最大の売り上げ規模を誇っている。ちなみにヤマギシ会を創設した山岸巳代蔵やまぎしみよぞうは自身の著書である『世界革命実践の書』(1994年発刊)の中で「悪性遺伝は子孫に不幸をもたらす」などと訴えており、まさに優生学の化身でもあった。)という制度の下で彼ら貧しい労働者達をある特定の地域に押し込めて洗脳教育することと、生物兵器を開発する為に利用できる広範囲な人体実験地域を政府(王室)に提供することだった。


そのため、スパイとして貧民街に送られたベアトリス達は敵情視察として一区画一区画、貧困度を調査して回り、路地の津々浦々まで地図にしてまとめた『Life and Labour of the People in London』(邦題では『ロンドンの民衆の生活と労働』、チャールズ・ブース著となっているが、ブースはベアトリスの親戚であり、ベアトリスも彼のアシスタントとして調査を行って書き上げられたものである。)を1891年から1903年の12年もの長い期間に渡って何度も改訂を重ねながら17巻にも上る膨大な調査結果データを発刊(公表)し、表向きは貧困を解消して労働者達の生活を改善する為の調査だと言っているが、実際はどの地区にどのくらいの人口がいて、どのような生活を送り、犯罪多発地域かどうかを把握する為であり、たとえ生物兵器(人工培養させた病原菌や神経ガス兵器など)を使って人体実験をしてもさほど罪悪感のわかない、大量に人が死んでも怪しまれない、そして何より世間の同情や反感も買いにくい地域を特定していった。

だから、調査結果は全て各世帯を“階級(身分)毎に”区切っており、できるだけ自分達、王室(政府)に関係する特権階級が住む地域に人体実験を行う際の危険が及ばないようにする為の“人災防止地図マップ”でもあった。


また、この『Life and Labour of the People in London』を収蔵しているロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(=the London School of Economics and Political Science、略してLSE。2019年時点で学生数は約1万1千人以上、公費(税金)である研究補助金3,210万ポンドを含めて学費収入4億1,510万ポンド(日本にして約539億6,300万円))も元々は空想的ユートピア社会(共産)主義や優生学、同性愛者の権利拡大を求める政治家や知識人達のサークルとして設立されたファビアン協会(=the Fabian Society、“ゲリラ戦”を行ったことで有名なBC3世紀のローマの軍人であるクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェルコッススのファビウスにちなんで名づけられた。イギリス労働党(=the Labour Party)の党員の多くがこのファビアン協会に所属していた。)のメンバーでもあったベアトリスと彼女の夫で労働党の国会議員のシドニー・ウェッブ、劇作家のジョージ・バーナード・ショーなどがファビアン協会の政治思想を教育(宣教)する機関として1895年に創設した大学であり、今でも学生の7割が外国人留学生で、これまで55人もの国家元首と18人のノーベル賞受賞者(第113話『内部者インサイダー』参照)を輩出していることからしても分かる通り、ベアトリスのようなイギリスのスパイ達が行ってきた一般庶民への洗脳教育(世論操作)と特に貧民街区域及びそこに住む貧民層を標的ターゲットにしたゲリラ戦法的な人体実験を自分達が植民地にした海外でも実践させる為の高等(?)教育機関にもなっている。


そして、このLSEのドイツ政治学の教授でケンブリッジ大学では数学も教え、LSEの他にオックスフォード大やケンブリッジ大などのイギリスでエリート校とされる24もの大学を束ねるイギリス大学同盟団体のラッセルグループ(=The Russell Group)の頂点に当時、君臨していたのがラッセル伯爵家の次男、バートランド・ラッセルであり、その彼の弟子となっていたのが生活協同組合コープこうべの創始者でキリスト教宣教師、日本社会党の結成メンバーでもあった賀川豊彦かがわとよひこである。




賀川も日本では「貧民街の聖者(?)」と呼ばれるほど熱心な慈善活動家として知られ、記念館まで建てられて称賛されているが、実際はベアトリスと同じイギリスを始めとした欧米のスパイであり、彼の活動は主に核兵器開発の為に人体実験区域を欧米と日本の皇室(政府)に提供することだった。


当初はその当時の主要戦術だった細菌戦を想定し、結核菌やクラミジア・トラコマチス菌(目と性器に感染する病原体で、性行為で感染した場合は性器クラミジア感染症や性病性リンパ肉芽腫にくがしゅを発病し、産道を通じて乳児に感染した場合はトラコーマ(伝染性角結膜炎)や新生児肺炎などを引き起こす。人工培地では増殖できない病原体であるため人体を培地にして増殖させるのだが、感染しても本人に自覚症状がないため拡散させやすかったのと、重症に陥るのは感染した大人よりも出産時の乳児の方で、トラコーマ(伝染性角結膜炎)で失明したり、新生児肺炎で亡くなることが多かった。)などの病原菌を同じスパイ仲間で偽装結婚していた妻のハルに近所のお産のお手伝いと称してばら撒かせていたが、時々、衛生管理に失敗して自分達も結核を患ったり、片目を失明するといった被害にあったためさすがに断念し、新たな戦略を求めて1914年(大正3年)にアメリカのプリンストン大学に留学した賀川はちょうどイギリスの“キャヴェンディッシュ研究所”(=the Cavendish Laboratory、18世紀に核兵器の基礎となる物質間の電磁力で化学反応させて融合させること(=核融合反応)を発見したイギリスの高位の貴族であり、兵器開発科学者だったヘンリー・キャヴェンディッシュ・デボンシャー公爵の遺産によりケンブリッジ大学内に建てられた研究所で、今でも『核物理学のメッカ』と呼ばれている。1874年創設)から引き抜かれてプリンストン大学の物理学教授になっていたオーウェン・リチャードソンの指導によって同大学内で密かに研究開発が進められていた核兵器を知ることとなった。

(元々、イギリス王室(政府)直属の教育機関としてキリスト教宣教師(=傭兵)の育成と兵器開発をになっていたプリンストン大学は、後のアメリカ大統領で第一次世界大戦終結の際に『14か条の平和原則』を唱えて国際連盟を築くことになるウッドロウ・ウィルソン(第107話『革命(2)後書き(注2)その3』参照)を学長に迎えた頃からその兵器開発に拍車がかかり、生物兵器(細菌)はもちろん、核兵器開発にも積極的に乗り出すようになって、前述のリチャードソンを始め、アルベルト・アインシュタインやジョン・フォン・ノイマン、ユージン・ウィグナー、リチャード・ファインマンなどの似非エセ科学者達を招き、何の罪もない赤ん坊を含めた一般市民を原子爆弾で20万人以上、生きたまま丸焼きの供物(ホロコースト)にするマンハッタン計画を立案したのもまさしくこのプリンストン大学である。)


その上、賀川はその留学前からこれまたイギリスのベアトリス達と同じく、貧民街の様子やその地域の人口、世帯数、面積などを調べ上げ、富裕層や特権階級の居住区域に危険が及ばないよう人体実験区域を特定させる『貧民心理之研究』(1915年(大正4年)発刊)という調査報告本まで執筆していた。


そのため、こうした日本での諜報活動や留学で得た核兵器についての知識と人脈、何よりその英語力などからイギリス王室(政府)のスパイの若頭わかがしらであるバートランド・ラッセル“伯爵様”のお眼鏡にかない、アインシュタインなどの欧米諸国のスパイ達とも連携して賀川は日本での核兵器による人体実験を推し進め、その最初の核実験となったのがあの1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災だった。(第107話『革命(2)(注2)その1』参照)



本文(第115話『生命』)で紹介したニールス・フィンセン医師が太陽光線の持つ医学的(生理学的)効用を証明しようとして行った赤外線照射による天然痘治療や紫外線照射による狼瘡ろうそう(結核菌が血行によって運ばれて顔の皮膚が凸凹デコボコになったり、紫色のあざのようなものができる病気)治療は見事に成功し、1893年には『Finsen Om Lysets Indvirkninger paa Huden(邦題にすると『皮膚における光線の効果』)』を、1895年には『Om Anvendelse i Medicinen af koncentrerede kemiske Lysstraaler(邦題にすると『医学における化学光線の照射法』)』などの論文を次々と発表して世間の脚光を浴びることになったのだが、フィンセン医師としてはあくまで自分の先天的な病気を“治療する為に”光線を研究し、自分と同じように病に苦しむ人々を助けたい一心で「強い光線を人体に当ててはいけない」と警告したはずなのに何を勘違いしたのか、フィンセン医師の光線療法は太陽光線よりも強い放射線を放つ瀝青れきせいウラン鉱(ラジウム)を軍事研究するマリー・キュリーとその夫のピエールに真逆に曲解されて瀝青ウラン鉱(ラジウム)の放つ光線で人体を殺傷できると気づかせることになり、抽出したラジウムを自分の腕にわざわざ張りつけて火傷やけどするのを確認したキュリー夫妻は表向きは医学の発展の為だとか放射線療法などと調子のいいことを言って世間を煙に巻きながら実際は兵器の爆薬として瀝青ウラン鉱を特定するに至った。(だから、フィンセン医師もキュリー夫妻と同じ1903年にノーベル賞が授与されている。(第112話『女傑』参照))


そして、光線療法によって人体という“物質”に光を当てると治ったり、火傷やけどするなどの化学変化が起きることが分かったことで、電磁波や瀝青ウラン鉱から放出される放射線をα(アルファ)線、β(ベータ)線、γ(ガンマ)線(放射線は他の物質を通り抜けてその物質が持つ電子(マイナスの電気)を引き離す性質があり、他の物質を通り抜けやすい順にα線<β線<γ線となっている。ただし、α線は紙でさえぎることができ、人体は皮膚で覆われているので通り抜けできない。β線は人体を通り抜けるが、アルミニウムなどの薄い金属板でさえぎることができる。γ線は鉄や鉛のような分厚い金属でないとさえぎれず最も物質を通り抜けやすいが、電子を引き離す性質ではγ線<β線<α線なので、人体に影響を与える化学反応を起こさせる点ではγ線は弱い。ちなみに、医療用レントゲン検査(人体透過写真撮影)で使われるX線はγ線と同じ性質の放射線である。なお、“中性子線”と呼ばれる放射線もあるが、こちらは元々、物質の中の電気の要素である陽子(プラスの電気)、電子(マイナスの電気)、中性子の一つを無理やり取り出したもので、他の放射線よりもエネルギーが大きくあらゆる物質を通り抜けやすいものの、水やコンクリート(炭酸カルシウム)、パラフィン(炭化水素)などではさえぎられる上、15分程度で崩壊し、さらに元から電気そのものを持っていないためほとんど物質に影響は与えないはずだが、故意にエネルギーを小さくして水以外のウランのような他の物質に(かなりコツがいるらしいが)照射すると自然の法則で結びつこうとして逆にウランという物質の原子核を分裂させる性質がある。ただし、中性子線は人体に入ったとしても人体は水がほとんどなので吸収されて約15分程度で消滅する。そのため、材質に影響をほぼ与えず、水以外のあらゆる物質を透過する特性を生かし、X線撮影では構造内部を精密に見ることができなかった食品や鉄鋼、電子部品などの欠陥及び不具合を検査する非破壊検査などで応用されることもあるが、中性子線は抽出自体に時間と費用がかかるためそうした非破壊検査に使われることはまれである。むしろ、これを使用するのは故意にウランを破壊して起爆剤とする原子力発電と核兵器開発ぐらいなものである。)と分類して研究していたキャヴェンディッシュ研究所所長のアーネスト・ラザフォードは、キャヴェンディッシュの言った電磁力で物質が化学反応して結合するとの発見から光という電磁波を照射することでウランが核分裂して別の物質と結びつき、より安定して地球上で存在できる物質になろうと化学変化することが分かり、そこから歴史的に国家産業として傭兵ようへいや兵器開発をしてきたスイスのチューリッヒ工科大学(=Eidgenössische Technische Hochschule Zürich、Swiss Federal Institute of Technology in Zurich、略してETHZ、スイス連邦政府によって1855年に設立され、主に数学、科学技術、工学、建設学、森林学を教育してヨーロッパ各国政府に派遣する傭兵ようへいを育成することを目的とした大学である。なお、上記以外の教科として文学や政治学などが含まれるのは言語を駆使して世間をあざむくスパイとしての宣教活動が含まれる為であり、これまで21人のノーベル賞受賞者を輩出し、ETHZがスイス連邦政府の直属機関となっているのも表向きは傭兵ようへいを廃止したと言いながら実際はスイスが未だ傭兵ようへい業を続けているからである。そのため、キリスト教の本家であるバチカン市国で警備をするのは今もスイス傭兵ようへいとなっている。(第103話『略奪』(注1)参照))を卒業後、これまたスイス連邦政府の行政機関の一つである特許庁に勤めていたアルベルト・アインシュタインが妻のミレヴァ・マリックの考え付いた“特殊相対性理論”(= the special theory of relativity、電磁波(光)によってどのくらいの速さや距離、範囲、ウランの質量で核爆発が起き、静止している物体だけでなく、動いている人体にも影響を与えられるかについて計算し、まとめた論文。今日までにいろいろな解釈がなされ、概念的な時間や空間、運動の法則について説明している論文だと思われがちだが、実際は核爆弾を開発する為だけに書かれた理論である。だから、論文の題名も『Zur Elektrodynamik bewegter Körper(邦題では『動く物体(=人体)の電気力学について』)』となっている。そして、この論文の結論として導かれるのがかの有名な“E=MC²”である。正式に書くとEnergy(E、エネルギー)=(Molecule(M、分子)×Celeritas(C、光もしくは電磁波の単位))2となるのだが、一般的にはMolecule(分子、原子が電気で合わさった物質の単位)と言わず、Mass(物質の塊、質量)としか教えないのもこの公式が原子爆弾の仕組みを表している軍事機密だからである。原子爆弾の仕組みについては本文で詳しく説明するが、ここで簡単に言うなら光または電磁波により相対ペアになっているウランの塊を化学反応で他の分子と結び付けること(核融合反応)で爆発エネルギーが生まれるという意味になる。元々、この公式の基礎となっているのはメソポタミア文明やインダス文明でカレンダーや時間の計測の為に天体の位置を正確に知ろうとして使われていた逆二乗の法則という天文知識を利用したもので、光を発している天体から地球までの距離を測る際にその光の強さを観察し、一定の距離があれば光の強さは半減すると考え、そこから距離が遠ければ遠いほど光はどんどん半減していくとした法則であり、それぞれの光の強さで動く天体の位置を特定していったもので、天体が球体であることを既に知っていた古代人達は天体の放つ光は全方位に放射されるとして逆に天体の大きさもその距離から計算していた。その逆二乗の法則を爆発して放射線を放つ原子爆弾に当てはめたのが当時、アインシュタインの妻だったミレヴァ・マリックである。ミレヴァは幼い頃から軍人だった父親から軍事の英才教育を受けてきた女傭兵であり、高校もその数学と物理学の高成績で唯一、男子校に入学が許可された特異な女子生徒で、アインシュタインと同じチューリッヒ工科大学(ETHZ)でも6人しかいない同級生の中の紅一点だった。一方、アインシュタインは全く成績の振るわない落ちこぼれだったのだが、高校生の時に下宿していた先が自分の学校の校長の家であり、そこの家の娘とできてつい、妊娠させてしまったことから仕方なく彼と娘との結婚を考えた父親がアインシュタインの生計が立つようにと高校も密かに加点して卒業させ、ETHZにも推薦状を書いて裏口入学させたからで、数学や物理学はできなくてもアインシュタインは他人をだます才能が抜きんでており、特に女や子供、大衆をたぶらかすスパイという点では彼はかなり優秀だった。その後、ETHZに入学してミレヴァに利用価値を感じた彼は早速、用済みとなった校長の娘を捨て、大学で自分と同じ落ちこぼれだった親友の男を口説き落として校長の長女に引き合わせ、二人を結婚させると、今度は自分が妊娠させた校長の末娘が生んだ子供を引き取らせるといった芸当までやってのけている。そんな根っからの結婚詐欺師のアインシュタインに口説かれたミレヴァはさすがに勉強はできても恋愛にはからっきし初心うぶだったためすっかり骨抜きにされてしまい、大学の卒業試験も実は彼女がアインシュタインと自分の解答用紙を取り替えたり、カンニングさせるなどの不正をして彼を卒業させ、自分は妊娠して中退することとなった。その後、一応、結婚はしたものの、その結婚生活はアインシュタインが生活費のほとんどをミレヴァから取り上げて毎日、彼女に洗脳的な暴言を吐くという凄まじい家庭内暴力(=Domestic Violence、略してDV)の連続で、結局、ミレヴァも彼女が生んだ息子も精神を病むことになり、最後はアインシュタインにどちらも捨てられることになるのだが、そうしたゆがんだ異常な夫婦関係から特殊相対性理論も洗脳されて自尊心を失っているミレヴァが献身的な妻として夫であるアインシュタインに社会的な地位や名誉、褒賞ほうしょうなどがもたらされるよう自分を犠牲にして書いたものである。)を自分の名前で1905年に発表していて、基本的な核兵器の仕組みは1920年頃までには既に完成していた。


だから、ソ連政府を樹立させる為に出資していたウィリアム・モリス(第107話『革命 (2)』(注2)参照)の家で開かれるファビアン協会の会合にベアトリス達と一緒にメンバーとしてしょっちゅう出入りし、『The Time Machine(邦題は『タイムマシン』)』(1895年発刊)や『The Invisible Man(邦題は『透明人間』)』(1897年発刊)『The War of the Worlds(邦題は『宇宙戦争』(1898年発刊)などのSF(空想科学)小説で黒い煙の化学兵器だの、細菌をばら撒くテロリストだの、優生思想に憑りつかれた医学生が光を屈折させる技術を開発し、透明人間に化けて殺人を繰り返すといったホラー(恐怖)じみた作り話でもって近未来を描いたことでよく知られる小説家のハーバート・ジョージ・ウェルズがこれまた自身の書いた『The World Set Free(邦題にすると『自由になれる世界』)』(1914年発刊)の中で核兵器の到来を予告できたのも、あながち彼の小説に出てくる登場人物や新兵器は全て彼の空想から生まれた嘘という訳ではなく、むしろウェルズ自身がファビアン協会に出入りしているうち実際にテロやスパイ活動をしている人物達と接触したり、化学兵器や細菌(生物)兵器、核兵器などの開発情報も知り得たからである。



そのウェルズと同じように賀川豊彦もアメリカのプリンストン大学で核兵器開発の情報をつかみ、帰国後は日本での核実験を実施しようと日本政府(皇室)と欧米のスパイ達との間を取り持つ一方、相変わらず細菌(生物)兵器を使っての人体実験もあきらめきれず、今度は自分と同じ優生思想に賛同し、産児調節運動を提唱していた医者の馬島僴まじまゆたかを仲間に引き入れ、これも以前と変わらず慈善家を装って貧困世帯への無料巡回診療を行ったり、あるいはイギリスのベアトリスやソ連のレーニンと似たような労働組合や農民組合などを結成して不当な扱いや低賃金にあえぐ貧しい労働者や農民達を焚き付けてデモ(暴動)を起こさせ、結局、裏で密かに彼らをまとめて警察に売るといった社会(共産)主義活動に勤しんでいて、誰も賀川がそんなテロ行為にふけっていることを怪しむこともなければ、たとえ彼がアメリカに留学した経験を持つキリスト教の牧師だとしても、どうして賀川がイギリスの高位の貴族のバートランド・ラッセルやまだ、アメリカにはいなかったはずの物理学者(という肩書)のアインシュタインと知り合いで、関東大震災が起きる前の年に次々と彼らが来日し、わざわざ賀川の住む神戸の貧民街にまで彼らを招待できたのか誰も疑問にも思わなかったようだった。



そうして迎えた1923年(大正12年)9月1日、マグニチュード7.9の大きな揺れがまず、神奈川県の相模湾さがみわんと東京湾北部を襲い、それからさらに静岡県から山梨県の東部に及んで、その後、埼玉県や千葉県の房総半島ぼうそうはんとうでもほぼ同じ規模の揺れを観測した。

このように被災した地域が関東全域になっていて広範囲だった上、本震と思われる揺れがあちこちに起こってばらつきもあったため当初から震源地が定まらず、とりあえず被害が最も甚大だった相模湾周辺を震源地として発表したものの、実際にはそれぞれ複数個所に仕掛けられた核兵器が爆発しただけなので揺れの発生源がバラバラになるのも当然だった。

ただし、この頃は中性子線を利用した技術がまだできていなかったので、彼らが仕掛ける核兵器にはある制約があった。


それは“水”がある場所でしか爆発させられないということだった。


上述した通り、原子爆弾の仕組みとは自ら放射線という光を放つウランが“水分子(H2O)”と化学反応して酸素を奪い、水素ガスを発生させることから始まる。

そして、水素ガスは第98話『不浄(2)』でソドムとゴモラの街がどうして吹っ飛んだか説明したように、そこに熱(=光)が加わると水爆に変わる。

だから、相模湾や東京湾などで水雷すいらいとして仕掛けられた核兵器が大きな爆発を起こしたのだが、では、なぜ、海から遠く離れた都心や埼玉などで大きな揺れや火災が発生したのかというと、実はこの頃は都心でも井戸がたくさん設置されていたからである。

つまり、井戸の中にもいくつか核兵器を放り込んで仕込んだようなのだが、人が大勢住む都心となるとその仕掛けに気づく人が出てくるのも時間の問題だった。

そこで日本政府(皇室)は自分達の犯罪が発覚するのを恐れ、当時、自分達を支持したり、擁護する記事を書かせていた東京日日にちにち新聞(現、毎日新聞)や栃木県の下野しもつけ新聞、群馬県の上毛じょうもう新聞といった政府(皇室)御用達の新聞社だけを震災の被害からまぬがれさせ、『不逞鮮人ふていせんじん(=不埒ふらちな朝鮮人が)各所に放火し帝都(都心)に戒厳令をく』や『不逞鮮人多数入り込み井戸に毒薬を投じ石油を屋上に注ぎ放火をすの恐れ』、『鮮人と主義者が略奪、強姦をなす』、『爆弾を携帯/鮮人高崎駅で三名』といったような、日本政府(皇室)の都合で植民地として併合され、軍事(暴力)政権による虐待や搾取さくしゅ、不当な労働条件から逃れようと三・一独立運動(1919年)や社会主義運動などに傾倒していた一般の朝鮮人や日本人の労働者達が暴動を起こしたといわんばかりの論調の新聞を震災直後で不安や恐怖におびえる一般市民の間に出回らせ、実際は自分達、朝鮮半島出身の皇室(第110話『灌漑かんがい』(注2)参照)が雇い入れた特定の朝鮮人のスパイや、賀川のような社会(共産)主義者、キリスト教の宣教師などに命じてやらせたテロリスム(無差別攻撃)であるにも関わらず、何の罪もない一般市民にその罪の一切をなすりつけた。


そうして、いかにも自分達は善良な市民や正義の味方、皇室に至っては自分達こそ神だと名乗って治安維持などと聞こえのいい大義名分を掲げながら軍や警察、自警団を介入させ、濡れ衣を着せた一般の朝鮮人や日本人も含めた貧民や障碍者しょうがいしゃなどにも難癖なんくせをつけて殺して回り、時にはどさくさに紛れて女達を凌辱したり、強姦し、妊婦でも容赦なく腹を割いて胎児を引きずり出し、わざわざ陰部を竹槍で突いてなぶり殺しにしたりした。

それが何と6千人も犠牲になったと言われ、震災(被爆)で死亡や行方不明になった人が約10万5,385人、全壊全焼家屋が約29万3千戸以上、それだけでも許し難い大罪なのにそれに加えてこの無差別テロ行為なのだから、もはや人でなしどころか鬼畜の所業としか言いようがない。


そのテロ行為をして回っていた自警団に参加していたのが、かの有名な文豪の芥川龍之介あくたがわりゅうのすけである。


元々、彼の師とされる夏目漱石なつめそうせきやその夏目の友人で俳句雑誌『ホトトギス』(1897年発刊)で俳句の選者を務めた正岡子規まさおかしきなど、全員、第一高等学校(または旧制一高)と呼ばれる、日本でエリート校とされた一高から八高まで数字によって名付けられたナンバースクールの一つであり、現在の東京大学教養学部と千葉大学医学部及び薬学部の前身となる学校の卒業生だった。

つまり、彼らはイギリスのラッセルグループが束ねている大学と同じで、日本政府(皇室)のスパイ(傭兵)となるべく養成される学校の出身者ということになる。

そのため、一見、俳句という何の変哲へんてつもない風流な詩で生計を立てているように思われる正岡子規も実はスパイ同士の暗号に俳句や短歌を用いていただけで、夏目漱石も英米から送られてくる兵器開発の為の資料や機密情報を翻訳することが本業であり、彼らと同じく芥川龍之介も政府(皇室)のスパイ(傭兵)の一人だった。

だから、震災直後に芥川が書いた『大正十二年九月一日の大震に際して』(1923年発刊)にも度々、「大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた」とか、「なんでも○○○○はボルシエヴイツキ(第107話 革命(2)後書き(注2)その1参照)の手先ださうだと云つた」とか、大地震が予言できたなどとの記述があるのも彼が既にいろいろと核兵器についての情報や社会(共産)主義運動がイギリスやアメリカによって輸入された陰謀だということをよく知っていたからである。

ちなみに、阪神大水害での人体実験の話を盛り込んだ小説『細雪ささめゆき』を書いた谷崎潤一郎も芥川と同じ第一高等学校(旧制一高)の出身である。(第107話 革命(2)後書き(注2)その1参照)

いかにこの当時、日本の皇室(政府)は絶対神としてまつられ、彼らが元は武家(軍人)や富裕層といった特権階級の出で幼い頃から「皇室(政府)=現人神あらひとがみには逆らうな」とか、「国家を守る為に軍事(暴力)は絶対に必要悪だ」と徹底的に教え込まれて育ったからと言っても、彼らの生計や社会的地位の安泰の為に無差別に罪もない社会的弱者を虐殺するテロ行為の言い訳になど全くならない。

それゆえ、良心の呵責かしゃくに悩まされた芥川が徐々に精神を病むようになったのも当たり前で、彼が晩年に書いた『河童カッパ』(1927年発刊)でも欧米の白人種だけが優れた人種だと宣教し、その白人種のみ、特にその血を受け継ぐイギリス王家のみを生き残らせる為に優生思想を基盤とした社会を築こうとする英米人達を架空の妖怪の河童カッパ(頭のてっぺんが禿げているキリスト教の宣教師)に例えて風刺しながら、自身もその善悪本末転倒した歪んだ社会の一員にならなければ生計を立てられない矛盾にもがき苦しみ、狂っていく姿がよく描かれている。


その発狂した芥川が「橋の上ゆ胡瓜きゅうりなくれは水ひひきすなはち見ゆる禿かむろの頭(橋の上からキュウリ(キュリー夫妻が発見したウラン)を投げれば水の音が響いて即座に思い起こす禿げの頭(キリスト教の宣教師))」との短歌を遺して自殺か、他殺か判別できないものの、突然、35歳でこの世を去ったのとは全く対照的に、キリスト教の宣教師でもあった賀川は震災直後もきき々として神戸から船に乗って都心へ駆けつけ、救済活動ボランティアと称して人体実験の検証に抜かりがなく、無料の宿泊所や診療所を設けて被災(被爆)した一般市民を集めて健康状態を確認する一方、そこでもなお、細菌兵器をばら撒いたりして彼らを殺している。(賀川豊彦著『バラックの六畳の間より』1924年発刊参照)

その後も口先だけ反戦や非暴力、平和などを唱えながら賀川は英米に操られて木偶でぐの坊にされている皇室(政府)のやり方に疑問を抱いたり、本気で戦争に反対しようと批判する一般庶民をおびき寄せて社会的に抹殺できるよう、神の国運動と呼ばれるキリスト教思想(優生思想)に基づいた社会事業、すなわち、神=皇族を崇め奉るよう洗脳教育する為の学校や保育所、病院、労働組合、農業組合、消費者組合、銀行、政党などの“組織(集団)”を創設し、そうした人間関係の繋がりや制度で標的ターゲットにした一般庶民をがんじがらめにする社会運動を展開して何も知らない一般の日本人達をそれとなくデモ(暴動)や反戦集会に参加するよう焚き付け、特高(現、公安警察)に逮捕されやすくしたり、あるいは非暴力や反戦思想だったはずの人々をいつの間にか逆に暴力や戦争に賛同して裏でテロ活動する賀川の手下になるよう誘導していった。



その間、神の国運動の一環として海外での伝道(講演)活動の際に欧米政府と日本の皇室(政府)との軍事機密の情報交換役を担っていた賀川は、太平洋戦争の調整役コーディネーターにもなり、それまで度々、警察に逮捕されては釈放され、政府(皇室)にとっては厄介な危険人物のはずの賀川がなぜか開戦前には平和使節団と称して政府(皇室)直々(じきじき)の依頼でアメリカを訪れ、平和交渉は見事に決裂して、開戦日も彼が予告するかのようにして開いた一週間の祈祷会が終わった直後にラジオから真珠湾攻撃の報道が流れるという茶番ぶりだった。




戦後はマッカーサーにも民間人で初めて謁見えっけんし、天皇制存続の為に日本国憲法の第一条にその条項を盛り込むよう進言して実現させ、さらに政治家として東久邇宮内閣参与ひがしくにのみやないかくさんよ(政府のアドバイザー役)や国家に貢献したとして生涯、天皇に任命される貴族院勅選議員きぞくいんちょくせんぎいんをも務め、日本社会党の結成にも携わったが、その結党大会で自身の本音である天皇崇拝教が隠し切れず「天皇陛下万歳」の三唱の音頭を取ってしまい、他の社会党のメンバー達から非難されてその反戦思想に疑念を抱かれることとなった。

それでもなお、賀川豊彦はバートランド・ラッセルやアインシュタイン達と共に白々しく“世界連邦運動”(=World Federalist Movement、BC4世紀頃のギリシャでキュニコス派(英語ではシニシズム(=Cynicism)と書き、他人の愛や思いやりを信じず、物事を何でも悲観的に悪くとらえ、この世は絶望しかなく、生きていても意味がないとして自殺や殺人を美化する傾向にある厭世えんせい主義者のこと)と呼ばれる、世の中の道理に反して放蕩ほうとうしながら野良犬のような生活をするソクラテスの弟子チンピラ達が彼らの生き方を非難する人々に反論して提唱した、厭世主義者だけの国家(共同社会)を築くこと、すなわち、道理を説く人々に批判や非難されないよう自分達、厭世主義者の考え方や法律を絶対正義とする厭世主義者の為だけの国家(共同社会)を目指した運動のことである。言い換えれば、世俗的な悪事や犯罪に走る方が人間らしいと考え、それらを合法化して社会で許されるようにしたり、自殺や殺人を美化して奨励する国家を築く為の社会運動なのだが、表向きはそんな本音を堂々と公表できないため偽善家のソクラテスのように愛や平和をうたう“民主主義”国家を目指すとした。ちなみにコスモポリタン(=Cosmopolitan)とは元々、このキュニコス派の開祖であるディオゲネスの言葉で、現代で訳されるような世界市民とか地球市民、国際人などという大層な意味ではなく、単に“世俗”の人(=a citizen of the World)という意味である。この古代ギリシャ時代に提唱された似非エセ哲学思想を20世紀半ば近くになって突然、引っ張り出してきたのが、8か国語を話したと言うハンガリー生まれの女スパイのロジカ・シュワイマーと、アメリカのテキサス州にあるサンアントニオ市の市長の孫娘でシカゴ・トリビューンというアメリカでは知らない人はいない大新聞の創業主の孫息子と結婚していたローラ・マーベリック・ロイドという二人の女達なのだが、むろん、音楽や語学、美術といった趣味程度の教養しか学ばせてもらえないこの当時の典型的な欧米女性である彼女達が古代ギリシャ哲学など知るよしもない。だから、世界連邦政府を樹立しようというスローガンは彼女達をスパイに雇っていた英米を中心とした政府(王室)の男達、中でも第一次世界大戦後のパリ講和会議で“国際連盟”を提案したアメリカのウィルソン大統領が言い出したことなのだが、前述した通り、大統領になる前はプリンストン大学の学長として核兵器や細菌兵器を研究開発させることにかなり力を入れていた男なのだから、平和どころか戦争を止めるつもりなど更々ない。では、どうしてウィルソンら英米を始め、欧米各国政府が国際連盟やら世界連邦運動に乗り出したかというと、ギリシャ文明以来、植民地を拡大して世界征服を目論もくろむのが彼ら欧米白人種の習性であり、大航海時代からの夢だったからである。特に彼ら欧米人達には未だその製法が分からず作れない、錆びないウーツ鋼やダマスカス鋼、シュメール(メソポタミア)文明の天の牡牛(=原子爆弾)等々、人類の文明のほとんどがヨーロッパ(西洋)ではなく、中東やエジプト、インドといったアジア一帯で生み出されてきた以上、その土地を征服してアジア人達がつちかってきた技術を盗用し、その特許権を得ることがこの当時の欧米白人種が目指していたことだったため、その目的を達成するにはどうしても欧米各国政府が経済的にも軍事的にも団結する必要があった。そこで、古代ギリシャやローマの歴史、政治哲学などを学び、それらを大学でも教えていたウィルソンは、国際連盟(現、国際連合)や現在のNATO(=The North Atlantic Treaty Organization、北大西洋条約機構。北米とヨーロッパが結んでいる軍事同盟。発足時の1949年では12か国だったが、現在は29か国まで増加し、各国のGDP(国内総生産額)=税収の約2%を軍事費に充てることが加盟国の義務となっており、2018年時点でNATOの軍事費総額は約1兆米ドル(日本円にして約112兆円)でアメリカの国防費の約1.5倍、中国では約4倍、日本の防衛費との比較では約22倍にもなる。)のような“集団安全保障”(=Collective Security)の枠組みを18世紀から提案していたドイツの哲学者イマニュエル・カントの著書である『Zum ewigen Frieden~Ein philosophischer Entwurf(邦題は『永遠平和の為に~哲学的考察)』(1795年発刊)に基づき、自身が考案した14か条の平和原則を打ち出した。つまり、ウィルソンら欧米白人がいう永続的な平和の為の世界連邦政府とはあくまで欧米各国政府、王族や富裕層の人々の平和や安全を保障する為の組織であって、アジアやアフリカのような欧米以外の他の国や地域はもちろんのこと、人種に関係なく、この地球上に住む名もない一般庶民の平和や安全を保障する為の政府という意味ではない。だから、現在でもなお、“国連の介入や容認で”アジアやアフリカでは頻繁に戦争が起き、多くの一般庶民がその戦火に巻き込まれて被害に遭うのも第一次世界大戦以降、国際連盟(現、国際連合)やNATO(北大西洋条約機構)のような欧米を中心とした集団安全保障、もっと簡単に言い換えるなら欧米にとって都合の悪い気に入らない国や地域、一般庶民は欧米諸国連合軍でもって徹底的に虐殺する集団リンチ体制を敷くようになったからである。なお、哲学者のイマニュエル・カントもウィルソンら20世紀の欧米政府(王室)の男達と同様に軍事戦略として集団安全保障を提唱したのであって、決して人種を超えた世界平和や平等を求めていた訳ではない。古代ギリシャもそうだったが、ソフィズム(哲学)とは元々、中東のメソポタミア文明やインドのインダス文明などのアジアで生まれた天文学や科学を中心に研究し、そこから神や人類の起源、人が生きていく上で必要な心得、倫理というものを探求する学問だったのだが、第92話『ロゴス(言葉)(2)』で説明した通り、ギリシャ人達がロゴス(言葉)を飾ったり、音にこだわったりしてロゴス(言葉)の持つ意味(心)そのものを考えなくなり、嘘をつくようになってからは欧米では天文学や科学を含めたソフィズム(哲学)は衰退の一途をたどり、原子爆弾の仕組みで使われた逆二乗の法則のようなバビロニアの天文知識が理解できなくなっていた。そのため、カントより以前の天文学者(哲学者)として有名なポーランドのコペルニクス(16世紀)やイギリスのニュートン(17世紀)達もヘブライ語や聖書を研究して何とか中東のユダヤ人達が持つ天文知識や原子爆弾のような強力な兵器を開発できる技術を習得しようとしていたのだが、どうしてもそれが叶わず、さらに時代が下った18世紀に十字軍遠征(11世紀から13世紀まで続けられたキリスト教の欧米白人種が異教徒の中東を侵略する為に起こした戦争)の為に建造されて以降、軍港として名高かったケーニヒスベルク(現、カリーニングラード)で生まれ育ったカントもまた、石炭や穀物を取引する人畜無害な商人を装いながら実際は捕鯨船ほげいせんを始めとした軍艦や水雷すいらいなどを扱うイギリスの武器商人だったジョセフ・グリーンから仕入れた海外情報を基に自身がつちかったヘブライ語を駆使して聖書やユダヤ人達が持つ科学技術を何とか盗もうと研究していたのだが、それでも難しかったためとうとう再度、十字軍遠征をすることでユダヤ人達を奴隷にして求める兵器を作らせようという考えから生まれたのが『Zum ewigen Frieden~Ein philosophischer Entwurf(邦題は『永遠平和の為に~哲学的考察)』であり、欧米各国はお互い争わず軍備を集結させて自分達よりも強力な兵器を作れる能力のあるアジアやアフリカを侵略しようというのが集団安全保障の本当の“意味”(心)である。そしてその集団安全保障を実現する為にアメリカのウィルソンは国際連盟を提唱したのだが、言い出しっ(オナラをした人が最初に臭いと言って自身の潔白を主張するように)のアメリカのウィルソンがその彼らのいう“世界平和”とやらの臭い芝居である国際連盟に参加してその組織をけん引すべきなのだが、集団安全保障にはいろいろと制約(義務)があったり、それなりに軍事費も拠出しなければならないので、アメリカは結局、加盟しなかった。そのため、集団安全保障の構築に亀裂が入ったのだが、これを何とか再生させようとして新たにロジカのようなフェミニストのスパイ達を雇って1937年に始めたのが世界連邦(政府)運動である。ただし、あくまで表向きは戦争のない世界平和の為の運動だったのでロジカ達、女性陣を投入したのだが、彼女達の真の目的は反戦や反政府思想のある大衆の中にゲリラ的に忍び込んでかく乱し、内部分裂させながら最終的に大衆の戦意高揚と国を超えた欧米白人種の団結を促すことで、ロジカ達はこれを達成させて1938年には現在のEU(=The European Union、欧州連合。ヨーロッパ27か国が加盟する通貨や法律などを共通化させることで軍事費などの税収を上げる為に作られた共同政府もしくは政治経済共同体。1958年に発足以降、加盟国を増やして拡大してきたが、2020年1月にイギリスはこれを離脱した。)につながる連邦(政府)連合(=the Federal Union)をイギリスとアメリカで発足させ、自身は平和主義者と思わせるような謙虚さを微塵にも感じさせない過激な発言と行動で大衆の反感をうまく買いながらロシア共産党の手先だの、ナチスドイツのスパイだのと大衆からのののしられ役に徹し、第二次世界大戦に必要な徴兵に大衆をそれとなく“同意”させ、欧米連合軍を構築させるに至った。第二次世界大戦後はもはや必要ないはずの軍備拡大や軍事費(=徴税)の増大を大衆に納得させるためソ連や東欧を欧米連合から故意に分裂させて仮想敵国を設定し、再び「世界平和の為」とやらをうそぶくラッセルとアインシュタインを始めとした疑似科学者達を世界連邦(政府)運動に参加させて自分達が大衆を虐殺する為に開発した核兵器を主に植民地にした弱小国家の大衆が平穏に住む土地に常設させ、これをイギリスとアメリカだけが管理運営するといういかにも大衆への脅迫でしかない提案をメディアの前で公表し、大衆はまたしてもそれにだまされて核兵器の常設を容認するようになった。(The Russell–Einstein Manifesto 1955年。ラッセル=アインシュタイン宣言)ちなみに、この宣言に賛同した疑似科学者達は全員、核兵器の開発に関わった物理学者達であり、日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹もこの宣言に署名している。湯川の家は元々、紀州藩(現、和歌山県)藩士の家系であり、紀州藩は第14代将軍の徳川家茂とくがわいえもちを輩出し、皇族の一人である和宮かずのみやと結婚したぐらい皇室と深い関係にある家柄で、湯川家も尊王そんのう(皇室擁護)派として軍事研究をする一族だった。そのため、湯川秀樹自身も大日本帝国海軍による原子爆弾開発(Fission(核分裂)研究、略してF研究)計画に理化学研究所の研究員の仁科芳雄にしなよしお(第107話『革命(2)』(注2)その1参照)と共に招かれている。)に参画し、自分こそまさしく原爆を日本に導入させ、太平洋戦争(第二次世界大戦)をもたらした当事者の一人であるにも関わらず臆面もなく、「核兵器を禁止し、世界に軍備の撤廃を求めていこう」などと大衆に呼びかけ、さらには自分と同じく戦争を起こした当事者で、皇族で初めて総理大臣となった東久邇宮稔彦王ひがしくのみやなるひこおうと共に、「事ここに至ったのは勿論もちろん、政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。 この際、私は軍、官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔ざんげしなければならぬと思う。全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる。(中略)我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗いきよめ、過去を以て将来のいましめとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家きょこくいっか相援あいたす相携あいたずさえて各々(おのおの)の本分に最善をつくし、きたるべき苦難のみちを踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります。」とも発言して自分達、皇族は一切、傷つくことなく、生命も財産も保障されてのうのうと生き延びているのに餓死や原爆、空爆で330万人以上もの生命が奪われ、家も家財も仕事も、家族も友人も恋人も失った一般市民に懺悔を迫るという本末(善悪)転倒を絵に描いたような一億総懺悔運動をも展開している。




こうして、イギリスのスパイであるフランシス・ガルトンがおこした優生思想はこれまた、イギリスのトマス・モアが考案した社会(共産)主義思想(第107話『革命(2)』(注2)その1参照)を唱える世界中のスパイ達に伝承され、彼らの創設した学校や協同組合などの社会組織を通じて大衆に教育されていき、医学や科学の名の下、貧困層や障碍者しょうがいしゃ、孤児、精神病患者を始めとした軍事力(暴力)にあらがえない社会的弱者を劣等人種と呼んで侮蔑し、産児制限バースコントロールの為の断種や不妊手術、生体解剖や生物兵器、核兵器などの数々の拷問や虐殺の手段を法制化して公然と人体実験を繰り返しながらそれでもなお、それらがこの地上での愛や正義、平和の為に必要な善行であり、人類の高度な文明によって生まれたものであると信じられるようになっていった。

その後、第二次世界大戦でのナチスドイツの目を疑うような拷問と虐殺による人体実験を目の当たりにしてきた大衆の強い反発を抑えるため“国連によって”1948年12月10日、「すべての人間は生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」との“世界人権宣言”(=The Universal Declaration of Human Rights)が出され、用済みとなった優生学はそれを最初に提唱したイギリスやアメリカを筆頭に欧米各国の非難の的となり、疑似科学と呼ばれるようになったものの、国連自体、優生思想をこよなく愛好し、これを神(善)よりも信仰してきた人々によって結成されている機関なのだから、彼らの言う「すべての人間は生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」との言葉も虚しい限りである・・・。


https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3762_27361.html

『大正十二年九月一日の大震に際して』

芥川龍之介


https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/45761_39095.html

『河童~どうか Kappa と発音して下さい』

芥川龍之介



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