第百十三話 内部者(インサイダー)
『Carminaカルミナ Buranaブラーナ~O Fortunaオー・フォルトゥナ~』
https://youtu.be/O5b7tgkdFH0
(URLを範囲指定して右クリックし、移動を選択するとすぐに聴けます。)
Verum est, quod legitur, それは真実で書かれている
fronte capillata, まるで彼女の髪の毛一本一本のごとく緻密なまでに
sed plerumque sequitur 来るべき時が来たら
Occasio calvata. 彼女は大胆である
In Fortune solio 運命の王座の上に
sederam elatus, 私はこれまで座るように育てられてきた
prosperitatis vario 王冠を載せられ
flore coronatus; あらゆる繁栄の花々を飾られて
quicquid enim florui 私は富んでもてはやされ
felix et beatus, 幸福に祝福されてきたかもしれないが
nunc a summo corrui 今こそ私はその絶頂から落とされる
gloria privatus. 栄光は奪われる
Fortune rota volvitur: 運命の車輪が廻り始めた
descendo minoratus; 私は地に堕ち、ぶざまに暴かれる
alter in altum tollitur; そして別の者がその王座に持ち上げられる
nimis exaltatus はるかな高みへと
rex sedet in vertice その頂きに王が座る
caveat ruinam! さぁ、その者に破滅を恐れさせよ!
nam sub axe legimus これはまさしく運命の車軸の下で書かれたものなのだから
Hecubam reginam. 復讐の女神によって
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実際、ノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベルも父親の代から機雷(=Naval mine、水中で戦艦や潜水艦を狙って爆発させる兵器のこと。)の開発で大儲けし、彼の特許としてよく知られるダイナマイト(=Dynamite、木炭や硫黄などを主剤とする黒色火薬の代わりにニトログリセリンを用いた爆薬のこと。)を作ったのも、より強力な兵器になる商品だとして軍拡競争に躍起となっている各国政府(王室)に売り込む為だった。
(ちなみに、ノーベルの会社は創業350年で今も存在するスウェーデンの兵器メーカー、ボフォース社である。元々はハンマー粉砕機などを作る国営の鉄工所に過ぎなかったが、ノーベルが経営するようになってからは武器製造を主な生業とするようになった。
現在はスウェーデンの国家財産の40%近くを占め、政治家や外交官も数多く輩出している銀行および投資一族の“ワレンバーグ家”(=The Wallenberg family、スウェーデン語はヴァレンベリ家と呼ぶ。)がボフォース社を所有しており、ボフォース40mm機関砲などの対空機関砲や化学兵器を製造販売して、日本を含め世界中に“多くの人を殺傷する為だけ”の兵器を拡散し続けている。)
そして、ノーベル賞もアルフレッド・ノーベルが自分の死後、「死の商人」と呼ばれるのを嫌い、“人類の発展の為に”自分の財産を寄付してまで創設したとよく世間では言われるが、実はそうではなく、彼の兄で当時、世界一だった石油会社のブラノーベル社(=Branobel、ロシア語のbrat'yev Nobel「ノーベル兄弟」を略して名付けられたカスピ海沿岸地域を原油採掘場とする石油会社。元々、ノーベル兄弟の資本で創設されたが、一部、ロシア帝国の資本も併せたことで1879年、株式会社となった。)を経営していたルドヴィグが急死し、ロスチャイルド銀行を始めとした様々な人達がブラノーベル社の経営権を奪おうと投資や脅しをちらつかせてはノーベル一族の持つ株式を要求してきたからだった。
多くの人が働いて賃金をもらい、もらったお金をやり繰りして生きていくのと同じように、会社を維持し、安定的に経営していく為には、資金繰りは必要不可欠である。
しかし、株を買ってもらったり、投資してもらうと、借金と同じでいろんな他人が経営に口を出すようになり、いずれは他人に自分の会社を奪われかねない。
まして、自分がそうであるように金の為なら人殺し(戦争)だろうと何だろうと厭わない血に飢えた野獣のような連中ばかりが会社の周りや自分達の財産に群がっている。
父親の代から何度か破産も経験し、苦労して兄弟共に力を合わせて築いてきた会社なのに死んだらそれがどうなるかわからない。
そうした状況に直面したアルフレッド・ノーベルは自分の死後、自分の親族が路頭に迷うことを恐れたのだろう、というか、死後も自分の財産を絶対に他人の手に渡したくないと思ったに違いない。
金に成りそうな世界中のありとあらゆる特許を集めることにした。
要するに、誰かが考え出したり、創造した知識や技術をノーベル賞の名の下で買い取り、それを転売することで自分の死後も永遠に金儲けをし続けようとしたのである。
その為、今もノーベル賞はある意味、投資会社であり、世界中から集められた知識や技術を審査し、これは金に成る、軍事転用できるといったものに“ノーベル賞”(=The Nobel Prize)という賞を授与することで賞金を払って買い取り、世界に向けて公表すると今度は世間がそのノーベル賞を受賞した人物が手掛けた商品や企業などに注目して購入したり、投資したりする。
そうして人気を高めさせた商品や企業に対してノーベル財団が前もって株式や債券などで投資しておけば、当然、ノーベル財団はいっそう儲かることになる。
要するに、情報操作による“インサイダー取引”(=Insider trading、内部情報を利用して事前に株式を安く買い、その情報を知らなかった人達に高く売ること。)である。
勝つと分かっている試合に賭けをもちかけて賭け金を募り、勝った後、賭け金をせしめるようなものとも言える。
こうしておけば、自分の財産を他人に奪われることも、目減りすることもない。
苦労して自分でアイデアを考えたり、物を作って働かなくても他人が勝手に知識や技術を創り出し、それをできるだけ金に成る見込みがあるものだけを吟味して選びさえすれば、勝手に利益が転がり込んでくる。
そして、自分の名前は未来永劫、科学と発明、人類の発展の為に貢献した素晴らしい人だ、と人々に崇敬的に(=神のごとく敬われ、崇められて)記憶され、世界に残る。
だから、アルフレッド・ノーベルは自分が創設したノーベル賞に遺産の多くを注ぎ込み、今後も戦争(人殺し)に役立ち、金儲けできそうな物理学、化学、生理学(人体や生物の機能を研究する学問)もしくは医学の3つの理系科目をノーベル賞の受賞科目に選んだ。
そして、最後に文学賞と平和賞を選んだのはこのノーベル賞を創らせるきっかけとなったあるフェミニストがいたからだった。
そのフェミニストの名をベルタ・ヴォン・ズットナー男爵夫人といった。
男爵夫人と名乗ってはいるが、実際はせこい女詐欺師&泥棒である。
前歴もどこまで本当か怪しいものだが、とにかく貧乏ながらそれでも一応、貴族であると名乗って王族や貴族が集まる社交場でピアノを弾いたり、オペラを歌ってアイドル活動をする一方、社交場に訪れる男性貴族達にパトロンになってもらい、援助交際してどうにか暮らしていたのだが、その男性貴族の一人と本当に恋仲となって駆け落ち結婚し、ついに男爵夫人の称号を得るまでになった。
しかし、素性の知れない女との結婚に当然、男爵家の親族は猛反対し、結局、金が尽きて男に捨てられた彼女は偶然、パリに住んでいたアルフレッド・ノーベルの秘書兼家政婦を募集する新聞広告に飛びついた。
そして、運よく雇われた彼女はものの数週間もしない内に、ノーベルが新しい爆薬を開発する為にわざわざパリ郊外の寂れた田舎に家を買って研究所にしていた自宅から彼が夜、その家でほとんど過ごさないことを見計らって機密文書を持ち出し、それを売り飛ばして再び男爵とその金を持って高飛び(逃亡)した。
おかげで、ノーベルはしばらくベルタの犯行に気づかず、自身の発明としてバリスタイトという新しい爆薬の特許を申請したのだが、なぜかまもなく彼と同じ爆薬の特許を求める申請が次々となされ、しかも、その爆薬をノーベルがイタリア政府(王室)に売ったことまでフランスに知られていて結局、ノーベルはフランス政府からスパイ容疑をかけられ、自分の爆薬とよく似たコルダイトという爆薬を開発したイギリスの軍事化学者達との間で特許侵害訴訟を起こす羽目になり、さらにその訴訟にも負けてしまった。(1887~1895年)
もちろん、自分が長年、金と労力をかけて心血注いできた考案を、何の苦労もしていない、その価値すらほとんど分かっていない姑息なコソ泥にまんまと盗まれることほど悔しくて腹立たしいものはない。
それでも、特許侵害訴訟を起こした以上、彼女が誰に、どこまで自分の情報を売ったのか調べざるを得ず、何度かそのことで彼女とやりとりしているうち、彼女が自分の犯した罪を何とか言い逃れようと見苦しい詭弁や弁解を繰り返すのに嫌でも付き合わされることになり、そのベルタの弁解が心底、ノーベルを呆れ果てさせた。
何と、彼女は“世界平和の為に”彼の爆薬の情報を売ったと言い張ったのである。
その上、ベルタはその弁解を世間に広めて認知させ、万一、自分の犯罪が世間にばれても自分自身を正当化できるよう、『Die Waffen nieder!(邦題は『武器を下ろせ!』)』という自身の自伝的な小説を書いて出版した。(1889年)
本の内容はまさしく主人公の男爵(=彼女の夫)が世界平和の為に活動していたところをスパイ容疑で撃たれて死ぬ(本を出版した時、彼女の夫はまだ、死んでいなかったが)といった、他人の機密情報を盗んだり、売買するスパイ活動は世界平和の為に必要で崇高な行為だと主張しているかのようだった。
盗人猛々しいとはこのことだが、そんな不幸がノーベルの周辺で次々と起きていた最中、ノーベルは自分の兄を失った。
そして、彼はノーベル賞をベルタの窃盗から思いついたのである。
他人の考案した知識や技術を盗んで売り飛ばす、それこそノーベル賞の真の目的だった。
だから、ノーベルが平和賞と文学賞を設けたのは、他人の財産を卑劣に奪っておきながら開き直って「世界平和の為に日々、私は働き、文筆活動をしている」と白々しい嘘をつくベルタ・ヴォン・ズットナー男爵夫人の(偽善の)おかげでノーベル賞を発明することができたという、彼自身の感謝も込めた最大の皮肉だった。
むろん、そんなノーベルの皮肉など気づかないベルタは当時、流行していたフェミニズムや社会主義運動(ドイツの哲学者カール・マルクスの考える理想社会に基づいた労働者の権利や財産を守る社会制度を求める運動のこと。)に勢いづいていた人々に持ち上げられて本音ではなりたかった訳でもない平和活動家にいつの間にやら祭り上げられ、これまでは友達として付き合ってもらえていた王族や貴族といった上流階級の人達から「変わった人」、「非常識な人」、「夢想家」と陰で煙たがられ、嘲笑され、仲間外れにされるようになり、結局、生活費を稼ぐには平和活動家としての仕事を続けるしかなく、元から大した思想がある訳でも宗教や社会問題に強い関心がある訳でもなかったのに、付き合う友達も段々、ドレフュス事件(フランスの軍人だったユダヤ人のアルフレッド・ドレフュスがドイツのスパイであると疑われたことから、普仏戦争に敗戦したフランス人達の経済的、宗教的、民族的な不満の標的となり、侮辱的な懲戒処分を受けた冤罪事件。軍による証拠のねつ造といった不正や反ユダヤ人右翼グループによる暴動なども起きたせいで社会の混乱を仲裁して収めようと人道支援団体や宗教家を中心に反差別運動や平和運動が巻き起こった。)(注1)をきっかけに、中東にイスラエル国を築くことを目指すシオニズム運動を提唱するユダヤ人の革命運動家だとか宗教家だとか、労働者階級といった人達ばかりになっていき、その上、たった一度でもノーベルから軍事機密を盗んだ産業スパイでもあったことから、その後も自分が情報を売った国の人々からその行動を監視され続け、富や権力はもとより、平穏無事な生活からもほど遠い生涯を送ることになった。
それでも1905年に彼女がノーベル“平和賞”に選ばれたのは本当に皮肉なものだと言えるだろう。
そして、こうした理由からベルタと同じフェミニストの象徴とされるマリー・キュリーが個人的にノーベル賞を目指す、目指さないは別にしろ、物理学や化学といった理系学問で自分の生計を立てようとしたことは、この当時は言うまでもなく(今もさほど変わらないだろうが)、兵器を造る(=人を殺す)為の研究をし、それで自分の身を助けると言うことだった。
だから、既に100年以上も前に放射能が確認されていたはずのウランから“より強く光る”ラジウムが発見されたと学者達の間で大騒ぎになったのも、世間の多くが期待するような“人命を救って医療の発展に役立つかもしれない発見”と言って喜んでいた訳ではなく、あくまでより凄まじい爆発力で多くの人を殺傷できるかもしれない“新しい爆薬の発見”、それと同時にキュリー夫妻は莫大な研究資金がもらえて軍需産業がいっそう儲かるだろう“金に成る発見”だと思われていたのである。
とは言え、ラジウムを始めとした放射線が全く医療研究の対象にならなかった訳ではない。
キュリー夫妻のラジウム発見よりほんの少し前の1895年、ドイツの機械技師で物理学者のヴィルヘルム・レントゲンが“X線”(=X-rays、空間を伝わる電気や磁力の波動もしくは波長、つまり“電磁波”(=Electromagnetic wave)が強くて短く、放電する放射線のことを言う。電磁波の種類のうち、電磁波の長い順から並べると、光が目に見えない“電波”、熱を持つ“赤外線”、光が目に見える“可視光線”、太陽の中で可視光線の紫部分より外側にあって目に見えず、殺菌作用を持つ“紫外線”の次にX線はエネルギーが強いとされる。)を発見して以来、X線を使った様々な医療研究はされてきた。
だが、それも決して平和に暮らそうとする人達の生命と健康を良好に増進しようとする為ではなく、ラジウムやX線を使った放射線治療は戦争をするにおいて軍事上、どうしても必要だったからである。
(注1)
ドレフュス事件(=the Dreyfus affair)は、1894年10月29日にフランスの極右系の新聞『La Libre Parole(邦題にすると『好き放題に話そう』)』がフランス陸軍内のスパイ事件をすっぱ抜き、その一連の事件や裁判の詳細を報道したためフランス中の国民が二分して論争するほどの騒ぎとなった事件である。
発端は、その新聞記事が掲載される前月の9月にフランス陸軍に所属するユダヤ人士官のアルフレッド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕されたことに始まる。
パリにあるドイツ大使館にスパイとして送り込まれていたフランス人家政婦が掃除の際、破り捨てられていた書類の中にフランスの軍事情報が書かれたドイツ軍の武官宛のメモを発見した。
そのメモには名前も日付もなかったのだが、その軍事情報を知り得てドイツ語にも堪能と思われる人物はフランス陸軍に所属し、ドイツのアルザス出身でただ一人のユダヤ人士官だったアルフレッド・ドレフュスだけとされ、早速、そのメモとドレフュスの筆跡鑑定が行われ、それが合致したということでドレフュスはただちに逮捕されることになった。
ところが、軍事機密の漏洩でフランス軍部が神経を尖らせることになったはずの事件を、なぜか低俗なスキャンダル記事を載せて大衆を煽る反ユダヤ系の新聞『La Libre Parole』がどこからか聞き出して最初に報道した。
つまり、事件後も全くフランス軍の軍事機密の守秘ができていなかったことになるのだが、それはともかく、この事件の報道がフランス国民の反ユダヤ感情に火を付けた。
と言うのも、この事件が起きる20年以上前に普仏戦争(第109話『嘘』参照)で敗戦したフランスはその戦費と戦争賠償金で国内の経済状況がかなりひっ迫していたこともあり、その全ての原因がユダヤ人、特に銀行を経営するロスチャイルドを中心としたユダヤ人の金融業者達の所為だと一般庶民はずっと思っていたからである。
そして、確かにフランス国民が推測した通り、普仏戦争の原因は大義名分として語られるスペイン王家の相続問題ではなく、元々はスエズ運河の株を巡ってのユダヤ人銀行家達の争奪戦だった。
欧米によるスエズ運河建設は、フランスの外交官のフェルディナンド・ド・レセップスが提唱したもので、彼は古代ギリシャやローマ時代の歴史学者達などが紹介した青銅器時代の王達による“失敗した”スエズ運河建設の話を知って興味を抱き、さらに駐在先が偶然、エジプトだったことからムハンマド・アリ王室にスエズ運河建設計画を持ち掛けるようになったのだが、この建設にかかる莫大な費用と維持費を捻出するため彼はスエズ運河会社(=Suez canal company、1858年に設立。1997年からはフランスの水道会社やガス公営会社に合併され、2019年現在はエンジーという世界第2位の売上高を持つフランスの電気及びガス会社に吸収合併されている。)を設立して株を各国政府に売ることにした。
しかし、エジプトの影の支配者であるイギリスはこれまで多額の費用をかけてエジプトに鉄道を敷いてきたため(第105話『欺瞞』参照)これ以上、植民地開発の税負担が難しいイギリス国民の手前、多少、その気はあってもスエズ運河建設に諸手を挙げて賛成する訳に行かず、ムハンマド・アリ王室が“イギリスの銀行からまた借金して”負担する形だけに留まったのだが、もちろん、それだけでは足りないのでレセップスはスエズ運河の株を欧米中の一般国民にも販売した。
これを見てイギリスは、植民地の資産を有象無象の一般国民に分散させられるのを恐れ、他の国ではスエズ運河の株を買わせないよう図り、これまた傀儡にしているレセップスの本国であるフランス国内だけで株を売買させるようにした。
こうして、エジプト(イギリスの銀行)とフランスの一般国民だけの資金でスエズ運河の建設が始められたのだが、途中、エジプト王室で度々、暗殺事件が起きて王座に就く者もそれによって変わり、イスマーイルがムハンマド・アリ王室を相続するようになってからその資本状況が一変した。
第108話『人間の掟』で話した通り、イスマーイルがオーストリアのロスチャイルド家を通じてドイツの宰相であるビスマルクに仕えていたユダヤ人銀行家のブライヒレーダーやオッペンハイムなどに借金をしてドイツの資本でスエズ運河の利権を買い出し、イギリス(の銀行)による借金支配体制からの脱却を図り始めたからである。
このイスマーイルの反抗に対し、イギリスはドイツのビスマルクが自分達の植民地であるエジプトに進出してきたことに焦り出し、あからさまにスエズ運河の建設を妨害し始め、傭兵として地元のベドウィン族を雇って暴動を起こさせたり、世界に向けてムハンマド・アリ王室が地元民の労働者達を酷使していると非難する声明を出して国際的な世論を煽り、政治的圧力もかけたのだが、自分達も鉄道建設でスエズ運河と変わらない非人道的な労働をエジプト国民に強いてきたためいまいち説得力に欠け、結局、一旦、ドイツ(の銀行)とフランスの一般国民だけがスエズ運河の利権を握る形となった。
しかし、何としてでもエジプト(植民地)の資産をドイツから奪い返したいイギリスは、今度はイギリスに住むロスチャイルド家を通じてブライヒレーダーやオッペンハイムらをけしかけさせ、ビスマルクにフランスとの戦争をそそのかしてフランス国民とエジプトのイスマーイルの持つスエズ運河の株を放出させるようフランス国内経済の混乱を謀った。
その結果、起きたのが普仏戦争だった。
ビスマルクとしてはイギリスからエジプトを奪うにはフランス国民の持つ株が必要であり、イギリスもまた、ドイツやフランス国民の持つ株が欲しかった。
そして、その彼らの経済戦争の犠牲となったのがフランス国民だったのである。
それでなくともイギリスの傀儡政権であるナポレオン3世の治世下ではフランス国民の、特に労働者層の扱いは植民地の労働者と大して変わらない。
王侯貴族達、自分達、神に選ばれたと豪語する特権階級は豊かで「先進国だ、自由社会だ」と叫んでいても、実質、彼らを支える労働者層にその富が下げ渡されることはない。
だから、常に不満を抱えながらなけなしの小銭を貯めて、あるいは一か八かで借金をしてスエズ運河の株などに手を出し、細々とはあっても資産形成して自身の生涯の安定保障を得ようとしていたのだが、それも王侯貴族達が起こした普仏戦争とその後、彼らお抱えの金融業者達に操作される株式市場の暴落でその資産もあっという間に消えていった。(the Panic of 1873 ウィーン株式市場暴落 1873年)
と言うのも、元々、閉塞していた景気に追い打ちをかけるように普仏戦争に負けたことで賠償金という新たな税負担を強いられることになり、常日頃から不満が爆発すると暴力に走りがちなフランス国民は裏でイギリスに仕組まれているとも知らず革命運動(暴動)に乗せられ、ナポレオン3世を王座から引きずり下ろしたのだが、単にその王座に座る顔を変えたところで彼らを支配しているのはフランス政府ではなく、イギリス王室(政府)である以上、彼らフランス国民の暮らしが変わるはずはない。
その為、その政情不安にかこつけてフランスの株式市場も暴落するよう金融操作がなされ、暴落の話を聞いて資産を失う不安に駆られたフランス国民は持っていたスエズ運河の株を売るようになり、まんまとロスチャイルド家を始めとしたユダヤ人金融業者達にその株を吸い取られることとなった。
一方、普仏戦争に勝ったはずのドイツの方も、ブライヒレーダーやオッペンハイムなどの銀行はスエズ運河の株を手に入れられたかもしれないが、ドイツの国家そのものは戦争の当事者であるため戦費の負担だけでなく、自国民の徴兵や戦死は国内の生産額を減少させ、国家財政は大きな損失となる。
よって、ビスマルクもまた、ユダヤ人銀行家達に乗せられて自国の富(=国内生産額)を懸けて戦争したものの損失の方が大きく、これ以上、ドイツがエジプトのイスマーイルの保証人となって金を融通してやる余力はなく、しかも、ヨーロッパの株式市場が暴落した余波でエジプトの農産物価格も下落し、さらに皮肉なことに莫大な借金をして開通させたスエズ運河の所為でインドやその他のアジアの物資がヨーロッパに輸送されやすくなり、エジプトの貿易輸出額が次第に減るようになってしまった。
そうして国内産業の経営が難しくなったイスマーイルもまた、フランス国民と同じようにスエズ運河の株を手放して借金を返済せざるを得なくなり、イスマーイルが持っていた44%の株は今度はイギリスのロスチャイルド家から金を借りたイギリスのユダヤ人首相のベンジャミン・ディズレーリが購入して再びイギリスの手に戻ることになった。
このように、たとえ大っぴらに報道されていなくても普仏戦争や株式市場の暴落の原因にロスチャイルド家を筆頭としたユダヤ人金融業者達が噛んでいることをフランス国民も薄々、気づいていたため、破産の憂き目を見たフランス人達はずっとユダヤ人銀行家達に恨みを抱いていたのである。
とは言え、ドレフュス事件が起きたのはそれから20年も後なのでもはやスエズ運河の株の顛末など忘れ去られていたはずだったのだが、スエズ運河会社を設立してフランス国民に株売買を勧めたレセップスがまた、似たような金融事件を起こした。
今度は中南米のパナマで運河会社を設立し、宝くじ付きの債券(株式による投資ではなく、特定の会社にお金を貸すことで利息と元本が保証されている金融商品。株式と同じように市場で売買されているため値動きによって購入時の価格との転売差益も見込めるが、株式と比べると収益性は低い。)をフランス国内で販売したのだが、スエズ運河建設でもかなり厳しかったフランス人技術者達による工事が中南米のパナマではもっと最悪な状況となり、熱帯雨林気候特有の雨季や豪雨を全く考慮しなかったため10m近く上がる高潮に飲まれ、ジャングルに出没する毒蛇や毒蜘蛛などに噛まれ、その上、侵略時に欧米人達が生物兵器として撒いたマラリア菌や黄熱病菌がまだ、土地に残っていて、それに罹患した工夫達が次々と倒れ、月に200人以上が死亡するという難工事になった。
その為、資金や工夫達を注ぎ込んでも全く完成する目途が立たなくなり、ついに1889年にパナマ運河会社は倒産するしかなくなったのだが、清算するにしても会社の引き取り手や借金を肩代わりしてくれそうな会社が現れず、フランス政府とレセップスはそれを国民に隠したままずるずると問題を先延ばしし、ようやく発覚したのがちょうどドレフュス事件の起きる2年前の事だった。
しかも、スエズ運河事件よりひどかったのはレセップスが既に倒産することを知りながらパナマ運河の債券発行を許可してもらおうと500人以上に上る政財界のいろいろな人物に賄賂を贈っていたことが発覚し、それがフランス全土を揺るがす一大疑獄事件となった。(the Panama Scandals パナマ運河疑獄事件 1892年)
何せ、元本と利息が戻されるはずの債券が全くの紙屑となり、80万人ものフランス国民が破産するという有様で、加えて、パナマ運河会社の株や債券に投資した資金のほとんどが役員と政財界の著名人達の私財や賄賂になっていたのだからフランス国民の怒りや非難がフランス政府に集中するのも当然だった。
現職の大臣6人を含めて510人が起訴され、あの世界的に有名なフランスの象徴とされるエッフェル塔を建設した技術者ギュスターブ・エッフェルにも終身刑が言い渡されたが、そもそも政治家や財界人だけでなく、100人以上の裁判官や司法関係者達もレセップスから賄賂を受け取っていたため、裁判自体、単なる国民の怒りを鎮める為の見せかけに過ぎず、エッフェルの判決はほとぼりが冷めた頃にはいつの間にか取り消されている。
しかし、事件は2016年に起きた“パナマ文書”(=the Panama Papers、カリブ海にあるパナマ周辺のイギリス領バージン諸島やケイマン諸島などの税率の低い地域に設立された実体のない会社を通じて脱税を仲介していたパナマの法律事務所のモサック・フォンセカの機密文書が外部からの不正アクセスでマスコミに流出し、イギリスのエリザベス女王を始め世界各国の首脳や政治家、富裕層が多数、税金を逃れて資産隠しを行っていたことが発覚した事件。1970年代から2016年の40年に渡って46か国もの政治家や政府関係者、大手企業、FIFA(国際サッカー連盟)のようなスポーツ団体や所属する有名スポーツ選手、女優や俳優、著名人などの個人資産家も含め、彼らの脱税や資産運用を手助けする為にHSBCやロスチャイルド、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドといったメガバンクと呼ばれる大手銀行が主に資金洗浄などの不正を行い、協力していた。書類に記載された顧客には日本の大手企業も多数、含まれており、大手IT企業のソフトバンクに商社の丸紅や伊藤忠商事、広告代理店の電通など270法人が故意に不正及び脱税していたことが既に分かっている。しかし、その後、日本政府がパナマ政府と税務情報などを交換する協定を結んだため、これまで政治家や大手財閥企業の不祥事を滅多と公表せず、かつ、なかなかそれを認めようともしてこなかった日本政府がその姿勢を急に変えるとも思われないので、日本の政財界が関与しているパナマ文書の真相が明らかにされることは難しいと見られる。また、その他の国でも事件に激しく抗議してイギリスやアイスランド、パキスタンの首相が辞任したりはしたが、マルタ共和国ではパナマ文書の調査報道を行っていた女性記者のダフネ・ガリチアが車に仕掛けられた爆弾で殺されるといったむごい事件まで起きており、パナマ文書の真相を暴くことへのそうした威圧的な暴力も加えられていて、無言の暴力を恐れて多くの人が口を閉ざしたり、調査の手を止めたことでこの事件の闇をいっそう深くしている。)を彷彿とさせる展開となり、総選挙でこれまで重要閣僚だった政治家が何人も落選したり、裁判も起訴された人数の多さもあって翌年まで持ち越されて長期化するなどフランス政府に深刻な影響を与え、政治家への不信感を露わにするフランス国民も増加し、ナポレオン3世以後、樹立したフランス第三共和政(=Troisième République、the Third Republic、ルイ16世とマリー・アントワネットの王室が倒れて1792年から立ち上がったフランス革命政府が一回目の共和制国家で、二回目が1848年にヨーロッパで巻き起こった諸国民の春(第106話『革命(1)』参照)の最中に起きた二月革命で樹立した第二共和政、そして普仏戦争中の1870年に退位したナポレオン3世の後に政権を握るようになったのがこの第三共和政である。途中、2か月間だけパリ・コミューンと言う労働者による革命政府が起こされたが、いくつもの秘密結社に所属していてイギリスのスパイと思われる革命家のオーギュスト・ブランキが派閥を作って労働者達の間で内戦を煽ったため第三共和政の軍と戦闘となり、あえなく鎮圧されている。)の政権そのものが揺るぎかねなかった。
そこでフランス政府、特にイギリスや金融業者達と癒着している政治家達が画策したのはトカゲの尻尾になってくれそうな反保守派を標榜して庶民層に普段、人気の高い何人かのフランス人政治家達とユダヤ人をスケープゴート(贖罪の羊。多くの人の罪や不幸を被ってもらう為に神に捧げる供物用の羊のこと。日本語で言い換えれば「人身御供」。)にすることだった。
元々、パナマ運河疑獄事件が発覚するきっかけを作ったのも、レセップスから政財界への賄賂の受け渡しを仲介していたユダヤ人金融仲介業者達の一人だったエミール・アルトンという男で、この男は金融仲介業の他に新聞などのメディアを使って特定の政治家や政党を宣伝し、世論を操作する仕事も請け負っていた。
そのアルトンを雇っていたのがユダヤ人銀行家でドイツのオッペンハイム一族でもあったジャック・ド・ライナックで、彼はアルトンにわざわざ賄賂を受け取った相手のリストを作るよう指示していたため、その指示がライナックよりはるか上層にいて富と権力を握るイギリス王室(政府)やフランス政府、ロスチャイルド家などのユダヤ人金融業者達には裏切り行為に思われたのか、彼らはアルトンに直接、そのリストをあの反ユダヤ系新聞の『La Libre Parole』にライナックの名前で売るよう命じて彼に罪を着せ、その後、新聞に事件が報じられるようになるとライナックを非難の矢面に立たせて自殺に見せかけ、彼を毒殺させた。
さらにライナックの死の真相が探られないよう別のスケープゴートとして、犯行に使った毒物を調達した医者で元アメリカ軍中尉、ロスチャイルド家の資金援助で会社を経営し、ライナックとも長年、親しくしていたフランスのユダヤ人政治家コルネリウス・エルツに話をつけ、“わざと”エルツがライナックの死に関わっているかのような疑いがかかるようフランス政府に彼を糾弾させた。
こうすることで、このエルツとライナックの2人のユダヤ人に新聞報道が集中するようになり、疑獄事件に関与してフランス国民を破産させた張本人であるフランス政府の政治家や司法関係者達への関心が自然と薄れるようになる。
しかも、直接、毒物をライナックに盛っていない上にアリバイがあり、事件の全貌も知るエルツが沈黙を押し通すことでますます疑惑が深まり、疑獄事件よりもライナックの死を巡る事件ばかりが報道されて世論もそれに釣られ、政治家達を糾弾する声も弱まり出す。
こうして、スエズ運河の株暴落とパナマ運河疑獄事件の二つの金融事件によってすっかりユダヤ人への不信感しか抱けなくなっていたところへドレフュス事件が発覚したことで、フランス国民は彼らの犯罪を個人の罪として見るか、それともユダヤ民族として見るかで真っ二つに分かれて論争することになった。
だが、そのドレフュス事件も実のところ、イギリスとユダヤ人達に仕組まれていたもので、事件そのものが最初からでっち上げに過ぎなかった。
と言うのも、最初に見つかったドレフュスが書いたとされるドイツ軍将校宛のメモ自体、偽造されたものであり、わざわざ軍事機密が書かれた書類を他人に分かるように無造作に破り捨てるようなそんな間抜けた諜報員はまず、いない。
しかも、そのメモを見つけてフランス軍の手に一旦、渡ったものが、なぜか大衆向けの、特に反ユダヤ感情むき出しの新聞である『La Libre Parole』に漏れたのだが、一体、誰がこの事件やメモの事を新聞に漏らしたのか誰も言及しない。
その上、事件発覚後もドレフュスの冤罪を訴える彼の兄のマチューが協力を依頼したのはベルナール・ラザールという革命運動に傾倒していたユダヤ人作家で、ドレフュス事件の起きる2年前にラザールはロシアで結成されたシオニズム団体(イギリスとユダヤ人達が協力して侵略戦争を起こし、ユダヤ人だけの国家(政府)を築く政治及び宗教的な運動の組織。第107話『革命 (2)』(注2)参照)に早々に加入していたユダヤ人作家のアハド・ハアムと接触し、シオニズム運動を盛り上げる為の啓発本などを出版していた。
つまり、ドレフュス事件はシオニズム運動を目的に作られた事件であり、フランス国民の反ユダヤ感情を煽ることでユダヤ人への弾圧が巻き起こり、追い詰められたユダヤ人達が自分達の安定した居住地=国家を求めるよう誘導するのが狙いだった。
その為、これまでのヨーロッパの歴史において何千人、何万人、何百万人と虐殺したり、迫害するだけだったユダヤ人への弾圧とは違い、今回に限り意外にもフランス人の中からその不当な弾圧を糾弾する運動も起こされることになった。
要は“生かさず殺さず”、身の危険を感じさせるような不安定な立場に一般のユダヤ人達を追いやりつつ、一方で反ユダヤ感情からユダヤ人虐殺へフランス国民を暴走させないようイギリス及びフランス政府の密命を受けた作家や新聞記者などがユダヤ人達の擁護に回るという心理戦を展開し、まずはフランス国民の間で反ユダヤ感情を煽るべく面白おかしく『La Libre Parole』にドレフュス事件を扱わせた。
すると、案の定、フランス国民はそれまでの反ユダヤ感情も相まって一気に焚きつけられ、その世論の高まりを見てフランス軍は逮捕したドレフュスを公衆の面前に立たせて軍服を引き裂き、下げていたサーベル(=Sabre、刃渡り約80cmの湾曲した細い剣。フランスの騎兵が持つ定番の剣である。)を彼の目の前で折るという恥辱の舞台を演じて見せ、その後、「死ね、裏切り者のユダ(イエスの弟子のユダ・イスカリオテのこと。欧米では裏切り者の代名詞である。)!死ね、ユダヤ人め!」と叫ぶ聴衆の中をドレフュスが行進させられるという何とも稚拙極まりない集団虐待のような劇が繰り広げられ、これに反発するようにドレフュスが「わたしは誓って無実だ。今後もわたしは忠実なるフランス軍の兵士である。フランスに栄えあれ、フランス軍に栄光あれ!」と感動的な台詞を口にして去っていき、そのまま悪魔島と呼ばれる南米のギアナにある重罪人や政治犯が収容されていた監獄の島に送られることになった。
しかし、兄マチューがシオニズム運動の作家達と繋がっていたように、ドレフュス自身も最初から逮捕されることを承知の上であのような台詞を吐いたのであって、75%の囚人が生きて帰れないとされていた悪名高い悪魔島に彼は送られてなどいなかった。
元々、ドレフュスはユダヤ人ではあるものの、エコール・ポリテクニーク(=École polytechnique、ナポレオン1世が設立した防衛大学の最高峰。)を卒業しているかなりのエリート軍人であり、その中からただ一人、ユダヤ人将校として採用されていたのだから、他の兵士とは違い、彼だけが特別な任務を軍から命じられていたとしても不思議はない。
そして、その特別な任務がこのドレフュス事件の逮捕劇だったのである。
イギリスはこの頃から核兵器などの新しい兵器開発や植民地に置く傀儡政権の相棒としてユダヤ人達に目を付けていて、前述したスエズ運河の株を買い戻したイギリスのユダヤ人首相であるディズレーリやその他のイギリスの政治家達もパレスチナでのイスラエル再興を構想しており、失敗に終わっていたものの、1882年にはフランスのロスチャイルド家がパレスチナの土地を購入して第一回目のアリヤー(シオニズム運動によるユダヤ人の大移住のこと。第107話『革命 (2)』(注2)参照)も既に行われていた。
そのシオニズム運動の再挑戦の為にアルフレッド・ドレフュスはスパイ疑惑の犯人として逮捕された後、しばらく身を潜め、時が来るのを待った。
それから1年ほど経ってジョルジュ・ピカールという中尉がフランス軍の諜報部の部長に昇進し、ドレフュス事件の知られざる証拠と共に真犯人が見つかったと軍に届け出た。
ピカールが言うには、真犯人はハンガリー貴族の流れを汲むサンシール陸軍士官学校(=École special militare de Saint-Cyr、エコール・ポリテクニークと同じくナポレオン1世によって設立されたエリート士官学校であり、フランス語の名前の通り、特別軍務を担う青年士官養成学校である。外国人も多数、在籍し、日本人では皇族で第43代内閣総理大臣となり、ポツダム宣言(第104話『蒙昧』参照)受諾に関わった東久邇宮稔彦王、同じく皇族で陸軍軍人であり、赤十字総裁だった閑院宮載仁親王、薩摩藩主の島津家出身の軍人、久松定謨なども留学していた。また、逆にこの学校を卒業してお雇い外国人として日本にやってきたスパイもいてアルベール・デュ・ブスケはその一人であり、彼の伝手によって貧しい日本人女性が過酷な労働を強いられることになった富岡製糸場が設立されている。このデュ・ブスケと親しかったのがイギリス人外交官で、日本に派遣されて以降、倒幕と大政奉還させる為の法的根拠を薩長土肥の日本人達に教えたアーネスト・サトウである。)出身のシャルル・フェルディナンド・エステルアジという少佐がドイツの将校から手紙を受け取っていたことが分かり、そのエステルアジの筆跡がどうもドレフュス事件の証拠品にされたメモの筆跡に似ていると言うことだった。
もちろん、このピカールの届け出もヤラセである。
と言うのも、このエステルアジもアルザス出身の革命運動(暴動)好きなユダヤ教僧侶を通じてロスチャイルド家から資金援助を受けており、反ユダヤ系新聞の『La Libre Parole』の編集長のエドゥアルド・ドリュモントとも親しかった。
だから、最初にドレフュス事件が『La Libre Parole』に漏れたのもエステルアジの仕業であり、ピカールに自分を告発するよう自分が偽造した手紙を渡したのもこの男だった。
しかし、そんなに簡単に“作られた真相”が発覚してドレフュスに掛けられた冤罪が晴れ、「めでたし、めでたし」で終わってはフランス国民もユダヤ人達も納得しないし、世論の関心も引かない。
そこで、ピカールの届け出はフランス軍によって一旦、もみ消されることになった。
そして、ユダヤ人士官ドレフュスの冤罪を晴らそうとする正義の軍人を演じるピカールはしばらくアフリカに左遷されることになり、そこからこの軍部の闇を探ろうとする各新聞のマスコミ報道合戦が始まった。
連日、各新聞が紙面を割いてドレフュス事件を扱い、誰もがそれを目にしない日はなく、もはやパナマ運河疑獄事件などとっくに忘れ去られていた。
だから、パナマ運河疑獄事件で毒殺された銀行家のライナックの従兄で政治家のヨセフ・ライナックが自分もユダヤ人とは言え、選挙で票を失うかもしれない覚悟をしてまでなぜドレフュスの味方をするのか誰も疑問にも思わなかったし、そのライナックとは対照的に自身の持つ新聞社で派手な反ドレフュス及び反ユダヤ人運動を展開する政治家のアンリ・ロシュフォールが実は以前、パナマ運河疑獄事件でもライナックの毒殺疑惑で告発されたユダヤ人のコルネリウス・エルツと親しい上、パナマ運河疑獄事件で賄賂をもらっていたことが発覚して選挙に敗れた政治家のジョルジュ・クレマンソーとも繋がっていたこともすっかり記憶になくなっていて、このドレフュス事件に関わろうとする人々のほとんどがパナマ運河疑獄事件に関与していた人物ばかりということにも全く気づかない。
しかも、そのジョルジュ・クレマンソーが経営する新聞で著名な作家のエミール・ゾラが『J’Accuse…!(邦題は『私は弾劾する』)』という、ドレフュスの冤罪を隠匿しようとするフランス軍部や政府への批判記事を一面にでかでかと載せて抗議する反政府行動も個人の正義感から行ったものと解釈し、人種や民族差別に抗議した崇高で正義あふれる人物だと世論はゾラを称える。
こうして、フランス国中がドレフュスの冤罪を信じてユダヤ人差別やユダヤ人への弾圧に反対し、政府の対応を批判する反政府派と、逆に政府や軍の姿勢を支持して愛国心を唱え、反ユダヤ主義を掲げる政府派とに分かれて言い争うようになった。
だが、どちらの派閥に属そうともフランス国民が分かっていなかったのは、ドレフュスをかばって反政府活動を行い、政府から弾圧を受けることになったはずのエミール・ゾラも、ドレフュス事件の真犯人とされて世論の非難や追及を受けることとなったエステルアジも、もっと遡るならパナマ運河疑獄事件でライナックを直接、毒殺したあのアルトンも騒ぎが大きくなると全員、政治犯その他の犯罪者にとって最適な亡命先となっていたイギリスに逃げていたということで、イギリスこそ自分達、一般庶民の生命や財産を脅かす犯罪者やテロリスト達を常に匿ってきた国家(政府)だという“事実”だった。(第103話『略奪』(注3)参照)
結局、ドレフュス事件は運悪く軍で働いていた為にその秘密を知ってしまった一般士官のユーベール・アンリが現代のパナマ文書事件で暗殺された報道記者のダフネ・ガリチアと同じように不当に逮捕されて刑務所に送られ、そこで自殺に見せかけられて殺されたが、彼以外はフランス国民も、世界中の誰もこの事件の真相に気づくことはなく、イギリスとフランス政府の当初の計画通り、このドレフュス事件を契機にユダヤ人記者テオドール・ヘルツル(第107話『革命 (2)』(注2)参照)はシオニズム運動を盛り上げて1897年にスイスのバーゼルで第一回目のシオニスト会議(=the Zionist Congress、またはWorld Zionist Congress)を開き、イスラエル国家(政府)の構想が具現化されることとなった。
ドレフュス自身も再審で一旦、司法取引して恩赦により事件発生から5年ぶりに釈放され、1906年には冤罪も晴れて昇進し、彼の息子が悪魔島に送られていた(ことになっていた)父親とのやり取りを綴った告白本を出版するなどあれほど騒いでいた世間も鳴りを潜めて彼を容認し、時々、反ユダヤ主義の暴力的な若者達から暗殺されかかったりはするけれど、その後は何の変哲もない平凡な軍人生活で生涯を終えた。
一方、真犯人とされたエステルアジもドレフュス事件で大騒ぎとなっている間は元愛人に自分はドイツのスパイだとかフランス軍に恨みがあったといった偽の手紙を暴露させたり、反ユダヤ的なコメントを度々、新聞に出しては世論を賑わしたりと華やかに暗躍したが、時期が来るとイギリスに亡命し、細々と軍人恩給で生活しながら偽名のまま一生を終え、墓石にもその偽名と「彼は私達の暗黒の闇から生まれ出た者」としか刻まれていない。
また、ドレフュスを擁護してエステルアジと同じくイギリスへと一時期、逃亡した作家のエミール・ゾラは翌年、帰国し、ドレフュス事件が終ろうとしていた1901年~1902年にノーベル文学賞に二度、ノミネートされたが、1902年に自宅の煙突が塞がれたことによる一酸化炭素中毒であえなく死亡した。
そして、そのゾラに政府を批判する記事を書かせた政治家のジョルジュ・クレマンソーは自分でもドレフュスを擁護する記事をいろいろ掲載して名を売り、パナマ運河疑獄事件の汚名を返上すべく1906年には首相にまで昇りつめ、イギリス、ロシアと三国協商(=the Triple Entente、ドイツ帝国に対抗すべく結ばれたイギリスとロシア、フランスの軍事同盟)を結んで軍拡路線を推進し、労働者達のデモやストライキにも軍を投入して圧制を行い、1917年には再び首相に指名されて第一次世界大戦を続行させたため、フランスの総人口の4%近くを占める170万人以上もの一般市民を含めた戦死者と400万人以上にも上る負傷者を出した挙句、その第一次世界大戦の後始末を話し合うパリ講和会議でその不遜な物言いや怒鳴り声で各国の列席者からひんしゅくを買い、イギリスから見放されて選挙に敗れ、そのまま政界からひっそり引退していった。
そのクレマンソーに拾い上げられて1906年に防衛大臣に任命されたのがドレフュスの冤罪を最初に晴らす人物として登場したピカールであり、クレマンソー内閣が続いた3年間、大臣を務めた後、軍の指揮官となったが、第一次世界大戦が始まる半年前にもはや用済みになったのか、それとも純粋に事故だったのかピカールは軍務中の落馬事故で怪我をして死亡した。享年59歳だった。
なお、パナマ運河疑獄事件でライナックを直接、毒殺したアルトンもイギリスに逃亡後は殺人どころか、疑獄事件に関わる罪もうやむやになり、1895年についに逮捕されたもののドレフュス事件の発覚で新聞の扱いもほとんど小さくなっていて、判決も当初は強制労働と600フランの罰金がアルトンに科せられたが、それも数週間後には法的手続きで不備があったなどと言って取り消されたり、裁判もだらだらと長期化して何の罪なのかも曖昧となり、アルトンも度々、病気を理由に裁判を保留させ、結局、1899年に疑獄事件で首相を辞任させられた後、大統領になっていたエミール・ルーベ大統領の特赦によって起訴自体、取り下げられた。
しかし、その後、本人の意志による自殺なのかそれとも暗殺だったのか、ドレフュス事件が終息した1905年にアルトンは青酸カリを飲んで死んでいる。
ちなみに、スエズ運河株を巡る普仏戦争とパナマ運河疑獄事件、この二つの騒動を起こす元凶となったフェルディナンド・ド・レセップスもドレフュス事件が『La Libre Parole』に掲載されて1か月も経たない頃に89歳とは言え、あっけなくこの世を去っている。
そして、こうした金融事件や腐敗した政治、暗殺事件は今もなお、新聞や雑誌、テレビや本、ネットなどのマスメディア(大衆扇情広告)を通じて世論を賑わしながら150年以上も経った現代に至ってもまだ、絶え間なく続いている・・・。