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第百七話 革命(2)後書き(注2)その3

107話から何度かに分けて後書きに書き足してきましたが、長くなりましたので一つのスピンオフとして

本作品と並行し、しばらく書くことに致しました。


その頃、明治政府(現在は自民党政権)存続の為に欧米諸国(の銀行)から借金しすぎて首がまわらなくなった日本は世界大戦より早く戦争(人減らし)を始めなければならない経済事情(昭和恐慌)にあったため、日露戦争の最中にロシア皇帝ニコライ2世の邪魔をしようと造った南満州鉄道を、1931年に自国の陸軍大佐の板垣征四郎いたがきせいしろうと同じく陸軍中佐で国柱会(1880年から横浜で法華経の広宣流布こうせんるふと宗教革命を謳った日蓮主義運動を展開した宗教家の田中智學たなかちがくが日蓮宗の僧侶達を集めて結成した宗教団体だったが、その後、田中は本仏(神)である天皇を教主にして日蓮宗を国教とし、軍事(暴力)国家の形成を目的とする立憲養成会という右翼団体も立ち上げ、これと並行しながら1929年から衆議院議員に立候補して以後、政界へと進出、一時期は100人を超す所属議員がいたぐらいの有名政党だった。ちなみに、この田中智學の思想や折伏しゃくぶくという強引な宗教勧誘でよく似た宗教団体と政党として例に挙げられるのは創価学会と公明党で、元々、立憲政友会(現在の自民党)から出馬して総理大臣になった犬養毅いぬかいつよしなどの支援を受けた戸田城聖とだじょうせい牧口常三郎まきぐちつねさぶろうが1930年に創価教育学支援会を創設し、1946年に創価学会と改称、1951年から折伏しゃくぶく大行進と称して戸別訪問を行って家に飾ってあった他宗派の仏壇や神棚を破壊したり、入会を勧めるのに多人数で長時間、取り囲むなどの強要を行って19歳の少年を飛び込み自殺させるといった事件を起こし、さらに1957年に大阪の参議院選挙の際にも日雇い労働者達に自分達が指名する立候補者の名前が入ったタバコを渡し、有権者の買収を図った大阪事件で後に会長となる池田大作ら学会員数十名が逮捕されたが、裁判長自らが公職選挙法に関する裁判とは全く関係ない検察側の自白強要という暴力行為(刑法)を判決理由に挙げて池田大作らを無罪とし、創価学会側は罰金刑のみで済まされた。その後、後継者がまだ決まっていない最中に突然死した戸田城聖に代わり、会長となった池田大作が1961年に創価学会文化部を公明政治連盟と呼び変えて政治団体にし、東京都議会議員選挙で17議席を獲得して自民党、社会党に次ぐ国内第3党に躍り出たことで1964年から公明党として独立するようになった。1969年頃から創価学会を批判する本や記事の出版妨害を行った言論出版妨害事件を起こし、憲法第21条の“言論及び出版の自由”に違反するとして国会が紛糾、池田大作の証人喚問を請求するまでに至ったが、これも自民党の佐藤栄作政権が拒否し続けて創価学会の謝罪だけに終わり、これまでの歴史を見る限り、創価学会と公明党とは法治国家の基本である法律や憲法を宗教家としても政治家としても守れない上、犯罪を行った場合や過失の責任として国民全員が負うものと決められた罰則にも公明正大に従わない反社会的な宗教団体及び政党のようである。)の信者でもあった石原莞爾(いしはらかんじ)らに画策させてレールの溝に仕込んだ少量の火薬でもって爆破し、これを日本軍に父親を爆殺されて(張作霖ちょうさくりん爆殺事件1928年)満州(中国東北部)の統治権と莫大な遺産も継承していた張学良ちょうがくりょうが犯人であるかのように日本国内で宣伝して(柳条溝(りゅうじょうこう)(湖)事件1931年。なお、事件の表記に溝と湖の二つの漢字があるのは、板垣が軍への報告書を書く際、自らが爆弾を仕掛けさせた“溝”の事が頭にあったため、地名の柳条湖と書くはずが誤って溝と書いてしまったようで、以後、日本の歴史学者の間でこの事件名が混乱するようになった。)戦争を起こす大義名分(口実)にし、早速、戦闘態勢に入って事件当日から中国各都市を襲撃し、街中に爆弾を投げ込んだり、何の罪もない中国の一般市民めがけて空襲まで行い(錦州きんしゅう爆撃)、おびただしい死体の山を築いていった。(満州事変)


この侵略行動にアメリカのスティムソン国務長官が苦言を呈する形で一言、日本に文句を言い、そこへ中国が国際連盟に日本の悪行を訴えたことでイギリスのリットン伯爵率いるリットン調査団が日本と中国の資金で結成されてあたかも欧米諸国が日本と中国の仲裁に来たかのように装った後、日本が満州に居座ることを認めつつ世界中の一般国民に向けて日本は今まさに中国侵略を行っていてアメリカを始めとした欧米各国はこの卑劣な行為に怒っているという印象作りを行った。



これにより、ドイツと並んで欧米各国の敵国リスト入りを果たした日本は、次に占領した満州(中国東北部)に口減らしする為の貧しい日本人農民達を入植させるべく南満州鉄道と共に国策として初代内閣総理大臣だった伊藤博文や現在も東京にある拓殖大学(“拓殖たくしょく”とは「植民地をひらく」という意味。)の学長を務め、東京放送局(現NHK)と南満州鉄道の初代総裁でもあった医師で政治家の後藤新平によって設立されていた東洋拓殖株式会社(日露戦争の勝利でロシアから奪い取った鉄道とその周辺地域の開拓を見込んで1908年に特別法(“特定の地域や人々だけ”に適用される法律で、一般的な法律よりも優先することになっている。)の下で設立された日本人農民を朝鮮に入植させる事業を行う半官半民会社または特殊会社。現代の特殊会社の例では、日本電信電話株式会社、日本郵政株式会社、日本たばこ産業株式会社、株式会社日本政策投資銀行、JR北海道、JR四国、東京メトロ、成田国際空港株式会社、新関西国際空港株式会社、NEXCO東日本(他、西日本、中日本)、首都高速道路株式会社、阪神高速道路株式会社、日本アルコール産業株式会社、株式会社商工組合中央金庫、株式会社日本貿易保険など多数。社員の多くはみなし公務員とされ、官僚のOBも多い最たる“天下り”(天から神が下りてくるがごとく公務員が退職後に就職できる)先でもある。また、国家(税収)を売り文句にして株式を発行するため、倒産や破綻しないとの誤解から転売を目的とした株式投資が過熱しやすく、東洋拓殖株式会社も当初、13万9千株の発行数が466万5千株も刷られることとなり、バブル(粉飾)経済を生みだすことになった。しかし、皇室を始め明治政府が東洋拓殖株式会社の他、50社以上の朝鮮企業の役員持ち株所有者となって朝鮮での植民地支配を進めようとしたが、原住民の抵抗に遭って土地購入がうまく行かず、満州事変が起きる前から既に東洋拓殖株式会社は破綻していて、ほぼ欧米の銀行が所有者となっていた。)に原住民達から無料ただ同然で田畑を奪い取らせ、北海道の警備と開拓に当たっていた屯田兵とんでんへいを中心に満蒙開拓団まんもうかいたくだん(満州移住を目的とした武装農民グループ)を結成して次々と日本人移民を満州に送り、1936年までに約1万5千人を試験的に入植させた。



この行動に再び茶番劇を始めたのが“国際連盟”(=the League of Nations、1920年から1946年まで結成されていた世界平和実現の為の政府機関。アメリカのウィルソン大統領が提唱した「14か条の平和原則」に基づき、スイスのジュネーブに設立された。キリスト教の牧師の子として育ったウィルソンは口先だけの平和を唱えるのに長けていて、自国でも第一次世界大戦に中立の立場を貫いたとして「He Kept us out of War(彼は私達、国民を戦争から逃れさせてくれた)」とのスローガンで大統領再選を果たしたものの、その翌年の1917年には徴兵制を実施して第一次世界大戦に参戦しており、国際連盟でもそのやり口は変わらず、自身の提唱する平和原則で軍縮を掲げる一方、軍縮する気など更々、ないためアメリカは加盟せず、また、加盟国も戦争する時期になると脱退するなど全く“平和実現”からは程遠い矛盾した機関だった。)という名の欧米を中心とした各国政府による寄り合いである。

南満州鉄道にしても東洋拓殖株式会社にしても、前述のヤコブ・シフが役員となっていたアメリカのナショナルシティ銀行を始めフランスのパリバ銀行、インドシナ銀行と欧米の銀行が散々、出資してきた外資系企業であって、“日本人が経営している会社”というのも単なるお飾りに過ぎないのに、それを事業計画書や事業内容を百も承知で金を貸している欧米諸国が満州での移民事業にケチをつけてくるのもおかしな話なのだが、この茶番劇を演じなければ“前線で戦わせる世界中の一般国民”に日本を悪魔の棲む敵国だと認識させ、納得させることができなくなる。


そして、この一世一代の大舞台で大見得おおみえを切って見せたのが南満州鉄道の理事を務めた後、郷里の山口県から衆議院議員となった松岡洋右まつおかようすけで、9年間のアメリカ留学で得たキリスト教と英語を駆使し、「日本は欧米各国によって十字架に掲げられたイエス・キリストと同じで、後々、自分達の満州で行った戦闘行為や移民事業が正しかったと認識されるだろう。」との、いわゆる十字架演説を行い、啖呵たんかを切って日本を国際連盟から脱退させた。


もちろん、これに対して日本の世論は哀しいかな、この時代、東北飢饉でも知れる通り、庶民のほとんどが食べ物を得る為に一日中、働きづめの生活で小学校さえまともに通えず教育らしい教育など受けたことのない人達ばかりで、国際情勢どころか国内の事情すらもうとい上、学識と教養を兼ね備えているという新聞記者達までも「聞け『正義日本』の高きエールを!」、「我ら光栄の孤立」と、中外商業新報(現、日本経済新聞)を始め各紙報道は一斉に松岡の行動を称賛するのだから、その報道や世間話で交わされる噂を鵜呑みにし、ナチス政権下のドイツ国民と負けず劣らず自分達の国(政府)が行った満州での侵略戦争(人殺し&強盗)を闇雲に正当化し始めた。



しかし、これだけ人の心(理性)を失って戦争(人殺し)を延々と続ける政治家と官僚、企業経営者達、さらに彼らに命じられた通りにしか動けないゾンビ(動く死人)達がうごめく地獄の世界であっても多少なりとも人の心(理性)を保とうとする政治家がまだ日本にも残っていたようで、これ以上、武力(暴力)中心の国家経営をしていても人の血が流れるばかりでますます欧米の銀行から無理難題を突き付けられ、借金地獄からも抜け出せないと考え、裕福とは言えない福井藩士の子として生まれ、学費の為に海軍兵となり、海軍の中でも最も辛いとされる水雷艇(海水中に地雷を仕掛ける艦船)で働き、海軍大臣にまで上り詰めた岡田啓介おかだけいすけは自身が軍人として心を込めて仕えてきた天皇の持つ統帥権とうすいけん(天皇の持つ軍隊を指揮する最高指揮権)を失くし、天皇大権(天皇が君主または国家元首として行使できるあらゆる権限)をせばめる天皇機関説を支持して国会での議決や法律、現実的な産業構築を最優先させることで国を建て直そうと、ちょうどイギリスで開かれたロンドン海軍軍縮会議に出席することとなり、それを機に本気で軍備縮小を行なおうとした。



実はこの時、あのイギリスでもまだ人の心(理性)を残す人が現れていたようで、1年にも満たない9か月間とは言え、イギリスで初めて大卒ではない庶民の代表者と言える労働党のラムゼイ・マクドナルドが野党連合の首相となり、その後も武力(暴力)&資本(札束)が絶対とされるイギリス国会で保守と反保守が拮抗きっこうしている最中、国王ジョージ5世より任命されて孤軍奮闘する反保守系首相として再選された彼の奇跡に近い政権のおかげで、国家の富の大半を王侯貴族とその家臣達が独占しているとは言え、残された富をどうにかやり繰りしながら第一次世界大戦後に終息した軍需景気のツケと戦費の借金による雇い止めで増幅した庶民の貧困や失業状況が一気に改善されつつあった。

マクドナルドも岡田と同じように軍縮によって税制を抜本的に見直し、軍備に使っていた税金を労働者に振り分けて雇用や賃金を向上させ、経済を活性化しようと図っていた。

その為にロンドンで軍縮会議を開き、日本を含めた海外にも軍備縮小を呼びかけることで常に戦争とは外国から仕掛けられるものと被害妄想に陥りがちな自国民の恐怖を和らげ、イギリス国内での軍縮や反戦に協力や賛同を求めようとしていた。




だが、武器や兵器で見知らぬ誰かを傷つけたり、殺すことにはためらいもなくすぐに賛同するくせに、武器や兵器を持たず平和の為に戦おうという“聖戦”(=the Holy War)には庶民のほとんどがなぜか一様にためらいを見せ、押し黙る。



目に見えない自分自身の生命に宿る心(理性)よりも目に見える武器や兵器、金や権力者の自信たっぷりな、それでいて何度も裏切られ、失望させられるだけの甘い誘惑や不実な約束の方がよほど信用できるのか、はたまた、自分で意見や考えを持って行動することに自信がないのか、いずれにせよ、イギリスと日本、どちらの国民も神(心)が突きつけた最後の警告を無視した。


そして、マクドナルドも岡田も、どちらも見誤っていたのは自分達が“敬い、仕えている”国王や天皇は彼らの意見や考えに快くうなずき、一見、賛同しているように見せていてもその実、本音では軍縮する気など毛頭、なかったという点だった。

何度もしつこく言うようだが、そもそも王侯貴族と言うのは神から授かったという武器を神器と称して振り回し、その武力(暴力)によって恐怖(畏怖)を抱かせ、多くの人々をかしずかせているのであって、その武器(神器)や武力(暴力)を取り上げてしまったら彼らの王権だけでなく、その存在価値すらなくなってしまう。

それゆえ、イギリスにはカータナ(=Curtana,)、別名、慈悲の剣(=the Sword of Mercy)と呼ばれる神器があり、日本にも草薙剣くさなぎのつるぎというものが存在する。


また、彼ら王侯貴族という“特別な権利を持つ身分や地位にある人々”=“特権階級”(=Privileged Class)を祖先から受け継いだ慣習として、伝統として、社会制度として、国家(共同社会)の中に設けているからこそ、彼らは他の人達と“同じように平等に働かず”働く人々の生み出す富や技術、知恵などを貪って暮らし、それを見て彼らの子孫や親戚、さらには彼らに媚びることで仲間になろうとする人々も彼ら“王侯貴族の特権を借りて”いかに働かず楽して暮らすかに執心するようになる。


もちろん、そんな誰かに負ぶさろうとする人達ばかりが国家(共同社会)に増えていけば、働いて負ぶっていく側は不公平を感じて真面目に働く気を失くしたり、疲弊して働けなくなったりして国家(共同社会)は自ずと崩壊していくのだが、一度、味をしめてしまった王侯貴族やそのお仲間達にもはやそんな理性(心)は通用しない。

彼らにしてみれば、軍備や身分制を失くすというのはそれまでしゃぶらされてきた哺乳瓶を急に取り上げられるようなものなので、すぐに癇癪かんしゃくを起して怒り出す。


そうして、意図せず国家(共同社会)の地雷を踏んでしまったマクドナルドと岡田は身に覚えのない罪を責められる世論からの攻撃に加え、既得権益を失いたくない人々が度々、寄こしてくる暗殺者にも狙われるようになった。


連日のように新聞には反戦や軍縮を訴えるマクドナルドを裏切り者だの、国家反逆者だのと批判する記事が踊り、彼個人の出生記録まで持ち出してきて親が(性的に)だらしなく生んだ私生児だからあんな変人に育ったんだと嘲笑し、会員制のゴルフクラブに行ってもいきなり会員資格を剥奪されて追い出され、挙句、何度か暗殺されかかっていたところ、自分の妻や子供が彼の代わりに被害に遭い、どちらも感染症で亡くなってしまった。

それ以来、彼は再婚することも友人を作ることも怖くなり、どうしても女性同伴が必要なパーティーや公式接待などでは暗殺者が狙いにくい敵対する政党関係者の女性に依頼するなど二度と自分の身近にいる人達が傷つけられないよう孤立するようになった。

加えて、同じ労働者出身で仲間になるはずの議員達も彼の大望を理解できる人はなかなかおらず、政権を握った途端、彼らも王侯貴族達のように個人的に親しい地元の建設会社や低所得者層からの票集めの為だけに何十年も税金を注がせる大掛かりな団地を建設したり、減税する上に財源の保障もないうちから働いていない失業者への給付金を値上げしたり、年金受給者を拡大したり、補助金を出して特定の産業やそこで働く人達の賃金を上げたり、妊婦や子供の医療費を一部、無料にしたり、公園や橋、道路などの公共建設も行うなど、確かに一部の有権者にとっては利益となって政治家としての面子めんつも立つかもしれないが、考えもなくそんな大盤振る舞いのばらまき政策をしていけば他の有権者はもちろん、結局、“税金は国家(共同社会)に住む全員が支払うもの”なのだから、将来的には自分とその子孫達の税負担が増えるだけとなり、そのうち、法条項をつけるなどしていろいろ複雑になった制度にかこつけ、それを食い物にする悪徳政治家や官僚、企業経営者などにかすめ取られるか、あるいは新たな戦費の財源にもなりかねない。


しかも、身分制を保っている以上、王侯貴族とその家臣である政治家達が独占してきた、いわゆる聖域とされる権益範囲にまでうっかり手を伸ばせばもっと厄介な争いが生まれる。


その為、彼ら王侯貴族達の聖域を犯しかねないと思ったのか、労働者寄りとされる新聞が金と名誉をちらつかされて保守派に寝返り、「戦争好きな市民の諸君、武器や兵器を持って戦いたいと言う君、海外に住む君達と同じ労働者を銃で撃ち殺すより労働者である君達を散々、苦しめ、抑圧してきた資本家や雇用主にその銃を向けたまえ!」と、マクドナルドが家族を殺されてもなお、絶やさず胸に抱いてきた反戦(反暴力)への切なる願いを汚すような暴力を扇動する記事を書き、さらに国家(政府)に仕えるはずのMI5やMI6までがその国家(政府)に反した仕掛けを講じてわざわざ選挙の4日前にイギリスの王侯貴族の手先であるソ連の幹部からイギリス共産党宛に暴力革命を起こす為の武装蜂起を指示する手紙を出させ、それを労働者の多くが好んで目につきやすいデイリーミラー紙(ザ・サンと並んでスキャンダルやゴシップが多いタブロイド判(通常の新聞紙より小さいサイズ)のイギリスの大衆紙)にこれまたでかでかと掲載させて、まるでイギリス共産党を含んだマクドナルド政権がソ連と繋がりがあるかのような印象操作を行った。


そんな妨害や虐め、嫌がらせ、暗殺(暴力)と、マクドナルドの政治家人生はその生命を救いたいと願っているイギリス国民から石を投げられるだけで何一つ、良い事もないのにそれでも彼の反戦と軍縮への情熱は消えず、何度か政権は選挙で負けて倒されたものの、二度の首相経験の間に第一次世界大戦の戦争賠償としてフランスがドイツのルール地方を不当に占領した時もそれを撤兵させ、ドイツ国民が具体的に働いて戦争賠償ができるよう促してイギリスの財源を確保し、また、国内でも税金をばらまくのではなく、失業者への給付金にしても職業訓練などを行い、雇用の機会が増えるようにしたり、道路を造るだけでなく、そこに市バスを走らせて雇用を生み出し、地方の財源にする一方、バスの運転手の労働条件にも気を配るなど事細かく使い方を考慮して税制を少しずつ見直そうとしたのだが、世界恐慌が訪れて失業者が増大し、予定していた税収が落ち込んで政策そのものが成り立たなくなり、さらに元保守派の議員も取り込んだ連合政権で労働者出身の反保守派の議員達の反発もあって、そうした政権内の派閥争いから最後まで同じイギリス人同士、同じ政権内で国家(共同社会)を建て直そうと協力し合う政治家仲間として“人を信じて”お互いの仲を取り持とうとしたマクドナルド一人が裏切り者と呼ばれ、自分がリーダーとなっていた労働党からも、そして政界からも放逐されることとなった。



一方、日本の岡田も軍縮を唱えた為にマクドナルドと似たような妨害や虐め、嫌がらせ、暗殺(暴力)といった被害を受けていた。


上官の命令、まして天皇の命令は絶対服従とされる海軍で教え込まれてきた岡田があえて天皇に逆らうような天皇機関説を支持することになった背景には、ロンドン軍縮会議の後、彼を首相に任命するよう昭和天皇に進言する西園寺公望さいおんじきんもちという“元老”がいたからである。


元老とは、大日本帝国憲法において天皇の命令及び行動の全てに渡って進言=指示を行う国家(政府)職であり、元老が御簾みすに隠された神像(天皇)になり替わって国家(政府)の実権を振るう、いわば神主かんぬし(影の天皇)のようなものだった。

そして、この元老(神主)の西園寺公望さいおんじきんもちこそ、明治時代から昭和にかけて全ての総理大臣を決めて動かしてきた政府(国家)そのものであり、“明治から現代まで1世紀以上も続く”日本の独裁政党である立憲政友会(現、自民党)の最高幹部で、絶対君主でもあった。

つまり、岡田の気持ちとしては昭和天皇から統帥権とうすいけん(軍隊の最高指揮権)を奪おうとしたのではなく、この西園寺から統帥権と天皇大権(国家(政府)の実権)を奪おうとしたのである。



なぜなら、西園寺公望さいおんじきんもちでは到底、国政をになえるほどの能力はなかったからだった。


何せ、自分の身の回りの事すら自分でせずに召使いにさせるお公家くげ(貴族)様である上、20歳を過ぎてパリ留学に行く船内で初めて地球が丸いことに納得したという非常に希少なお方で、江戸後期よりもずっと前の戦国時代を生きていた織田信長でも地球が丸いことは既に知っていたし、幕末には現在の静岡県富士宮市で町役人をしていた角田桜岳かくだおうがくが地球儀を製作するなど、町の寺子屋(江戸時代の庶民向けの塾)に通う子供でも知っていそうな“常識”が成人になってからようやく理解できたという程度レベルなのだから、岡田がそういう結論に至ったとしても不思議はない。


それでも西園寺公望は傍流ぼうりゅうとは言え、1000年前の平安時代に権勢を誇った藤原道長ふじわらのみちなが摂政せっしょう関白かんぱく太政大臣だじょうだいじんの流れを汲む清華家せいがけ(本流の摂家せっけ5家(近衛家このえけ、九条家、二条家、一条家、鷹司家たかつかさけ)に次いで太政大臣を始めとした大臣職や軍隊大将、皇后に就ける権利を持つ7家(三条家、西園寺家、徳大寺家とくだいじけ久我家こがけ花山院家かざんいんけ大炊御門家おおいみかどけ今出川家いまでがわけ)をまとめて清華家と呼ぶ。“清華せいか”とは元々、しょくの三国志の時代から古代中国では貴族を表す言葉で、『魏書30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条からすませんぴとういでんわじんじょう』(略して『魏志倭人伝』)に書かれている通り、日本で築かれた天皇家は中国の魏王朝や朝鮮半島及びモンゴルなどの遊牧民族の族長達と同盟及び親戚関係にあった倭国(琉球王朝)だったため、その政治や文化に色濃く影響を受けており、その中で中国の魏(AD3世紀)に登場する竹林ちくりん七賢しちけんに代表されるような、酒をみ交わしながら浮世離れした政治や哲学について“清談せいだん”(現実に存在しない理想郷ユートピアの話)を行う“華人かじん”(中国人のこと。ちなみに外国に住む中国人は“華僑かきょう”と呼ぶ。)という意味の造語である。平安時代以降は、鎌倉幕府や江戸幕府などの武家政権(庶民階級の軍事政権)と天皇(古代から王権を持つ階級の軍事政権)の間の伝言係メッセンジャー、仲介役として活躍し、明治時代以降も立憲政友会(庶民階級)と天皇(貴族階級)の橋渡し役を務めた。)の生まれであるので、おいそれとは昭和天皇から遠ざけることはできない。

(なお、日本人の祖先となる大和やまと民族と大倭ヤマト民族、アイヌ民族などの違いは後々、本作品にて説明していく予定です。)


しかも、厄介なことにこの西園寺公望さいおんじきんもちの祖先は霊元上皇れいげんじょうこうという、5代将軍、徳川綱吉の頃に江戸市中を3度も焼失させて3千人以上の罪のない庶民を焼死させた元禄げんろくの大火を起こし、そのうちの2回は当時、火消し大名で天皇家の接待役だった赤穂あこう藩主の浅野内匠頭あさのたくみのかみに火を付けさせたのだが、これを同じ接待役だった吉良上野介きらこうずけのすけに気づかれて江戸幕府に密告され、浅野は国家反逆罪で切腹、後に職を失った47人の赤穂浪士達が吉良上野介の首を討ち取る赤穂浪士事件までも引き起こさせたほどの謀略と悪知恵に長けた持ち主で、さらに公望の実父である徳大寺公純とくだいじきんいとも、江戸幕府の大老だった井伊直弼いいなおすけと裏で手を組んで密かに倒幕を試み、王政復古に不可欠な欧米の軍隊との同盟を結ぶ為の日米修好通商条約(安政5か国条約)に反対する政敵達を次々と井伊に処刑及び追放させ(安政あんせい大獄たいごく1858年)、その後、幕府を存続させて実権を握り続けようとする井伊直弼が倒幕の邪魔になるからと江戸城の桜田門外にて暗殺させた(桜田門外の変1860年)という先祖に負けず劣らず悪巧みをする才覚には抜きん出た人物なのだから、その息子である公望きんもちも先祖と実父の邪道をそのまま受け継いだような“奸臣かんしん”(能力もないのに高い地位に就いて国を亡ぼす臣下)だった。



その為、ソビエト連邦が中世イギリスの理想郷ユートピアを真似て300年前の農奴制を復活させたとすれば、日本はそれよりももっと古い1000年前の平安時代の荘園制を復活させていた。



荘園制とは、原住民の大和やまと民族を武力(暴力)で占領した大倭ヤマト朝廷が一度は自分達、倭国(琉球王朝)の所有として大和やまと民族とその田畑を国有化し(公地公民制)、農奴にした人数を調べて戸籍を作ってからその戸籍に沿って律令りつりょう(奈良時代の法律)で定めた一定の田畑を農奴達に貸し出して租税を徴収しようとしたが(班田収授法はんでんしゅうじゅほう)、農奴にされた大和やまと民族の方が逃亡したり、働く気を失ったりして収穫(税収)が上がらず、さらに倭国(琉球王朝)内の武将同士の土地の奪い合いや脱税などもあって国家(政府)経営に行き詰まったため、AD8世紀の奈良時代に武力(暴力)を強化して税収を上げようと武将達を国司こくし(徴税役人。平安時代では受領ずりょうと呼ぶ。)にし、武力制圧して開拓した田畑は永久に国司(武将)の私財にしてもいいという墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうが定められ、日本国内での植民地政策が盛んになり、国司(武将)達が大農園プランテーション=荘園を築くようになったことから始まったものである。

(ちなみに、“荘園”という言葉は三国志の時代よりも古い前漢時代の中国で皇族やその妃、豪族などが所有していた別荘や庭園を意味していて田畑を表していた訳ではなかったが、これらの別荘や庭園に周辺の山林や田畑なども含まれていたことから、日本では荘と園の二つの言葉を併せることで徴税できる領土全てを表すようになった。)


その後、大倭朝廷と国司(武将)達による荘園(領土)内での支配権が強まると、これに媚びて私服を肥やそうとする田刀たと田堵たととも言う。刀を持ってかき)を築き、武装する農民のこと。現代で例えるとヤクザに近い企業経営者か小役人。)や刀禰とね(武装する神官や僧侶のこと。現代でも宮司ぐうじの補佐役を禰宜ねぎと呼ぶ。)といった人々が登場するようになり、彼ら田刀たと刀禰とねが恐喝して奪った田畑をまとめて国司(武将)や大倭朝廷の貴族に寄付し、一旦、国有地にして税の減免をさせた後、国司または貴族、そして田刀たとまたは刀禰とねの間で税額をごまかして脱税を行う、いわゆる現代のマネーローンダリング(資金洗浄)に似た寄進地系荘園制が蔓延はびこるようになり、次第に大倭朝廷に隠れて戦費を稼げるようになった国司や貴族、田刀たと刀禰とね達がそれぞれ自分達の武力(暴力)でもって政府転覆クーデターや革命運動を起こす武家社会(軍国主義国家)を生みだすこととなった。


このように、ソ連のコルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国有農場)、中世ヨーロッパの農奴制、アメリカの大農園プランテーション制や平安時代の荘園制は制度の中身自体、どれも大した違いはないのだが、明治以降の日本では名前だけが改められて“寄生地主制”、または“小作農”と呼ばれるようになった。


この寄生地主制、すなわち1000年前の荘園制に戻ってしまった理由というのが、江戸時代に制定されていた田畑の売買を禁じて公家(貴族)や大名(武将)、豪商(資産家)による産業基盤(生活費や国家経済を築く土台)の独占(財閥化)を抑え、農民達の雇用地位を保障した田畑永代売買禁止令でんぱたいえいたいばいばいきんしれいという法律を明治政府(大倭朝廷)が廃止してしまったからである。

そして、これに加え、地租改正という田畑を格付けして一律の税金を課し、それを金銭で納税させる新しい税制まで敷かれたため、豊作だろうと不作だろうとお構いなしに一律の税金が取り立てられる上、豪商(資産家)達に米の値段を買い叩かれると途端に農民達は納税できなくなり、仕方なく長年、自分達が汗水たらして耕してきた田畑を一旦、地主と呼ばれる豪商(資産家)達に売ってそれを貸し出してもらい、小作人(農奴)として地主への小作料(土地賃貸料)と国家(政府)への税金を米などの収穫物か、あるいは労役で一緒に地主に支払わなければならなくなった。


つまり、現代の日本で例えるなら、派遣業法を規制緩和して正規雇用の労働者達を派遣、または非正規雇用にし、企業(地主)が職場(田畑)を貸し出して労働者がそこで働き、企業(地主)より支給された賃金から企業の子会社である人材派遣会社に雇用仲介料(職場賃貸料)と国税を一緒に差し引かれるようなものである。


もちろん、農奴(労働者)に寄生している地主(資産家)や明治政府(大倭朝廷)の方は働かないで楽して儲かるのだから自分達だけは成功したと思っていただろうが、それは“1000年前に既に失敗して国家(共同社会)を崩壊させた元凶”と分かっていたからこそ江戸幕府は規制したのであって、今更、その失策を復活させて何度、試みてみたところで結果は彼らも含めて失敗に終わるだけなのだが、地球は丸いという常識すら知らなかった西園寺公望を始め、武力(暴力)を振るえば誰でも言いなりになって何でもうまく行くと稚拙に考える明治政府の政治家達にそんなきめ細かい社会の仕組みや歴史的な経緯を理解できるはずもない。


結局、それでまた、失敗して欧米諸国(の銀行)に借金し続けることになり、財政破綻と食糧危機を招いたのだが、それでも懲りずに武力(暴力)での解決策しか思い浮かばない人達ばかりが国政にたずさわっているのだから、昭和になっても太平洋戦争(第二次世界大戦)を起こして子(国民)殺しすることぐらいしか考えつかなかったのである。


ちなみに、江戸時代はどうだったかと言うと、武将出身ではあったものの徳川家康自身は一応、法治国家を目指していたらしく、徹底的に大名(武将)達の軍備を削減させるため、毎年、田畑の格付けを幕府(政府)が行っても各地方の藩領に住む個々の農民達に一律の課税を幕府(政府)が行うのではなく、その藩領全体の大まかな石高こくだか(税収)だけを決め、農業に適した収穫高の高そうな藩領は自分が信頼できて法律を守れそうな大名(武将)達に任せ、それ以外で自分に武力(暴力)で歯向かってきそうな大名(武将)達にはわざと収穫しづらい藩領を配分した。

こうすることで藩主として地方に送られる大名(武将)達の裁量(知恵と判断)に任せ、幕府(政府)に決められた石高こくだか(税収)以上の収穫高が上げられるかどうか、それぞれの大名(武将)達の力量を試しながら軍事(殺すこと)よりも産業(生かすこと)に勤しむよう仕向けたのである。

むろん、幕府に決められた表高おもてだか(幕府の推定税収)より高い内高うちだか(藩領での実際の税収)を設定して領民達に過酷な年貢(税額)を課し、武力(暴力)や身分、幕府の威光を笠に着て締め上げるだけの悪辣あくらつな藩主も少なくなかったが、江戸初期から中期まではむしろ、官民一体となって農産業を奨励する藩主も多かったため、才覚のある藩主であれば新しい農産業の開発や改善によって表高(国税収)より内高(地方税収)が上回って領内が潤い、領民達の生活も楽になった例がない訳ではなかった。


その成功例を挙げるとすれば、18世紀の米沢(現、山形県東南部)藩主だった上杉鷹山うえすぎようざんが筆頭と言えるだろう。

現在の金額にすれば数百億円の借金を抱えた米沢藩は、初代藩主の上杉景勝うえすぎかげかつが徳川家康の敵として関ヶ原で戦っていた武将だったため、会津120万石(現在の金額で約3,240億円)から米沢30万石(現在の金額で約810億円)にその石高こくだか(税収)を減らされて左遷され、その後も歴代藩主だけでなく、その家臣達の見栄の張り合いも災いして120万石の大名家として豪奢でちやほやされていた頃の生活が忘れられず、その生活を維持する為に積りに積もった借金が膨れ上がり、上杉鷹山うえすぎようざん家督かとくを継ぐ頃には全国にその金欠ぶりが伝わって巷で庶民が大っぴらに嘲笑するほど凋落(ちょうらく)した状態だった。

しかも、それまでに表高おもてだかも家督相続争いで暗殺事件を起こして再び30万石から15万石に減らされ、もっと過酷な財政状況になっていたのだが、鷹山はそれでもあきらめず赤字の財政を一から厳しく見つめ直し、無駄な支出はできるだけ減らして自分の生活も切り詰め、身分制に縛られることなく上から下まで藩内の様々な人材を登用して知恵や技術を出させ、上書箱も設けて領民からも積極的に意見や考えを募り、和紙から陶磁器、養蚕ようさん、絹織物と新しい産業を開発する努力を惜しまず、藩主でありながら自らすきくわを持って“働く”という我無者羅がむしゃらさで(複雑に糸が絡み合う羅織物らおりものを我もかえりみず一心不乱に織る様子を表した言葉)、そうして160年以上もの長きに渡って蓄積した借金体質を鷹山が家督を継いでからわずか18年で建て直し、彼が逝去する翌年には全ての借金が完済されるまでになった。


その間、領民は天明てんめいの大飢饉という江戸の4大飢饉の一つに挙げられるほどの全国規模の大飢饉に襲われていたのだが、この時も鷹山の行っていた藩政改革が功をなし、日頃から農業や医療に関する研究にも取り組んでいたため、飢餓になると何でも食べたがる領民が中毒死しないよう食用にできる物とできない物を区別させるだけでなく、糧物かてものと呼ばれる80種類以上の食べられる草や木の実の調理方法や保存方法をまとめた冊子を配って被害を最小限にまで食い止めたとも言われている。



また、藩主自らでなくても身分に関係なく能力のある人材を登用したことで改善ができた例としては鷹山と同時期に生きていた二宮尊徳にのみやそんとくが挙げられる。

元は小田原藩おだわらはん(現、神奈川県小田原市)の貧しい母子家庭の農民の子だった二宮は、14歳から家計を助けて働く少年で、独学で農業の知識のみならず、哲学や経済学なども学び、滅多に思いつかない方法で農作物の収穫を上げて蓄財し、住み込みの小作人だったはずが20歳になる頃には逆に地主になるぐらいにまで成功した。

この頃になると次第にその経営手腕が買われて、今で言う経営コンサルタント的な仕事を任されるようになり、小田原藩の家老の家の財政見直しを依頼されて建て直し、その名が藩内に知れ渡るようになった。

そして、担当者が何人も挫折して荒廃しきった農村の村おこしを当時、小田原藩主だった大久保忠真おおくぼただざねから頼まれた二宮は、事と次第によっては主君押込しゅくんおしこめ(行状が悪かったり、主君にふさわしくないと藩の重職達に判断された藩主は座敷牢に閉じ込められてそのまま隠居させられるか、幕府に上訴された場合、左遷や減俸どころか、最悪、改易かいえき(打ち首または切腹)処分となり、別の藩主にすげ替えられることも多かった。それを主君押込と呼ぶ。)に遭うかもしれない覚悟で一介の農民に依頼してきた忠真の並々ならぬ藩政改革への思いに共感してこれを引き受け、もはや再興は無理とあきらめきって堕落した農村の農民達を叱咤激励しったげきれいして奮起させ、わずか14年ほどで7倍もの収益を上げて達成した。

この功績が認められて以後も復興改革に取り組み、天明に続く天保てんぽうの大飢饉でも収穫したナスの味がおかしいことにいち早く気づいて冷害が起きることを予測し、農民達に非常食になる作物を多めに作らせて飢饉となった際には自分達の村だけでなく、近隣の村にまでその作物を配れるよう尽力した。


後に、お互い神からその心に授かる愛や正義、理性の教えを守って健康で身の丈に合った人らしい文化的な生活をしながら、困っている人や場所に自分が生産した余剰分を回し、生産力(労働力)の増強を図ることで、その国家(共同社会)だけでなく、世界(地球)全体の生命と富を拡大させていく“報徳思想”(=the Expanding Love from God、報徳仕法とも言う。)はこの時に生まれたものである。



しかし、彼ら二人の成功は本来ならばもっと早く、もっと大きく、もっと楽に達成できるはずだったのだが、それをはばんだのはまたしても身分制と軍備(戦争)だった。



実は、藩主であるはずの上杉鷹山うえすぎようざんも、二宮尊徳を起用した大久保忠真おおくぼただざねも、どちらも身分に関係なく人材や知恵、技術を採用しようとしたことで、その生命を狙われることになった。

上杉鷹山は下級武士を重用したことから妬みを買った家老達や既得権益を脅かされた藩医によって主君押込しゅくんおしこめを起こされ、座敷に閉じ込められた際、つかみかかられ、殺されそうになっている。

幸い、家臣が気づいて事なきを得たものの家臣達の手前、主君暗殺未遂事件として処分が必要となり、家老2人が切腹、5人が失職、閉門(座敷牢にて終身刑)、隠居させられるという重いものになった。(七家騒動1773年)

だが、莫大な借金を抱えたまま自分達もいつまで家老(重役)でいられるかも危ういのに、その不都合な真実から目を背け、他の人や子孫には貧しい暮らしを押し付けて自分達だけ束の間、贅沢な暮らしをしようと目障りな人間を殺したところで一体、何の得になるのか分からないが、こういう理性(心)を失った人達に今更、懇々(こんこん)と“合理的な損得勘定”を説いて聞かせても全く響かないのだろう。

ほんのわずかな金と本人しか分からない虚しい虚栄、そしてその歳になってもまだ自分を抑えられない未熟な嫉妬心の為に家老達は人の道に外れて自分の血と名誉を後世に渡って汚すだけに終わり、彼らの意味のない反抗でせっかく明るい希望に向かって改革しようと協調し合って頑張っていた人々の気持ちを暗くさせ、さらにこの騒動が収まるまでの間、改革が遅れることとなった。


大久保忠真おおくぼただざねも同じく、いかに二宮尊徳にのみやそんとくの才覚が優れているとは言え、行政指導をする立場の武士達を差し置いて農民が上に立って指導するなど言語道断ごんごどうだん、あるまじき無礼と言われ、忠真が二宮への支援や賃金を増やす度に密かな造反者が藩内に現れるようになり、また、幕府においても忠真は老中の役職にあって幕政の改革も任されていたことから同じ老中の水野忠邦みずのただくにに目障りに思われて小田原藩内の造反者と結託され、謀殺されることとなった。

この忠真の急死により二宮の立場は一気に悪くなり、飢饉で苦しむ領民が大勢、いる最中、城に貯蔵してある蔵米くらまいを領民に放出するよう蔵を管理する役人達に頼んでも「上役うわやくの許可がない」との一点張りで頑として蔵を開けようとせず、人の生死が掛かっていても身分や上下関係を優先的に考え、一体、何の為に蔵に米を貯蔵しているのか?という与えられた仕事の本質的な意味や目的を考えない。

結局、二宮が役人達を叱り飛ばし、無理やり開けさせたのだが、そもそもそんな初歩的な道理を二宮に言われるまでもなく、飢饉を始め、目の前で起きている問題を放置したり、たらい回しにして領民を死なせたら米(税金)を作る労働者がいなくなるばかりか、その蔵に貯め込める米(税金)もなくなるんだという、“簡単、合理的かつ人間らしい判断”が上の意向には逆らわないでひたすら平身低頭し、言われた通りにしか動かない役人達にはどうにも通じないらしい。

その為、これもお互い無駄な時間と労力を割いて言い争いをするだけになり、交通手段が限られていて輸送に時間がかかるこの時代に一分一秒を争う飢餓寸前の領民達の生死にも関わり、強そう、立派そう、賢そうに見せようと虚飾しているだけの武士(役人)の面目や身分制を守る為に危うく人の生命を犠牲にするところだった。


それでも、犬や猫の肉だけでなく、死人の肉まで漁りながらなお、数十万人以上の餓死者を出したとされる天保の大飢饉にあって当時、4万人以上の領民を抱えていた小田原藩ではこの二宮尊徳の救助活動で誰一人、餓死者は出なかったと言われている。



しかし、この時、誰も身分にこだわらずお互い助け合っていれば、小田原藩のみならず、日本に住む全員が餓死しなかったかもしれない。



そして何より、この時、軍備(戦争)さえなければ飢饉そのものも起きなかっただろう。



実は、江戸時代に起きていた飢饉もまた、軍備(戦争)によるもので、(現代では欧米諸国に気兼ねしているのか学校ではあまり詳しく教えられることはないが)黒船来航どころか、江戸時代の日本はしょっちゅう欧米の軍艦に襲われ続けていて、ちょうど天保の大飢饉があった頃はイギリス船に襲われている真っ最中だった。

ナポレオン戦争の余波でイギリスはオランダとアジアでの植民地争奪戦を繰り広げた後、1824年に英蘭協約(=the Anglo-Dutch Treaty of 1824)を締結して自国の東インド会社をさらに拡大させようと次に中国と日本を狙うようになった。

徳川政権は一応、法治国家を目指していたとは言え、武将出身の荒くれ者が国政に携わり、大倭朝廷の頂点である天皇から公家(貴族)、武士、農民、職工、商人の士農工商の身分制もそれまで通り、保とうとしたため武力(恐怖)による封建体制は改まらず、軍備は常につきまとい、国内での兵器開発以外に海外との武器や兵器の交易も続けられていた。

また、武器以外の商品の輸出入で国内経済を活発化させる目的もあったことから徳川家康以降、江戸幕府が比較的、信頼できる国としてオランダとポルトガルに限定し、海外貿易を続ける為に長崎に造られた人工港湾が“出島でじま”である。

そうした中、倒幕を狙う九州地方の大名(武将)達がポルトガルと密かに結託し、国内のキリスト教徒達を焚き付けて暴動(戦争)を起こさせる島原の乱なども起こり、戦国時代を懐かしむ大名(武将)達と徳川政権の攻防は依然、続いていて、幕府が地方の大名達の戦費を削減させる為に大金をはたかせて定期的に江戸城まで軍事演習に来させる参勤交代や出島以外での交易を禁じる鎖国令を発布する一方、朝廷の公家(貴族)を含めた地方の大名達も江戸城下で火事を起こして都市機能を麻痺させたり、火山噴火や海底爆破による地震、津波、牛疫ぎゅうえき(牛の感染症)などの生物兵器を散布して復興や防災対策に幕府の財政を枯渇させようと兵器実験や嫌がらせを行い、幕府転覆クーデターの機会を虎視眈々と伺っていた。


こうした大名達の兵器実験や嫌がらせにつけ込んで巨富を得ようと企む国内の武器商人達や、彼らを通じてオランダはもちろん、イギリスやアメリカ、ロシアといった欧米諸国も武器や兵器を販売すると同時に植民地開拓を目論んで日本に来航してくることは必定ひつじょうで、天明や天保の大飢饉の前後では現在の群馬県の浅間山や青森県の岩木山の噴火(1783年)、伊豆大島の安永あんえいの噴火(1777年~1792年)、宮城県と山形県の県境にある蔵王連峰ざおうれんぽうの噴火(1831年~1833年)と、今では考えられない頻度で火山噴火が続く中、ハンガリー出身の軍人モーリツ・ベニョフスキーが奄美大島や沖縄の住民との密貿易に成功し、次に北海道を占拠できる要塞を築くとの手紙をヨーロッパに出していたり(ベニョフスキー手紙事件1771年。手紙の翻訳者のオランダ商人が彼の苗字をファンベンゴロウと発音したことからハンベンゴロー手紙事件とも呼ばれる。)、伊勢国(現、三重県)出身の廻船問屋かいせんどんや(現代で言う貿易商社)の大黒屋光太夫だいこくやこうだゆうが江戸へ行くと言いながらロシアに行き、ロシア語を習得して約10年後にロシアの軍人のアダム・ラクスマンを連れて帰国したりして(ラクスマン事件1792年)、後に“文化露寇ぶんかろこう”と呼ばれるロシア軍が幕府との貿易交渉に失敗したことを恨み、樺太からふと択捉島えとろふとうなどの北方四島を襲撃するといった事件が発生し(1804年)、これに江戸幕府も大砲を使用して応戦するといった戦争も既に勃発していた。

また、長崎でもオランダ船籍を偽ったイギリス艦船が出迎えのオランダ商人達を拉致して人質に取り、水と食糧を要求して立て籠もるフェートン号事件(1808年)が発生、さらに水戸藩(現、茨木県)の大津浜沖でイギリス捕鯨船員達と水戸の漁民達が密貿易を行っていたことが発覚し(1824年)、同じ年、鹿児島県の宝島でもイギリス人捕鯨船員達が数十名、許可なく島に上陸して牛を強奪しようとしたところを島の住人達に見つかって争いとなり、イギリス人一人が射殺される事件まで起き、それまで幕府は薪水給与令しんすいきゅうよれいを出して外国船が水や食糧、燃料に困っているようなら素直に差し出し、そのまま争わずに帰ってもらえと穏便に済ませようとしてきたのだが、欧米の商人達と密貿易をしたい大名とそのお友達の武器商人達はこれを撤回させてもっと大っぴらに軍備増強できるようフェートン号事件で“薪水給与令(しんすいきゅうよれい)に従っていつも通り、応対した”長崎奉行の松平康英まつだいらやすひでを異国に屈した自分に恥辱を覚えて自害したと偽って暗殺し、この松平の自害話を美談にすり替えて世論を盛り上げ、以後、外国船が来たら有無を言わさず攻撃してもいいとする異国船打払令いこくせんうちはらいれいを幕府に発布させるようにした。(1825年)


この法改定で海上防衛を口実に、より強力でいろいろな種類の武器や兵器が海外から輸入されることになり、こうした武器や兵器の使用で20世紀のソ連やアメリカ、日本で起きた核兵器による飢饉と同じように江戸時代の日本でも冷害や干ばつ、豪雨といった異常気象や地震、津波、洪水などの災害が起き、これらの自然破壊と共に凶作や飢饉も同時に引き起こされていたのである。

(なお、兵器実験によって引き起こされる異常気象や地震、津波などについても本作品で追って説明していく予定です。)



だから、軍備(戦争)と身分制さえなければ誰も餓死することもなかったし、上杉鷹山や二宮尊徳、大久保忠真のような優秀な人達がもっとたくさん、もっと自由に、もっと楽に様々な職場や世界で大いに活躍して多くの人々が救われ、豊かになっていたことだろう。


まして、武器を売って得た紙切れを後生大事にかき集め、武力(暴力)を振り回して人を蹂躙するか、殺す以外に能のない外敵達に(かしこ)まり、さも優秀なお方を招待するかのように丁重に自分達の住む国(共同社会)にまでおびき寄せ、借金に借金を重ねてガラクタ同然の武器や兵器を買い込んで、結局、皆が築き上げてきた国(共同社会)の富やそこに住むかけがえのない人々の生命まで奪われるような、そんなヘマなどしなかっただろう。



だが、少なくとも幕末から明治、昭和にかけての大倭朝廷の歴代天皇を始め、公家(貴族)や大名(武将)といった政治家達は残念ながらそうしたヘマを連発していた。

その最たる人物が西園寺公望さいおんじきんもちだったのである。


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