第百十話 灌漑(かんがい)
灌漑とは、水源を確保したり、田畑や街などを築く為に人工的に水路を造ったり、逆に水を流し出して干上がらせたりすること。
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2019年6月26日に掲載しました後書きの(注2)において日本最古の肉筆書物である「法華義疏」を
「法華経義疏」と掲載しておりました。
本日、訂正してお詫びいたします。2019年7月4日
実は“スエズ運河”(=Suez Canal)そのものが造られたのは19世紀からではない。
古くはあのヨセフが生きていた古代エジプト時代にまで遡る。
ヨセフが生きていた頃のエジプトは、ピラミッド(食糧備蓄倉庫)を建ててそこに小麦を始めとした食糧を備蓄し、それを交易することで国富を増やし、その国富でもって自国の領土や同盟国を拡大するようになったのだが、しかし、それでも世界は広い。
エジプトでも敵わない競争相手はいくらでもいるので、領土を広げていった先には強敵がいた。
インダス文明で栄えていたインドである。
その当時のインドはエジプトが遠く及ばないほど豊かで、かなり文明も進んでいた。
そして、何より彼らの土地では金や鉄、銅といった鉱石だけでなく、真珠や紅玉髄(=Carnelian、カーネリアンとも呼ぶ。縞目模様のない赤色もしくは橙色のメノウのこと。)のような美しい宝石も数多く、その他、小麦や香辛料の原料となる香木、ハーブ(薬草)などの食糧も多彩で、しかも、象のような大型の動物もいれば蛇やワニといった変わった生き物達もおり、彼らの知識や技術ではこれらの動物を使った薬剤なども広く出回っていて、あっという間にエジプトはインドの虜になった。
ただ、ヨセフが大神官(首相)になるまでのエジプトは、封建制であるが故に戦争ばかりして、家臣である神官達(政治家)も金に飽かせて物や情報を買えば海外の技術だろうと現地の事情だろうと何でも手に入ると驕り高ぶり、何より言葉や文化の分からない外国人とうまく話す“自信が無くて自分が恥をかくのを恐れ、一度も試みた経験がない”せいか、インドとの直接的な交易はもちろん、国際関係が全くなく、当時、エジプトの隣国だったヌビア(現在のエジプト南部のアスワンからスーダンにあった古代国家。何度かエジプトと戦争してきた国だが、ヨセフの頃は飢饉で救われたこともあって同盟国となった。)や、ヨセフ達の生まれ故郷である中東地域を行き来する隊商達だけがエジプトとインドを結ぶ唯一の架け橋だった。
そこで、エジプトは“平和的に”インドと手を結び、海上交易を始めることにした。
これも元々、ヨセフ自身が兄弟達に奴隷として隊商に売られたことで(創世記37章25~26節参照)、“自分が働いて経験した”ことからインド(海外)との交渉や貿易のやり方をよく知っていたからである。
それにもちろん、エジプトの、というか、人類がそれまで培ってきた船の技術は、欧米が世界を航行していた大航海時代から19世紀に至るまでの船舶技術とさほど変わらない。
むしろ、氷河がぶつかって沈んだあのタイタニック号と比べたら、氷河期が終ろうとするあの大洪水の最中を生き延びられたノアの箱舟の方がずっと安全だったことだろう。
そうして、エジプトにとってインドとの海上交易は次第に欠かせないものとなっていき、その交易をさらに拡げていく為に造られたのが現在、私達が“スエズ湾”(=The Gulf of Suez、長さ314km、幅32km)と呼んでいる“古代エジプト時代のスエズ運河”だった。
ただし、彼らにとってのスエズ運河(=スエズ湾)は、19世紀の欧米人達が考えたような地中海からインド洋までの航行距離を短くする船の“通り道”(=Artificial waterway)を想定して造った訳ではない。
交易で増えていく大型船を建造したり、安全に停泊させる為の“港湾”(=Harbor)として造っただけだった。
(大体、エジプトの領土の隣がすぐ紅海なのだから船の通り道などエジプトには必要なく、紅海から地中海まで“異国を通り過ぎる為の道”が必要だったのはあくまで欧米人だけである。)
だから、イギリスから派遣されてエジプト遺跡を調査していたジョン・ウィルキンソンが1832年にスエズ湾(スエズ運河)沿いに発見した、 “ワジ・アル・ジャルフ”(=Wadi al-Jarf、ウルドゥー語で「たくさんの壺のある運河」の意味。)や、“アイン・ソクナ”(=Ain Sokhna、近くに硫黄泉があることからアラビア語で「温泉」と呼ばれる。)といった古代エジプトの“港”(=Port)の遺構から多数の船の錨(=Anchor)や梱包用の壺、貨物の出庫や入庫が記されたパピルス紙の書類などが出土するのも、エジプトの船舶はスエズ湾沿いの港町で建造されて、そこからインド洋に向けて出港していたからだった。
そして、このスエズ湾(スエズ運河)を造る上で手本となったのが、アラビア半島の隣にある、あの“ペルシャ湾”(=The Gulf of Persia、湾の呼び方についてイラン(=ペルシャ)だけのものではないというアラブ諸国の反発もあって、今はアラビア湾=The Gulf of Arabiaとも呼ばれている。)だった。
ここで今更、言うまでもないが、スエズ湾も、ペルシャ湾も元々、海ではなかった。
死海もそうだが、鉄や銅を製錬するのに灌漑(人工的に水を引き込むこと)を行うことは、青銅器時代の人々にとってはさほど難しい技術ではない。
それどころか、どれほど水に恵まれない砂漠だろうと、どこであろうと、人というのは、その困難を何とかして乗り越え、生き延びようと、ありとあらゆる方法を考え、模索し、
創造して、何度も試行錯誤を繰り返し、そうして今日まで様々な用途や条件に合った水を確保してきた。
それこそ、天から人に与えられた才能、“天才”(=Genius、語源はラテン語の「守護神=Genius」)だった。
だから、ペルシャ湾(アラビア湾)も当初は人が飲んだり、田畑を耕したりするのに使う“生活用水”を確保する目的で造られた貯水湖だったのだろうが、その後、鉄や銅などの金属を製錬するのに使われる“工業用水”の為の蒸留湖もしくは塩湖となっていった。
なお、人類が水を確保する為に灌漑を行っていた地域のことを今では“内陸流域”(=Endorheic Basin)と呼び、通常、降水を集めて川や海へと水が流れ出ていく地域を“流域”(=Drainage Basin)と言うが、内陸流域は降水があまり多くない砂漠地域や乾燥地帯にあって、川や海へ水が流れ出すことなくその地域で水が留まったり、干上がることを言う。
中にはペルシャ湾(アラビア湾)のように海岸沿いにあったりするが、代表的な例として挙げるなら、“カスピ海”(=The Caspian sea、中央アジアと東ヨーロッパの間にある塩湖。面積371,000㎢、水量78,200k㎥、BC6世紀のアケネメス朝ペルシャの時代に住んでいたとされるカスピ族にちなんで名づけられた。現在、周辺にロシア連邦、アゼルバイジャン、イラン、トルクメニスタン、カザフスタンが接していて、それぞれの国同士がカスピ海内に眠るキャビアや天然ガス、原油を求めて国際法上、海なのか?、湖なのか?で20年以上、争ってきた。)や“タリム盆地”(=The Tarim Basin、中国もしくは新疆ウイグル自治区にある内陸盆地。面積1,020,000㎢、タクラマカン砂漠にあって、周辺を囲む高い山々から雪解け水が流れ込み、オアシスやワジ(涸れ川)を形成して小麦や綿花、絹などが栽培でき、かつてはシルクロード(東西絹貿易)の一大拠点だった。特にタリム(塔里木)川が最も長い内陸流域で、流域面積435,500㎢、日本最大の流域面積を持つ利根川の約25倍以上もあるが、近年、中国政府の開発や異常気象(?)の影響を受けて流水量が減りつつある。また、タリム盆地は世界最大の産油国であるサウジアラビアの持つ原油量と比べてその半分くらいが地層に眠っていると言われ、原住してきたトルコ系のウィグル人を始め、その他の少数民族、そしてこの地域を現在、統括している中国政府、さらには山を挟んでロシアやパキスタン、モンゴル、インドといった様々な国とも接しており、常に独立運動や民族紛争が絶えない地域でもある。)などがある。
ただし、ペルシャ湾、スエズ湾と並んで紅海には“アカバ湾”(=The Gulf of Aqaba、長さ160km、幅24km、こちらもカスピ海と同じようにエジプト、イスラエル、サウジアラビア、ヨルダンが接していて、特に海のないヨルダンにとってアカバ湾は唯一、海への出入り口であるが、その他の国々も周辺に港を造って船を航行させている為、それぞれの国が自由な航行権を求めて争い、中東戦争のきっかけとなったり、近年はテロ活動も頻発している。)という、イスラエルのエイラト港(=Eilat)にまで届く紅海を長く延ばしたような運河の形をした湾があるが、こちらは大地溝帯も含め、地球の岩盤が何度かズレていったことで自然と割れ目ができ、その割れ目に海水が流れ込んだだけで人類が灌漑して造った訳ではない。
その証拠に、スエズ湾の最大水深は70m、平均水深もたった40mほどしかないのに対し、アカバ湾は最大水深が1,850m、美しいサンゴ礁も見られることから、絶景のダイビング・スポットとして世界的によく知られている。
また、地球にサンゴが誕生したのは最も古くて約5億年前、新しいものでも約2億年前と言われていて、紅海で見られるサンゴの数は300種類以上、アカバ湾でも200種類以上も見られるが、スエズ湾だとたったの35種類、それも湾の入り口辺りにしか生息していない点からしても、人類が灌漑を始めるよりずっと前からアカバ湾は存在し、逆にスエズ湾はアカバ湾ができた後に造られたことがよく分かる。
一方、ペルシャ湾(アラビア湾)も一見、海岸沿いの場所に面積が251,000㎢もあって、湾の奥に全長200kmのシャット・アル・アラブ川(=The Shatt al-Arab、面積884,000 ㎢)が流れており、その上流にはチグリス川(=The Tigris、長さ1,850km、面積375,000 ㎢)やユーフラテス川(=The Euphrates、長さ2,400km、面積500,000 ㎢)が控えていて、いかにも海のように見えるかもしれないが、ペルシャ湾も最大水深が90m、平均水深でも50mほどしかなく、サンゴの数もスエズ湾と同じ35種類で、その大半が数年程度ですぐにサンゴ礁を形成できるものばかりなので、やはりこちらも元々、“地球の歴史と共に成長し、歩んできた”海ではないことが見て取れる。
ちなみに、日本にもペルシャ湾やスエズ湾のように人の手で造られた湾は存在する。
というか、日本の湾という湾はほぼ、人工的な灌漑によって造られているものばかりで、自然のものはほとんど存在しない。
せいぜい、日本の三大深湾とされている“相模湾”(水深1,000m、環太平洋火山帯の一部である相模トラフ(深部6,000mまでの海の溝をトラフと呼ぶ。)によって自然の割れ目ができ、湾になったものと思われる。ただし、湾が複雑に入り乱れ、陸地が木の枝のように分かれて海を形成しているリアス式海岸(注1)でもある。)、“富山湾”(「富山深海長谷」と呼ばれる総延長750kmに及ぶ海底谷が存在することから、水深は1,200mに達する。)、“駿河湾”(駿河トラフによって割れ目ができ、海岸からわずか2kmで水深500mに達し、最大水深は2,500m。)ぐらいが自然によるものかもしれないが、それも多少、人の手が加えられている可能性が高い。
なぜなら、隣に位置する韓国の地形を見れば分かるだろうが、韓国の地形は日本と比べて日本海側はそれほどギザギザの湾だらけにはなっていない。
その上、日本の湾は波の荒い日本海側よりも波の穏やかな太平洋側に集中している。
つまり、それらの湾を人の手で造ったからこそ、この国は山ばかりで平地が少なく、耕作できる場所が限られている上、食用にできる野生動物の数が少なくても海に住む貝や魚を湾におびき寄せることで世界でも指折りの漁業国となり、大阪や京都の古墳から出土した船形埴輪や滋賀県の下長遺跡から発掘された“準構造船”(船の側面の衝撃を和らげるよう板を張り合わせて造られた縫合船のこと。)、さらには日本書紀や古事記といった日本神話に出てくる巨木を刳りぬいて造られる諸手船が和歌山県や島根県に今も現存するように、湾と共に海外渡航のできる安全な船を造ってきたからこそ、7世紀頃からは遣隋使や遣唐使(注2)が頻繁に派遣されるようになり、欧米以上に海外交易を始め、海外の知識や技術を学び、その習熟から独自の知識や技術を生み出すまでに発展してきた国とも言える。
ただし、日本はともかく、ペルシャ湾(アラビア湾)について言えば、上でも言った通り、人の手で灌漑して造ったものだが、本来の目的は交易をする船を停める為の港湾ではなく、あくまで初めは生活用水の為、後半はもっぱら鉄や銅、その他の金属を製錬する工業用水を確保する為に造られたものだった。
だから、ペルシャ湾(アラビア湾)の水が今も蒸発しやすく、湾の出入り口となっている“ホルムズ海峡”(=The Strait of Hormuz)やその先の“オマーン湾”(=The Gulf of Oman)、そして“インド洋”(=The Indian Ocean)の海水と比べてもずっと塩分濃度が高いのも、イスラエルの死海と同じように鉄や銅といった金属を分離させる冶金(=製錬&精錬)を行う為に人工的に造られた蒸留湖もしくは塩湖だったからである。
しかし、その蒸留湖または塩湖だったはずのペルシャ湾(アラビア湾)が、ヨセフの頃になると、なぜか海外交易の為の港湾へとその用途が変わっていたのかと言うと、それにはある恐ろしい悲劇がそこで起きていたからだった。
そして、その恐ろしい悲劇こそ、ヨセフがピラミッドを建てなければならなくなった原因でもあった。
(注1)
リアス式海岸(=Ria)とは別名、溺れ谷とも言い、谷から海に向かって流れる川の支流がいくつかに分かれてあたかも木の枝が伸びているように見え、海岸付近の谷が海に沈んで湾になっており、まるで海岸沿いがノコギリの歯のようにギザギザに見えたり、あるいはたくさんの岩や島が浮かんでいるように見える地形を指す地理学上の用語で、北欧やチリ、ニュージーランドなどで見られるフィヨルド(=Fjord、またはFiod)も溺れ谷の一種だが、違いは河川による浸食(水圧で削り取られること)がリアス式海岸、フィヨルドは氷河による浸食と地理学上においては説明されている。
しかし、どちらも人工的に灌漑(水を引き込むこと)して造られたもので、氷河期の頃に人類が家や釣り堀を造ろうとして氷や岩石を削ってできた地形である。(第93話『水源 (1)』参照)
その為、例えば、北欧のフィヨルドはU字谷、日本のリアス式海岸はV字谷になっていて、ノルウェー最大のフィヨルドであるソグネフィヨルドは、湾の内陸部の水深は最大で1,308m、逆に湾の入り口は100mほどで、そこから海水と共に魚介類が下の内湾に自然と流れ込んでくる仕組みになっている。
一方、日本のリアス式海岸は当初は北欧のソグネフィヨルドと同じように氷や岩石を削り、釣り堀を目的としていたが、時代を経るようになると漁業や船舶、塩作りなどの発展から湾の入り口を奥よりも少し広げて以前とは逆に海底を掘り下げ、大型船舶を通しやすくし、潮の流れに乗って海からそれぞれの川の支流へと上りやすくしたり、さらに潮と川の流れをぶつからせることで波が穏やかになり、船が港に停泊しやすいようにも造られている。
また、潮の干満を利用した塩作りも考慮して造られている場合は、陸に海水がかかるよう湾の入り口より陸に近い奥の部分を狭めてわざと波を高くする一方、津波や洪水の危険に備えて湾の奥の海底は埋め立てて浅くし、さらに小高い丘や山、岩などを築いたり、元々、あった自然を残したりして海岸を囲み、そうした被害を防げるようにもなっている。
さらに、防波堤となっている小高い丘や山、岩は湾に流れ込む風も防いでくれることからよりいっそう港に停泊した船を守って沖に流されにくくするよう整えられている。
日本では、和歌山県の紀伊半島から三重県の志摩半島にかけて見られる海岸と、岩手県の三陸海岸、大分県と四国の愛媛県に挟まれた豊後水道が三大リアス式海岸と呼ばれるが、日本だけでなく、元々、リアス式海岸の“リアス”とは大航海時代にヨーロッパから南米にやってきたコロンブスやヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランのようなポルトガルやスペインの船員達がチリの海岸地形を見て「Rias(スペイン北西部で使われるガリシア語、またはポルトガル語で「川」を意味する。)」と言ったことから地理学でも使われるようになった言葉で、この古代文明の港湾作りを参考にしてヨーロッパでも似たようなリアス式海岸が造られるようになったため、現在、世界中の海岸で見られる地形でもある。
なお、川を利用したリアス式海岸、氷河を利用したフィヨルド以外にもう一つ、地理学の用語としてダルマチア式海岸と呼ばれる言葉があるが、こちらは川や氷河を利用しながら造られた地形ではなく、海の潮流だけを利用して港湾を造っているので谷間や山脈の先に海が開けた地形に見えるリアス式海岸やフィヨルドと比べ、ダルマチア式海岸は谷や山脈に並行に沿って造られており、海岸沿いに細長い島がいくつか見えるのも島が潮の流れをせき止めて波の速さを和らげられるからで、これらの特徴を持つ例としてイタリア半島とバルカン半島に挟まれたアドリア海にあるクロアチア共和国のダルマチア地方の海岸から名づけられたものである。
(ちなみに、海水や潮の干満を利用した塩作りについては本作品にて説明したいと思う。)
(注2)
遣隋使とは、AD600年~AD618年の18年間に5回、倭国(現、沖縄県及び九州地方)の神武天皇の孫である阿蘇都彦命(または健磐龍命、倭建命)の代から中国の隋に外交官を派遣した事業のことであり、文化や社会制度、知識や技術を学ぶだけでなく、派遣された途上で中国や朝鮮半島の軍事機密を探ったり、同盟の申し出や宣戦布告などの外交政治を行う唯一の手段でもあった。
しかし、第一回目は政治に興味がなく怠け者で、神武天皇からも弟に倭王の座を譲るよう迫られて結局、阿蘇国(現、熊本県)に左遷された阿蘇都彦命が派遣したこともあって、事業内容がずさんであり、外交記録は日本には残されていない。
一方、中国の『隋書』にはその記録が残されており、
― 開皇20年(AD600年)、
倭王、姓は阿毎、字は多利思北狐、阿輩雞弥と号し、
使いを遣わして闕に詣らしむ。
上、所司をして(通訳を介して)その風俗を問わしむ。
使者言う。
『天未だ明けざる時に、出でて
政聴くに跏趺して坐す。
日出れば、すなわち理務を停めて、
我が弟に委ぬ。』
と云う。
高祖曰く、此れ太、義理なし。
これにおいて、訓えてこれを改めしむ。
と記されている。
今では日本で呼ばれる敬称や愛称、歴史名などがごちゃ混ぜになっていてわかりにくいが、倭国の王の苗字は“阿毎”(「阿蘇国の人」という意味。地名をそのまま苗字にしている。)、名前は“多利思北狐”(『日本書紀』に登場するAD6世紀頃の古代朝鮮人と日本人の混血児である吉備那多利の名前から多利だけを採って、「多利さんLOVEの北狐(北狐は北海道の他、中国、朝鮮半島を含んだ北半球一帯に生息しているアカキヅネの一種)」という意味のキラキラネームである。)、称号は阿輩雞弥(日本では「大王」と漢字を変えて書かれるが、実際の意味は「阿蘇の部族で雞蘇=朝鮮シソの開墾担当者」である。)となっており、隋の皇帝からこの阿蘇都彦命の政治について尋ねられた外交大使は黙っていられなかったのか、「夜明け近くまで阿蘇都彦命は表で遊んでいて、政務を任せたら胡坐をかいて周囲の話を聞くという態度の悪さで、しかも、日中は仕事をほぼせず、政務が滞るばかりか、自分の弟に仕事を押し付けている体たらくぶりです。」と実態を暴露し、これに隋の皇帝も驚いて「それは全く義しい道理を心得ていない不埒な奴だな。ちゃんと教育して改めさせよ。」と叱ったという、政治家としても、社会人としても国際的にかなり情けなく恥ずかしい顛末が記録されている。(ちなみに阿蘇都彦は現在、神格化されて熊本県阿蘇市の阿蘇神社に“日本人の神”として祀られている。)
これが原因かは定かでないが、阿蘇都彦命は政権の座から降ろされて彼の弟の成務天皇が即位し、それもすぐに政権争いとなって阿蘇都彦命の息子の仲哀天皇が後を継ぎ、そこでAD607年に二回目の遣隋使が派遣されるのだが、この時の遣隋使(外交官)を小野妹子と日本の学校では習う。
しかし、『日本書紀』では小野妹子は“大唐”に派遣されたとあり、隋ではない。
また、「唐国号妹子臣下蘇因高」ともあり、「唐は妹子を臣下として“蘇”因高と呼んだ。」と記されている。(『日本書紀22巻 推古記』参照)
明らかに小野妹子は遣唐使であり、隋の時代の人ではない。
では、なぜ、日本の学校では「小野妹子は遣唐使ではなく、遣隋使である」と教えるのか?というと、日本の学生達の頭を「小野妹子は遣唐使なのか?遣隋使なのか?」で混乱させ、この時、誰かは不明の遣隋使が持って行った書簡の内容に注目させない為である。
その書簡の内容というのが、これである。
― 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。
つつがなしや、云々(うんぬん)。
要約すると、「今後、世界を支配する天皇が没落する皇帝に手紙を送ってやるよ。元気?」という飛んでもなく不躾極まりない宣戦布告の手紙であり、これに当時、隋の皇帝だった煬帝は激怒した。
しかし、煬帝はまだ、大人だったのだろう。
「蕃夷(野蛮人)の無礼な手紙など二度と見せるな」と書簡を受け取った外交担当だけを叱って事を治めたらしい。
ところが、大倭朝廷の方は喧嘩(戦争)する気満々なのでそう簡単には引き下がらない。
度々、貢物を携えて平和的な外交を装いながら裏では似たような挑戦状を送って隋を挑発したようだが、隋の方は応じず、逆にわざわざ隋から裴世清という使者を倭国に派遣し、九州から沖縄まで船で行かせて大倭朝廷の皇族に政治や社会制度だけでなく、それ以前に礼儀や道徳教育を授けようとしたようだった。
それでも大倭朝廷側は全く改心せず、戦争してその国の神とされる皇帝や王族達を倒せば、自分達もその国の神になり替われるとする“シャーマニズム”(=Shamanism、祈祷師や巫女が恍惚状態になって先祖霊や死霊からのお告げと嘘をつき、人が潜在的に持つ自然(神)への畏怖心や生理的な不快感を悪用して自分の欲する要求を多くの人に命令して従わせる土着信仰のこと。第82話『玉石混淆』でも触れたように、主に中国、ロシア、モンゴル、朝鮮半島などの中央アジアから世界へと広がり、宗教のみならずあらゆる国の社会制度や教育に影響を及ぼしてきた古代の土着信仰で、今もなお、多くの人を邪な考えで惑わしてその人生(人の生命)を誤らせる“邪教”である。)を信仰して巫女である卑弥呼を女王に据え、国家(共同社会)を築いてきた人々なので、ちょっとやそっとの説得や柔和な訓戒など自分達の武力(暴力)を過信して人の心(理性)を嘲笑う野卑な彼らに通じるはずはなく、結局、裴世清が2年間ほど倭国(現、沖縄県及び九州地方)に滞在して指導したが、徒労に終わり、その2年後のAD612年、神功皇后という女帝が隋との戦争に乗り出すことになった。
この神功皇后という女性は、日本の原住民である大和民族を両親に持つ生粋の日本人で、近畿圏内に住んで鏡を作る鏡職人、現代で例えるなら鏡製造会社の社長令嬢だった。
その為、別名、額田王とも呼ばれ、額田とは現在の奈良県大和郡山市の古代地名であり、神功皇后の母親の名前も“葛城”高額媛で、今も奈良県葛城市にその名を残している通り、どちらも奈良県中西部の地名である。
彼女の父親の息長宿禰王も近畿地方の豪族で、息長とは現在の滋賀県のことで、宿禰とは地方行政官、または豪族を意味している。
その日本人を両親に持つ神功皇后と、倭王から降ろされた阿蘇都彦命が自分の息子である仲哀天皇と結婚させたのは、彼女の実家で作っている“鏡”が目的だったからである。
現代の鏡はガラスにアルミニウムや銀などの金属メッキを施して作っているが、この頃もさほど変わらない。
ろくろの旋盤として使われていた銅鏡が存在するように、銅板にアルミニウムや銀などでメッキして作っていたのが神功皇后の頃の鏡だが、前回、第107話『革命 (2)』(注1)で話した通り、アルザス・ロレーヌ地方に住んでいたアレマニ族やユダヤ人達が赤土からミョウバン(明礬、化学用語では硫酸カリウムアルミニウム)を作っていたのと同じく、大和民族も赤土を使って鏡にメッキを施す技術を持っていた。
そして、赤土はジャンヌ・ダルクが強力な爆薬を作ったように兵器になるものでもあった。
この赤土に阿蘇都彦命とその息子の仲哀天皇は目をつけたのである。
しかし、神功皇后は仲哀天皇と結婚する前に既に足鏡別王(または蘆髪浦見別王とも呼ぶ。)という日本人の恋人がいて、相思相愛の彼と結婚する日を待ち望んでいたのだが、そこへ日本人女性を白鳥と称して拉致し、大倭朝廷に献上しようとする倭国の武将達が無理やり彼女をさらっていった。
もちろん、それを知った足鏡別王は慌てて彼女の後を追って奪い返したのだが、武将達の報告を聞いた大倭朝廷側はこれを逆恨みし、熊襲討伐(倭国に反逆しようとする大和民族を亡ぼす為の戦争のこと。阿蘇都彦命が女装して寝所に忍び込み、最初に殺した日本人の名前が熊襲健だったため、以来、日本人を殺戮することを熊襲討伐というようになった。ちなみに阿蘇都彦命の別名はヤマトタケルで、“倭建”以外に“大和健”と書くのは自分が殺した熊襲健の名前を使い、大和民族を装う為である。)だと言って、神功皇后や足鏡別王が住む地域の人々を襲撃し出した。
そこで神功皇后は、神武東征(大倭朝廷の初代天皇である神武天皇が近畿地方を制圧する為に起こした侵略戦争のこと。)以来、自分達、大和民族への度重なる殺戮や強姦、暴挙を食い止めようと意を決して一旦、足鏡別王と別れ、自分の知識や技術は兵器になるからと証拠の鏡を持参して大倭朝廷側に自分を売り込み、結婚同盟による和平を申し出た。
これが大倭朝廷に今も伝わる三種の神器の一つ、“八咫鏡”である。
(ちなみに八咫とは、神武天皇が“八咫烏”という3本足のカラスに導かれて日本を侵略できたという話にちなんだ言葉で、一般的に話をそのまま鵜呑みにして動物のカラスだと思われがちだが、実際は八咫烏を象徴にした民族の人間である。八咫烏は古代中国で弓の達人だった羿という男が10人の太陽(=王)の子達が内戦を始めたことから赤土を使った爆薬の弓矢を用いて収めたという神話に基づき、主に中国や高句麗(現、北朝鮮)、一部、エジプトやトルコなどの王侯貴族や武将達が弓矢を表す3本足と火を噴いて地上を焦土にする強力な兵器を表すカラス、または火の鳥とを合わせてこれを自分達の象徴にしていた。また、八咫とは身長が大きいという意味もあり、つまり、神武天皇は背の高い弓矢を武器にした武将に導かれて神武東征を行ったというのが八咫烏の真相である。)
この申し出に乗って仲哀天皇は神功皇后と結婚することになったのだが、神功皇后の方は大倭朝廷の内情を探りながらいろいろ言い訳して仲哀天皇と寝所を共にすることはない。一方、仲哀天皇の方も父親に言われて結婚したものの、既に自分の従妹との間に子供までいたので神功皇后との夫婦関係が最初から冷えていようとどうでもよく、あくまで彼女が嫁入り道具に持参した鏡(兵器)の秘密を知ればそれでよかった。
こうして大倭朝廷内で倭人と日本人との密かな冷戦が始まったのだが、元々、武力(暴力)を振るうことしか考えない阿蘇都彦命と仲哀天皇より恋人と別れてまで大和民族の人々を守ろうと立ち上がった神功皇后の方が一枚、上手だった。
阿蘇都彦命の本名が多利思北狐(意味は「多利さんLOVEの北狐」)で、その名前の多利は吉備那多利にちなんだものであり、那とは高句麗(現、北朝鮮及び一部、中国東北部)に住む部族名だと知った神功皇后は、隋から派遣された裴世清とも通じて中国や朝鮮半島の情勢を聞き、隋の煬帝が父親の代から大運河を建設中であり、さらにそれを邪魔しようと運河の交易関税で長く稼いできた高句麗と突厥(現、モンゴル)とが手を結び、隋に度々、侵攻してきて困っているとの情報をつかんだ。
また、朝鮮半島は高句麗以外にも新羅や百済といった様々な国が乱立していて人々は常に裏切り合ったり、争い合って一つの国としてまとまらないという事も聞かされた。
それを聞いて神功皇后は一計を案じることにした。
自分達、大和民族に向ける倭国の兵力を彼ら倭人の祖先や親戚が住む朝鮮半島に戻すことにしたのである。
早速、神功皇后は裴世清に頼んで隋の煬帝に内密の軍事同盟を申し込み、中国との連携を図ると共に、結婚してからも足鏡別王としばしば密通していたため彼を通じて大和民族の人々に倭国へ反乱(抗議運動)を起こすよう連絡した。
むろん、その反乱の知らせを受けた仲哀天皇はすぐさま熊襲討伐に向かい、鏡(兵器)の実力を見せるよう神功皇后にも参戦を迫ってきたので、彼女は後で向かうことを約束して仲哀天皇を先に行かせ、現在の福岡市にある立花山の麓で仲哀天皇と落ち合うことにした。
そこで彼女は倭国の宗教とは全く違う、自分達、大和民族の人々が古来より信仰してきた天照大御神=天(宇宙)を照らす全知全能の神の最後の警告を伝えた。
「お前達、倭人(現在の北朝鮮を祖国として沖縄県及び九州地方に定住するようになった外国人移民)が散々、搾取し、虐げてきた大和民族の国土はやせ細り、人々も疲弊して、これ以上、搾り取ろうとしても一滴の涙すら出ない。
お前達がそれほど金銀財宝を得ようと戦争(人殺し)を続けるなら、天照大御神に日本の田畑(土地)と船(貿易権)を返し、金銀財宝のあるお前達の祖国の朝鮮半島へ戻って、そこで戦争を続けるがいい。
この日本はお前達、戦争(人殺し)を好む者達が治めるべき国ではない。
ここは神聖な天照大御神から授かった“神の国”だ。
人と人とが助け合い、その生命を慈しみ合う天照大御神の国である。
お前達、武力(暴力)を誇って弱い者を虐げようとする者の住まう場所はどこにもない。
さぁ、この日本から去れ!」
だが、仲哀天皇はこの神の最後の警告をいつものごとく嘲笑い、「どこにそんな金銀財宝の国が見える?馬鹿を言うな」と、彼女の言葉を受け流した。
それでも神功皇后は引き下がらず、
「お前達、戦争(人殺し)を好み、武力(暴力)で人々を蹂躙するような輩に国を治める資格はない。
この国は私の身体に宿る新しき御子(生命)が治める国だ。この天照大御神の最後の警告をお前が嘲笑うならば、お前に未来はない。」と、つい自分が妊娠していることを漏らしてしまった。
この妊娠発言に全く身に覚えのない仲哀天皇は怒り狂い、琴弓(弦を引くと音の鳴る弓)に矢をつがえて本気で彼女を殺そうとした。
しかし、その二人のやり取りをさっきから見ていた臣下の武内宿禰が慌てて止めに入り、弓を引っ込めるよう仲哀天皇を諫めたのだが、全く聞く耳を持たず彼女を射殺そうとして武内宿禰と揉み合いになり、結局、誤って矢が自分の胸に刺さって死んでしまった。
それを見て武内宿禰は恐れをなした。
まさか本当に天罰が下るとは思っていなかったからである。
そして、彼女の妊娠している子供が仲哀天皇の子ではないことも知らなかった。
その為、その場ですぐに彼女に服従を誓い、一緒に仲哀天皇を埋葬して彼女に命じられた通り、九州地方でのさばって悪事を重ねてきた倭国の同盟部族を次々と駆逐し、その後、神功皇后と共に朝鮮半島へ出兵をすることとなった。
戦争自体は不本意ではあっても皇后としての立場上、戦闘に立つことになった神功皇后は、髪をくくって男装し、お腹の子に剣や矢が刺さらないようさらしに石を入れてお腹を巻き、死ぬ危険も覚悟して必勝を祈願するため、朝鮮半島に向かう船が出る港近くの山へ行き、自分が嫁入り道具に持参した鏡をそこに埋めて無事に子供と共に日本に帰って来れるよう神に祈った。
一方、神功皇后からの密かな同盟の申し込みで思わぬ援軍を得た隋も一緒に高句麗征伐に乗り出し、直接、高句麗と戦う隋に対して神功皇后の方は戦争の混乱に乗じて互いの領土を乗っとろうとしたり、時には臣下の礼を取っている隋を裏切って高句麗と結ぼうとする新羅や百済などを抑える形で軍略を進めることにした。
この混乱作戦で、倭国に侵略された新羅からの援軍要請にも応えながら隋とも戦うことになった高句麗は首都である平壌を襲撃され、大打撃を受けたのだが、負けが込んでくると必ず平伏して謝罪し、「二度と戦争(人殺し)は致しません」と誓いながら陰で舌を出して再び戦争(人殺し)を繰り返す厄介な国なので、そう簡単に服従することはない。
だから、隋は何度も遠征する羽目になり、その戦費の負担と戦死者の増加で、高句麗と隋、どちらの国もどんどん疲弊していった。
その上、神功皇后が使った赤土を爆薬にした兵器は国土を焦土にしてしまうかなり強力なものなので、田畑が荒れ果てることになり、隋の兵士達が高句麗遠征を続ける為に必要な食糧の補給が滞るだけでなく、高句麗を始めとした朝鮮半島に住む人々の食糧にも不足が生じる事態となった。
それを見越して神功皇后は、彼女の兵器に驚いて次々と降伏していった人々を教え諭し、戦争(人殺し)を止め、和平を誓うなら日本から食糧を輸出するという条件で和解を要求した。
これに対し、新羅や百済は真っ先に和解に応じてきたのだが、高句麗は相変わらず和解を口にしながら降伏する気はなく、しかも、神功皇后の頭を悩ませていたのはいかに倭人の兵士達を彼らの祖国である朝鮮半島に向けたとは言え、日本国内に今なお倭国や倭人達が存在する以上、高句麗の人達と同じ考えで戦争(人殺し)をし続けようとする人達が大勢、いるのだから気は休まらない。
案の定、帰国して無事、出産すると、今度は彼女の子供の血筋を巡って大倭朝廷内部での政権争いが始まった。
元々、仲哀天皇には二人の王子がいたのだが、彼らとその母親はすぐに神功皇后の子供が仲哀天皇の子ではないことを見破った。
神功皇后としては別に大倭朝廷の天皇や皇后の座など欲しくはない。
だが、この座を手放せばまた、大和民族の人々に倭人達が危害を加えるかもしれない。
さらに彼女と仲哀天皇との夫婦喧嘩を阻止しようとして誤って仲哀天皇を殺してしまった武内宿禰はそれが大倭朝廷内でばれると身の危険があったため、強硬に神功皇后の子供を次の太子に推して保身を図ろうとした。
こうして、高句麗(現、北朝鮮)と倭国(現、沖縄県)の民族から始まった大倭朝廷は、神功皇后と足鏡別王との間に生まれた大和民族の子供が偶然にも乗っ取る形になり、一旦、日本の“大和”朝廷ということになった。
とは言え、武内宿禰と仲哀天皇の子供達はそれぞれ倭人同士が相変わらず戦争(人殺し)をし合ってお互い自滅する一方で、神功皇后とその子供の応神天皇、その孫の仁徳天皇は荒廃した大和民族の土地をかつてのように平和に、豊かにしようと復興に力を入れ始めた。
中国や朝鮮半島との食糧や物資の貿易も盛んになり、朝鮮半島の人々の中にもまだ戦争を続けようとする人達はいてもそれとは真逆に日本と平和に付き合おうとする人達も増えるようになり、お互い知識や技術の交換もし合えるようになった。
中国の有名な哲学書である“論語”や日本人の多くが漢字の読み書きを習って中国の人達と交流できるようになった外国語の教科書である“千字文”(漢字の練習用に教えられる1000文字からなる長文の詩)は応神天皇の頃に伝えられたと言われている。
また、大倭朝廷の都も沖縄や九州から既に神功皇后の故郷である奈良に移されていたが、仁徳天皇の頃には大阪の難波にも新たに“大和”朝廷の都として築くことになった。
これに伴い、本格的に灌漑(水を引きこむこと)事業を行って水田開発を進め、それまで塩作りや水田の為にわざと浸水させて土壌の入れ替えをしていたが、治水“管理”をするよう改善し、洪水や高潮の被害も防げるよう茨田堤や横野堤という堤防も築かせた。
さらに、貯水池と共に大和民族がこれまで造成してきた前方後円墳のような“山の畑”も増やし、植林による果樹や材木の育成もして海外からの新しい果物や林業の開発研究にも取り組むようになった。
(なお、古代における“山の畑”については本作品にて後ほど触れる予定です。)
しかし、度重なる倭国の襲撃や略奪、武力(暴力)でもって勝手に課してこられる重税に耐え忍んできた大和民族の人々の中には生活を再興するのにまだまだ時間のかかる人達も数多くいて、仁徳天皇が新しい都を見て回った時も家々のかまどから煙が立っておらず、日々、料理して食べる物すらままならない人達もいるようだった。
これを見て仁徳天皇は神功皇后以来、悲願だった租税の廃止を行い、大幅に朝廷(政府)の縮小を図り出した。
大倭朝廷にしても、大和朝廷にしても朝廷(政府)=王侯貴族に変わりはない。
皇室や王侯貴族という地位や身分を作って人々の生活に負担をかける課税をする行為こそ政治家として、人として、決してやってはいけないことだと仁徳天皇は天照大御神の教えを守り、強く自分の心(理性)に言い聞かせてきた。
だが、この教えにどうしても従えない人達が大和(大倭)朝廷には多すぎた。
元々、高句麗(現、北朝鮮)や大倭朝廷(琉球王朝)から始められた身分制である以上、彼ら倭人達自身が自分達の悪習に気づいて戦争(人殺し)や身分制(呪縛)を変えようと心を入れ替えない限り、仁徳天皇一人で彼ら全員の考えを変えられるはずもなかった。
加えて、神功皇后から仁徳天皇までの復興への努力が実を結んで少しずつ人や物も増え、豊かになり、海外からもたくさん人や物が押し寄せるようになった。
そうなってくると、かつて祖先達が飢えや貧しさに嘆き、虐げられ、苦労してきた時代を忘れ、それを全く知らない大和民族の子供達も増えるようになり、敵だったはずの倭人や高句麗の人達も平和や味方を装って次第に日本国内で同化していくようになった。
そして、彼らはまた、戦争(人殺し)と身分制(呪縛)を人々に教え込もうとある手段を用いだした。
“仏教”(=Buddhism)である。
要は、神功皇后や大和民族の人々が古来より信仰してきた天照大御神に対抗できるような宗教を宣教することで一般国民を洗脳して服従させようと考えたのである。
それは中東でナザレのイエスが伝えた全知全能の神(=天照大御神)の言葉を欧米人達が歪曲してキリスト教にすり替えたように、インドで釈迦が伝えた神の言葉や智慧も中国や朝鮮半島、そして日本でうやむやにされてシャーマニズム(交霊術)と混合され、様々な戒律や儀式と共に次第に麻薬のように多くの人達の頭や日常生活に深く浸透していった。
(なお、仏教の成り立ちについても本作品にて詳しく説明するつもりです。)
その麻薬(仏教)を倭人達は使いだし、縮小された大和朝廷(政府)のすぐ足下で新たな宗教団体を立ち上げた。
その最初の教祖になったのが継体天皇である。
継体天皇の出生は定かではない。
応神天皇の側室の子孫を名乗っていたらしいが、経歴詐称は怪しいカルト(=Cult、物議や論争を生みやすい儀礼や戒律などを強いる宗教または社会団体。ヨーロッパではSectと呼ぶ。)には付き物なので本当かどうかははっきりしない。
そうして自分は高貴な生まれであると言いふらし、最初は仏教よりも大和朝廷が信仰する天照大御神のカルト(反社会的新興宗教)として創設したようだが、自分達の利益にしか目が行かない彼らにその信仰の意味は理解できないので信者を増やすには説得力が欠ける。
そこで彼らの広告宣伝担当だった蘇我稲目が仏教の導入を主張し出した。
“蘇”我という名前の通り、倭人の彼は祖国である朝鮮半島で仏教が流行していることを知り、早速、これを自分達の団体に取り入れてはどうかと打診した。
カルト団体の派閥争いもよくあることなのでもちろん、この意見に反対する者もいた。
中臣鎌子と物部尾輿は蘇我の傲慢な態度に日頃から私憤を持っていたため、何を蘇我稲目が言おうと反対するつもりだった。
しかも、その反対活動も1994年にカルト教団のオウム真理教が自分達の活動の妨害をするとして長野県松本市の裁判所官舎及び周辺住宅に毒ガスのサリンを撒いた松本サリン事件とよく似ていて、蘇我稲目の住む家の近所で疫病に罹るような生物兵器を撒いて妨害し、仏教を拝んでも何ら功徳(ご利益)はないと言いふらしたのだが、そんな妨害にめげない蘇我稲目はかなりのワンマン(独裁者)だったらしく、二人の反対意見をもろともせずに組織内での仏教導入をやり始めた。
その息子の蘇我馬子も父親に似て強気な上にやり手なのか、広告宣伝に関しては彼の他に右に出る者がいなかった。
その蘇我馬子が創作した仏教の宣伝用キャラクターが“聖徳太子”である。
この時代にはイエス・キリストの話も中国で景教と呼ばれて日本にも伝わっていたので、聖徳太子が馬小屋で生まれた厩戸王と呼ばれるのも西方のイエスの話を混ぜたものであり、他にも一度に10人の話が聞ける超能力があったとか、生まれるとすぐに言葉を話したとか、未来を予言できたとか、いろいろオカルトめいた逸話が作られているが、こうした逸話を一般大衆に教え聞かせて架空のキャラクター(擬人神像)を崇拝させることで信者獲得を狙ったようだった。
その為、名前も仁徳天皇に“あやかって”聖徳太子と新たに付け加えた。
こうして聖徳太子という架空のキャラクター(擬人神像)を前面に出して姿、形を見せず、教団内で十七条憲法なる戒律まで作って仏教の布教活動を行い、勧誘も強引に武力(暴力)などを使って脅して加入させ、次第に信者が増えるようになっていった。
それはまさしく前話の第107話『革命』後書き(注2)その3で説明した現代の創価学会の手法とそっくりで、実際、聖徳太子なるキャラクターは数ある仏典の中から創価学会の教科書である『法華義疏』(聖徳太子が書いたとされる法華経の注釈書。本人が書いたかは定かでないが、日本最古の肉筆によって書かれた書物であり、奈良県の法隆寺に千年以上、保管されていたが、なぜか明治時代になると急に御物(私物)として皇室に献上された。)を出版している。
それだけでなく、海外の政治家や有名人達と対談してそのインタビュー記事を教団の宣伝に利用する点も創価学会とよく似ていて、そんな彼らが仏教、特に法華経を布教する為に始めた海外の大物政治家との対談が“遣唐使”だった。
神功皇后の時代から連携してきた中国の隋は度重なる戦争や公共事業の税負担が重すぎて各地で暴動や反乱が起き、煬帝も殺されて国名が唐に変わっていた。
仁徳天皇自身も天皇という位を投げ捨て租税も廃止したので、既に一般国民と同じように働いて生活しており、大和朝廷(政府)そのものも消滅していた。
現代とは違い、複雑で一般国民のほとんどが知らない法律も年金や生活保護、失業保険、医療保険に障害年金と数多く重複して財源がどこに消えるかも誰も知らない福祉政策も、何十年とかかるような長期の大規模公共事業計画も勝手に決められていた訳ではないので、仁徳天皇も含めて一般国民全員が集まって話し合い、必要な産業やそれぞれの経済状況に合わせて柔軟に税負担も変更し、集まった税をやり繰りしながらお互いがもっと発展する新たな政治、と言うか、元々、大和民族がしてきた制度に戻そうとしていたところだった。
だが、増えすぎた倭人や渡来人(外国人)、そして過去の戦争や苦労を知らない大和民族の子供達はこの新しい宗教である仏教と聖徳太子という架空のキャラクター(擬人神像)を熱狂的に支持した。
そうして彼らの支持で信者が増えていった倭人達のカルト(反社会的新興宗教)団体は、消滅したはずの大倭朝廷を再び創り出し、仁徳天皇達の世代が次第に死んだり、引退して国政から退くようになると各地で徒党を組み、武力(暴力)を振るってまた、一般国民に身分制(呪縛)と一律の税負担を強いるようになった。(班田収授法及び飛鳥浄御原令 AD689年)
その結果、神功皇后から仁徳天皇の時代に起きた出来事と彼ら倭人達のカルト教団の歴史が混ぜられることになり、天皇の名前や年代、出来事なども大幅に書き換えられたため、辻褄が合わなくなった。
それでも嘘というのはどうしても馬脚をあらわしてしまうものらしく、神功皇后を装った推古天皇も、仁徳天皇と似通わせて宣伝した聖徳太子も全て蘇我一族の親戚で、しかも、元を辿れば大倭朝廷の臣下だった武内宿禰の子孫が派生して蘇我氏や歴代天皇を輩出したことにもなっており、臣下の子孫が全員、天皇になるのもおかしな話なのだが、それよりもっとおかしいのはそれぞれの生涯年数や在位年数が短すぎたり、長すぎたりして辻褄が合わず、毎度、一から数え直して制定される元号でそれが分かりにくくなっているものの、例えば、武内宿禰は景行天皇から成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と5代の天皇に仕えたことになっているのだからどう考えても無理がある。
しかし、一度、カルト宗教に洗脳されてしまうと、理性(心)で考えればおかしなことが“未知の世界の神聖な常識”に思えてくるらしく、誰も何も突っ込まないまま千数百年と時を経て現代に至るまでとなった。
その彼らカルト教団によって創設された大倭朝廷の歴史に従って遣唐使を説明するなら、AD614年に最後の遣隋使として派遣された犬上御田鍬が、それから16年後、隋から唐に国名が変わって既に12年も経ったAD630年に遣唐使にも選ばれ、(これまで遣隋使を派遣してきて今更、習うまでもないはずなのだが)中国の政治制度や文化、仏教の経典収集を目的とし、AD894年に渡航が延期されて唐の滅亡により廃止されるまで、回数は定かではないものの、少なくとも十数回以上、唐に派遣された外交使節と言われている。
第一回目は派遣して唐から戻ってくる際、彼らと一緒に唐からの使者として高表仁という人が来日したのだが、その頃は大倭朝廷もカルト教団としてさほど大きかった訳でもなく、仁徳天皇達もまだ、生きていたのだろう。
高表仁も遣唐使達の言う倭王が日本の天皇のことと思い込んでのこのこついてきたものの、実際、倭王は日本の天皇でも何でもなかったのだから驚いたに違いない。
だから、唐の皇帝となった太宗の返信も伝えず慌てて帰っていった。
その後、23年間、カルト教団の大事なマスコットキャラクター(偶像)だった聖徳太子も蘇我稲目から4代目の曾孫の蘇我入鹿の時代になるととっくに消えていてもはや時代遅れとなり、蘇我一族の権勢も衰えだし、蘇我稲目と仏教導入で争った中臣鎌子の子孫である中臣(藤原)鎌足が乙巳の変を起こして蘇我入鹿を暗殺し、新たな教祖として中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)を祀りながら教団内の一連の改革を行って実権を握るようになり、派閥争いにもようやく蹴りがついて落ち着いたのか、AD653年に2回目の遣唐使が派遣されることとなった。(乙巳の変及び大化の改新 AD645年)
だが、それまで何の問題もなかった船の旅がこの時を境に著しく困難なものになっていて、この頃になると船舶操作や渡航“技術”がかなり劣化していることがうかがえる。
それから2回ほど派遣したが、その間、別の外交問題が勃発して唐との関係が悪化した。
というのも、神功皇后以来、日本の大和民族と任那や加羅などの朝鮮半島の小国の人々はお互い平和と平等な信頼関係を結び、朝鮮半島全体とも比較的、平穏に交流できていたのだが、仁徳天皇らがいなくなってからはその信頼関係も次第に薄れるようになり、さらに日本の技術や産業も衰退してきて貿易の利点も少なくなってくると朝鮮半島の経済事情も悪化してお互い利権を巡って再び争いが起きるようになり、そこへ戦争(人殺し)好きな高句麗が親戚関係にある大倭朝廷をそそのかし、高句麗と同盟関係にある百済と大倭朝廷の手を結ばせて新羅を侵略させ、その上、新羅を支援する中国の唐の軍隊も参入してきて大戦争が勃発した。(白村江の戦いAD663年)
結局、大倭朝廷は惨敗して日本は唐の属国とみなされるようになり、AD665年から定期的に遣唐使を派遣しなければならなくなり、渡航するのに苦労しながら2年に一回、貢物を携えて朝貢し、唐で捕虜にされている自国の兵士達の帰還も請わなければならなくなった。
ただし、唐の方も政権争いで代替わりはするのでそれによって朝貢回数が減らされるなど戦争賠償の条件も多少、緩められることもあったが、依然、唐に敗戦した属国であることに変わらず、AD752年に唐に朝貢した際は何を勘違いしたのか自分達、大倭朝廷に勝った新羅よりも席順が下にされたと怒り出し、海外からの列席者が集まる中でたかが席順で駄々をこね、わざわざ替えさせるという何とも大人気ない珍事件が起きている。
また、白村江の戦いで大敗しているにも関わらず、生きる為の産業技術や知識は劣化する一方なのに武器や兵器の開発だけは怠ることなく続けられ、その兵器の開発技術者だった鑑真を仏教僧と偽って来日させようと図り、軍事機密の漏洩を恐れた唐側に阻止されたり、逆に唐の方から戦争賠償として武器類の材料補給を依頼されるなど戦争の後方支援活動も行っていて、まるで第二次世界大戦後の日本を彷彿とさせるような外交が展開されていた。
それ以降の遣唐使は単なる文化交流や交換留学制度の為の渡航に過ぎず、官僚や民間人の外国語の習得や海外留学で学歴に箔をつける為だけのものと思われ、わざわざ漂流したり、遭難する危険を冒してまで中国まで留学する意義も失い、また費用の負担も大倭朝廷側も唐側も重くなったことから遣唐使制度は自然消滅していった。