第百十二話 女傑(じょけつ)
女傑とは、女の中で特に知恵や勇気に優れていると世間に認められた英雄のこと。
そもそも、ウランという“鉱石”、特にキュリー夫妻が研究に使った瀝青ウラン石(=Pitchblende)はそれほど目新しい鉱石ではない。
ヨーロッパでは現在のチェコのボヘミア地方にある温泉街“ヤーヒモフ”(=Jáchymov、チェコ語で「聖ヨアキムの町」の意味。聖ヨアキムとは、キリスト教の中でイエスの祖父とされている人物の名前で、チェコやドイツには9世紀頃からユダヤ人移民が多く住んでいたことからその名が付けられた。)に銀鉱山があり、16世紀から“ヨアヒムスターラー”(=Joachimsthaler、ドイツ語で「聖ヨアキム谷の鉱山で産出した銀貨」という意味で、以後、人々の間で“ターラー”(=Thaler)と略して呼ばれるようになり、そこから英語の“ドル”または“ダラー”(=Dollar)という言葉が生まれた。)と呼ばれてヨーロッパ中に出回っていた銀貨の素である銀鉱石と共にウラン鉱石は既に採掘されていた。
その頃のウラン鉱石は医療用の薬効を求めて研究されていて、最初に“西洋で”ウランという元素を発見したのはドイツ人の薬剤師マーティン・クラプロート(1743~1817年)で、ウランの他にジルコニウムやチタン、セリウム、テルルも発見したとされている。(1789~1798年)
この当時の薬剤師(=Apothecary、ラテン語を語源として「薬屋または薬局」を意味する。現代の薬剤師はpharmacist。タバコを医薬品にしていた17世紀のイギリスではタバコ屋の意味も含まれる。)というのは、外科手術などの医療行為を行うだけでなく、草や樹木、動物などの動植物の研究に加え、石や土砂といった“無機物”(=水や炭素などを含まない物質)を混合(化合)させて薬効を引き出す化学薬品の研究も行っており、医薬品開発を目的とした鉱石および自然生物の研究は欠かせないものだった。
そして、この鉱石の成分となっている元素に“ウラン”という名前を最初につけたのも、このマーティン・クラプロートで、その頃、ヨーロッパで新しい星が見つかったと大騒ぎになった“ウラノス(天王星)”(=Uranus)(注1)にちなんで、“ウラン”という名前にしたと言われている。
つまり、この時点で瀝青ウラン石の中には「天王星のように“光る”要素(元素)がある」と、マーティン・クラプロートがその放射能の存在を確認していたからこそ、“ウラン”という名前をつけたのであって、キュリー夫妻が初めて“放射能”の存在そのものを知ったわけではない。
彼らは「これまで光る要素(元素)があると知られてきたウランの中に“より強く光る”要素(元素)を見つけたので、それを新しい元素にしてください。」と言っているだけで、“放射能”そのものはキュリー夫妻より100年以上も前に既に確認されていたのである。
なのに、なぜ、キュリー夫妻がさも、世界で初めて放射能を発見したかのように現代まで語り継がれるようになったかと言うと、それはマリー・キュリーという“女性が初めて”ノーベル物理学賞(1903年)とノーベル化学賞(1911年)を受賞したからである。
こう言うと必ず差別だ、偏見だ、男尊女卑だと非難ごうごうだろうが、あえて言おう。
女とは本当に厄介な生き物である。
これまでの歴史を振り返ってみて、女は手厚く保護されても、逆に手ひどく扱われても、彼女達は大抵、強情である。
自分達が明らかに間違っていてもその事実と向き合おうとせず、それを変えようともせず、逆にふてぶてしいまでに開き直ることがある。
そして、何よりその場限りの気分や感情に任せて行動しやすい。
気分や感情(=我欲)の為なら、理性(=神)をも簡単に棄てる。
その一方で、いかなる苦痛を与えられようともそれを耐え忍ぶ力を持ち合わせている。
だからこそ、こうと決めた道を最後まで貫き通そうとする勇気もあれば、情熱もある。
善へと進めばどこまでも清く美しく、悪へと転がればどこまでも醜い。
それほど女という生き物は扱いにくく、厄介である。
そんな女達を決起させた歴史的な事件の一つが、あのフランス革命の“ヴェルサイユ行進”(=The Women's March on Versailles、1789年10月5日)だった。
7,000人を超す主婦が中心となって「パンを寄こせ」と叫んで王政に反対し、自分達の貧困をどうにかしてくれと訴えた日から欧米の女達の戦いは始まった。
何せ、古代ギリシャ以来の伝統で、あのトロイア戦争の発端となったスパルタのヘレナを例として「女は揉め事の元凶」と男達に信用されず、法的権利や保護のほとんどを失ってしまったばかりか(第92話 ロゴス(言葉)(2)参照)、欧米で教えられるキリスト教は絶対王政と同じ“男性至上主義”であり、「男は絶対に間違いを犯さない善であり、正義である。」として、逆に「女は生まれながらにして罪を犯しやすく、間違いやすい悪である。」という宗教だった。
だから、その女性蔑視の教えは新約聖書に出てくるパウロ(AD1世紀のキリスト教宣教師)の書簡でもはっきりと記されている。
― 女は沈黙を保ち、絶対服従を知るべきである。
わたしは絶対に女が男の上に立ってものを教えるなどということを許さない。
女は黙っていなければならない。
なぜなら、男のアダムの方が女のイブよりも先に神に形作られたのだ。
そして、男のアダムが蛇に騙されたのではない。
女のイブの方が先に蛇に騙されたのだ。
だから、罪を犯したのは女の方だ。
だが、女は礼節を持って愛と神への奉仕と信仰を保ち続けていれば、
子供を産むことでその罪が免れ、救われる。(1テモテへの手紙2章11節)
それ以来、欧米の女達はまさしく男達に虐げられてきたと言えるだろう。
男が武力で人々を制圧する封建社会を生きる女ゆえの束縛や因習は多少、似ているにせよ、その男尊女卑ぶりはアジア(日本)のそれとは比較にならない。
江戸時代の日本だと女からも男に離婚を迫れるよう、“先渡し離縁状”(結婚前に離婚届を先に夫に書いてもらっておくことで好きな時に離婚できる制度)や駆け込み寺(2~3年、寺で修行して夫と別居し、事実上、婚姻破綻を証明することで離婚する制度)もあれば、嫁入り道具に家紋を入れておくことで離婚しても財産権を主張できるほど法的権利や保護も用意されていたが、欧米ではそれは一切、許されない。
貴族女性だろうと女から離婚を申し出ることもできなければ、自分の親から相続した土地財産であろうと全て夫にはく奪される。
もちろん、パウロが言ったように男達を教える教職などもってのほか、女が男性と同等に学ぶ機会すら与えられなかった。(日本では寺子屋(江戸時代に庶民の子供達に読み、書き、計算を寺院などで教える私塾のこと。)で男女共、同じ教育を受けることができ、男の子を教育する女性教師もいた。)
だからこそ、貧困に陥り、自活を迫られた女達はようやくフランス革命で“目覚めた”。
だが、男達ですらまともな教育を受けておらず、フランス革命はとん挫し、結局、王制は残ってしまった。
しかも、キリスト教の教えは依然として変わらない。
そこで、彼女達はキリスト教の教えに沿って自分達が生む子供を盾にして法的権利や保護、教育の機会を勝ち取り、自活できる道を切り開こうとした。
それが1792年にイギリスの“フェミニズム”(=Feminism、女性擁護。「社会の楽園とは男も女も同性愛者も好きな時に自由に性行為ができることだ。」と唱えたフランスの哲学者シャルル・フーリエが作った造語)作家の象徴とされるメアリー・ウルストンクラフトが書いた『A Vindication of the Rights of Woman(邦題では『女性の権利の擁護』)』であり、その中で彼女は「女も男と同じ教育を受けていなければ自分の子供を教えられません。」と説き、そこから家庭内暴力や不倫、金銭問題で長く夫と離婚を争っていたイギリス社交界のアイドル、キャロリン・ノートンが子供の親権を国会に申し立てて社会運動を展開し、1839年に離婚後の子供の親権は母親が有利になるよう法改正がされ(Custody of Infants Act of 1839)、さらに結婚後も夫とは別に妻自身の財産を所有してもいいことになった。(The Married Women's Property Act 1870)
こうして、欧米ではフェミニズム運動が盛んに行われるようになり、以降、彼女達は常に男達と同じ社会的な権利や教育、仕事、身分、地位、立場を求めて争うようになった。
男性と同じであれば、それが何であろうと彼女達にとっての正義の証、自分達は罪深くもなければ、間違ってもいない、自分自身を正しいと証明できる“自己証明”(=Vindication)でもあった。
だが、そうやって何でも男性と同じ事を求めることこそ、彼女達の大きな過ちだった。
なぜなら、彼女達は“男も時に罪を犯し、間違うこともある、自分達と同じ人間”だとは気づかなかったからである。
だから、何でも男の真似をした。
男達と同じように発言し、男達と同じように振る舞えば、それが正義であり、善であると彼女達は信じて疑わない。
男達がするように、不倫もすれば、麻薬も犯罪もやる。
戦争(人殺し)も大いに賛同する・・・。
男達の意見や考えに染まることこそ、彼女達自身の自立への道、自分が一人の人間として社会の中で愛され、敬われ、信頼される存在になれると信じて止まない・・・。
そんな時代の最中に生まれたマリー・キュリーは、まさしく“フェミニスト”(=Feminist)の一人だったと言えるだろう。
1867年、ポーランドの首都ワルシャワで生まれたマリーは、両親が学校教師だった。
特に父親は数学と物理学を教える高校教師で、この父親がロシアからのポーランド独立を求める革命運動にいたくのめり込んでいた。
そのせいで教職を追われるようになってもマリーの父親はますますその活動にのめり込み、全財産を失って生活費も事欠くようになっていった。
その頃から、彼女は男と同じように働いてお金を稼ぎ、社会的な力を持つことが生きがい(人生の目標)となった。
単なる暴動でしかない革命運動に狂信し、稼ぎのほとんどを奪われてもなお、その生活を改めず、投資に何度か失敗した挙句、家賃目当てに狭い家に教え子の男子学生を借家人として住まわせたことで5歳上の姉はその学生に凌辱されて性感染による感染症(チフス)にかかり、彼女が8歳の時に死んでしまった。
そんな何の罪もない子供すらもまともに守れず、情けないまでに甲斐性のない弱い父親にほとほと愛想が尽きるばかりか、神(=愛、善、正義)さえも呪いたくなったのだろう。
何より、彼女の心(=善意)をどうにか繋ぎとめていた母親も長患いの末、その2年後に結核で死んだ。
だから、彼女は母親が自分に教えてくれた、母親の心(=善意)とも言えるキリスト教を棄てた。
そして、金と権力を得る為なら何でもしようと思うようになった。
だが、彼女のできることと言ったら、唯一、父親から教わった数学や物理学といった学問ぐらいなもので、それで生計を立てるしかなかった。
ちょうどその頃、数学や物理学、化学、薬学といった理系科目は、人の(生命の)発展に役立つ学問と言うより、武器の設計や仕組みを考えたり、砲弾の飛距離や爆弾の破壊力を数値化したり、どの化学物質を組み合わせたら大量の人間を殺傷できる化学兵器や武器が編み出せるかといった軍事的な価値がある学問とみなされ、国家から特に奨励されていた。
つまり、理系の知識や技術を戦争に利用すれば税金による補助金や投資などが見込める、文字通り、“金に成る学問”だった。
(注1)
“ウラノス(天王星)”(=Uranus)とは、太陽の周りを回る太陽から数えて7番目、地球からは4番目の“惑星”(=Planet、太陽の周りを回っていて衛星以外には他の天体は存在せず、ほぼ球体の星のこと。英語の語源は古代ギリシャ語でPlanetai、「さ迷える星々」という意味である。ちなみに“衛星”とは地球の周りに月が回っているように、惑星の周りを回っている星のことで、“恒星”とは恒に位置が変わらず、自ら光を発することができる星のこと。)で、自転軸が太陽方向にほぼ水平に傾いていて、木星、土星に次いで3番目に大きいとされている。
1781年にイギリスの音楽家だったウィリアム・ハーシェルが18世紀から使用されていたニュートン式望遠鏡を改良し、大型化してそれまで“彗星”(=Comet、“ほうき星”とも呼ばれ、太陽に近づくとしっぽが箒のように伸びた形に見えることから巷ではそう名付けれられ、惑星のように天体の通る軌道が一定ではなく、変化しやすい星のこと。たまにハレー彗星のような76年周期の彗星もあるが、多くはいろいろな動き方をするので惑星とは区別される。)と勘違いされてきた天王星を惑星であるとして発表した。
以来、彼の改良したハーシェル式望遠鏡がヨーロッパ中の注目の的となり、イギリス国王ジョージ3世から王室お抱えの天文家としてハーシェルは雇われることとなった。
前話の第104話『蒙昧』(注3)でも望遠鏡の話について触れたが、そもそも天体望遠鏡は天体を観測する為に作られていた訳ではなく、あくまで敵船や敵国の地形、敵兵の位置やその数などを遠くから捉えることを目的にしていて、実際の天体そのものの形や位置など誰もこだわっておらず、遠くの画像がはっきりくっきり映るものを求めてヨーロッパでは天体望遠鏡が発達した。
その為、第104話『蒙昧』(注3)で出てきたホイヘンスが作った幻灯機(プロジェクター)の原理を利用した望遠鏡が作られ、筒の中に凹凸面の鏡などを二枚入れて光を反射させ、その光をレンズに集めて観測する仕組みへと変化していった。(反射式天体望遠鏡)
ハーシェルの使っていたニュートン式望遠鏡は、金属にメッキしただけの凹型の金属鏡が最初に画像を捉え、そこで捉えた画像を二枚目の副鏡に反射させてレンズで見る仕組みになっており、元々、金属に映った画像を副鏡の金属に反射させると余計、暗くなるため、ハーシェルはこの二枚目の副鏡を外して凹型の主鏡をずらすことでより明るく観測できるようにした。(ハーシェル式望遠鏡)
しかし、それでも元々、最初に画像を捉える主鏡が金属鏡なのだから大して明るいはずはないのだが、前述したように本当の目的は天体観測だった訳ではなく、天体を敵兵や砲弾の攻撃地点に見立ててその正確な数や位置、“大まかな形”などが分かれば良く、そうして観測した記録を詳細に報告することで自分の改良した天体望遠鏡の精度の良さを宣伝してハーシェルはイギリス王室のお抱え天文家となったのである。
だから、ハーシェルもホイヘンスと同じように土星の環を「見た」と言っており、これも第104話『蒙昧』(注3)で述べたが、高倍率で高解像度、さらにガラスにメッキされた鏡を使っている現代の天体望遠鏡でもはっきり見えない土星の環がどうやって暗い金属鏡に映ったのかまたしてもいかがわしい限りなのだが、可能性があるとしたら彼が使っていたアイピース(接眼レンズ)が200倍とか900倍という凄まじい高倍率を叩き出していて、ホイヘンスの頃とは比べ物にならない、現代と比べても勝るとも劣らないレンズであり、このレンズこそ彼の天体観測を支えているようで、彼が改良したという望遠鏡の内部構造(金属鏡)の方はむしろ、天体観測を邪魔していたようにも思えてくる。
ところが、このアイピース(接眼レンズ)についてハーシェルは何も資料を残しておらず、しかも、その現物も見つかっていない。
ガリレオ・ガリレイにしても、ホイヘンスにしてもレンズを天体望遠鏡の主力商品として売り込んでいたのに、なぜ、ハーシェルはこれほど高倍率のレンズを何も宣伝しなかったのかと言うと、実はこのレンズは彼自身が開発したものではなかったからである。
ハーシェルは元々、イギリス本土の出身ではなく、当時、イギリス領となっていたドイツのハノーファー選帝侯領(選帝侯領とは、小国が入り乱れる神聖ローマ帝国(現、ドイツ及びオーストリア)内でローマ皇帝(小国を統一させた王)として立候補したり、皇帝を選出できる選挙権を持つ諸侯(各領主)が治める国であり、1714年にハノーファー選帝侯だったゲオルグ・ルートヴィヒ(英語名、ジョージ1世)が血統相続でイギリス国王にもなり、以後、ハノーファー選帝侯領はイギリス領ともなった。ちなみに、イギリスでよく口にされる、「国王は君臨すれども統治せず」という議会の信任で選出された内閣が国家を統治する責任内閣制度とは、このゲオルグ・ルードヴィヒ(ジョージ1世)が英語を全く話せなかったためイギリスの貴族政治家に任せただけで、決して国民に“政治主導権”を渡したという意味ではない。)で暮らしていたユダヤ人だった。
しかし、ハーシェルが生まれた頃には既に家族はユダヤ教からキリスト教に改宗しており、彼自身はユダヤ人の自覚はなく、当時、ヨーロッパ中が参戦していた隠れた世界大戦とも言える7年戦争の戦火から逃れてイギリスに渡っていた。
だから、彼のアイピース(接眼レンズ)はイギリス製ではなく、ドイツのハノーファーで(と言うよりもハノーファーに住む一部のユダヤ人達の手で)造られた水晶(クリスタルガラス)を加工したものであり、石英の鉱物から編み出された高品質なガラスで、しかも宝石にもされる無色透明な水晶(クリスタルガラス)の冶金術(製錬&精錬)を知らないハーシェルにそれを詳しく説明することはできなかった。
だが、この宝石でもある水晶(クリスタルガラス)を偶然、持っていたことで彼は一介の貧しい外国人移民から宮廷のお抱え天文学者にまで成り上がれたのである。
そのおかげで、天王星の発見以外にも彼はこの水晶(クリスタルガラス)から太陽光には目に見えない無色の“赤外線”(太陽光の中で目に見える赤い光線よりも長く伸びて温度の低い放射線(電磁波)の一種。その長さを近赤外線、中赤外線、遠赤外線とに学術的には分けているが、巷で電化製品に謳われる遠赤外線の効能についてはまだ解明されておらず、大半は疑似科学である。なお、逆に可視光線よりも短く伸びて目に見えない温度の高い光は紫外線と呼ぶ。)が存在することも見つけている。
それほど優れ物の水晶(クリスタルガラス)ではあったが、いくら研究してもどうしても彼には造れなかったため、仕方なくハーシェルは天体望遠鏡の改良だけを強調して宣伝し、天王星の詳細な観測記録と共にグリニッジ天文台の王室天文官に提出した。
その記録が他の人々の観測記録とも一致し、ハーシェルの記録がより詳細だったため早速、彼の天体望遠鏡は大いに評価され、惑星と認められた天王星の最初の名前を付ける権利もハーシェルに与えられた。
そこで、彼はイギリス国王に取り入ろうとしてジョージアン・スター(学術名はラテン語にしてゲオルギウム・シディウス)と名付けたのだが、これにはヨーロッパ中の学者達が大いに反発した。
星の名前を国王の名前にされてしまったら、まるでその国王が神のごとく天上から地上を支配しているかのような印象を受ける。
その為、他のいろいろな名前がヨーロッパ中の学者達から寄せられ、その中で太陽からの平均的な距離を表すティティウス・ボーデの法則で知られるドイツの天文学者のヨハン・ボーデが提唱した、ギリシャ神話に出てくるゼウス神の祖父とされるウラノス神の名前が人気となり、前述のマーティン・クラプロートもこの名前を推す為に自分の発見した元素の名前をウランにして応援し、結局、世界ではウラノスが採用されるようになった。
ちなみに、中国や韓国、ベトナム、日本ではウラノス神が宇宙の神というギリシャ神話の話に基づき、“天の王様の星”と訳して天王星と呼んでいる。
その後、ハーシェルは王室お抱え天文学者ということで年200ポンド(現在の金額にして約350万円)の年金をもらい、レンズは別にして自分が改良したハーシェル式天体望遠鏡も市販するなどして荒稼ぎし、さらに5年計画の公共事業として高さ12m、口径120cm、当時としては世界最大ともされる40フィート望遠鏡も建設することとなり、その建設費用として4,000ポンド(現在の金額で約7,000万円)というかなりな公金を受け取っている。
しかし、彼が天王星を観測できたのはあの水晶(クリスタルガラス)でできたアイピース(接眼レンズ)があったからで、彼の改良した望遠鏡は小さくても逆に世界最大にしてもはっきり画像を映す訳ではない。
だから、彼の建設させた大望遠鏡は全く何の役にも立たず、しかも、彼のアシスタントを勤めて観測記録を書いたり、金属鏡を磨くなどの掃除をしてハーシェルを支えていた妹のキャロラインが彼と同じように天文学者として野心を持ち出し、例のレンズを使って自分で天体観測を始めるようになった。
もちろん、彼の望遠鏡がなくてもあのレンズだけでも十分、天体観測は可能だったため、すぐにキャロラインはハーシェルを超えるほどの勢いで惑星を次々と見つけ出し、自分も独立した天文学者として世間で認められたいと兄に訴え始めた。
しかし、そもそも男達が天文学に求めていたのは軍事(人殺し)に役立つ兵器であって、別に星の発見などどうだっていい。
ところが、女のキャロラインはそうした男達の本音に気づかず、彼らが偽善で行っている天体観測を鵜呑みにして、男の学者以上にたくさんの新しい星を見つければそれで自分が世間に認められ、経済的にも自立できるものと勘違いした。
加えて、彼女が分かっていなかったのはハーシェル以上にたくさんの星を発見し、一人の天文学者として認められたら、それまでの観測方法を彼女が知らずに世間に話してしまい、そこから例のアイピース(接眼レンズ)の話が漏れ、ハーシェルの天体望遠鏡そのものは嘘であることが発覚する。
それを恐れてハーシェルは当初、妹の野心を少しは満足させようとアシスタントの彼女も評価して年金を支給してほしいと王室に依頼し、年50ポンド(現在の価格で約80万円)を支給してもらったりしたのだが、それでもキャロラインは納得しなかったため、次第にハーシェルは彼女抜きで仕事を進め、さらに自分が結婚したことでアシスタントの仕事も彼女ではなく、自分の妻に任せようとし出した。
これにキャロラインが激怒したことは言うまでもない。
彼女は真剣に天体を観測し、しっかりとした実績も挙げていて天文学者として評価されてしかるべきなのだが、世間は彼女をそうとは認めない。
彼女はいつまで経ってもどれだけ実績を挙げても、かの偉大なイギリスの天文学者であるウィリアム・ハーシェルの妹で、しがないアシスタント(助手)のままでしかないのだから、彼女の絶望はいかばかりだったろう。
自分が働いてきた10年間の観測記録を全て破り捨て、彼女はハーシェルの家を出た。
それでも彼女はやはり天文学(仕事)が好きだったに違いない。
にわか仕込みでアシスタントを任されたハーシェルの妻ではどうしても仕事がはかどらず、時々、キャロラインはハーシェルや他の家族の目を盗んでは仕事場に行って自分の仕事を奪った兄嫁を助けている。
結局、キャロラインはハーシェルの死後も天文学を続け、さらに星雲や星団、銀河などを載せる天体カタログに2,400個もの新たな発見を追加し、相変わらずイギリス王室(政府)の軍事目的を隠ぺいする為の評価ではあるものの、1828年に女性として初の王立天文学会ゴールドメダルを受賞している。
しかし、そうした世間の評価は抜きにして彼女の墓標に刻まれている通り、彼女の澄んだ美しい瞳があの天空の星々に常に向けられていたことこそ、個人的には心から称賛したい。
一方、自分の嘘で金儲けができることに気づいたハーシェルはその嘘をさらに膨らませ、「知的生命体(=宇宙人)は地球外にも存在する」と言い出したり、「太陽の黒点で穀物の出來が変わる」などとイギリス王室機関に報告したりと、いわゆる科学からは遠く離れたトンデモ学説と呼ばれる妄想を語るようになり、勲章や称号はキャロライン以上に山ほどもらって人々からももてはやされていたかもしれないが、何十回も試行錯誤を繰り返し、鋳造して何十時間も金属鏡を磨き続け、ほとんど天体観測などそっちのけで職工達と共に作り続けてきたハーシェル式天体望遠鏡は“今ではもう、誰も使っていない”。