第十二話 故郷での迫害
そのカナでの結婚式が一通り終わって、ほっとしたのもつかの間、今度は花嫁の故郷であるナザレへと場所が移され、祝いの宴会はさらに続いた。
イエスとその家族、そして弟子達も再びカナからナザレへと戻り、また宴会に出席して花嫁の幸せを大いに祝った。
そして、ナザレでの宴会が終わるとようやくすべての結婚式が済んだことになり、イエスはやっと故郷ナザレで一息つける“ サバス ”の日(安息日。ヘブライ語で「日曜日」のこと。神が宇宙と地球を6日間で創り、7日目に休んだことから、人類もこれにならって仕事を休むよう神に指示され、以来、一週間のうち7日目を休日とするようになった)を迎えることとなった。
そのサバスの日、イエスと弟子達は、他のユダヤ教徒と同様、ナザレの人々が毎週、訪れるシナゴーグ(ユダヤ教の寺または集会所)の一つに出向くことにした。
町にあるシナゴーグ(集会所)はそれぞれ、住んでいる地域からすぐに行けるよう造られており、町の人達も近所にあるシナゴーグ以外はほとんど行ったことはなく、よそのシナゴーグからやって来る人などほとんどいなかった。
だから、イエス達が訪れたシナゴーグも毎週、同じ顔、同じよしみの人達が集まり、これまた毎週、それほど変わり映えもしない話題を交し合っていた。
そんな最中、故郷とは言え、ほとんど家に寄りつかなかったイエスとよそからやって来た弟子達がシナゴーグに入って来るのを見て、ナザレの人々は途端に物珍しそうに目を輝かし、イエス達の事をひそひそと話し始めた。
既に、カナでの出来事はナザレの人々の間で知れ渡っていた。
人の口とは本当に怖いもので、大して日も経たないうちから召使達の口から町の人々へと伝えられ、さらによその町で偶然、イエスのこれまでの洗礼活動などを耳にした人がその話に尾びれをつけて話したものだから、カナでの出来事が今ではすっかり「水をワインに変えた奇跡の話」にすり替わっていた。
そして、その噂の主が自分達の住む近所のシナゴーグに現れたことで、ナザレの人々はいつもとは違う新鮮な話題を期待し、好奇心満々でイエス達の様子を伺っていた。
もちろん、彼らが一番に期待していたのは、イエスが起こすかもしれない“ 奇跡 ”だった。
だが、その奇跡がこの後、すぐに起こるとはこの時、誰も予想していなかった。
それは、いつもようにシナゴーグでのお祈りが済み、集まった人々の中から一人を選んで、律法書(旧約聖書)の一節を読んでもらう儀式の最中に起きたことだった。
その日、律法書(旧約聖書)の巻物を手渡されたのはイエスだった。
しかも、彼に手渡されたのはなぜか“ 偶然にも ”、預言者イザヤの句が書かれた巻物だった。
預言者イザヤは、イエス達が生まれる数百年前のBC8世紀頃に活躍した男で、イエスが以前、ナサニエル達と話していたように、今後、ユダヤに現れるだろう神から遣わされた者達について予言したことでよく知られていた。
また、彼の預言は最初から神の言葉で始まっており、しかもそれが怒りの言葉であることから、神が今後、行うかもしれない“ 最後の審判の日 ”を記したものとも考えられていた。
そのイザヤの書を渡されたイエスは、すっくと立ち上がると巻物に巻かれた紐をゆっくりと解き、迷うことなくある一節を張りのある声で堂々と読み上げた。
― わたしの心と頭上に今、神の精神が宿っている。
全知全能の主の御心がわたしの心に伝わっているのだ。
それは、主がわたしをお選びになったから。
神はこのわたしに今、悩み苦しんでいる人々に神の御言葉を告げよ、とお命じになったからだ。
そして、神はこうもおっしゃった。
心押しつぶされた人々と手を取り合い、今まさに苦しみに囚われている人々に自由を与えよ、
暗闇でさ迷い続ける人々に光を与えよ、と。
そして、主がいつの日かその者達にも救いを与える日が来ることをちゃんと伝えるように、と。
さらに、それまで好き勝手に主に逆らってきた人々にも主の怒りと復讐の日が来ることも警告するように、と。
それは、主に逆らう彼らに押しつぶされ、嘆き悲しんできた人々を慰める為、
何より、この地球上で胸に慟哭を秘めて生きる孤独な人々の為に主は立ち上がってくださるのだ。
だから、今までのすすで汚れているかのように邪険にされてきた人々が美しく変わり、
涙でぬれたその頬は喜びで崩れる。
絶望が希望と賞賛に変わり、
善が善としてまかり通るようになる。
そして、これこそ主の栄光そのものなのだ。
これまで辱めを受けてきた人々は、それ以上の喜びであふれかえることだろう。
永遠なる喜びは彼らのものである。
なぜなら、わたしは正義を愛する神だからだ。
神は人の心を傷つけ、その喜びや幸せを横取りしようとする者を許さない。
神に逆らい、非道を行う者こそ神の敵である。
そして、神であるこのわたしの永遠の約束として、わたしは本当に苦しみ耐えた人達に報いてやろう。
彼らだけでなく、彼らの子孫達も、あらゆる国々において知られることだろう。
彼らこそまさしく神によって祝福されている人々だ、と。
(イザヤ61章1~9節参照)
それは、神の救いを告げる一節だったが、同時に“ 神から遣わされた者 ”としてのイエス自身の宣言でもあった。
イエスはその一節を読み上げると、再び静かに巻物の紐を巻きなおし、皆が座っているようにモザイクが敷き詰められた床にしゃがみこんだ。
その落ち着いた態度にナザレの人々は驚き、そして恐れた。
「神の精神が宿っているって? まさか」
「本気か、この男?」
「嘘でしょ、そんなの」
「神が救いにくるってさ」
「復讐にも来るって言ってたよ」
「多分、あの男、狂ってるんじゃない?」
それがイエスの宣言を聞いたナザレの人々が最初にささやき合った言葉だった。
その人々の様子を見てイエスは再び静かに立ち上がると、皆に聞こえるように大きな声を張り上げた。
「わたしが今、読み上げた句は“ 真実 ”です。
あなた方が今、聞いた通り、このイザヤの預言は本日、この場にて“ その言葉通りに実現した ”のです。
そして、これからもその預言通りになるでしょう」
イエスがそう言うと、人々はもっと驚いてざわめき出した。
さっきから黙って聞いていた弟子達も彼の言葉にびっくりして、口をあんぐりと開けたままイエスの顔を眺めていた。
「あの男、この間、カナで奇跡を起こしたってもっぱらの評判らしいぞ」
ざわめきに混じってそんな話がもれ伝わってきた。
「あれは死んだ大工のヨセフんところの息子だろ? 一体、どうしてあんな話をし出したのかね?」
「あの子、小さい頃からちょっと変わったところがあったけど、今日はもっとおかしいわ。
一体、どうしちゃったのかしら?」
「洗礼者ヨハネってのも都会では随分と評判だが、あいつもヨルダンじゃ、ちょっと名が知られているらしいぞ」
「そうそう、わたしが聞いた話だと、何でも水をワインに変えて見せたとか。
何だかすごい奇跡を起こせるらしいわ」
さっきまでささやきあっていた人々が、今では誰はばかることなくイエスについて噂し始めた。
そのざわめきを聞きながら、イエスは再び口を開いた。
「よく諺に『医者の不養生』という言葉があるでしょう?
人は、正しい事が頭で分かっていても、自分の事となるとなかなか実行できません。
ついつい、しがらみや惰性、悪習などに流されて、間違っている道を選びがちです。
それと同じように、あなた方、お一人お一人が自分自身のこれまでを振り返り、自分の心を立て直さなければなりません。
でないと、わたしが今、告げた通り、神の怒りの日が来るかもしれません。
また、わたしの言葉を素直に受け入れて自分の心を見直し、これまでを振り返った人には神の救いがもたらされるでしょう。
何事も、あなた方自身の“ 心次第 ”だと思っておいてください。
ですが、わたしがここまで申し上げても、あなた方の中にはきっと、わたしの言葉を素直に受け取らない人がいることでしょう。
おそらく、ほとんどの人がわたしが伝えた神の御言葉に反発し、わたし自身をも拒否することでしょう。
何せ、あなた方、同郷の人々というのは、小さい頃からのわたしを知り尽くし、それほど徳があるわけでも、立派でもない、よく見知った男が今日に限って突然、あなた方に向かって偉そうに説教しているのですから、あなた方にとっては不愉快この上ないことでしょう。
それでも、わたしはこの御言葉を伝え続けます。
そして、人がわたしを拒否するのは、これまでどの預言者達も同じように味わってきた神の試練だからです。
たとえば、預言者エリヤの時も、3年半も天候に異変が起こることを予想し、作物が何も実らないひどい飢饉が訪れると警告しても、誰も彼の言葉に耳を傾けなかった。
しかも、その飢饉が実際に起こった時ですら、このユダヤには大勢の人がいたにも関わらず、誰も彼のことを受け入れようとせず、またパンのひとかけらすら恵んでやろうともしなかった。
その他の預言者達も同じです。
皆、人々に正しい真実を告げても、誰もそれを素直に受け取らず、邪険に追い払われました。
だから、きっとあなた方もわたしの言葉を素直に受け取ることはないでしょう」
イエスにそう言われた人々は、呆気に取られてお互い顔を見合わせた。
「何様のつもりなんだ、この男」
「誰が神の預言者ですって?」
「何をほざいているんだ、たかが大工の息子がっ!」
それが彼らの胸の中でつぶやいたイエスの言葉への感想だった。
さっきまで人々は、イエスの奇跡を期待して彼に羨望の眼差しを送っていたが、その目は今では氷のような冷たい視線へと変わっていた。
それどころか、イエスの不遜な物言いにカッとなった人もいて、ズカズカと座っていた人を押しのけると、イエスの肩を乱暴につかみ、彼を無理やり立ち上がらせた。
その乱暴者の行為に煽られた人々は、今度はイエスだけでなく、彼の弟子達までもシナゴーグから追い出しにかかった。
そうして、彼らはイエス達をひっつかみ、そのまま外へと引きずり出すと、玄関先から彼らを突き飛ばすようにして放り出した。
「とっとと、失せろ!この偽預言者めっ!」
「俺達のシナゴーグで勝手な事を言いやがって!
何が、神の試練だ? 神に選ばれた、だと?
笑わせやがらぁ、お前のようなカス野郎が聖なるエリヤの生まれ変わりとでも言い出すつもりか?
ふふん、ヨルダンではそんな手が通用するかもしれないが、ここでそんな嘘っぱちの説教をするなら、ただじゃおかないぞっ!
さぁ、さっさと消えやがれ。
でないと、崖っぷちまで引っ張っていって突き落としてやるぞっ!」
そう言って彼らは激しい怒号を上げ、イエス達に向かってこぶしを振り上げた。
あまりの険悪な雰囲気に弟子達は命の危険すら感じたが、一応、サバス(安息日)の日に殺生は許されん、と乱暴者達をいさめる人もいて、とりあえずイエス達は外へと締め出されただけだった。
最後に一部始終を横で見ていたまだ年若い少年が、それを面白がって
「お前、頭がおかしいんじゃないのか?」と言ってイエスをあざ笑うと、彼の顔に向かって唾を吐き、ぴしゃりとシナゴーグの扉を閉めてしまった。
その子供の侮辱的な仕打ちに、とうとうペトロやアンデレ達は我慢できなくなり、彼らは仕返ししようと扉に突進しかけたが、これをナサニエルとフィリポが何とか制止した。
それでも、ナサニエル自身、あともう一歩でアンデレ達と同じようにあの子供を殴りそうになっていたので、閉められた扉をにらむ彼の目もまた、異様なほど険しかった。
むろん、その他の弟子達も、これほどまでに侮辱を受けたことが今までなかったので皆、怒り心頭に発していたが、イエスのシナゴーグでの発言にも戸惑いがあったので、正直なところ、どこにその怒りをぶつけていいのやらよく分からなかった。
ただ、人から馬鹿にされ、追い払われたという恥ずかしさだけが彼らの胸の中一杯に拡がっていた。
だが、イエスだけはそうやって突き飛ばされても、なぜか冷静で、まるで何事もなかったかのように静かに立ち上がり、弟子のフィリポに手伝ってもらいながら、突き飛ばされて倒れた時に服についた砂埃を黙って手で払っただけだった。
その、どう見ても怒っているでもない、悔しがっているでもない、その他、どんな気持ちでいるかもよく分からない、落ち着いた態度のイエスに、弟子達はますます困惑した。
一体、この人はこれから何をするつもりなんだろう?
そうして、弟子達にはこの時のイエスの意図がよく分からなかった。
だが、これがイエスに与えられた神の試練の始まりだったことを彼らはこの後、嫌と言うほど知らされることとなった。