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第百十四話 細胞 後書き(注2)

(注2)

“進化論”(=The Evolutionary theory)は、元々はチャールズ・ダーウィンの祖父であり、医師資格を持っていなかったにも関わらず、瀕死と偽らせた患者を治療して見事、名医として知られるようになったエラスムス・ダーウィンがケンブリッジ大学の後輩で医学生のデューハースト・ビルボローに依頼し、『Zoonomia(邦題にすると『不変の法則の動物園』)』(1794年発刊)という解剖学や病理学についての本を代筆してもらったところ、その中でビルボローが「こんな事を“想像する”のは恐れ多いかもしれないが、地球の誕生以来、何百万年もの間に全ての動物はその姿形を変化させていっただけで、本当はたった一本の生命の糸から生まれ出たものなんじゃないだろうか?」と書いたことから、その“妄想”に着想を得たチャールズ・ダーウィンがある目的の為に話を大きくしたことに端を発した嘘の仮説である。


祖父もそうだったが、ダーウィン自身も学問に秀でた方でなく、曾祖父の頃から家が代々、医者の家系だったのでやむなくエディンバラ大学医学部に進学させられたのだが、大学の授業についていけず中退し、次に牧師になるようケンブリッジ大学に行かされてもそれも失敗し、結局、大学は卒業できたもののその先の進路も曖昧なまま当時、貴族や富裕層の若者達の間で流行していた狩猟や乗馬、動物や昆虫の標本制作などに明け暮れていた。

だが、そんなのん気で優雅な生活をダーウィンが送れるのも一応、曾祖父の頃から嘘でも名医と言われたダーウィン家の息子であり、さらに親戚はあの陶磁器生産で有名な大財閥のウェッジウッド家というイギリスでも指折りの裕福な家庭に生まれ育っていたからで、かと言って、無職のままなのもやはり体裁が悪いため父親からは在学中よりきちんとした職を見つけるよう何度もせっつかれていた。


そこでダーウィンが思いついたのが自然科学者の仕事だった。


天体を観察する天文学や火山などを研究する地質学がそうだったように、鳥や昆虫、動物などの生態を調べる自然科学も実はイギリスを始めとした欧米では生物兵器の開発研究に欠かせない学問として国家(王室)から奨励されていた。

例えば、電話やインターネットのない時代は伝書鳩が戦場の通信手段に使われていたり、人間の耳には聞こえない振動音を鳥類その他の動物は聞き分けられるという“超音波”(=Ultrasound)を研究することで敵船や魚雷の位置を測定するソナーを開発したり、また、カブトムシなどの昆虫を収集してその生態を調べるのも蚊やのみがマラリア菌やペスト菌のような病原菌を運ぶように(第102話『腐敗 』(注3)参照)昆虫も生物兵器(=Biological weapon)として度々、用いられていて、具体例としては敵を洞穴ほらあなに追い込んで蜂を大量に放ったり、食糧供給を止める為にコロラドハムシと呼ばれるカブトムシ科の害虫を敵側の田畑に撒いたり、日本でも残酷な人体実験を行なっていたことでよく知られる731部隊が第二次世界大戦中、中国人に向けてのみはえを放ってコレラ菌を散布したと言われていて、古代からそうした昆虫兵器戦(=Entomological Warfare)はさほど珍しいものではなく、そういった事情から自然科学はあくまで軍拡の為の学問とみなされていた。

(ちなみに動物の超音波の利用については本作品にて再度、触れる予定です。)


だから、ダーウィンが自然科学者になると言うと父親が喜んで資金を提供するのも当然で、イギリス王室(政府)は国家の要職として一人でも多くの優秀(?)な軍事開発研究者を求めていたからだった。

しかし、前述したようにダーウィンは学術的に特に優れていた方ではなく、彼がもっぱら得意としていたのは祖父の代から行っていた“阿片あへん”(=the Opium、日本語では「芥子けし」(=the Opium poppy)と呼ばれる一年草の植物の実の汁を乾燥させて粉末状にしたもので、これを吸引すると鎮静、鎮痛の他に陶酔する作用があり、常用したり、大量に摂取すると昏睡及び呼吸困難になって死に至る麻薬である。さらに化学合成をしていくとモルヒネやヘロインなどの中毒性の高い危険薬物にも変化する。元々は中東やヨーロッパ、アフリカなどでBC5000年頃から主に薬剤として栽培されてきたが、18世紀頃には気分転換の為に娯楽として使用するのが流行し、戦争が頻繁に行われだした19世紀には気鬱を理由に兵士やダーウィンのような裕福な若者達の間では常用が当たり前となって中毒患者も出るようになり、さらに貿易収支の赤字を埋めようとしたイギリスが大量の阿片を中国に密輸してそれを阻止しようとした中国と武力衝突する戦争にまで発展した。(阿片戦争1840年~1842年)その後、阿片の危険性が認識されるようになるとようやく徐々に法規制が各国で敷かれるようになったが、イギリスが植民地にしていたインドで芥子を栽培させて中国へと密輸していたようにタイ、ミャンマー、ラオスのゴールデン・トライアングル(黄金の三角地帯)と、イラン、アフガニスタン、パキスタンのゴールデン・クレセント(黄金の三日月地帯)では依然、欧米諸国や日本などのいわゆる先進国と自称する国々からの需要に応え、後進国と呼ばれる国々を支配する軍事政権やテロ組織が麻薬の製造を請け負い、今もなお、大量に阿片は輸出され続けている。)のような麻薬植物の研究ぐらいなもので、それ以外で科学的才覚はまるでなかったのだが、叔父のジョサイア・ウェッジウッド2世の口利きもあって科学者と言うより客人として海軍の軍艦に無理やり乗船させてもらい、イギリスの植民地にされていた南米やオーストラリア、アフリカなどを巡りながら各地で兵器や軍事に役立ちそうな植物や動物を集めるだけの仕事から始めることにした。

ただし、集めると言っても科学的才覚のないダーウィンには何をどう集めていいのか皆目、見当がつかないため、祖父と同じように学術面で彼を支えてくれる影の指導者ブレーンを雇うことにした。

それがダーウィンの通うケンブリッジ大学で鉱物学の教授をしていたジョン・ヘンスローという男で、鉱物学の他に植物学や博物学にも知識があり、元々、植民地での調査収集を任されていたのはヘンスローの方だったのだが、卒業後の進路に悩むダーウィンに仕事を譲って自分が助言や指導をする影の立場に回れば天下のダーウィン&ウェッジウッド家の後ろ盾を得られると計算したヘンスローはすかさず自分は辞退してダーウィンを推薦し、ダーウィンが自然科学者としてデビューできるよう彼を後押しした。


これで影の指導者ブレーンを得たダーウィンはヘンスローに教えられた通りに植物や動物を集め、その状況を逐一、ヘンスローに手紙で知らせ、それをヘンスローが科学者らしい報告書に仕上げて他の学者や教授に宣伝して回ったことでダーウィンはいつしか自然科学者として認知されるようになった。


こうして、ヘンスローの演出で自然科学者となったダーウィンはその職位を維持する為に今度は祖父の代から支持してきた“ホイッグ党”(=the Whigs、17世紀から19世紀までイギリスの議会で多数を占めていた二大政党の一つ。17世紀にイギリス、アイルランド、スコットランドが争った清教徒革命(=the Wars of Three Kingdom)においてカソリック(キリスト教伝統宗派)を信じてこれまでの絶対王政を存続させようとする“トーリー党”(=the Tory、カソリック(伝統宗派)教徒の多いアイルランドとイギリスの王侯貴族達が手を結んで戦い、次第に劣勢となって敵に追われる彼らを反対勢力がアイルランド英語で皮肉り、「Tōraidheトーレイデ(お尋ね者、無法者)」とののしったことから以後、カソリック(伝統宗派)や絶対王政を信じる政治及び宗教思想を持つ人々をトーリーとちぢめて呼ぶようになった。)に対抗して、プロテスタント(キリスト教新興宗派)と議会(政党)主導の政治を掲げる政党である。絶対王政(国王一人が全てを決める専制政治)を拒んで議会(多数決)中心の政治を目指すため一見、民主的に思えるだろうが、トーリー党、ホイッグ党、どちらもその政党の議員達(多数)に支持された国王を立てて身分制を保つことに変わりはなく、トーリー党はあくまでこれまでの血筋や血統を絶やさずそれに即した身分制を目指すのに対し、一方のホイッグ党はこれまでの血筋から外れても新たな権威や武力(暴力)、資金力、多数の支持などを持つ者が王位に就けるよう上下関係の入れ替えを目的にしており、結局、彼ら議員とその仲間(多数)以外の“庶民が異を唱えたり、意見を言うことは許されない”王侯貴族もしくは“社会的強者だけが占める議会(多数決)”主導の独裁政治である。元々、ホイッグの語源もトーリー党(王政派)のようにプロテスタント(新興宗派)教徒の多いスコットランドと同じ宗派のイギリス貴族や富裕層などが結託し、一般農民を武装させて兵士に使う様子をトーリー党員達が「Whiggamoreホイッガモア(牛や馬を怒鳴って駆り出すように大勢の一般農民をけしかけて戦争(人殺し)させる悪党)」とスコットランド英語であざけったことから通り名になったもので、その後、ドイツのハノーファー選帝侯とイギリス国王を兼任することになったジョージ1世が英語の話せない名ばかり国王だったこともあり、当時、議会を占有していたホイッグ党が政権を握ることになった。(第112話『女傑』(注1)参照)19世紀以降はフランス革命の影響もあって政府転覆クーデターを目指す庶民の反抗心を抑え込むため資本主義の名の下、富裕層を優遇して新聞や雑誌などのメディアの力で彼らを肯定または美化し、経済的な優劣感や身分格差を暗黙の内に庶民に教え込む一方、選挙権を拡大して〝身分を問わず政治参加している気分だけ”を味合わせ、実際には誰に投票しようと強者(王侯貴族と富裕層)しかいない議会(政党)が自分達の都合のいい政策を決めるという“政治聖域”(=Law Haven)を作るようになった。その政治聖域を守る為に使われたのが紳士クラブ(=the Gentlemen’s Club)と呼ばれる政財界の強者の男達だけが会員になれる社交場で、ホイッグ党はブルックスズという社交場に集い、ギャンブルなどに興じながら政策交渉や議員達の賛同を得る根回しを行い、内輪で決まった政策を議題に上げていた。ちなみに、このブルックスズの他にホワイツというイギリスでは最古とされる別の社交場も一緒に現存しており、2019年現在もこうした社交場は女性会員も交えながら王族を始め政治家や富裕層が多数、入会し、むろん、庶民の立ち入りは許されず彼ら仲間内で政策を決める密会場所となっている。そんなホイッグ党もダーウィンが生きていた頃から政策の違いで派閥争いを繰り返して分裂するようになり、他党の議員と連携して自由党と改称し、ホイッグ党という名前は消滅した。とは言え、17世紀から始まったホイッグ党の政治及び宗教思想は今もまだ、多数の政治家達の頭の中に染みついている。)の政策を肯定したり、褒めそやす本や論文などを出版し、自然科学という学術的な権威を利用してプロパガンダ(大衆扇動広告)することで政権を握るホイッグ党にすり寄ることにした。


その頃に都合よく出会えたのが、兄エラスムスが入れあげていた愛人でホイッグ党お抱えの女流作家であるハリエット・マーティノーだった。


ハリエットの先祖はフランスからの移民とは言え、ダーウィンと同じ医者の家系であり、親戚にはイギリスの第二の首都とも言えるバーミンガム市を仕切る市長もいて、現代でもエリザベス女王の孫のウィリアム王子に嫁いだキャサリン妃もこのマーティノー家の血筋である。

イギリスに限らず、どこの国でもそうだろうが、血筋を絶やさず資産を増やしていくには子供をたくさん産んでそれぞれを別の大きな資産を持つ家の子供と結婚させ、その資産を併せることを考える。

要は、一人一人が努力して資産を築くよりも、氏族(先祖が同じ血統集団)同士が一緒になってお互いの資産や技術、権力などを併せることでより強大な一族となり、さらに国家(共同社会)をも君臨する立場にまで昇り詰めることができる。

そうして個性の育成や尊重よりもあくまで集団(細胞)を培養して増殖させていくことを何より大切と考える人々の多いイギリスでは、王侯貴族はもとより、何らかの資産を持つ富裕層にとって血筋や家柄は結婚の第一条件だった。


だから、ハリエットの血筋や家柄はダーウィン家と比べて見劣りしないものではあったが、彼女が27歳の時、その3年前に他界した父親の会社が倒産して家が一時期、没落した。

その為、彼女は家計を支えるだけでなく、親戚のコネで上級聖職に就いていた弟が偶然、貧しい牧師への生活支援金を削減するか否かの政治論争に巻き込まれていたこともあって、その弟の政治的立場を良くして“家”を守ろうと自分達、一族が信仰する宗教団体向けの雑誌にホイッグ党が打ち出した低所得層への生活支援金を削減するという救貧法改革案(the Poor Law Amendment Act 1834)を支持する記事をいくつか投稿するようになった。

これが意外にも功を奏し、弟とも連携して政治や宗教についての本も出版するようになり、世間での評判を得た彼女はホイッグ党の議員で首相の側近でもあった大法官のヘンリー・ブローアム男爵のお眼鏡にかない、弟はヴィクトリア女王の戴冠式で自身の所属する宗派の代表者として出席できるまでに出世し、ハリエット自身もホイッグ党の御用作家としてイギリスだけでなく、アメリカなどの海外でも活躍するようになった。


こうして彼女はかつてのように自分の“家”を盛り返し、一族が地元にしてきたイギリスの東端にある中堅産業都市ノリッジから作家活動の場を広げようとロンドンへと乗り出し、その時、ロンドンの社交界で出会ったのがダーウィンの兄のエラスムスだった。

自分と似たような家柄の娘であり、ダーウィン家は先祖からホイッグ党を支持していて、そのホイッグ党に可愛がられてロンドンの社交界でももてはやされている女性なのだからエラスムスのハリエットへの熱の入れようは半端ではなく、彼女を妻にしたいと真っ先に言い出したのはエラスムスの方だった。

しかし、兄エラスムスも、弟のチャールズ・ダーウィンも、兄弟そろって学業不振な上に兄エラスムスの方は人妻とも一時、不倫していたほど女癖が悪く、“家”を守りたい父親にしてみれば、弟がこれから自然科学者として世に名を売り出せるかどうかの大事な時期に放蕩者ほうとうものの兄にこれ以上、女性問題のような醜聞スキャンダルを起こされては面倒だと思ったのだろう

エラスムスとハリエットを別れさせるようダーウィンは父親から密かに厳命されていた。


そうは言っても、兄とは似た者同士、仲が良かった手前、そう無下に結婚に反対もできず、また、ハリエットの政界における文筆力を何とか利用したい下心もあって、ダーウィンは自分の仕事を手伝ってくれたら父親の心象が変わって兄との結婚も許されるかもしれないと結婚を応援するかのような発言をしてハリエットをその気にさせ、ホイッグ党の政策に沿った科学書を出版できるよう自分のゴーストライター(代筆屋)になってくれと彼女に持ち掛けた。


もちろん、女性には大学入学資格が与えられていなかった時代なのでハリエットに正規の科学知識は全くない。

それでも彼女の処女作は、経済学の基礎を作ったとも言われるイギリスが誇る経済学者のアダム・スミスが書いた『国富論』(1776年発刊)についての入門書であり(『Illustrations of Political Economy』 1832年発刊)、発刊当初は出版社も売れるかどうか懐疑的だったが、順調に売り上げを伸ばし、その知性は世間でも高く評価されていたのでダーウィン自身が書くより彼女に執筆を任せる方がずっとましなことは確かだった。

その上、好奇心が強く社交的で多方面から様々な情報を仕入れるのが得意なハリエットは、地質学者のチャールズ・ライエルなどの科学者達とも知り合いで、そうした科学の話にもついていけ、フランスの博物学者のジャン・バティスト・ラマルクの唱えた“生物変移説”(=the Transmutation of species、元々は生物学ではなく、化学において錬金術のように卑金属が金などの貴金属に変化するのを変移(=Transmutation)と呼んでいたが、これを生物学にも当てはめ、生物の種も環境や時間によって変化すると考える学説。)についてもよく知っていた。

だが、それほど博学で世間でも名の知れ渡った作家となり、十分、一人で暮らしていける稼ぎを得ていても彼女自身は内心、不安で孤独だったし、一生、独身でいたいとも決して思っていなかった。

だから、結婚を餌にしたダーウィンの詐欺まがいの申し出をつい、受けてしまったのだが、それが彼女にとって不幸の始まりだった。


と言うのも、元々、売れっ子作家の彼女が抱える仕事量はかなり多く、加えて講演活動で海外に出かけることもあり、その多忙の合間を縫ってダーウィンが提供してくる資料にも目を通しながら執筆するとなると相当、心身に負担がかかる。

それでなくてもハリエットは子供の頃から病気がちで味覚や聴覚に問題があり、補聴器が必要だったほどで、そんな病弱な身体を押して無理して働いたことで生理痛がひどくなり、その痛みに耐えかねて彼女が常用していたのが阿片あへんチンキだった。

阿片チンキ(ローダナム)は今でこそ依存しやすい危険薬物として世界各国で規制されるようになったが(ただし、アメリカでは依然、一般に販売されている)、19世紀のイギリスでは幼児にすら当たり前のように飲ませていた定番の痛み止めや風邪薬であり、特に女性達には生理痛の特効薬になっていた。

しかし、まぎれもなく阿片チンキは危険薬物なので常用すれば当然、身体に異変が起きる。

その為、彼女は結婚どころか、子宮がんと偽って薬物治療の為にロンドンを離れなければならなくなった。


一方、ダーウィンはハリエットだけでなく、影の指導者ブレーンとして働いてもらっているジョン・ヘンスローを始め、他にもいろいろゴーストライター(代筆屋)を雇い、論文や本などを次々、出版して自然科学者としての地位を固めていった。

ただし、ゴーストライター(代筆屋)と言ってもハリエットのように全く名前を出さずに書かせるのではなく、あえて執筆者の名前を公表して自分は“監修者”(=Superintendent、自分のアイデアや体験談などを話して聞かせ、他の人がまとめて書いた原稿を確認するだけの人)として出版するのだから本の表紙に書かれた執筆者と監修者の違いにさほど関心もなく、深くも考えない一般読者からすればどれもダーウィン自身が書いたものと勘違いする。

一種の宣伝トリックである。

だから、植民地での調査旅行で自分が収集してきた動植物について書くべきはずの『Zoology of the Voyage of H.M.S.Beagle(邦題にすると『ビーグル号の航海での動物学』)』(1838年~1843年発刊)でも、航海に参加してそれらの動植物を観察してきた訳でもない他の学者達がそれぞれ知ったかぶりの解説文を書き、自分は監修(確認)するだけという有様で、たとえ血は繋がっていない継祖母であっても曲がりなりにもダーウィンの祖母はスコットランドの騎士達が叙せられる最高勲章のシッスル勲章を持ったポートモア伯爵家の出身で、イギリス王室の一員にも数えられるほどの“高位の貴族”なのだから、庶民の学者達からすればダーウィンに取り入って彼のゴーストライター(代筆屋)でいた方が後々、自分達の出世や給料、研究費などに有利に働くと踏んだようだった。



それがイギリスという国家(共同社会)の真の仕組みであり、王族と言えどもその歴史の中で何度も血筋が途絶え、実際にはほぼ武力(暴力)と金の力でそうした身分を奪い合い、結局、どこの馬の骨とも分からないいろんな人間の血が混じってできた家系であっても、一度ひとたび、その身分が大勢の人々に“神に選ばれた結果だと誤認され、信じられてしまうと”それはどうにも揺るぎそうにない絶対権力と化す。


その無言の権力にホイッグ党とトーリー党が争った清教徒革命(=the Wars of Three Kingdom)以降、一度たりとも疑問を持たず、決して逆らわない人々は、学者どころか、ごく当たり前の簡単な労働すらできそうにないチャールズ・ダーウィンという一人の男をまたたく間に世界でも名だたる自然科学者に仕立ててしまった。


だが、そうしなければこの絶対身分制のイギリス社会では仕事がもらえず出世もできず、到底、“生き残れない”。


その為、ダーウィンよりもはるかに知能の高いハリエットでもこれまでホイッグ党という政治権力に従って物を書いてきたように、先行きを考えればこのまま自分の名前を伏せ、ダーウィン家という身分制に従って彼の名前で本や論文を書く方が“楽に生き残りやすい”のは確かであり、結婚適齢期をとっくに過ぎた38歳の未婚女性であるハリエットに仕事の経歴キャリアなど表向きの虚飾はどうであれ、実際は男尊女卑社会でもあるイギリスではこれ以上、役に立たないこともよく分かっていたし、それに彼女自身、エラスムスと結婚して子供を産み、安定した家庭を築きたい気持ちも少なからずあった。

そんな女心につけ込まれてずるずるとゴーストライター(代筆屋)を続けることになったのだが、薬が抜けて病気が治った頃には既に40歳を過ぎていた彼女に出産は夢に等しく、結婚の話もいつしか立ち消えになっていた。

そうなると、ハリエットにとって自身の作家活動と併せてゴーストライター(代筆屋)を続けることが唯一、残された生きがいとなってしまい、自分の作品だけで生きていくには時代の流れと共に流行りすたれに翻弄されてこの先、難しくなる一方だが、ダーウィンのゴーストライター(代筆屋)を続けていれば安定した収入になる。

そういう結論に至った彼女は死ぬまでダーウィンの本を書き続けることになった。


その間、当のダーウィンは資料探しや標本作りなどに出資はしてもそれ以外は何もしない。

農民を雇って鳩小屋を作り、鳩をたくさん飼ってみたり、標本も専門家に任せて分類させ、それをハリエットやヘンスロー達に資料として送り、彼らがその資料を基に書いた原稿を読んで確認するだけ(それも怠っていたようだが)なのだから彼の生活は大学にいた頃と少しも変わらず、狩猟に乗馬、ギャンブル、そして、阿片や“大麻”(=CannabisカナビスMarijuanaマリワナ、日本では一般的にマリファナとも呼ばれるが、イギリスではもっぱらカナビスと呼ばれる中央アジア原産の一年草で、主に麻繊維(あさせんい)(=Hemp fibre)として衣服や布地、縄、紙製品、種子は麻実油あさみあぶら(=Hemp oil)として約1万年前から使われてきたが、葉や花に中枢神経を刺激して陶酔させる作用があり、古代からインダス文明やアッシリア、バビロニアなどのシュメール文明のシャーマン(交霊術師)達が儀式を行う際に参加者に吸わせて陶酔させ、自分達の行う交霊術を本物と錯覚させる為に用いるようになり、中国や日本でもそうした宗教儀式を通じて娯楽を目的とした大麻が広まるようになった。それでもこの頃はまだ、大量生産されて販売されることはなかったので中毒患者が増加して社会問題化することもなかったが、19世紀に欧米の産業革命で植民地での大量生産が可能になると、兵器開発の為にそうした薬草を研究する科学者や医学生達の間で再び娯楽として広まり出し、さらに古代のシャーマン(交霊術師)と同じく麻薬を安易に勧める精神科医と呼ばれる医者達が登場して、そんなヤブ医者達の勧めに従った作家や有名人などが大麻を愛用し、本や雑誌といったマスメディアを通してその薬効を何気なく紹介するようになると、今度は庶民の間でも流行するようになった。その結果、大麻や阿片の中毒患者が続出するようになり、加えて植民地でも阿片や大麻を奴隷達に無理やり吸わせて過酷な労働を強要していたため中毒にさせられた奴隷達が幻覚症状で暴れたり、働けなくなって労務管理ができなくなり、ようやく法規制をするようになった。)などの麻薬に溺れる毎日だった。

その生活は兄エラスムスも同じで、彼らのようなイギリスの王侯貴族や富裕層の若者達が科学サイエンスまたは化学ケミストリーと称して熱心に行っていたのは麻薬の化学合成や精製であり、彼らの言う研究とはせいぜい自分達の暇つぶしの為にとっておきの麻薬を新しく作り出すことだった。

ダーウィンもご多分に漏れず大麻を常用していたらしく、幻覚やめまい、吐き気、疲労感といった典型的な症状と共に動悸どうきや頭痛、ふるえ、痙攣けいれん、呼吸困難、内臓疾患、不眠の他、突発的に泣き出したり、パニックになったりと様々な精神異常も見られ、明らかに自分で感情を抑制コントロールできない時もあったようで医者や病院を転々として一時は食事を見直したり、健康的な生活に改善して多少、回復したものの、治療に出される薬が阿片チンキだったりするので薬物依存から抜けきれず、結局、兄エラスムスもダーウィンも生涯、麻薬の奴隷となった。



しかし、その一方でそういう働きもせず、麻薬と遊興に溺れる名ばかりの自然科学者でも個人の能力云々(うんぬん)より“身分や肩書だけに人の価値を感じる社会”の人々にとってはむしろ、何も口出ししてこないダーウィンに従っていることは都合が良く、彼の名前さえ出せば、誰もが頭を下げてひれ伏し、ダーウィンはもとより、自分達の要求も簡単にまかり通る。


だから、その名前の持つ暗黙の権力を振りかざし、ダーウィンの研究費だと言えばすぐに税金が1,000ポンド(現在の日本円にして約1千万円)も支給され、王室直属の権威ある“ロンドン地質学会”(=the Geological Society of London、1807年にFreemason(フリーメイソン)’s() Tavern(タヴァーン)(フリーメイソンの居酒屋)と呼ばれる様々な結社や組織の集まる雑居ビルに創設された学会の一つ。1825年にジョージ4世に承認されて王室直属となった。2018年時点で世界80か国に渡って会員数12,000人、売上高は約583万ポンド(日本円で約8億4千万円)の免税団体であり、国籍や人種、年齢、性別、障害の有無、宗教や政治信条などを理由に差別して雇用機会を奪うことに反対し、“平等な社会を目指す”と定めたイギリスの法律のthe Equality of Act 2010を採択している組織でもある。)の役員にも大学を出て調査旅行に行ってきただけの年若いダーウィンが誰よりも先に選ばれる。


そんなダーウィンの名前の陰に隠れて彼を思いのまま操れるようになったヘンスローも、何のコネもなかったはずの一介の大学教授から地方行政を任される教区牧師に大抜擢され、王室(政府)や世間からふんだんに寄付金や研究費がもたらされて学校や博物館を設立し、さらにヴィクトリア女王の子供達の教育係も仰せつかるなどイギリス国内でも有名な学者兼聖職者となり、ヘンスローの死後は彼の息子のジョージがダーウィンの影の指導者ブレーン及びゴーストライター(代筆屋)役を引き継いで“王立園芸協会”(=the Royal Horticultural Society、ダーウィンの伯父のジョン・ウェッジウッドが呼びかけて1804年に海軍本部長を務めるチャールズ・グレンヴィルを交えた7人の植物学者達が結成した学会で、毎年、チェルシー・フラワーショーと呼ばれる国際的にも有名な園芸大会が開かれるなど一見、美しい庭園作りや様々な植物の栽培、品種改良を振興する平和的な組織に思えるだろうが、こちらも実際は兵器開発の為の研究団体である。2018年時点の会員数約49万人、売上高約9,593万ポンド(日本円にして約142億円)の免税されている“慈善”団体でもある。)の名誉教授としてヴィクトリア女王から表彰されるほど昇進し、ダーウィンの名前だけで親子二代に渡って地位と名誉と税金のおこぼれにあずかることとなった。

しかも、ダーウィンよりも先に調査旅行に参加するよう指名されていたヘンスローは元々、兵器開発者として国家(政府)から期待されていた事情もあっただろうが、ダーウィンに付き従ったことで研究費もふんだんにもらえてその研究にもますます拍車がかかり、彼の得意とする植物学や鉱物学を中心に農薬を使った神経ガス兵器(=Nerve agent)の開発に携わり、父ジョン・ヘンスローは糞石ふんせきからリン酸塩を抽出する技術を編み出して白リン弾と呼ばれる発煙弾を開発した他、後世では彼の研究からサリンやVXガスのような神経伝達を阻害する有機リン化合物による神経ガス兵器が生まれている。

また、息子のジョージも同じく神経ガス兵器(農薬)の原料となる植物の成長ホルモンの一種であるオーキシンについて研究し、その中でオーキシンが太陽の光を避けて移動し、その濃度が薄まれば“光に向かって成長する”が、逆に濃度が濃いと異常成長を起こして枯れることを発見した。(光屈性)

発見そのものの手柄は身分をわきまえてか、ダーウィンとその息子のフランシスに譲って自分は影の指導者ブレーンに徹したようだが、それでもその謙虚さ(?)と彼の研究は国家(政府)から大いに評価されてヴィクトリア女王に表彰されることとなり、このオーキシンの特性を利用した神経ガス兵器(農薬)が後にマレー半島の独立戦争(=the Malayan Emergency、1948年~1960年)やベトナム戦争(=the Vietnam War、1955年~1975年)でイギリスやアメリカの軍隊が衛生上の殺菌を理由にゲリラ兵の潜む森林や食糧の供給源である田畑を壊滅させようとヘリコプターで無差別に散布した“枯葉剤”(=Defoliant)(除草剤)となって数多くの原住民達を餓死させただけでなく、心臓病やアルツハイマー、悪性腫瘍、そして奇形児の出産で21世紀となった今日も100万人もの人々が苦しむこととなった。

その被害者のうち、互いの身体がつながったままで生まれて日本のマスコミの注目を浴び、“ベトちゃんドクちゃん”の愛称で知られるようになったベトナム人の結合双生児であるグエン・ベト氏とグエン・ドク氏が“日本赤十字社の支援で”分離手術を受けたように、一部の原住民や散布した当の米兵達などは兵器の効果などを調べる研究材料として多少の医療措置を受けられたかもしれないが、2009年に医療補償を求めたベトナム人被害者達の訴えをアメリカ連邦最高裁判所が却下した通り、イギリスもアメリカも“人を殺す目的で”自分達が撒いたはずの化学兵器(枯葉剤)による健康被害の事実を一切、認めようとせず、それによって罪のない赤ん坊を含んだ一般原住民達への医療補償も全く行っていない。

なお、イギリスは1854年に聖地エルサレムの管理権を巡ってロシアと争ったクリミア戦争の際、吸い込んでしまうと血中の酸素供給を止めてしまうシアン化物剤(または血液剤)による攻撃を提唱するなど早くから化学兵器の使用を推奨していて、第一次世界大戦では塩素ガス(化学火傷やけど、肺水腫などを起こさせる兵器)やホスゲン(気管支を傷つけ、主に肺水腫を起こさせる兵器)、マスタードガス(皮膚をただれさせて細胞や遺伝子を傷つけ、ガンを発症させる兵器)などを使用し、ポートンダウンと呼ばれる軍の施設では1世紀を経た現在も年間約5億ポンド(日本円にして約725億円)もの税金を使い、3千人以上の科学者達が“多くの人を無差別に殺傷する為だけに”未だ化学兵器や核兵器の研究及び実験を繰り返している。



だが、そんな汚濁しきったイギリス社会の真の仕組みを知っているのは当然、その仕組みを武力(暴力)や税金、法律の特権でもって作っている王侯貴族や富裕層の“社会的強者”だけであって、ほとんどの一般庶民(社会的弱者)はこれに気づかない。


一生、気づかず特権階級と関わることのない、社会的弱者だけの世界で生きていくのなら生存競争は厳しいものの、それはそれで心傷つくことなく、幸せなのかもしれない。

ところが、欲を出して出世を目指し、運悪くこの社会構造に気づいてしまうと否応なしにその適合を迫られる。

その汚濁を飲み込んで適合できれば多少、出世させてもらって生き残れるかもしれないが、適合できなければまず、生存は難しい。

そんな社会適合を迫られた庶民の一人がアルフレッド・ウォレスという、ウェールズから出てきた自称イギリス人の25歳の若者だった。

ウォレス自身がイギリス人かウェールズ人かはどっちでもいいのだが、彼がイギリス人と名乗るのも一種の身分制であって、あの狭い島国のイギリスの中で植民地として占領され、言語や宗教をイギリス人やスコットランド人達に度々、変えさせられてきた“被支配民族”のウェールズ人だとは何となく言われたくないなというウォレス自身の見栄である。


庶民のウォレスでもそうした身分制に無意識でも縛られているのだから、イギリス社会の支配構造は個人の家や血筋によるものだけではなく、“民族の血筋”にもこだわっていた。


しかし、何度も言うようだが、一般庶民のほとんどはこの支配構造に疑問も持たないし、意識して考えることもないのでそれほど重要にも思わない。

ただ、イギリス人やスコットランド人の王侯貴族及び富裕層が自分達の支配権に正当性を持たせようとして本や新聞、雑誌といったマスメディアを利用し、自分達の存在や意見、考え方を美化したり、肯定する内容の記事を大量にばら撒くものだから、それに何となく誘導され、感化され、教え込まれていくため、いつしかウェールズ人よりもイギリス人やスコットランド人の方が大して根拠もないのにかっこいいとか、素晴らしいといった優越感を持つようになる。

ウォレスもその程度の身分意識でしかなかった。

だから、自分がイギリス人であるならば自分個人の能力を正当に評価してもらえるだろうとウォレスは勘違いしてしまった。

さらにウォレスは自分が読んできた本や雑誌に書かれている内容に疑問を持たず、それは全て真実なんだろうとも信じ込んでしまった。

その結果、彼は地質学者のライエルやダーウィン達の本を読んで自分も自然科学者として彼らのように大成してやろうと野心を持つことになった。


だが、庶民のウォレスには金もコネもない。

しかも、科学知識を学べる機会すら与えられていなかった。


それでも彼は測量士の仕事をしながら自分で夜間の大学に行き、ほぼ独学で政治や科学、経済、法律などの高等教育の知識を学んでいった。

そうして自分で働いて得たお金をコツコツと貯めてダーウィンのように動植物を調査する探検旅行に出かけようと、夢に向かって動き出したのが25歳の時だった。

恐らくウォレス以外にもこういう自然科学者のみならず、未開のジャングルや遺跡などに分け入って一攫千金のお宝を求めて旅する探検家、もしくは冒険家といった職業に憧れる若者達はこの当時、欧米ではかなり多かったに違いない。

だから、ウォレスの弟のハーバートや親友のヘンリー・ベイツもウォレスの夢に共感し、多額の費用がかかる南米での探検旅行に賛同してウォレスとベイツが先に旅立つと、弟のハーバートも後から彼らの旅行に参加してきて一緒に動植物のお宝を探すことになった。

もちろん、兄弟、親友と言えど、お宝の発掘は個人の競争でもある。

とは言え、彼ら庶民にとってそうした動植物のお宝を探す競争は「見つかったらいいね」とお互い励まし合って意欲を沸き立たせる程度の刺激であって、まさか生きるか死ぬかの生存競争にするつもりは少なくともウォレスの心には全くなかった。

ところが、運悪くイギリス政府(王室)がなぜ、動植物のお宝を探し求め、表彰したり、資金援助するのかという真の目的を知る人物が彼らの探検旅行に加わったことで、彼らの宝探し競争は生命に関わる熾烈なものとなった。

その人物と言うのがリチャード・スプルースというイギリス人の植物学者で、苔の研究でキューガーデン(=Kew Gardens、1759年にイギリス王室によって設置された植物園で、1923年からイギリスの農業、漁業、食糧及び環境を管轄する省庁の出先機関のロイヤル・ボタニックガーデンズ・キュー(=Royal Botanic Gardens, KEW、2018年時点で従業員約835人、売上高約1億1,170万ポンド(日本円にして約165億円))に管理されていて、総面積132万㎡、3万種類以上の植物が植えられている。生物兵器開発以外に主に植民地で大量生産できそうな農作物の研究に使われており、品種改良を経て様々な原産地の植物を別の国に移植したりしている。)の監督責任者のウィリアム・フッカーに気に入られていて、既に税金による資金援助を受けてブラジルを調査しに来ていた。


そのスプルースを得意気に連れてきたのは実はウォレスの弟のハーバートだったのだが、税金による探検費用の援助が受けられると聞いて成功を夢見る若者達が色めき立ったのは言うまでもない。

自分達もイギリス政府(王室)の求める軍事用の動植物を見つければスプルースのように出世できると気づいたようだった。

そこから親友のベイツと弟のハーバートの様子がおかしくなった。

彼らはどうやら戦争(人殺し)で使える動植物を探して税金で雇われることにしたらしく、戦争(人殺し)に反対してあくまで自然科学を追究し、人類の種の起源を探ろうと自費で探検を続けることにしたウォレスとまるっきり意見が合わなくなった。


そうしてお互い全く別々に行動するようになり、時々、合流して収穫物を見せ合うことはあっても以前のように熱く語り合い、情報交換できていた頃とは違い、何だかぎくしゃくするようになった。

さらにベイツと行動を共にするようになった弟のハーバートもどっちが先に国家(王室)から表彰されるようなお宝を見つけて出世するかで競争するようになり、ベイツとの仲も険悪となって、とうとう南米にきて2年も経っていたある日、突然、黄熱病(=Yellow fever、“人または猿にしか感染しない”熱病で、主に蚊が媒介していると言われている。元々、アフリカで発生したものだが、黒人奴隷が連れてこられるようになって北南米でも広がるようになった。潜伏期間は3日から1週間程度で、発熱や筋肉痛、嘔吐などを繰り返し、ほとんどの患者は3日~4日で回復するが、重症になると黄疸(おうだん)、出血、嘔吐を伴って腎機能が低下し、10日から14日以内に死亡する。最初にアメリカ大陸で黄熱病が大流行したのは17世紀で、イギリスがスペインやポルトガルの植民地を駆逐し、アフリカ、西インド諸島、アメリカの三角貿易でオランダと争っていた最中(英蘭戦争 1652年~1784年)、カリブ海にあるバルバドス島やメキシコのユカタン半島、ブラジルの港町レシフェなどで数多くの原住民やスペイン、ポルトガルからの入植者達が血を吐いて倒れたと記録が残されている。また、通常、熱帯気候で発生するはずの黄熱病が北米のニューヨークやフィラデルフィアでも同じ頃に大流行していて、18世紀にも黄熱病が再びフィラデルフィアで猛威を振るい、この時はフランスの植民地であるハイチで起きた革命の戦火から逃げてきた白人の入植者と黒人奴隷、そしてフィラデルフィアに住んでいた人口の9%に当たる5千人以上が犠牲となった。19世紀には人体実験の結果から黄熱病の原因がネッタイシマカによるものと断定されるようになり、20世紀に入ると日本の細菌学者である野口英世(のぐちひでよ)がロックフェラー財団の支援を受けて黄熱病の病原体を研究し、細菌説を唱えたが、アメリカ人ウィルス学者のマックス・タイラーが野口とは逆に生物ではない“ウィルスが病原体”と唱え、これまたロックフェラー財団の下でワクチンを開発するようになった。このワクチンで1920年~1930年に油田開発を狙ってロックフェラー財団がメキシコでの黄熱病の撲滅キャンペーンを展開し、成功したようだが、そもそも人から人に感染せず、蚊が必ず媒介するものならウィルスに侵された蚊が特定の地域や町などで大発生していたことになり、2013年時点で黄熱病の90%がアフリカで起き、約11万人以上の人々が罹患し、そのうち約4万人が命を落としているのだからそれと同じぐらい病魔を運ぶ蚊が“自然に”湧いて出たことになる。それも“よく考えてみれば”何ともおかしな話だと思うのだが、今のところ、黄熱病にはこのワクチンによる予防以外に治療する術はなく、その他の対策としてウィルスを運ぶ蚊そのものを撲滅しようとイギリス政府(王室)からご下命を受けたオックスフォード大学と民間企業のオキシテックでは放射線を使った遺伝子組み換え(=Genetically Modified)で不妊の蚊を生み出し(GM蚊)、これを2011年には人命救済の為と言って自国ではなくマレーシアの森に6千匹も放っている。アメリカでも同じくネッタイシマカを撲滅すべくバイオテクノロジー企業のヴェリリー社がこのGM蚊(不妊の蚊)をカリフォルニア州のフレズノで2017年から2千万匹も放っていて、黄熱病以外にジカ熱などの感染症も防ぐ為とも言われているが、“未知なる昆虫の生態系”そのものを壊しかねず、このGM蚊(不妊の蚊)の放出には反対の声も上がっている。だが、このGM昆虫の放出ニュースで農産物市場や畜産企業への投資額が跳ねあがり、数億ドルもの経済効果があるため、このGM蚊(不妊の蚊)の放出に積極的な企業が欧米では後を絶たない。)に罹患し、ベイツと一緒にいた同じキャンプ場で死亡した。


離れて行動していて後から弟の死をベイツから知らされたウォレスはさすがにこれ以上、南米に留まることもできなくなり、傷心のままこれまで自分が集めた動植物の標本と共にイギリスに帰国しようとしたのだが、なぜか帰国する際に乗った船が突然、火事になり、ベイツ達と離れていた間に集めた貴重な標本の数々があっけなく海に沈んでしまうこととなった。

幸い、標本に保険をかけていたためその保険金と、帰国する前に先に送っておいた標本をいくつか売りながらどうにか1年ほど暮らせたが、当初、ウォレスがその胸に抱いてきた夢や目標には程遠く、無念の思いを噛みしめながらそれでもあきらめきれないウォレスは再起を図るべく南米での経験を基にいくつか自然科学の本や論文を出版した。

それがどうやら認められたのか、今度はダーウィンも加盟している王立地理学会(=the Royal Geographical Society、植民地にするアジア地域の地理や地形を調査する為に海軍のメンバーを中心に発足し、1859年にヴィクトリア女王によって正式に王室直属機関として認められた。特に学生や教師、研究者に関わりなく、ダーウィンやウォレスのような個人であってもスパイ活動してくれるなら支援金が出され、その費用だけで年1,260万ポンド(日本円にして約18億円)もの税金が使われている。調査地は2015年時点で120か国に上り、会員数は16,000人を超える。日本もこの学会を真似して1879年に“東京地学協会”を設立していて、初代会長は北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのうであり、皇室直属機関として日中戦争前に中国大陸を調査するなど地形についてのスパイ活動を行っていた。現在は社団法人として地形と共に地震学や火山学、気象学なども研究する機関となっており、調査研究には最大100万円の助成金が支給される。)から調査探検の誘いがウォレスの下に舞い込んだ。

むろん、ダーウィンの住む世界からの誘いは軍事用の動植物を収集してくることを意味し、ベイツやスブルースと同じく税金の支援を受けて調査探検することになるのだが、元々、調査探検の仕事自体、王侯貴族や富裕層出身の学者達が行きたがるものではなかったため、どういう目的だろうと行って調査収集してきてくれればそれは誰でも良かった。

だから、ダーウィンのように大して自然科学の知識がなくても参加させてもらえたのだが、ウォレスのように科学知識がある人間が行ってくれるならなおのこと、それなりに資金は提供してくれる。

そこで夢にも生活にも切羽詰まっていたウォレスはその誘惑につい、流されて調査探検に出かけることにした。


そして、彼が向かったのはマレーシアやシンガポール、インドネシアなどの“東南アジア”だった。

これが彼の運命と世界の運命をも変えることになる。



この東南アジアでの8年にも及ぶ長期調査で彼が集めた標本の数は125,660点、その他、7,500個の貝類に8,050種類の鳥類、310体の哺乳動物、さらに100種類の爬虫類と膨大な数に及ぶが、その中の一つに“ワラストビカエル”、“ウォレス(ワラス)の飛びガエル”(=Wallece’s flying frog)と呼ばれる体長80~100mm程度の光沢のある緑色をしたカエルがいて、この小さなカエルがこの後、世界を一変させることになる。

実はこのワラストビガエルは魚のヒレのような手足を扇形に広げ、“空気抵抗”(=Air resistance)を利用して木から木へと15m以上も空を飛べる能力を持つ。


例えば、強風に煽られた傘が簡単に上空へと飛ばされるように翼や胴体を工夫することで前から向かってくる風や周りの空気を利用して飛行機を飛ばせるという考えがこの当時の“欧米には”まだ、なかった。


ところが、この小さなカエルをウォレスが見つけ、それを『The Malay Archipelago(邦題にすると『マレー諸島紀行』)』(1869年発刊)の中で紹介したことでドイツの応用空気力学の先駆者となるユダヤ人技術者オットー・リリエンタールやアメリカ人発明家のジョン・モンゴメリーなどの目に留まることとなり、鳥のように翼を動力にせずただ手足を広げて飛び下りるワラストビガエルの話からリリエンタールやモンゴメリーらは空気の力だけで飛ぶハンググライダーの開発を進め、そのリリエンタールの実験記録と理論からアメリカのライト兄弟は飛行実験に成功するようになった。

もちろん、飛行機ができたことは人や荷物を運ぶ旅客機だけでなく、人を殺す為に空から化学兵器を散布したり、爆撃を行う戦闘機も作られることになる。

特にこの戦闘機の開発はイギリスを始めとした欧米はもちろん、中世以降、イスラム教を国教としてきたアラブ諸国にとっても悲願だった。

というのも、戦闘機はメソポタミア文明やインダス文明で既に作られていたからである。(この古代の戦闘機の話については後ほど、本作品にて触れたいと思う。)


だから、ウォレス達、調査探検隊をイギリスが何度も派遣するのもこの戦闘機の造り方を古代文明が残る植民地や未開の地で探らせる為でもあった。

そして、そのヒントとなりそうなカエルをウォレスが上手く見つけてきたことはまさしく彼の出世を確約するはずだったが、これまでウォレスが探し求めてきた種の起源も同時に見つけてきてしまった為に彼の出世はたちまち取り消されることとなった。


元々、猿から文明を創り出す人間に進化したという進化論はダーウィンが発表する前から欧米ではずっと語られていて、前述した通り、フランスの博物学者のラマルクが提唱した生物変移説もその一つだった。

その他にも医療書籍を販売していたイギリスの出版社社長ジョン・チャーチルと、同じくスコットランドで出版業を営み、教科書の販売も手掛けていたチャンバース兄弟が一緒に手を組んで出版した『Vestiges of the Natural History of Creation(邦題にすると『創造の自然史の名残』)』(1844年発刊)でも、地球がガスや宇宙の塵などと固まってできたとする星雲説や頭蓋骨の大きさで個人の性質が分かるとする骨相学などと併せて人間の進化論は唱えられていて、イギリス王室でアルバート公が妻のヴィクトリア女王に読んで聞かせたというほど当時としてはセンセーショナルな疑似科学本としてベストセラ―になっていた。

だから、ウォレスが猿から人間に変化したという証拠を見つけてきたとしても誰も大して驚かなかったと思うが、彼が見つけてきたのは私達、人類の起源、つまり、“知能を持って”文明を築くようになった人類最初の土地は、イギリスを始めとしたギリシャ(西洋)文明の人々が長く信じてきた大地溝帯のあるアフリカ大陸やエジプト文明が興ったエジプト、そしてシュメール文明の中東などのヨーロッパ大陸の近くではなく、自分達が馬鹿にして蔑み、植民地として蹂躙してきた東南アジアやインド大陸などのアジアから人類の起源が始まっていたというものだった。


それが現代において“ウォレス線”(=the Wallace’s Line)と呼ばれる東南アジアのバリ島とロンボク島の間にあるロンボク海峡から北上し、ボルネオ島とスラウェシ島の間にあるマカッサル海峡を通過して、フィリピンにあるミンダナオ島の東側までを一つの区切り線とする“生物種の境界線”だった。

たった25kmほどしか離れていないバリ島とロンボク島に生息する動物がこのウォレス線を境に全く異なっていて、この線の西側にいる動物は例えば、トラやゾウのようにアジア、アフリカ、ヨーロッパで共通して見られるものが多く(東洋区)、東側にいる動物はコアラやカンガルー、カモノハシのようなオーストラリアや太平洋の島々でしか見られないものばかりで(オーストラリア区)、それ以外は西側と東側の動物が“交配して”生まれた動物だった。


つまり、この境目(ウォレス線)のある地域にたくさんの生物種が存在していたからこそ、ここから生物種が交配を繰り返していろいろな地域に分散していったということになり、実際、人類の種類も現代人の祖先となるホモ・サピエンス以外に1891年にインドネシアのジャワ島で見つかったジャワ原人(学術名はホモ・エレクトス(直立するヒト)、ちなみに北京原人もホモ・エレクトスの仲間である。)や2003年にインドネシアのフローレス島で見つかったチンパンジーよりも頭が小さくて小人ホビットとも呼ばれるホモ・フローレシエンシス、さらに近年の調査でもフィリピンのルソン島でルソン原人と呼ばれる新たな人類の化石が見つかるなど、そうした生物種の境界がないアフリカやヨーロッパとは違い、多種多様な“生物種”がこの東南アジア地域から興っていたことは確かだった。


しかし、このウォレス線の発見や東南アジアを種の起源とする学説は、特にダーウィン達、欧米(西洋)人こそ“高い知能を持って”文明を築き上げ、東洋人よりもはるかに進化を遂げた人種だとこれまで豪語してきた人々にとっては学術的にも政治的にも非常に都合が悪かった。

というのも、あくまで人類はキリスト教の神(=イエス・キリスト)によって創られたとするカソリック(伝統キリスト教)の教義を否定し、これまでカソリック(伝統派)の神を介在させない宗教哲学や科学論、社会制度を世間に向けて宣教してきたプロテスタント(新興キリスト教)のイギリスその他の欧米諸国の人々にしてみれば、自分達の教育こそ間違いだと否定されるだけでなく、「キリスト教の神に代わって人々を支配する権利がある」と主張してきたキリスト教国の王侯貴族達の血統への信頼までも揺らぐことになる。


とは言え、「自分達は生まれながらにして神に選ばれた血筋である」と常々、威張ってきたイギリスやスコットランドの王侯貴族達がまさか一般庶民を騙して支配しているなどとはついぞ考えたこともなく、また、自分達の国の社会制度も疑問を持たずに育った庶民層のウォレスに彼ら特権階級の隠れた不安や後ろめたさにまで考えが及ぶはずはなかった。

だから、長年、研究してきてようやくつかんだ証拠や結論がうれしくて自分を調査探検に派遣してくれた王立地理学会のメンバーで、ロンドン地質学会の役員でもあるダーウィンについ、その事を喜び勇んで報告してしまった。

その結果、ウォレスが見つけた種の起源はダーウィン達に捻じ曲げられることとなった。


要は、東南アジアから種の起源が始まっていたとするウォレスの学説をもみ消し、今までダーウィン達が主張してきた“強い生物だけが生き残り、弱い生物は淘汰される”という種の変遷(生物学上では自然淘汰説または自然選択説と呼ぶ。)だけに世間の注目や関心を向けさせようとしたのである。

もちろん、生物種が交配を繰り返すうち、その姿形が変わっていく種の変遷そのものには同意するものの、そんな自然淘汰説など一言も言った覚えのないウォレスは反論しようとしたのだが、ダーウィン達のような国家権力と資金力で本や論文、出版物の言論を操作し、弾圧する人々の前では庶民のウォレスはあまりにも無力だった。


その為、ワラストビガエルの話を書いた『The Malay Archipelago(『マレー諸島紀行』)』も調査探検から帰国して7年も経ってようやく出版できるようにはなったが、それ以前にダーウィンに送った種の起源に関する論文そのものはダーウィン達の手で書き換えられて勝手にダーウィンの名前で学会に提出されていた。

さらにその翌年の1859年にはダーウィンの名前でハリエットが執筆した『On the Origin of Species(邦題では『種の起源』)』が出版され、祖父のエラスムスの著書となっているが、これまた別のゴーストライター(代筆屋)に書かせた『Zoonomia(『不変の法則の動物園』)』の中の「たった一本の生命の糸から生まれて変化した」とする種の変遷説を併せることで生物種の“多様性”を否定し、後は本の題名タイトルになっているはずの種の起源には全く触れずひたすら適者生存とか生存競争などの言葉を繰り返して自然淘汰説のみを強調していった。

こうして、ウォレスの研究した種の起源の真実は闇に葬り去られ、世間では自然淘汰説を巡っての論争一色となってしまった。

そうなったのもダーウィン達、イギリスの特権階級の中で特にホイッグ党支持者達が裏で糸を引いて新聞や学会でダーウィンへのヤラセ批判を行い、それに応戦する形で他の学者や宗教家などが参戦してきてオックスフォード大学で公開討論をわざわざ開催するなど、あの手この手を使ってウォレスが告げた真実を隠そうとしたからだった。(the 1860 Oxford evolution debate)

既にイギリス政府(王室)からの資金で調査探検に出かけている以上、ウォレスの存在を消したり、その口を塞ぐことは難しく、また、常に生活費や仕事に困っている一介の庶民でしかないウォレスをこのまま泳がせても世論への影響力はないと判断したダーウィン達、イギリスの学界は徹底してウォレスを仲間外れにすることにした。


その為、ウォレスの親友だったベイツはウォレスと別れた後も南米に残って黄熱病などの生物兵器の開発研究を続けていただけで大した功績を挙げた訳でもなかったが、それでも帰国してから5年目には王立地理学会の役員秘書に選ばれ、ロンドン昆虫学会(=the Entomological Society of London、1833年に大英博物館内で作られた昆虫による生物兵器開発を目的とした学会で、1885年にヴィクトリア女王の認可により正式な王室直属機関となった。)の会長職を二回も経験し、さらには王立協会ロイヤル・ソサイエティーフェローにも選出されるなど順調に出世したのに比べ、ウォレスの方は学会からはもちろん、博物館などの学芸員の仕事すらもらえず、動物図鑑のような毒にも薬にもならない本を書いたり、ダーウィンやその他の学者達が書いた論文の校閲こうえつ(内容の確認や不備の補修)を手伝ったりしてわずかばかりの収入がもらえる程度で、結婚もなぜか突然、破断にさせられたりして私生活まで妨害され、南米の探検旅行で一緒だった植物学者のスプルースが結婚相手をウォレスに紹介するなどどうやらその行動を監視されていたらしく、とうとう自宅を売りに出さざるを得ないほどウォレスを追い詰めたところでダーウィンはわずかばかりの年金をいかにも慈善的に施し、そうして彼の一生を束縛したようだった。


確かに、ウォレス自身もすぐに本に感化されたり、他人の言葉に惑わされて騙されやすいところもあったため生きづらくなったのは本人にも責任の一端はあっただろうが、元々、特権を持たない庶民階級に生まれたというだけで理不尽な社会制度にがんじがらめにされ、息のしやすい場所を狭められて生存競争が激しくなるイギリス社会で生き残っていくには彼でなくとも誰だっていつかは限界を感じていたことだろう。

だから、彼なりに少しでも自分や社会状況を“良くしようと”政治や社会制度に目を向け、社会的弱者(庶民層)を保護する観点から土地の無償もしくは低価格での庶民への貸与を訴えたり、執筆活動を通じて飛行機による空爆や戦争そのものにも反対する社会改革運動を試みたようだが、ダーウィン達、イギリスやスコットランドの王侯貴族達こそまさしく“国家(共同社会)に寄生している最大の癌”だとは彼らの口利きで年金や仕事をもらう身分にされてしまったウォレスにはもはや口にすることができなくなっていた。

結局、ウォレスはその後、種の起源の真実について触れることはなく、世界中に分布した個々の動植物と地形の関係やダーウィンの自然淘汰説に沿う話に終始し、90歳で永眠した。

当初、彼の遺体はダーウィンを始め多数の王侯貴族や著名な学者などが(うやうや)しく埋葬されるウェストミンスター寺院に埋められるはずだったが、ウォレス本人としては死んでからも彼ら特権階級に縛られたくなかったのか、彼の残した遺言によりロンドンから遠く離れた地方の小さな墓地に埋葬されることになった。

ところが、これに反してイギリス学界の科学者達が勝手に協議してダーウィンの墓近くにウォレスの記念碑を建てたようで、おかげでウォレスの名前とダーウィンの名前が一緒にされてしまい、ウォレスがやってきた研究もまるでダーウィンが研究していたかのような印象イメージで後世では語られることとなった。


そのウォレスよりも先に逝ったダーウィンはと言うと、とうとう生涯、働くことはなく、ハリエットが死んでからは娘のヘンリエッタや妻のエマ、ヘンスロー親子がダーウィンのゴーストライター(代筆屋)を引き受け、周囲が勝手に彼の本や論文を出してくれるためあの探検旅行に出かけた以外にこれと言って何もしないまま麻薬の副作用による心臓病で73歳の無為な人生を終えた。

さらにウォレスだけが友達と思って長年、手紙を送っていたベイツもダーウィンが死んで10年後の1892年に自分が開発研究してきた生物兵器(神経ガス)を吸入し続けたことで慢性閉塞肺疾患を患い、ウォレスよりも2歳下だったのに67歳で死亡した。


その後、ウォレスの発見した種の起源の真実はそのまま闇に消えていくはずだったのだが、ベイツが死ぬ前年の1891年にオランダの軍医だったウージェーヌ・デュボワがジャワ島で猿に似た姿のジャワ原人(ホモ・エレクトス)の頭蓋骨ずがいこつなどを発見し、再びアジアからの人類起源説が浮上してウォレスの学説がにわかに真実味を帯びだした。

ただし、デュボワがこだわったのは人類が生まれた場所より猿から人になったという証拠の方だったので、彼の発見そのものが欧米の学者達から否定されてアジアが人類発祥の地とする学説はまたもやうやむやにされてしまった。

しかし、それから16年経って今度はドイツのハイデルベルグで作業員が偶然、ジャワ原人(ホモ・エレクトス)の子孫とおぼしきハイデルベルグ人(ホモ・ハイッデルベルゲンシス)のあごを掘り出した。

この発掘でデュボワの発見したジャワ原人も本物だと証明されることになり、猿から人になったとするダーウィンの進化論をこれまで誇らしげに掲げてきたイギリス学界はもはやこの二つの証拠品を否定することができなくなって焦り出した。


とにかく、猿から人になったかどうかよりも人類の起源はアジアではなく、キリスト教の聖地であるエルサレムに近いアフリカやヨーロッパ大陸であることの方が重要なのだから、何としてでもジャワ原人やハイデルベルグ人を超える証拠を見つけ出さなければならない。


そこでイギリス学界は大英博物館に所属していたアマチュア発掘調査員で、王立地理学会のフェローにも選ばれていたチャールズ・ドーソンを筆頭に、同じく大英博物館(現在はロンドン自然史博物館に分館されている。)に勤めていた古生物学者のアーサー・スミス・ウッドワード、そのアシスタントをしていた解剖学者のフランク・バーロー、解剖学者のアーサー・キース、歯科医学教授のアーサー・アンダーウッド、骨相学者のウィリアム・パイクラフト、動物学者のレイ・ランケスター、エジプト学者のグラフトン・スミスなどそうそうたるメンバーを集め、人類学史上、忘れられない最悪の捏造ねつぞう事件を引き起こした。


それが“ピルトダウン人”(=the Piltdown Man)事件である。

集められたメンバーはいずれもヨーロッパ(もしくは地中海周辺、最悪、範囲を広げてもギリシャ文明が残るエジプト周辺の北アフリカまで)を人類発祥の地と提唱してきた人々ばかりで、自分達、ヨーロッパの人々がこれまで植民地にしてきたアジアやアフリカから人類の高度な文明が興ったという“事実”をどうしても受け入れられない人達でもあった。

その為、強者のみ生き残る適者生存説を説いたダーウィンの進化論に便乗してより欺瞞に満ちた遺伝についての仮説を上乗せ、人種間に優劣をつけて交配や遺伝子を操作したり、出生(生命)そのものを抑制(抹殺)しようとする優生学にも傾倒しており、神が創りし生命への畏怖もなく、公然と人種差別を提唱していた。

そういう悪意ある異常な思想に偏った人達だったので、イギリス王室(政府)直属の学界からの要請ということもあって、恥知らずにも証拠のでっち上げにも簡単に応じてきた。


それは本当にむなしいというか、馬鹿馬鹿しいぐらい手間暇のかかったでっち上げで、まず、ハイデルベルグ人が見つかった翌年の1908年から発掘調査員だったドーソンが自分の地元であるイースト・サセックス州のピルトダウンという森の中の小さな村落から人間の骨のようなものを見つけてきた。

それをわざとらしく地元の人々に見せて発掘調査に誘い、人間の骨の化石らしいとの噂を流すようにした。

そうして「ハイデルベルグ人に似た人間の骨らしいものを見つけました。」と大英博物館(現、ロンドン自然史博物館)にいるウッドワードに知らせ、ウッドワードや他のメンバー達がピットダウンでの発掘調査に加わり、さらに頭蓋骨(ずがいこつ)欠片(かけら)や歯のついた下顎(したあご)の骨、原人が使っていたと思われる石器なども発見し、解析した結果、50万年以上も前の原人の骨だと偽ってロンドン地質学会にて発表した。(1912年)

むろん、ハイデルベルグ人に次ぐ世紀の大発見とあってイギリス学界は一気に沸き立ち、これが間違いであれば国家の威信に関わると要らぬ心配をして捏造(ねつぞう)を知らない学者達まで一斉に擁護に回ったため信憑性が増してしまい、それを煽るようにして世界中のマスコミも報道するものだから本物と信じてしまう人達が増えただけでなく、骨についての詳細を求められても国家間の研究競争を匂わせて秘密と言えば疑われることもなかった。


ところが、嘘と言うのはおかしなもので他人を騙すにはどうしても“本物”が必要となる。


万一、調べられた場合を考えて捏造品でもある程度、本物の骨を使っておかないとすぐにばれるだろうし、研究発表を聞いた学者や専門家が調べても怪しまれないようそれなりに本物らしい高度な加工もしておかなければならない。

だから、ドーソンが(あご)の欠けた本物の人間の頭蓋骨(ずがいこつ)を購入したことや地元の化学の教師にどうしたら骨が化石のように見せられるのか尋ねたこと、発掘を手伝っていた仲間と骨を薬品に浸して加工していたことなど、捏造品の準備自体にはどうしても嘘はつけなかった。

そこから疑惑が広まるようになったのだが、どうもドーソンは嘘が下手な人だったらしく、またもや新たな骨を発見したなどと見え透いた嘘を言い出し、いっそう怪しまれただけで捏造疑惑をもっと深めてしまった。

そこでせっかく当初から慎重にメンバーを定め、イエズス会の派遣傭兵(第103話『略奪』(注1)参照)でフランス人考古学者のピエール・シャルダンまで雇って発掘調査チームに加え、国際的な検証を裏付けるような印象操作までしたのにこれでは発覚するのも時間の問題と焦ったイギリス学界はドーソンを見限り、彼一人がでっち上げたかのように世論を誘導することにした。

その為、公表した翌年にスコットランドの解剖学者のデビッド・ウォーターソンを新たに登場させてピルトダウン人は人の頭蓋骨と猿の顎骨(あごぼね)を合わせたものとドーソンの発見への批判を始め、さらに次の年にはイギリス領であるオーストラリアで発掘されたまま長い間、放置していた人骨の化石をシドニー大学の考古学教授だったエッジワース・デイビットに突然、2万年前の原人の物と発表させて、ピルトダウン人との関連性にも目を向けるように海外の研究者達を促していった。(the Talgai Skull 1914年)


こうして、国家の威信がかかった世紀の発見とあれほどドーソンを賛美し、擁護してきたイギリス学界が一転してピルトダウン人の化石を冷ややかな視線で眺める“中立の立場”、いわば、部外者の態度を取るようになり、自分に対する批判が相次ぐ中、追い詰められたドーソンは自殺したのか、殺されたのか急死し、さらにちょうど第一次世界大戦の勃発でしばらくピルトダウン人の真偽はお預けとなった。

それでも化石そのものを調査することは禁じられていたため半ば聖遺物のように扱われ、1938年には当初から検証メンバーの一人で解剖学者のアーサー・キースがピルトダウンの発掘現場に記念碑を建てるなど真相が曖昧なまま、民族浄化政策や人種差別政策が隆盛を極めていた第二次世界大戦の終結までピルトダウン人の捏造疑惑は立ち消えになっていた。

しかし、第二次世界大戦での教訓から人種差別に対する非難が強くなり、ダーウィン達が提唱してきたアフリカからの人類起源説が定着し、もはやアジア起源説を訴える人も誰もいなくなり、しかも戦後も無事、エリザベス女王が戴冠式を終えて王位を継承できたため、ピルトダウン人も不要になったのか、1953年に南アフリカ生まれのイギリス人人類学者のジョゼフ・ウェイナーや解剖医のウィルフレッド・ルグロクラーク、考古学者のケネス・オークリーらが雑誌のタイムに化石の年代測定についての詳細な記事を掲載し、頭蓋骨は中世の頃の物らしく、下顎(したあご)はオラウータンかチンパンジーの骨をうまく接合して化学薬品で着色し、偽装したと結論付けた。


その後も時々、人類の化石と言われる歯や骨が見つかり、100万年前とか1000万年前とか今度こそ最古の人類の化石だ、猿から人になった証拠だと毎度、紙面を賑わせているが、一言、言わせてもらうなら、猿と人間では決定的に違う点がある。



猿は人間ほど嘘をつかないだろうし、その嘘に自分や他人の生命まで懸けたりもしない。



オックスフォード大学で公開討論を行ってウォレスの知った真実を封殺しようとした時もそうだったし、それから半世紀経ってピルトダウン人の化石が公表された時もウォレスはまだ、生きていたし、死ぬ数週間前まで本が書けるほど頭脳は冴え渡っていたらしいので、化石について何か聞かれたら意見が言えたかもしれないが、結局、誰も何も聞こうとせず、彼が何を言おうと無視されるのか、それとも本人もあきらめて何も言わなくなったのか、いずれにせよ、何百万年、何千万年経とうと、人間は何も進化していないかもしれない。


前述の公開討論で抗弁に立った生物学者のトマス・ハクスリーは「君の先祖は猿なのか?」と司祭に当てこすられてこう叫んだらしい。

「あなたのように学術的権威をひけらかし、口先ばかり素晴らしくて他人に物を言わせず、真実を口にしない人間の姿形をした生物でいるより、猿でいた方がよっぽどましだ。」と。


ならば、猿でも人でもどっちでもいいから、一体、いつになったらあなた方は真実(神)を口にするのか?とダーウィンの進化論を擁護する人達にもぜひとも聞いてみたいものだ。


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[一言] 続きは、あるのですか?
2020/02/27 21:52 影の指し手
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