第百七話 革命(2)後書き(注2)その1
107話から何度かに分けて後書きに書き足してきましたが、長くなりましたので一つのスピンオフとして
本作品と並行し、しばらく書くことに致しました。
前話の後書きの続きから読みたい方は『後書き(注2)-その2』の本文中に「★」印を入れてありますので、ページ検索にて★をお探しいただくと続きからお読みいただけます。
*
*
*
2019年5月15日に掲載しました際、富裕農民撲滅運動(=Dekulakization、1917年~1933年)の没収した農地5,000万ヘクタールの面積比較の説明の際、オーストラリア大陸のほぼ半分と説明いたしましたが、オーストラリア大陸の面積は8億6千万ヘクタール(資料によっては約7億7千万ヘクタール)で間違っていましたので、日本の面積の約3,780万ヘクタールを比較に採用させていただきます。
混乱させてしまいましたことをここにお詫びいたします。(2019年5月17日訂正)
(注2)
“共産主義(=Communism)、社会主義”(=Socialism)、“マルクス主義”(=Marxism)は、これまでいろいろな定義や説明がされてきたが、基本的にどれも似たようなもので、簡単に言うと、労働者を代表しているという人々が政党を作って王侯貴族や資産家達(=神に選ばれたと主張する人々)を多勢の武力(数による暴力)で倒し、彼らがそれまでに持っていた富(税金)や権力(徴税方法)を政党(=労働者を代表していると主張する人々)の考えや方針(目的)に従って“その政党を支持する労働者その他の人達だけに分配する”テロリスム(恐怖政治)国家を目指す政治思想のことである。
つまり、封建制(一部の人達が武力でもって大勢の人々を支配する社会制度)は変わらず、単に既存の国教(キリスト教、イスラム教、仏教などが定めた人々を神と信じること)を棄教または排除し、多勢で作った政党を絶対神とする国家(共同社会)とも言える。
その為、その政党に属さず、多勢(の意見や考え)に従わない人々はいかに“その人個人が正しくても”仕事や財産はもちろん、個人の権利や尊厳もはく奪された上、奴隷にされるか、殺されることも多い。
その事実は共産主義、社会主義、マルクス主義といった様々な名前が付けられてきた経緯=歴史においても既に証明されている。
例えば、“共産主義”の最初の教科書とされているのが、16世紀のイギリスの弁護士で後に大法官にもなるトマス・モアが書いた『ユートピア(=Utopia、ギリシャ語で「どこにもない場所」が本当の意味だが、イギリス英語の発音に従ってUをEuに変えると「幸福な場所」に意味が変わる。そこからユートピアを「理想郷」と訳すようになった。)』だが、その中では秘密選挙(投票した人が誰か分からないようにして代表者を選出する方法)で“選ばれた族長”(=Phylarch、トマス・モアの言葉だと中世ラテン語のSyphograntusで、「穀物を吸い上げる人」の意味。)が人々を支配し、平等に税金(=食料その他の財産)が配られるので部族(国家)内では私有財産を持たず、自分の家も個人の物ではなくて部族(国家)全員の物とし、衣服も全員、同じ格好で、男も女も同等に農業やその他の“部族(国家)が決めた仕事”に従事しなければならず、万一、そうした部族(国家)の法律に従わない者は犯罪者として、もしくは奴隷として侮辱的に扱ってもいいと記されている。
また、自分達の部族(国家)以外の国の人を奴隷として連行すればいいとも書かれており、まさしく“トマス・モアだけが楽しい理想郷”が描かれているのだが、そもそも“なぜ、一人一人の投票(考え)が正々堂々と公表されず、秘密裏に選挙を行おうとするのか?”というと、大法官のトマス・モアが自分の信仰するカソリック(キリスト教伝統宗派)とは違うことを理由にプロテスタント(キリスト教新興宗派。第103話『略奪』(注1)参照)の本や雑誌を出版する人達を監視したり、弾圧や拷問を行っていたことからも明らかで、要は投票の数をごまかしやすくして自分自身が代表者に選ばれるようにしたかったのと、その上で彼とその仲間で作る派閥に逆らったり、嫌われた人達はプライバシー(個人情報)やその尊厳を脅かされ、不当に逮捕されたり、拷問を受けたり、奴隷にさせられるという“政治や社会制度を利用した虐め”(政治用語で言うと、独裁政治、専制政治、寡頭政とも呼ぶ。)が秘密裏にできるようになるからである。
その結果、トマス・モア自身が数の力に任せて独善的になり、自身が仕えるイギリス王のヘンリー8世の意見や考えすらも押しのけるようになったことから目障りに思われ、最後は自分がその言論を周囲から否定され続けて断頭刑に処せられた。
こうした経緯(歴史)から、“社会主義”は独裁的になりがちな代表者の意見や考えだけに偏らず、多数の意見や考えを前面に押し出そうとしたようだが、18世紀に起きたフランス革命を始めとした数々の革命運動を見れば分かるように、大勢の人々が自分達の“意見や考えに従わない個人に対して虐めや侮辱、暴行、略奪、虐殺を行うことが正義とは言えず”、明らかに“多数が同調し、最も支持が多かった意見や考え”でも正しいとは限らない。
しかし、個人としての意見や考えを持っていない人達にしてみれば、多数の意見や考えに同調することほど楽で便利なものはなく、また、“多勢の暴力ほど感情的で理性(良心)が通じないものはない”ため身の危険を感じてつい、その場の空気(雰囲気)に任せて同調してしまうが、こうした安易な同調がテロリスム(恐怖政治)国家を温存することになり、一時的に安心感は得られるものの、次に自分個人の意見や考えが集団と合わなくなった時、それを口にすることは許されず、自分が次に多勢の標的となって虐めや侮辱、暴行、略奪、抹殺されることをいつも心配し続けることになる。
そして、何より共産主義にしても、社会主義にしても、これまでに培われてきた富(税金)や権力(徴税方法)以外に国家経済(生きる為の手段)を構築できる意見や考えがなく、また、新たな意見や考えを生み出せるような“優秀な個人”を数多く育てていないため、結局、「自分は賢い」と自惚れているだけのトマス・モアとそっくりな法律かぶれのドイツの新聞記者カール・マルクスやその仲間でドイツ人の紡績会社社長を装うフリードリヒ・エンゲルスのような、一度たりとも汗水たらして“労働”したこともなければ何か社会に役立つような産業その他の知恵や技術が生み出せる訳でもない、ひたすら自分達の境遇や社会を恨み、これまでの身分や階級制度を作っている法律やそれらに属する人々を多数の主張や徒党の暴力で排除すれば自分達が新たに台頭して理想国家が生み出せると妄信するイギリス政府(王室)のスパイ達が19世紀になると再び登場してきて、16世紀のトマス・モアが構想した共産主義の理想郷=虚無の社会を脚色し、まるでこれまでにない革新的な政治思想のように本や新聞、チラシでもって宣伝しただけのものを今ではマルクス主義と呼ぶようになっている。
とは言え、こうした経緯(歴史)をきちんと知らされてこなかった一般庶民からすれば、共産主義も、社会主義も、マルクス主義もこれまでにない革新的な考えに思えたらしく、マルクスやエンゲルスの『Manifest der Kommunistischen Partei(邦題では『共産党宣言』)』(1848年発刊)に触発された人々がヨーロッパ各地で革命運動(暴動や抗議活動)を度々、起こすようにもなり、ロシアで1、2位を争う国立サンクトペテルブルグ大学理学部に通う学生のアレクサンドル・ウリヤノフもその一人だった。
モンゴル系の少数民族カルムイクの血を引くロシア人の物理学者を父に持ち、キリスト教に改宗したユダヤ系スウェーデン人の小学校教師だった母を持つウリヤノフは、両親共、自分達の出自に劣等感を持っていたのか世間から馬鹿にされないよう学校のお勉強だけは両親から厳しく教え込まれていたようだが、“人としての教育”は全く身についておらず、大学に入学して早々、ナロードニキ(ロシア語で「人民の元へ」の意味。)運動と呼ばれるロシアの革命運動から派生した過激派組織に加入し、デモ(抗議活動)やチラシの配布、政治演説、そしてロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺(人殺し)計画にも加わるようになった。
ロシア皇帝のアレクサンドル3世は、300年間も続くロマノフ王朝の第13代皇帝と立派な肩書はあるものの、元々、ロシアという国自体、ヨーロッパ、特にイギリスからすれば、自分達が植民地にしてきた東洋=野蛮人の国とさほど変わりはなかった。
というのも、ロシアの歴史そのものが様々な軍事大国に付き従ってきたいろいろな部族の集まりでしかなく、おおよそ首尾一貫した理念(目的)を持って自立し、国家を築こうとしてきた歴史はまるでなかった。
その時々で武力(暴力)に強そうな国家(部族)に付き従い、結婚による同盟関係で王族を名乗ってきただけで、イスラム教国家が強ければイスラム教に改宗し、モンゴル帝国が脅威となればモンゴル帝国に臣従を誓い、キリスト教国が優勢となればその王女達を妻に迎えて子孫を皇帝とし、自分達はヨーロッパのキリスト教諸国の一員だと世界に向かって宣言していた。
アレクサンドル3世の家系であるロマノフ王朝も、15世紀にイヴァン大帝が東ローマ帝国(ギリシャ)の皇帝の末裔である王女と結婚したことからその子孫であるイヴァン雷帝が皇帝を冠するようになり、そのイヴァン雷帝の臣下だったボリス・ゴドゥノフという男がイギリスと同盟を組んでイヴァン雷帝の後継者を密かに始末して国内に動乱を招き、結局、このゴドゥノフの息子だったミハイル・ロマノフがこの動乱に乗じていつの間にやら貴族や僧侶達が占める会議で選出され、以後、ロマノフ王朝と呼ばれるようになった。
だから、イギリスにしてみれば、自分達の支援でロマノフ一族を王族にしてやったという気持ちはあっても自分達、ヨーロッパの王族と同等であるつもりは全くなく、言うなれば、ロシアのロマノフ王朝はエジプトのムハンマド・アリ王朝のようにイギリスの傀儡政権に過ぎなかった。
その為、アレクサンドル3世自身の妻もイギリスのヴィクトリア女王の息子の嫁となったアレクサンドラ・オブ・デンマークの妹で、自分の弟の妻もイギリスのヴィクトリア女王の孫であり、また、自分の息子のニコライ2世の婚約者に選んだのもやっぱりイギリスのヴィクトリア女王の孫で、弟の妻の妹でもあった。
しかし、ここまでイギリスにがんじがらめにされている家系ではあるものの、あわよくばイギリスを出し抜きたい野心が消えた訳ではなく、その反逆心を垣間見せてはイギリスの不興を買い、その度に歴代皇帝が暗殺されてもいた。
アレクサンドル3世の父もその暗殺された歴代皇帝の一人であり、そして、彼自身も常にその命をイギリスから狙われていて、巷にある過激派組織や革命運動を行う団体はほぼ、イギリスからの資金で作られていた。
そうとも知らず、ロシアの大学生ウリヤノフは今の皇帝を暗殺しない限り、自分達の理想とする国家を築いて、その代表者(王)に自分達、若い世代が成り上がることはできないと書かれたマルクスの本を読んで何の疑問も抱かずそれを信じ込み、“その教科書に従って”アレクサンドル3世の馬車に爆弾を投げ込もうとした。
だが、この暗殺は失敗に終わり、ウリヤノフは案の定、逮捕されて絞首刑となった。
そして、このウリヤノフの遺志を継いでロシア革命を起こすことになるのがウリヤノフの弟のウラジミール・レーニンである。
その間、アレクサンドル3世は自分の命を守る為にはイギリスと対抗できるぐらいの国力を増強しようと中国に進出しようとしたためイギリスはこれに憤り、ちょうど属国にした日本に日清戦争をけし掛けてロシアの中国進出を止めさせ、さらにアレクサンドル3世の息子と婚約したばかりのアリックス姫に義父となるアレクサンドル3世を暗殺させた。
こうして、イギリス王室に常に暗殺されてきたのがロシア皇帝という地位であり、それを誰よりもよく知るアリックス姫は次に自分の生んだ息子の生命がイギリスに狙われるのを恐れるようになった。(ちなみに、日本人もイギリスのロシア皇族暗殺計画に関与し、当時、皇太子だったニコライ2世を日本の警察官が斬りつけた事件が1891年に起きた大津事件で、親戚に武器商人がいたため事件の真相に気付き、機密を漏らしかけた畠山勇子なる女性が自殺に見せかけられて明治政府に殺されている。)
そこで、彼女は自分の息子がヴィクトリア女王からその男性子孫に遺伝されてきた血友病(血液が固まりにくい遺伝子を母親から受け継いでいるため、鼻血などの出血がなかなか止まらなかったり、関節などで内出血して血が溜まってしまう病気のこと。)が重いとして、その病気の予防を理由に護衛兵を息子の傍に四六時中、つけさせたのだが、完全に脅威を取り除くことができず、アリックス姫はロシア王室内の兵士や乳母達も信用できなくなり、とうとう外部から傭兵を雇うことにした。
それがラスプーチンという怪しい僧侶を装った傭兵だったのだが、全くイギリスやロシアの王侯貴族達と関わりのない人物を雇うとなると、その出自すらもはっきりしないような庶民の中から選ぶしかなく、いかがわしい男とは知りながら毒物にはめっぽう詳しかったその男に自分の息子を守ってもらうより仕方なかった。
しかし、意外にもこの怪しいラスプーチンは皇太子を始めとする皇族の子供達には優しく接し、さらに皇太子暗殺を試みる乳母や宮廷内の侍女達を見破ってくれたため皇帝夫妻は安堵したのだが、一方で彼の出世を快く思わない貴族達は口さがなくラスプーチンをこき下ろし、あっちこっちで「宮廷内で強姦した」だの、「賄賂をもらいまくっている」だの、挙句、「皇后(アリックス姫)とラスプーチンは肉体関係がある」とまで噂されるようにもなり、次第に皇帝一家の評判は下がるようになった。
そして、父アレクサンドル3世と同じくイギリスに挑発されるまま戦争を続けようとする皇帝ニコライ2世に戦争の悲惨さと苦渋を舐め尽くしてきた傭兵のラスプーチンが「もう、戦争は止めてくれ」と訴えたことから、それを聞きつけたイギリスを擁護し、軍需景気を願うロシアの貴族達によってラスプーチンはあえなく暗殺された。
こうして、ロシア皇帝一家は唯一の味方を失い、何ら嘘偽りないラスプーチンの諫言をも無視して“シベリア鉄道”(=the Siberian Railway、全長9,289kmで、首都モスクワから極東のウラジオストクまでを結ぶ世界最長の鉄道である。アレクサンドル3世の治世下の1891年から着工し、ニコライ2世が皇帝を退位する前年の1916年に完成した。当初から建設資金の調達が難しかったのに加え、鉄道利権を狙ったイギリスやフランス、アメリカの企業や銀行から多数、企画案や投資、融資の申し出が寄せられ、そうした圧力や誘惑を何度もアレクサンドル3世は断り続けていたが、逆にイギリスに対抗しようと鉄道建設に乗り出すようになった。その為、鉄道の軌間(鉄道のレールの幅)はイギリスの技術者のジョージ・スティーブンソン(第105話『欺瞞』に出てくるロバート・スティーブンソンの父)が決めてヨーロッパで多く採用されてきた1,435mmではなく、1,524mm(現在は1,520mm)となっている。しかし、建設資金や物資などはイギリスを含めた海外から調達せざるを得なかったのと、また、日清戦争や日露戦争でイギリスや日本から鉄道の破壊や敷設する土地の妨害などもされていた。)の建設事業や日露戦争、第一次世界大戦と戦争を続け、第一次世界大戦だけでも330万人以上の死者を出してロシアの国家経済を壊滅させ、兄を処刑されたウラジミール・レーニンやその妻で、イギリスの出資で建てられたロシアの女性向けのスパイ養成学校、ベストゥーゼフ(=Bestuzhev Courses)出身者のナデジダ・クルプスカヤ、ロシアのロスチャイルド家が所有する精油所で労働者達の暴動を扇動し、裏でその首謀者達を警察に売ったヨシフ・スターリンなどのマルクス主義者達が起こしたロシア革命により退位を迫られたロシア皇帝ニコライ2世とその家族は、シベリアに流刑となり、ここにロマノフ王朝は断絶した。
そのロマノフ王朝を倒して政権を握ったボルシェビキ(=Bolsheviks、ロシア語で「多数」を意味するBolshinstvoにちなんで名づけられた政党。)は、16世紀のトマス・モアの時代から検閲や言論弾圧、発禁処分を伝統とするイギリスのロンドンでインテリア製品や壁紙、美術本などの印刷業を営み、イギリス王室のセント・ジェームズ宮殿の内装まで手掛けるモリス商会のウィリアム・モリスに出資してもらい、機関紙である『イスクラ』(=Iskra、1900年にドイツで創刊され、1902年~1903年に約8,000部がイギリスとスイスで出回り、“地下組織を大いに宣伝して”1903年にはこの新聞の発行からレーニンは手を引いた。)を始めとしたマルクス主義の本や新聞、チラシなどを出版してボルシェビキへの出資を募り、順調にアメリカン・インターナショナル・コーポレーション(ロックフェラー財団やJ.P.モルガン財閥などのアメリカの財閥や銀行の役員達が出資して設立された海外投資会社)やユダヤ系スウェーデン人の銀行家オロフ・アシュベルグのような投資家や銀行家達から金を集め、その潤沢な資金でもって他の政党を圧して第一党に躍り出、ボルシェビキからロシア共産党と名前を改めて、“裁判もせずに”未成年の子供達を含めたロシア皇帝一家の処刑を命じた。
ところが、第一党としてロシア共産党(旧ボルシェビキ)が立ち上がったばかりでさほど党の圧力も強くなく、多少、“自分個人の考えや意見を持っていた”人達が残っていたのと、何より気位が高く、人を人とも思わない高慢な態度を取りがちな皇帝一家の中で皇太子のアレクセイと皇女のマリア姫だけはまるで違い、昼夜、彼らに銃口を向けて監視し、時々、茶化して侮辱してくることもある共産党の警備兵達にも気さくに話しかけ、分け隔てなく接してくれていたことに心動かされ、処刑命令を受けた警備兵達は当日になって心変わりした。
元々、皇帝ニコライ2世から血友病を患っている13歳の皇太子アレクセイとまだ20歳に届かない17歳の末娘アナスタシア姫だけは助けて欲しいと頼まれ、シベリアの流刑地まで彼らの世話をするためついてきていた侍医のユージーン・ボトキンは、どうにか未成年の子供達だけでも逃がしてくれと警備兵達に懇願し、警備兵達はそれを承諾した。
しかし、ロシア共産党(多数派)から処刑を断行するように命じられており、イギリスもロマノフ皇族の救出を口実に幽閉されている館近くに兵士を待機させて見張っている以上、後で検死されることは目に見えていたため彼ら警備兵達は一策を講じた。
替え玉処刑(殺人)である。
それぞれ体格や身長が似通った人物を殺してそれを皇太子や皇女の死体にすることにした。
まず、皇太子の身代わりになったのが彼の唯一の遊び友達であり、長年、宮廷でコックに雇われていた叔父のコネでコック見習いをしていたレオニード・セドネフという少年で、彼は親友だったはずの皇太子が処刑されるのを知りながら皇太子に知らせようともせず、自分だけこっそり逃亡しようとしたため警備兵達は容赦なく彼を皇太子の身代わりとして殺害した。
さらにアナスタシア姫の場合は偶然、彼女と同じ名前のアナスタシア・ヘンドリコーヴァという侍女兼家庭教師が病気の姉を置いてでも革命の渦中にある皇女達の世話をしようと最後まで彼らの傍に仕えていて、31歳の割に小柄で背も低く、背恰好がアナスタシア姫に似ていたため警備兵達が身代わりの話を持ち掛けると彼女は「皇女様をお守りできるなら」と自ら進んで犠牲となった。
そして、最後に警備兵達自身がどうしても助けたかったのが19歳になったばかりの3女のマリア姫で、実は彼女は警備兵の一人だったイヴァン・スコロコドフと恋仲になっており、既に身ごもっていた。
その彼女の身代わりになったのがアンナ・デミドーヴァという侍女で、少し小太りだったマリア姫と体格が似ていたのと、皇族が隠し持っていた宝石類を盗んでレオニード少年と同じく自分だけ逃亡しようとしていたのが発覚し、自分が処刑されることを知って大声を上げて抵抗しようとしたため銃剣でめった刺しにされて殺された。
結局、この3人の召使達と救出を装って皇帝一家が監禁された館に入り込んだ暗殺者2人、そして皇帝夫妻と上の二人の皇女達だけが処刑され、侍医のボトキンと62歳だった侍従のアレクセイ・トルップ、妻と娘を持つコック長のイヴァン・カリトーノフ、そして皇太子のアレクセイ、皇女マリア姫とアナスタシア姫だけは処刑を免れた。
だが、9人の死体は確保できたものの、後2人の遺体をどうにかごまかさなければならず、警備兵達は9人の死体をバラバラにして顔を硫酸で焼いて身元を判別できないようにし、さらに侍女のアンナとレオニード少年の死体だけは皇女と皇太子の死体に見せかけようと念入りに焼いた後、別の場所に埋めた。
こうして、それぞれ助かった3人の皇族はお互い正体がばれないよう別々に行動することになったのだが、アナスタシア姫だけは処刑された上の2人の皇女と同じく気位が高く、せっかく侍女のアナスタシアが彼女の犠牲となってくれたにも関わらず、自分がその侍女という“一人の労働者”に変わらなければならない立場になってもそれができず、結局、身元がばれてしまい、そのまま別の場所で共産党の兵士達によって銃殺された。
一方、皇太子アレクセイとマリア姫は侍医のボトキンの実家がロシアでも指折りの財閥であり、彼の母方の親戚にはアレクセイ・クリロフというロシア艦船の設計技術者がいて、ロシア共産党が政権を握って以降もその技術力から引き続き、ロシア海軍で職を得ていて絶対的な地位にあったため、何とかこのボトキンの親戚筋の協力を得て二人を匿い続け、アレクセイ皇太子は一時はレオニード少年に成りすましていたが、その後、ヴァシリー・クセノフォントヴィッチと名前を改め、子供の頃から夢だった地理の教師となり、小さな村で結婚して子供を設け、1988年に84歳で亡くなる直前に自分が皇太子だったと家族にだけ明かして安らかに息を引き取った。
また、マリア姫はロマノフ皇家に仕えていた護衛兵に守られながら恋人のイヴァンと共に海外へ逃げたのだが、妊娠しているだけでなく、両親が処刑された際に流れ弾が太ももに当たって負傷してしまい、亡命の途上で入院することになった。
しかし、それまでのストレスと彼女自身、元々、出産に向かない体質だったこともあり、悲しいことに流産してしまった。
その後もいろいろな所を転々とし、髪まで切って命からがら国境を越えたところで恋人のイヴァンが結核になったので仕方なく彼を置いていくことになり、既に処刑されたことになっていて身元を偽っている侍医のボトキンがブルガリアに家を用意して彼女達を迎えに来たため一旦、イヴァンと別れて暮らすようになった。
だが、34歳も年齢が離れているとは言え、ロシアから亡命してきた医者と名乗る男が女とブルガリアの小さな村で一緒に住んでいて噂にならないはずはなく、彼らはとりあえず籍を入れて夫婦と偽るようになったのだが、しばらくすると退院した本当の夫のイヴァンが同居するようになり、彼ら3人は夫婦と義理の弟として周囲から見られるようになった。
とは言え、お互い家族として仲良く暮らしていたようで、大家族に憧れながら子供を持つことができなくなったマリアはたくさんの犬を子供のように可愛がり、皇女時代に習った英語やラテン語、フランス語の教師として働き、演劇サークルに入ったりして人生を謳歌する一方、事件の後遺症で座った姿勢でしか眠ることができず、時々、太ももの痛みにも悩まされ、あの恐ろしい惨劇と家族を無残に殺された悲しみは生涯、消えることはなかった。
それでも皇女でも何でもないエレノーラ・クルーガーという“一人の女性として”幸せな人生を全うし、彼女は自分の本名を告げることなく、先立った夫ゲオルグ(本名イヴァン)の隣に今は静かに埋葬されている。享年55歳だった。
このように、まだ子供で政治や戦争責任とは無関係なはずの二人の皇族がささやかながら“人らしい幸せな暮らし”を求めて逃亡しただけだったのに、それでも共産(マルクス)主義のロシアも、社会主義のイギリスも、どちらの社会でも富と権力、身分を奪い合って醜く争い続ける大人達は彼らの夢や希望すらも許そうとせず、逃げた彼らの跡をしつこく追い続け、ついにはマスコミを使って何人か彼らの名前を騙る偽物をでっちあげ、彼らを挑発することで自ら名乗りださせようとした。
その為、そのマスコミ報道を見た世界中の人々が暗殺をもくろむイギリスやロシアの為にわざわざ彼らの行方や正体を暴こうとするようになり、『Anastasia(邦題では『追想』)』(1956年上映)という記憶喪失になったアナスタシア姫が自分の身内に再会する映画まで作られ、世間を煽り続けたが、とうとう最後まで本物の彼らは自ら名乗り出ることなく、自分達の小さくとも満ち足りた暮らしを守り続けることを選んだようだった。
だが、彼らを探させる為に自らロマノフ皇族の処刑話を持ち出して世間を煽ったイギリスやロシアは時間が長引くにつれ、今度は本物の彼らやその子孫だけでなく、世間の誰かが自分達のやってきた悪事の真相を暴くことを恐れるようにもなった。
そこで彼らは何度も彼らの死体を発掘して調査し続け、一致しないはずのDNAも一致したと言い張り、欠けている2体の死体の穴(矛盾)を埋める為にアナスタシア姫を別の場所で処刑した記憶のあるロシア側は生き残ったのはマリア姫の方だと主張し、ロシア人でもないのにロシアの歴史に口出ししてきたアメリカの法医考古学者のウィリアム・メープルと彼を支持するアメリカの科学者達はロシア側の科学調査が不正確だとまで言ってのけ、生き残ったのはアナスタシア姫の方だと反論していかにも事件の真相を追い求める振りをし続けてきたが、もはや処刑の日から1世紀近くも経って真相もばれないと思ったのか、2015年にロマノフ皇族全員の遺体が見つかったとして結局、誰も生き残らなかったことにしたようだった。
だから、そんな虚偽とでたらめばかりで始まったロシア共産党は政権が発足するとすぐに仲間割れするようになり、次々と主要幹部達は暗殺されていき、暗殺が行われた仕返しとして今度は無関係な人々を巻き込んだ粛清(大虐殺)が行われ、最後に偶然、残ったのがヨシフ・スターリンだけだった。
元々、レーニンは王侯貴族を倒そうとして処刑された兄の遺志を継ぐ悲劇の革命家としてロシア共産党の表看板にされていただけで、実質、レーニンや共産党を動かしていたのはイギリスのスパイとして養成されてきた妻のナデジダ・クルプスカヤの方だったのだが、レーニンが暗殺されてからはいろいろ新しい男の政治家と手を結んで党内での権力を維持しようと努めていたものの、女一人についていきたがる男の政治家など誰もいないため、自ずとレーニンの側近であり、体格と容姿も表看板にするにはうってつけのスターリンに軍配が上がった。
何より、スターリンの後ろには以前からロスチャイルド家が控えている以上、資金面でも国際政治の人脈面でも共産党内で彼に勝てる者はいなくなり、ここに“ソビエト連邦”(=the Soviet Union、ソビエトとはロシア語で「評議会」の意味。1922年設立)と呼ばれる共産(社会)主義国家が誕生し、スターリンと彼を支持する政党がロシアとその周辺諸国を武力(暴力)で独占支配することとなった。
もちろん、子供の頃から神学校で宣教師(派遣傭兵)として訓練されてきたスターリンに政治など分かる訳はない。
共産党内の他の幹部達も同様で、誰一人、まともに政治を理解している者などいなかった。
そして、それが共産党に支配されてしまったロシアと他の周辺諸国に住む一般労働者達の悲劇の始まりだった。
20世紀に突入し、もはや王政から脱却しようと少しずつ目覚め始めていた世界とは裏腹に、暗黒時代とも呼ばれる中世の16世紀にトマス・モアが机上で空想して書いた理想郷の制度をマルクスやエンゲルスが新しいもののように脚色しただけなのに、その教科書に従ってわざわざ中世の社会制度を再び取り入れてしまったソビエト連邦は、まさしく300年前の暗黒時代に逆戻りしたかのような封建国家を20世紀初頭から終わりまで作り上げていった。
その社会制度の一つが、コルホーズ(=Kolkhoz、集団農場)やソフホーズ(=Sokhoz、国有農場)と呼ばれる“農奴制”である。
“農奴制”(=Serfdom)とは、文字通り、農業する奴隷のことを言い、神器と称した武器を振り回して武力(暴力)を誇る王侯貴族達が「ここは神が自分達に与えてくれた土地だ。」と偽って農業を営む労働者達の生活基盤である土地を武力(暴力)で奪い取り、そうして横取りした土地をなぜか王侯貴族達の方がそれまで耕作してきた農民達に貸し付ける形で地代を巻き上げ、武力(暴力)で脅して徴兵や労役といった義務や税金も課し、その重い地代と労役、徴兵が枷(物理的かつ心理的に自由を奪えるよう囚人の身体にはめる刑具)となっていつしか奴隷にされている制度のことである。
基本、王侯貴族というのは“自分達は労働せずに他人の労働で食べさせてもらっている人々”なので自分達が生きていくには農民(労働者)達に働いてもらうしかなく、その為に必要最低限の耕作用具や家畜などの道具類を農民(労働者)達に貸し与えたり、買わせたりもするが、それら以外で土地や資産などの王侯貴族達の脅威となりうる私有財産を持ったり、王侯貴族達が指定する農業その他の職業以外で別の仕事に就くことは許されず、そうした過酷で自由のない暮らしに嫌気が差して逃げ出したり、何らかの反抗を試みた場合は裁判もなしに鞭打ちや僻地への流刑、虐殺といった拷問(体罰)や制裁が加えられていた。
また、逃亡した農奴を匿ったり、逃亡を手伝ったりするとそうした共謀者にも重い罰金が科せられるため、大抵は匿ってくれる者も逃亡資金もなく、何より逃げる度胸もなかなかつかないので個人や少人数での逃亡は試みないが、大多数が決起して暴動を起こしたり、近隣の領主の方が元の領主より強ければその武力(暴力)にすがって近隣へと逃げ込み、そこでまた、農奴になったりする。
ロシアの農奴制は、戦争などで土地を荒らされたり、失ったりして路頭に迷っていた人々を日雇い労働者のように王侯貴族達が雇うことで12世紀から始まったもので、15世紀には多少、税額を安くしたり、何らかの恩恵(福利厚生)をつけて待遇を良く見せ、別の土地から農奴を引き抜いてきたり、農奴の方も自由に領主(雇い主)を選べる法律もあったのだが(The Sudebnik of 1497)、それも18世紀に至るまでには上述した非人道的な扱いが法律で強化されるようになり、また、ロシアは植民地争奪戦に出遅れていたため他の欧米諸国とは違って自国の農奴を植民地の奴隷と切り替えられず、1861年の農奴解放令が施行されるまでに農奴の数は2,300万人を超え、この当時のロシアの人口の4割近くも占めていた。
さらに、1861年の農奴解放令というのも遅ればせながら植民地争奪戦に参戦しようと兵力の増強を図る為に農奴達を一定の土地や農業という職業から解放しようとしただけであり、あくまで徴兵するのが目的だったため、国がそれまでの領主の地代を肩代わりしたものの、相変わらず農奴達は国からの借金を背負わされ、生活資金の為に否応なく兵士にならざるを得なくなった。
こうした背景の中で戦争に駆り出された兵士(農奴)達は第一次世界大戦で330万人以上が死に、ロシア革命が起きてようやく自由になれると思っていたようだが、武力(暴力)を振るって自分達を制圧してきた王侯貴族達を自分達、農奴達の代表者(王)だと名乗る別の人物が多勢の暴力で倒したところで以前(封建制)のままであることに変わりはなく、ロマノフ王朝という一つの武力(暴力)からソ連という別の武力(暴力)へ移っただけで、彼ら個人が自由になれる保障などどこにもなかった。
だから、1928年にスターリンが国家経済の方針として5か年計画を発表して、コルホーズ(集団農場)を創設してもそれはあくまで個人農家を農業共同組合という集団に無理やり組み入れてお互いの労働態度や人柄を監視させ、収穫した農作物を安く買い叩いて市場を国と共産党の役人達が独占し、市場では不当に仕入れた農作物を高く売りつけてそこから浮いた利益を国の出先機関であるMTS(=the Machine Tractor Station、ロシア語ではMTC。「機械&トラクターのサービス窓口」の意味。農業協同組合の組合員である農民達が共同で農業用の機械やトラクターをMTSから分割購入し、それらを共同で使用して耕作ができるよう設けられた公的サービス機関である。ただし、この農業用の機械やトラクターの分割代金や維持費は国や共産党の役人達が決めているので、収穫物の利益のほとんどはこのMTSに支払われるようになっていた。)に貯めこんでこれまた国と共産党の役人達が使い込めるようにしただけで、自分達が食べる以外に努力して商品となるようなおいしい農作物を作ったとしても正当な労賃が国からもらえることはなく、一生懸命、働いている個人も、だらだら怠けて働く振りをするだけの個人も“集団の規則では同一労働同一賃金”なので、働き甲斐を失った人々はたとえ小さくても自分の農地を持って市場販売もでき、ソフホーズ(国有農場)より多少、賃金が増えるかもと言われたコルホーズ(集団農場)から早々に離脱し、安くても安定した公務員の賃金がもらえるソフホーズ(国有農場)に転職するか、あるいは収穫量を低く農業協同組合に報告して余剰分の農作物をごまかし、個人的に直接、マフィアの小売業者や共産党の役人達に賄賂を渡して“闇市場”(=Black Market、窃盗品や麻薬のような違法商品、借金や税金の代わりに没収した品物など、国家(法律)に認められていない商取引やそれを行う場所のこと。)で余らせた農作物を高値で売ってもらうか、欲しい商品と交換してもらえるよう頼み込んで稼ぐしかなくなった。
こうなると、もはや真面目に働いて法律を守るのも馬鹿馬鹿しくなり、あちこちで不正を行う人々が増え、それを見つけられそうになった者が不正を知った者に罪を擦り付けたり、お互い不正が当たり前の共同社会(Commune)でうっかり不平や秘密を洩らしそうな者を共産党の役人に密告したりして、そのご褒美に報奨金をもらって表彰され、密告を商売にする者まで増える一方、密告された方が無実であっても不当裁判でシベリアの強制収容所に送られたりするなど、法律そのものが有名無実化し、ソ連はマフィアと犯罪者、賄賂と税金の横流しで私有財産を貯めこむだけの名ばかり公僕(=公務員)が蔓延る無法国家となっていった。
また、少しでも余剰の農作物を増やすには革命以前から農地を私有していたクラーク(=the Kulak、元はインドのサンスクリット語のKuru Kuliで「神から祝福されたクル農耕民」という意味だったが、インド人との血縁関係にあるスキタイ民族がウクライナに移住してウクライナ語のKurkuliという言葉になり、「富裕農民、または自分の手で田畑を耕す人」を意味するようになり、後にロシア語でKulakと略され、「金持ち地主、強欲な人」を意味するようになった。)から収穫量の多そうな田畑を強制的に共産(社会)主義=多数の意見の名の下で召し上げ(強奪し)、農業協同組合の中でも共産党の役人と裏で手を結んでいる組合員達の間でそれらの田畑を分配していった。
その為、特にクラーク(個人農家)が多かったウクライナやカザフスタンなどが共産党の標的となり、スターリン政権以前のロシア革命直後から既に富裕農民撲滅運動(=Dekulakization、1917年~1933年)と呼ばれる、一般市民の私有財産を国家(共産党)命令と言って武力(暴力)でもって没収したり、破壊したりする強盗運動が法律でもって平然と繰り広げられ、何ら悪事を働いた訳でもない、真面目に汗水たらして働いて長年、人生(生命)懸けて築き上げてきた農地や収穫物、その他の財産を秘密警察や「お前達、強欲な富農が俺達、貧しい農民達を搾取し、虐げているんだ!」と叫んで前々から豊かな隣の農地を狙っていたロシアの農業協同組合の組合員達が多数、家に押しかけてきて略奪していき、それに抵抗しようとする者達は次々と虐殺されたり、逮捕され、武力(暴力)に抵抗できない人々は自分達の家から追い出されて、その数が数十万人にも膨れ上がった。
しかも、没収した農地は5,000万ヘクタール(日本のほぼ倍くらい)にまで及び、一夜にして難民となった人々は仕方なく家族と共に近隣のポーランドや中国、またはロシアでも農業とは無縁の都会へと移住していき、無一文から人生をやり直さざるを得なくなった。
しかし、元々、ウクライナやカザフスタンという土地はいろいろな少数民族が混じり合う複雑な民族構成となっており、大人しい農民達も多ければ、逆に“コサック”(=Cossacks、古東スラブ語で「自由民」の意味。)と呼ばれる人達のように好戦的で法律に縛られるのが大嫌いな遊牧民や武装農民達もいて、クラーク(個人農家)が増えたのもこのコサックをロマノフ王朝が革命に対抗する為に取り込もうとした政策の所為だった。(The Stolypin agrarian reform 1906年~1914年)
要は、王侯貴族の常とう手段で「土地を安く分けてやるから味方の兵士になれ」と言ってコサックを口説こうとしたのである。
もちろん、コサック(好戦民族)以外にも武装などしたこともないような大人しい農民や一般市民も同じ国土に住んでいるのだからその政策の対象になる。
そうしてロシア革命とも戦争とも全く無縁のまま、コツコツ農業を営んで田畑を少しずつ増やしたり、収穫量を上げてそこそこ財産を持てるようになった中間所得層の人々も大勢いたのだが、共産党とそれを支持する多数派の人々は“一人一人のそれまでの努力や人生”を無視して「全員、共産党(多数)に敵対するコサック(兵士)や富農だ」と決めつけ、ロシア革命が成功すると途端に迫害と粛清(虐殺)の標的とするようになった。
その結果、スターリン政権以降もこの富裕農民撲滅運動が続けられ、それまでのクラーク(個人農家)を追い出して奪い取った農地をコルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国有農場)に替え、そこに新しく移住してきたり、あるいはそれまで大した収穫が上げられずお隣の豊かなクラーク(個人農家)を妬んで奪い取った農業協同組合の組合員やこれまで農業をしたことのない共産党の党員達に農地を明け渡していったのだが、そもそも農業はその土地の気候や地質、植物の知識に加え、日々の天気と葉や茎の状態に細かく気を配り、物言わぬ植物の成長を“愛情込めて根気よく育てているからこそ”豊かな実りが得られるのであって、法律かぶれの政治家が「農地改革だ」とほざいて法律や制度だけをいじくり回し、適当に人と機械を“数”だけ揃えて広大な土地に投入すれば計画通りに収穫“量”や良質の収穫物が得られるというものではないため、スターリン政権の計画経済はものの見事に外れて収穫高は激減した。
まして、ロシアと比べてウクライナやカザフスタンは気候が温暖ではあるものの、草原や砂漠といった雨量の少ない地域がほとんどなのでそれほど農業に適している訳ではなく、これまでのクラーク(個人農家)はそれぞれ努力や工夫をしながら、それでもどうしても一人で解決できず困った時には近所同士で助け合って何とか収穫高を上げていたのだが、そんな事情さえも考慮せずに農地改革を断行してしまったため、みるみるうちに収穫高は減っていき、そこへとんでもない事をソ連(スターリン政権)はやり始めてしまった。
核実験である。
この頃から世界中で核兵器の開発競争が高まり出し、ソ連(スターリン政権)もその風潮に乗り遅れまいと核兵器開発を行うようになった。
ロシアの核兵器開発はイギリス資本の学校や大学がロシア国内に建てられていたように、既にロシア革命以前から密かに研究され続けていたのだが、ロシア革命が成功してからは大っぴらに研究できるようになり、1922年に“第一ラジウム研究所”(=the First Radium Institute、またはthe V.G.Khlopin Radium institute。核物理学及び地球化学分野、並びに核技術開発専門の研究所である。宇宙の誕生を“仮説”した「α(アルファ)‐β(ベータ)‐γ(ガンマ)理論」を提唱し、DNAの研究でも知られるロシア生まれのアメリカの物理学者ジョージ・ガモフが所属していた研究所でもある。)をサンクトペテルブルグに設立したのを皮切りに、ウクライナにも“ハルキウ物理学技術研究所”(=the Kharkiv Institute of Physics and Technology、現在はサイエンスセンターとも呼ばれている。1928年設立。ウクライナでは最も古く、最大の核開発研究所でもある。)が建てられ、1934年にはロックフェラー財団からの援助を受けて核開発研究していたアメリカの物理学者アーネスト・ローレンスの作った核反応を起こす為の加速器(=Cyclotron)をジョージ・ガモフがイギリスの物理学者で後にノーベル賞を受賞することになるジョン・コッククロフトの指導の下で核実験に使用して成功するなど、1920年代から1930年代にかけてウクライナはハルキウだけでなく、1986年の原発事故で放射能汚染を恐れて町がゴーストタウン化する以前からチェルノブイリを始めとした国内の多くがソ連の密かな原子爆弾の実験場にされていた。
また、元工業学部の大学生でグルジア(またはジョージアとも呼ぶ。黒海東岸にある国。)の秘密警察長官でもあったラヴレンチー・ベリヤがロシア南西部を中心にウクライナから極東のウラジオストクまで少なくとも400か所以上の強制収容所を造り、カザフスタンの中央にあるカラガンダ州にもKarlag (=Karaganda |Corrective Labor Camp《強制労働収容所》)という巨大な強制収容所を設置して軽犯罪者から政治犯に至るまで裁判らしい裁判もなく連行してきた妊娠中の女性や子供も含めた100万人以上の人々を投入し、2011年では世界最大のウラン生産を誇り、2018年時点でも世界のウラン採掘量の12%を占めると言われるカザフスタンのウラン鉱石を採掘させて、核実験施設の建設や運営もこうした無賃で働かせられる上、安全や健康を守る必要のない強制連行してきた労働者達にやらせていた。
だから、1949年に世界に公式に核実験成功を披露する為だけに造られたセミパラチンスク核実験場(=the Semipalatinsk Test Site、カザフスタン北東部のエルティシ川沿いにある草原地帯に1949年~1989年まで造られていた核実験場。公式には地下核実験を340回、地上核実験を116回、行ったとされている。)ができるずっと以前から“非公式な核実験”はたくさん行っていて、国内(ソ連)の技術だけで成功する目途がついたのが1949年からというだけだった。
そうして宇宙に行ったこともなければ地球にある田畑の自然すらも見たことがないような頭のネジがぶっ飛んだ学者や宇宙工学技術者達が四六時中、ビックバン(宇宙爆発)だの、〇▲×理論だのと全く意味のない呪文のような数式や専門用語を駆使し、宇宙(自然)の誕生をあれこれ妄想して核ミサイルだの、ロケットだの、原子爆弾だのと地球上で実験を繰り返した結果、起きたことは700万人以上を飢え死にさせる“大飢饉”(=the Holodomor、ウクライナ語で「飢餓大虐殺」の意味。)だった。
何一つ無駄なく完璧な調和でもって創られているこの地球(神の智慧)には目に見えないいろいろな微生物が生息し、彼らが田畑の土壌を浄化してくれたり、栄養を作ったりと、人間や家畜その他の生物の食糧を生産する上で重要な役割を担っているのだが、核実験でそれをむやみに死滅させてしまえば当然、自然のサイクル(食物連鎖)は狂う。
また、彼ら微生物が死滅すると生命エネルギー(熱)が失われるので土の温度や保水力が変化して、日中、地中の水を吸い上げて気温調整している気象にも大きな影響が及ぶ。
その為、地球上で核実験を行えばすぐに異常気象や冷害、干ばつなどが起きる。
また、地球の地形を造っている火山地帯や活断層などで行えばもっと被害は拡大する。
だが、そんな初歩的な自然(神)の法則すらも核兵器(人を殺すおもちゃ)で遊ぶことに夢中な学者や宇宙工学技術者、政治家の皆さんには“全く理解できない”ようなので今も毎年のように何らかの被害が世界のあちこちで起きているのだが、ソ連(スターリン政権)で起きた大飢饉は言語に絶する大被害をもたらした。
歴史上、ソ連(スターリン政権)の大飢饉と言うと、1932年のウクライナでの被害がよく口にされるが、1921年~1922年にもウクライナとカザフスタンの間にあるヴォルガ川沿いやウラル川沿い(前述のラヴレンチー・ベリヤが長官の前に秘密警察の支部長をしていたグルジアに近い地域でもある。)の人々を干ばつが直撃し、ロシア革命による内戦で食料がただでさえ手に入りにくかった事情も重なって500万人以上が犠牲となり、餓死した人の肉を食い漁るまでになった。
カザフスタンはそれよりも早い1919年~1922年に干ばつに見舞われ、さらにチフス菌やマラリア(第102話『腐敗 』(注3)と(注6)参照)までまき散らされて当時の人口の2割近く、40万人以上の人々が亡くなった。
そして、最も被害が顕著だったウクライナでは働く力もなく人々が道路に横たわったまま死んでいるのが日常の光景となり、牛や馬などの家畜もあばら骨と皮になった状態で死に絶えていて、飢餓で発狂した母親が我が子を絞め殺し、餓死した人の死体を今度は飢えたネズミが食うという地獄絵図さながらの状態にまで陥った。
その間、こんな地獄の世界を作っておきながら自分達は他人から奪った食料や税金で飲み食いし、栄養失調でやせ細って老人のような子供達とは対照的に丸々と太ったスターリンや共産党の幹部達、アメリカやイギリス政府(王室)は『子供達を救え基金』なるものを創設して国内外の一般庶民に募金をするよう呼びかける。
だが、ソ連(ロシア)以外のアメリカや日本でも同じように核実験が行われ、似たような干ばつや冷害に襲われて、さらに一般庶民に借金を背負わせて家や土地を銀行や保険会社が巻き上げられるよう定期的に株式市場から投資資金を引き揚げる“世界恐慌”(=the Great Depression、1929年にアメリカの株式市場の株価が下落したことから少しでも投資資金を回収しようと大勢の人達が連鎖的に株を売りに出し、借金して株を買っていた人達の株も紙切れ同然の価値となって借金の担保にしていた土地や家などを銀行や保険会社に取り上げられるようになった現象のこと。群集心理で恐怖や不安感が連鎖して株が売りに出されるため健全に経営していた企業の株も売りに出されるようになり、銀行も貸し渋りを行って貸さなくなるため資金繰りに行き詰まって倒産する会社なども増えるようになる。17世紀のイギリスやオランダが植民地で運営していた東インド会社の株式発行により株や投機が盛んに行われるようになり、以後、定期的(大体、10年周期)に暴落させるように(逆に押し上げることもあるが)各国政府が示し合わせて金融操作している。1929年での株価暴落は世界的に拡大してしまったことから“世界恐慌”と呼ばれており、一夜にして家や仕事、会社を失って自殺する人達や給料が下がって妻子を養えなくなった人達、また、アメリカでも飢饉が起こっていたため食品価格が軒並み高騰し、食べる物さえ事欠く人達が街にあふれ返った。)まで起きていて、自分達の生命すらも危ういのに外国の他人の生命にまで構っている余裕など一般庶民にはほぼ、ない。
それでもそんな大多数の庶民の窮状などお構いなしに日本も含めてソ連(スターリン政権)やアメリカ、イギリス政府(王室)はこれまで通り、法律を振りかざして税金や収穫物をびた一文すら値切らず“情け容赦なく”庶民の懐を狙って徴収しに来る。
そうして、自分達が働いて稼いだ訳でもない税金を使って本や雑誌、映画にチラシ、新聞などのメディアを通じて『子供達を救え運動』を展開して宣伝し、自分達の国内で飢えて死にかけている子供達を横目にこれまた税金で買い入れたわずかながらの食糧や医療品を携えてウクライナやカザフスタン、ソ連(ロシア)の子供達の前でいかにも甲斐甲斐しく救援活動に勤しむ振りをする。
また、『子供達を救え基金』や“赤十字社”(=the International Red Cross and Red Crescent Societies、日本では赤十字と呼ばれているが、国によっては赤い三日月(赤新月)と呼ぶこともある。要するに三日月(新月)はイスラム教国家のことで、赤は共産党国家を意味し、十字はもちろんキリスト教国家を指している。これらの宗教以外であるイスラエルはユダヤ教の象徴であるダビデ王の星を用いてマーゲン・ダビデ(ダビデの赤盾)社と呼ぶ。赤十字社は元銀行家でスイスの実業家だったアンリ・デュナンがフランスの植民地であるアルジェリアで商売をしようとした時、原住民の欧米諸国への反発心や非協力的な態度を和らげたり、紛争地での食料や物資の供給、負傷した味方兵士への医療救援活動、また、紛争中で権利がはっきりしない植民地における土地や水資源などを中立の立場で無制限に使用できるようになることを当時のフランス皇帝であるナポレオン3世に訴えたことから始められた兵站(戦時での物資の輸送及び供給)活動の一つである。1863年の設立時には同じくスイスの銀行家で法学者でもあるギュスターヴ・モイニエールも加わったことから兵站以外に軍資金の調達が主な事業となったが、デュナンとモイニエールとの権力争いや活動方針の違いからデュナンが赤十字社を追い出されることとなり、彼の代わりにスイスの軍事専門の外科医だったルイ・アッピアが理事の一人となったため表向きは医療活動の組織団体として内外に大きく宣伝するようになった。本部のあるスイスだけでその収益は2019年時点で18億6,300万スイスフラン(日本円で大体、2,068億円)、“免税されている非営利(NPO)並びに非政府(NGO)団体”である。この他、各国で設立された赤十字社をまとめて連絡調整を行う国際赤十字赤新月社連盟(=the International Federation of Red Cross and Red Crescent Societies、1919年設立)という別組織もあるが、こちらの収益も2015年時点で3億3,100万スイスフラン(2019年のレートで日本円にすると約367億円)、うち日本政府からの税金による寄付が1,440万スイスフラン(約16億円)で1位のEU、2位のアメリカに次ぐ世界3位の寄付額となっている。なお、国際赤十字赤新月社連盟はNPO団体である赤十字社を支援しようと第一次世界大戦後の翌年、イギリス、フランス、イタリア、日本、アメリカ政府とアメリカの銀行家だったヘンリー・デイビソンによって結成されたものなので政府組織である一方、“非営利活動”ということで本部のあるスイスでは免税されている。ただし、赤十字社も赤十字連盟も組織そのものは免税されているが、なぜか個人がスイス以外の国で寄付した場合、課税されることがある。)などへの寄付金も自分達で横流しして新たな戦争の為の軍資金や兵器開発、私的な遊興費や貯蓄に回そうとする。
こうなればソ連やウクライナどころか、世界中の一般市民が飢餓大虐殺されているようなものなのだが、どこの国の一般市民も“現時点、消えかかっている自分達の生命や生活”に追われていて、各国政府(王室)のやっている非道や悪事を疑問に思ったり、非難する気力や勇気はもはや失われていた。
また、反抗すると言っても多くの庶民が思いつく手段は“相手と同じ多勢の武力(暴力)”で返そうとするだけなので人殺しにかけては長年、磨きに磨いてきた強大な軍事力(暴力)を持つ各国政府にねじ伏せられて逆に逮捕されたり、拷問や虐殺といった仕返しを受けるだけに終わる。
こうして、1933年までにウクライナやカザフスタンを含めたソ連だけで700万人以上もの餓死者と膨大な数の移民を生み出し、貧困や病気、家族の離散にあえぎながらもようやく自然の営み(=神の法則)が少しずつ戻ってきて田畑の実りが回復し、生き残った人達がどうにか平和な日常を取り戻しかけようとすると再びあの悪夢がやってくる。
第二次世界大戦の始まりだった。
(ちなみに、上述した通り、核実験による大飢饉はソ連以外のアメリカや日本でも第二次世界大戦以前から既に起きていて、アメリカはウラン鉱床が“グレートプレーンズ”(=the Great Plaines、北米大陸西部にあるロッキー山脈の東側、ニューメキシコ州、テキサス州、オクラホマ州、カンザス州、コロラド州、ネブラスカ州、ワイオミング州、モンタナ州、ノースダコタ州、サウスダコタ州、一部、カナダにも通じる大“平”原のこと。全長3,200km、面積130万㎢で年間降水量が500mm程度しかなく、ミシシッピ川沿いにあって比較的、雨量が多くて肥沃なお隣の“プレーリー”(=Prairie、グレートプレーンズと西経100度線を挟んで真横にあり、アメリカの中央部に広がる大“草”原。)とは違い、乾燥している。農業にはやや適さないが、グレートプレーンズにはアメリカの原住民のインディアン達が多く住んでおり、狩猟を得意とするナバホ族やアパッチ族などはバッファローを狩る一方、農耕や家畜業を好むプエブロ族は独自の灌漑(水を引き込む)技術や農耕方法により豆やトウモロコシ、にんにく、かぼちゃ、玉ねぎと乾燥にも強い多様な農作物を収穫していた。プエブロ族は冶金術(製錬&精錬)にも秀で、インディアン・ジュエリーと呼ばれる銀やその他の宝石(鉱石)を使った装飾品の加工も行っていて、その為、グレートプレーンズ一帯はウラン鉱石以外にも金、銀、鉛、石炭、石油といった天然資源が豊富に採掘できる地域でもある。)に広がっていたため、19世紀からラジウムの発見や原子爆弾の開発競争が始まり出すと原住民達を武力(暴力)で人間狩りして強制的にウラン鉱石の採掘をさせ、現在も公式な実験場として1951年に建てられたネバダ核実験場や1963年に建設されたNASA(アメリカ航空宇宙局)のホワイトサンズロケットエンジン実験場(=White Sands Test Facility)が存在するように非公式な核実験やロケットエンジンの噴射実験などは1930年前後からグレートプレーンズ周辺では頻繁に行われていて、元々、雨量が少なくて乾燥しているグレートプレーンズがさらに乾燥して干ばつとなり、ダストボール(=the Dust Bowl、砂の器)と呼ばれる中東の毒の風(砂塵を伴う熱風。第99話『人災 』参照)と似た異常気象が起き、そこに世界恐慌が重なったことでグレートプレーンズは史上最悪の大飢饉となった。
そもそも、アメリカの歴史、コロンブスの北米大陸発見以降のアメリカの歴史というのも共産(社会)主義のソ連と似ていて、17世紀にスペインやフランス、オランダ、イギリスなどのヨーロッパの王室がカソリック(伝統派)とプロテスタント(新興派)の宗教戦争で使われ続けてきた伝染病(=生物兵器。第102話『腐敗 』(注3)参照)をまき散らして抵抗する原住民達を次々と抹殺し、そこへ何百万人ものアフリカから連れてきた黒人奴隷を入植させて北米大陸の南部を中心に大農園を築いていったのだが、その奴隷貿易を主に担っていたのがピルグリム・ファーザーズ(=the Pilgrim Fathers)と呼ばれるイギリスの清教徒(キリスト教新興派)の入植者達だった。
そうして、ソ連がクラーク(個人農家)を多勢の武力(暴力)で次々と追い払ったようにアメリカも同じように隣(新大陸)の芝生(田畑)は青く(実り豊かに)見えたのか元々、その土地の気候や地質を知った上で農業を営んできたインディアン達を追い出し、自分達、ヨーロッパから持参した小麦や大麦、綿花、見よう見真似で植えた現地のトウモロコシやタバコ、南米やアジアといった温暖湿潤な土地が原産の米やサトウキビなど、あまり水を必要としない綿花以外、どれもうまく育ちそうにもない農作物ばかりを植え、土壌が劣化すればまた原住民達を武力(暴力)で追い出して開拓地を拡大し、収穫の質や量は実際に耕して働く奴隷任せがほとんどで、また、ビクトリーガーデン(=Victory Garden、戦争に勝つ為の畑を作ろう)運動なる軍事物資の供給計画は立てても国家経済(国民全員の為の食糧)を支えられるような品種改良や農耕方法が開発される訳でもなく、そうした低劣な農業を牛や馬、ロバに代わってトラクターやコンバインなどの最新機械が導入されるようになってからも第一次世界大戦の頃まで続けていたのだが、ヨーロッパで戦争が始まると軍需景気に火がついて農作物が飛ぶように売れ、その景気に便乗しようと大農園主以外の中小の白人農家も無理な借金をしてまで農地を広げ、儲けを増やす為に手間暇を節約して最低限の農耕方法すらも省くようになった。(というか、バブル経済なのでもう農業せずに農地の転売だけで稼ごうとするようになった。)
その結果、それほど味も栄養価も良くない収穫物な上、収穫量もそれほど多くはなかったところへ世界恐慌と核実験によるダストボウル(熱風)が起きるとグレートプレーンズの農家は壊滅状態となり、どこも借金だらけで次々と破産&倒産していった。
その当時の悲惨な様子を綴った小説がアメリカの作家ジョン・スタインベックが書いた『The Grapes of Wrath(邦題では『怒りの葡萄』)』(1939年発刊)であり、“社会主義”小説、プロレタリア文学の代表作の一つとも言われている。
このようにアメリカの一般市民を飢餓と貧困に追いやった核実験は、富国強兵、一般国民は全員、天皇の臣民(奴隷)と大日本帝国憲法(1889年公布)で定められていた日本でも当然、行われていて、1934年に東北帝国大学(現在は東北大学)の物理学科助手(その後、新潟大学名誉教授)で原子核の内部構造の模型を公表した彦坂忠義が知られている通り、たとえ実験については一言も語られていなくてもそんな論文(実験や事実に基づいて証明する仮説)を発表できるぐらい核兵器を開発する為の実験が東北大学を中心にして度々、行われていたことは確かであり、1931年(昭和6年)に東北地方及び北海道地方は未曽有の冷害に見舞われ、さらに1933年(昭和8年)3月3日には岩手県釜石市を震源地とするマグニチュード8.1の昭和三陸地震が岩手県、宮城県、福島県、茨城県を襲い、翌1934年(昭和9年)にもひどい冷害がやって来て、いわゆる“東北飢饉”、または“昭和農業恐慌”とも呼ばれる日本史上、決して忘れることのできない大飢饉となった。
アメリカと同じようにこの頃の日本も軍需景気に沸いていたが、日本はあくまで“東洋の”植民地である以上、アメリカのように農作物を高く買ってもらえることはなく、むしろ、安く買い叩かれてイギリスを始めとするヨーロッパの戦争の軍需物資として召し上げられ(略奪され)、第一次世界大戦の頃にはひたすら低価格で大量生産し続けるだけの薄利多売の状態だった。
しかも、アメリカがビクトリーガーデン運動をしているぐらい世界市場がこの時、本当に欲しかったのは農作物の方で工業製品はどこの国でも供給過剰で有り余っていたのだが、「明治政府を発足させる為に借りた欧米諸国(の銀行)への莫大な借金の返済として食糧を安く輸出させられています。」とは決して公(日本国民)には言えない立場の日本政府は、農作物の大量生産を一般国民に促すため工業製品の国内価格を釣り上げて好景気を装い、農民達にもっと収穫高を上げるようせっつこうとしていた。
しかし、好景気の“風潮”を作ろうと高くした工業製品の価格に人も釣られ、薄利多売の農作物で生活費を稼ぐより工場で少しでも賃金の高い仕事を得ようと農村から町へと人(農民)が流れていく。
加えて、イギリスを始めとした欧米諸国(の銀行)は軍事物資での返済だけでなく、前線(兵力)での軍事的な返済も日英同盟や日英通商航海条約(第104話『蒙昧』(注2)参照)といった剣を振りかざして執拗に日本に求めてくる。
その為、日本政府はとうとうイギリスの脅しに屈して当時の国家予算を超えるほどの戦費をまた、欧米諸国(の銀行)から借りて7万3千人もの兵士を投入し、第一次世界大戦やロシア革命を機にもっと日本の国力を増強し、共産(社会)主義を倒すためと嘘をついてシベリアへと出兵して行った。(シベリア出兵 1918年~1922年)
ここまで来るともはや自暴自棄で借金していて財政破綻(自己破産)も時間の問題だったのだが、それでも日本政府は一般国民を欺き続けようと相変わらず“米穀検査”(米の品質改良を口実に輸出用によく乾燥させているか、輸送途上で米の量が減らないよう二重の俵でしっかり包装されているかを確認し、さらに安く買い叩く為に等級分け(格付け)まで行う規格検査。)を義務付けて小作人達(日本の農奴)が食うものも食わずに働いてやっとの思いで収穫した農作物をわざと低く評価し、“口米”(お米で払う追加税のこと。滅多に作れない上等米に報奨金を出すと言って競争心を煽る一方、米穀検査で評価が低い場合は契約した小作料以外に追加で米を徴収した。)を江戸時代の年貢米よりも過酷に取り立てて急場を凌ごうとする。
しかし、大量に輸出している分、国内の食糧が不足してきて物価が跳ね上がり、働かずに小作人(農奴)達の作る米の上前をはねて稼ごうとする政治家や企業経営者達より実際に働いて米を作っている小作人(農奴)達の方が家族共々、どうにも食べていけなくなり、ついに我慢の限界がきて小作争議や米騒動を起こして「自分達の生命を助けてくれ!」と必死に命乞いしているのだが、都会に住むマルクス主義を気取った知識層かぶれの裕福な若者達はそんな彼らの窮状などお構いなしに“広告代理店の”博報堂の創業者である友人の支援の下、毒舌記事で意気盛んな新聞記者の宮武外骨のような自称、反政府勢力とやらのデマゴーグ(大衆扇情家)達に煽られ、米騒動を面白がって便乗しようと日比谷公園で抗議集会を行い、そこから電車や自動車を破壊したり、街頭で投石や放火をするといった暴動を起こし、死ぬか生きるかの瀬戸際で叫ぶ小作人(農奴)達の命懸けの哀願を単なる自分達の暇つぶしの為の低俗な革命運動(テロ行為)にすり替えようとする。
同じく都会に住む企業経営者や資産家達も自分達の“国の経済が今にも崩壊しそうだ”というだけでなく、“自分達の日々の暮らしや企業、生命を支えて働いてくれている”多くの小作人(同じ国に住む労働者)達が死にかけていても全く気にも留めずひたすら自分達の利益を増やす為だけに多くの米やその他の農作物を安く買い占め、自分達が手塩にかけて作った米の一粒すらも食べられず働く力も尽き果てた小作人(労働者)達とその家族には高い値段の米や食料を売りつけようとする。
そして、日本政府や国会で無意味な論争を続けるだけの政治家達は欧米諸国の真似をして侵略した台湾や朝鮮半島から無料同然で召し上げた(略奪してきた)米やその他の農作物をその場凌ぎの救済措置としてばら撒くだけで終わり、何の財政再建策もないまま第一次世界大戦の終結と共に軍需景気が徐々に収束しだすと、国家財政の頼みの綱だった農作物の価格が世界市場で下落し始め、アメリカが世界恐慌(銀行や保険会社による投資資金や土地などの回収)を始める前に日本の国家経済は破綻を迎えた。
その為、当時、大蔵大臣だった片岡直温が思わず「(国立の)東京渡辺銀行がとうとう破綻致しました。」と口を滑らさざるを得ないほどもはや打つ手なしのお手上げ状態となった。(昭和金融恐慌 1927年)
そこで彼らが始めたのが“口減らし”(=日本国民の大虐殺)だった。
つまり、家族(国民)を養えなくなった以上、一家心中するか、子(国民)殺しするしか天皇とその配下の貴族政治家や大企業の経営者達が生き残れる道はないと考えたのである。
だから、既に都市部の工業人口を減らすと共に日本国内の土地をアメリカ政府の中央銀行の役割を担っていたモルガン商会を通じて欧米諸国の銀行に売り払えるよう関東大震災(1923年(大正12年)9月1日)を起こし、10万人以上の一般国民を焼死や行方不明にして土地所有権をうやむやにしていたが、その範囲をもっと拡大させる為に計画したのが中国や朝鮮半島を始めとする海外の“死地”へ養えなくなった日本国民を武装移民として送り出す“満州農業移民百万戸移住計画”(1936年に日本陸軍が作成した500万人以上の飢餓農民達を「王道楽土」のスローガンでもって扇動し、満州国(現在の中国東北部)へ移住するよう促進した政策。)と、彼らが移住(侵略)しに行った先で発生する縄張り争い(武力衝突)を見越した“太平洋戦争(第二次世界大戦)”だった。
むろん、日本と同じく戦争のし過ぎで食糧政策に失敗し、自国民を養っていけなくなったソ連を含めた欧米諸国も世界大戦に同意していたこともあり、日本とドイツ、イタリアが世界中の国民の前で財政破綻(自己破産)を公表できるよう敗軍を演じることになった。
そうして、アメリカが戦費の調達や自分達の私財を一旦、確保できるよう世界恐慌による金融操作で戦争の準備を始めると、日本も軍備を整えるためあちこちで人体実験を伴った核兵器実験を行うようになった。
その一つが東北飢饉(昭和農業恐慌)や昭和三陸地震を引き起こした一連の核実験であり、昭和三陸地震では多くの人が地震直後に砲撃音を聞いており、海底の断層に仕掛けられた原子爆弾で津波も発生して2011年3月11日に起きた東日本大震災の時とほぼ同じ地域が襲われ、死者と行方不明者、合わせて3千人以上の人達が亡くなり、1万人以上が負傷して多くの罪もない人達が家や家族、友人、恋人、仕事や財産を失った。
また、湿潤で豪雪地帯でもある東北はアメリカやソ連とは逆の冷害(日照が必要な夏季に長雨や冷風、曇天が続き、作物が育ちにくくなる災害)が起きて凶作となり、ウクライナやカザフスタン、ソ連で起きた飢餓大虐殺と同じように子殺しとまではいかないものの、栄養失調で母乳の出なくなった母親のお乳を吸い続けながら弱っていく赤ん坊や死を覚悟して若い者に食べ物を譲ろうとする年寄り達から先に亡くなっていき、大人から子供まで衣服も買えず薄いボロ着で寒い東北の野原や山を駆けずり回って雑草や木の実、食べ物になるものなら何でも探し回り、それにも困り果てるとまだ小学生の我が子を女工や売春婦、丁稚(子供の住み込み使用人)として売りに出し、その人身売買で得た金で滞納していた税金を払い、ようやく残った金で買えたわずかな食料で親や幼い兄弟達がほんのしばらく食いつなぐという一家離散にまで追い込んだ。
その他、東北以外で行われた核実験の例としては皇室及び日本政府の補助金で建てられた理化学研究所で1935年に原子核実験室が創設され、研究員だった仁科芳雄がウクライナのハルキウ物理学技術研究所で核実験に使っていた加速器の小型化に成功し、今も神戸市や兵庫県内に理化学研究所の“放射光科学”総合研究センターや“X線”自由電子レーザー施設があるように、関西にある六甲山脈周辺で核実験を行っていた。
その結果、1938年(昭和13年)に阪神大水害が発生し、1995年に起きた阪神淡路大震災の時とよく似た地域が襲われて神戸市や芦屋市に住む一般市民が土石流によって流され、715人が死亡、神戸市は当時の全人口の7割以上の人達が被災した。
この時の芦屋川の氾濫の様子を描いたのが当時、芦屋市在住だった谷崎潤一郎の『細雪』(1944年初版)で、阪神大水害の話以外に出てくる登場人物達が何かと病気になったり、流産するといった話が書かれており、一見、没落した上流家庭で繰り広げられる恋愛小説と思われがちだが、普段、小説を読まない昭和天皇がこの本を読了し、雑誌に初めて掲載された際も軍部から差し止められ、戦後になってもGHQ(連合国軍総司令部)から検閲や改編が指示されるのも実はこの小説に書かれている内容が核兵器による人体実験の結果を描いていたからである。
何度も日本政府やアメリカからの圧力(脅迫)によって出版差し止めや改編といった言論弾圧に遭いながらそれでも自身の愛した関西の自然とそこに住む人々の生命を救おうと、谷崎潤一郎が苦心してこの恋愛小説の中に真実を込めようとしていたことが伝わる作品となっている。)