第百七話 革命(2)
『民衆の歌が聞こえるか?』Do you hear the people sing?
https://youtu.be/N_UGAnxeCEk
(URLを範囲指定して右クリックし、移動を選択するとすぐに聴けます。)
泣いてる民の声が聞こえるか?
闇に迷って光を探す歌
この世の闇で苦しむ人達に
この光掲げ、闇を消し去ろう
我らは自由に神の庭で生きる
剣を棄て、畑を耕すんだ
そうすれば皆、自由になれる
あなたも加わるか、我らの聖戦に?
世界が夢見た砦を超えた場所へ
幸せな民の歌が聞こえるか?
それが明日、あなたがもたらす未来だ!
(今回の後書きにおきまして残酷な表現が出てまいりますが、事実を詳細に記す上で必要なため、そうした表現が苦手な方はご注意ください。)
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この時、革命運動を何とか抑えようと苦心していた男がいた。
後にドイツ帝国の首相となるオットー・フォン・ビスマルクである。
ビスマルク自身、革命運動はナポレオン戦争で生活苦に陥った民衆が切羽詰まった怒りに燃え、純粋に“民衆だけで”革命運動を起こしたものだと当初は思っていた。
貧農の多いプロイセンで典型的な地主貴族であるビスマルクが農村の置かれている悲惨な状況を知らないはずはなく、たとえ自身は“王権神授説”(=The Divine right of Kings、神が王権を与えているので、何人も王に逆らうことは許されないという政治思想のこと)を固く信じる政治家とは言え、彼ら民衆と対峙するにあたっては言葉の細部にも気を遣い、慎重に慎重を重ねて命懸けの交渉を心掛けていた。
それほど革命運動の勢い、群集の暴動は凄まじかった。
領土近くでは1000人以上もの貴族や富裕層が虐殺され、彼らの住む邸宅も破壊尽くされ、農民達は意気揚々と自分達が殺した貴族や金持ち達の首を掲げて行進する。(The Galician Slaughter 1846年)
完全武装しているプロの軍人達ですら殺気だった群集に囲まれると途端にガタガタと震え、もはや武力鎮圧どころではなかった。
その為、プロイセンの次期王位継承者だったヴィルヘルム1世は身の危険を感じ、一旦、国外に逃亡した。
ところが、ヴィルヘルム1世の妻であるアウグスタ妃はそんな紛争の真っただ中にいて、なぜかプロイセン国内から一歩も外に出ることがなかった。
男勝りの政治好きと聞いてはいたものの、戦闘経験のある大の男(=ヴィルヘルム1世)ですら震え上がるほどの状況に出くわしながら、戦場に行ったことはもちろん、血を見たこともないようなお姫様が全く恐怖を感じないはずはない。
なのに、なぜ、アウグスタ妃は一歩もプロイセンを脱出しなかったのか?
ビスマルクも何となくそれが引っかかっていたのだろうが、その謎は民衆との交渉の場ですぐに解けた。
民衆が突然、王室ともなじみの深い銀行に勤めていたゴットフリート・カンプハウゼンを首相にするよう要求してきたからである。
しかも、カンプハウゼンは当時のプロイセン国王であるフリードリヒ・ヴィルヘルム4世からも直々に首相に指名されていた。
国王に着任して以来、貧しい農民達から高い税金を巻き上げ、動物園だの、博物館だの、城の修復だのと散々、贅沢な公共事業に税金を湯水のように注ぎ込み、そのせいで我慢の限界にきた農民達が決起し、ヴィルヘルム4世に退位を迫ってもおかしくないはずなのに民衆は自分達を苦しめている張本人と妥協した男を首相にするよう推してきたのである。
革命運動自体、茶番だ。
ビスマルクはその時、はっきり分かったのだろう、
アウグスタ妃が革命運動を仕組んだことを。
イギリスかぶれの自由主義者で女も政治に参加すべきと常々、公言してきたアウグスタ妃の性格からして、彼女が裏で糸を引いていても不思議ではなかった。
実際、彼女の他に別の領邦国家のバイエルンでも似たような事件が起き、アイルランド人なのか、イギリス人なのか、出生も定かでない踊り子がバイエルン国王を篭絡させて爵位をもらい、それに反対した保守派の貴族や司祭を追い出そうと自由主義の名の下、民衆を扇動して革命運動まで引き起こした挙句、バイエルン国王を退位させていた。(Lola Montez事件 1848年3月20日)
だから、自分や彼女の夫であるヴィルヘルム1世のような堅物の保守派勢力を打ち砕き、彼女と仲のいい義兄の国王夫妻や彼女の好きなイギリスの自由主義に傾倒する政治勢力に政権を持たせたい、その一心で仕組んだことなのだろう。
だが、その彼女の“気まぐれとも言うべき浅はかな政治謀略”のせいで、罪もない民衆や兵士達が血生臭い革命運動(戦闘)に巻き込まれ、彼女の夫のヴィルヘルム1世はそれを鎮圧するのに大砲まで用いて無差別に一般市民を殺傷しまくった。
しかも、知ってか知らでか、この革命運動の資金源にイギリスが絡んでなくもなかった。
革命運動で弱体化した国を乗っ取るのがイギリスの常とう手段である。
それは9年前の“ロンドン条約”(=The Treaty of London of 1839)がいい例だった。
ナポレオン戦争後、ヨーロッパ各国はナポレオンから奪い取った領地の配分を決める際、ベルギー、ルクセンブルク、オランダ(=Netherlandsオランダ語ではネーデルランドと言い、「海面より低い国々」の意味)を一つの連合国にし、オランダ(ネーデルランド)がこの連合国を統治することで合意したはずだった。(ネーデルランド連合王国=the United Kingdom of the Netherlands、1815年)
そこで、イギリスは当時、イギリス皇太子の娘で第二王位継承者であるシャーロット姫をオランダの皇太子に嫁がせる手はずを整えていたのだが、そんな政略結婚など眼中にないシャーロット姫はロシアの将校と大恋愛の末、家出(城出)をしてまで結婚直前になってオランダとの縁談を破棄してしまった。
ところが、ベルギーで突然、革命が勃発した。(the Belgian Revolution 1830年)
理由は、経済的な独立だとか、フランス語、オランダ語と何度も支配国が替わる度に言語を変えられてきたのが屈辱だとか、宗教もプロテスタント(キリスト教新興宗派)の多いオランダとカソリック(キリスト教伝統宗派)のベルギーでは相反するからだといろいろ言われてはいるが、実際のところ、どうだかわかったものじゃない。
ベルギーは今も昔も“鉄と木炭”の輸出ではヨーロッパでも指折りの工業国だ。
特に、ベルギー南東部にあるアルデンヌ地方は深い森に覆われて木炭の原料となる木材が豊富なだけでなく、東アフリカの大地溝帯と同じような“ライン地溝帯”(=The Upper Rhine Plain)や“中央高地”(=The Massif Central)(注1)といった火山地形にあって鉄鉱石や石炭、亜鉛も多く産出し、アルデンヌ地方の中でもワロン地域(=Wallonia)は“ワロン鉄”(=Wallon ironまたはOregrounds iron)というヨーロッパでは高炉を使った精度の高い鉄を造ることでよく知られている。
だから、イギリスがベルギー革命を支持して、かつてシャーロット姫がオランダ皇太子を振ってまで結婚したあのドイツの貧乏貴族でロシアの一将校でしかなかったレオポルドを、即座にベルギー独立後の初代国王に推挙してきた理由もうなずける。
結局、オランダがベルギーの独立を認めず、軍事介入してすったもんだはあったものの、ナポレオン戦争でどこも経済破綻して疲弊している他のヨーロッパ諸国を尻目に、全てはイギリスの思惑通り、ベルギーの独立が認められ、レオポルドを国王に据えたベルギーを永世中立国にするという内容のロンドン条約をお互い交わして終わっただけだった。(=The Treaty of London of 1839)
あのロンドン条約の経緯からして、このままイギリスかぶれのアウグスタ妃や戦争ごっこしか能のない王族連中の思うままに政治をやらせたら、次にイギリスに乗っ取られるのはこのプロイセンだ!
その時までビスマルク自身はドイツの領邦国家を一つにまとめてドイツ帝国を築こうとは考えていなかったのだろうが、乗っ取りを企む大英帝国に対抗するには相手を凌ぐほどの力をつけなければ生き残れないと考えたのだろう。
だから、ビスマルクはベルギーと同じライン地溝帯にあって鉄や石炭の採れる自国の地の利を生かし、既に鉄や石炭の輸出を始め、蒸気機関車の導入も進んでいたルール地方(=Ruhr)の重工業化をさらに助成する一方、失業して都市に流入してくる移民をとりあえず兵士や炭鉱の坑夫に登用して失業率を減らしながら国力の増強を図った。
それが“鉄血政策”(=Blood and Iron policy、1862年にビスマルクが「プロイセンの地位を決めるのは1848年における多数決や自由主義者達の演説ではなかった。“鉄(工業化)”と“血(軍備拡大)”こそ我が国の地位を決める。」と演説したことに由来する政策のこと。)と呼ばれる彼の苦肉の生き残り政策であり、また、イギリスと同じ軍拡路線でありながら、国家(政府)が国民の生産手段(生きる方法)を一方的に決めて統制する(標準化させる)“共産主義(=Communism)もしくは社会主義”(=Socialism)(注2)政策の誕生でもあった。
(ただし、ビスマルクの政策の場合、共産主義や社会主義に通じると言っても、あくまで彼は王権神授説を固く信じる王制派なので、王制を革命運動(暴力)で打倒して労働者が政権を握ることを理念(目標)とする、“現代で呼ばれる共産主義や社会主義”、いわゆる“マルクス主義”(=Marxism)(注2)とはその点で違うと言える。)
確かに、失業していた貧しい移民(農民達)にとって目の前にぶら下げられた職(=食)にありつけることほどうれしいものはない。
たとえ、自分の意にそぐわない人を殺す為の武器を造る軍需工場だろうと、人と殺し合うのを仕事にする兵士だろうと、低賃金な上に危険で劣悪な労働環境の坑夫の仕事だろうと、死ぬか生きるかの瀬戸際にある人間はとにかく“何も考えず”なんだってしようとする。
― 蛇の道は蛇
(=The wolf knows what the ill beast thinks、「弱った獣が考えることを狼は知っている」)
とはよく言ったもので、ビスマルクが国家(王室)を生き残らせる為だけに進んでいった軍拡への道をプロイセンで行く当てもなくさ迷っていた人々もまた、自分達の生き残りを(生命を)懸けて“黙って”進んでいった。
だから、たちまちドイツ(プロイセン)はイギリスと肩を並べるくらいの軍事大国にまでのし上がり、同盟国も増え、かつては鼻先であしらわれていたオーストリア帝国ですらも従えるまでになっていた。(普墺戦争=The Austro-Prussian War 1866年)
そんなドイツ(プロイセン)の鉄血政策がちょうどビスマルクの心の中で芽生え始めた頃、前述のエジプトのヌバール・パシャはたまたまオーストリアのウィーンに派遣されていて、主人であるアッバス・パシャがイギリスによって密かに殺されたことを知ったのである。
そこで、ヌバールはウィーンにあるロスチャイルド家の銀行に融資を願い出た。
というのも、アッバスとヌバールはエジプトのアレクサンドリアからカイロ、スエズ運河、さらにはインドまでつなぐ一大鉄道事業を前々から任されていて、既にアレクサンドリアからカイロまでの鉄道はあの設計ミスで大事故を起こしたロバート・スティーブンソンの設計でもって敷設してしまっていたが、それ以降もイギリスから鉄道建設(公共事業)を続けるよう圧力をかけられていた。
しかし、既に借金漬けにされてどうにも首が回らなくなっているムハンマド・アリ王室の現状を見るに見かね、ヌバール・パシャはイギリスやフランスに直結する銀行ではなく、ドイツというイギリスやフランスに対抗できそうな国家(王室)につながる新たな銀行に融資を頼んでみることにした。
元々、ウィーンにあるロスチャイルド家の銀行はその本拠地がドイツのフランクフルトにあり、しかも、既にオーストリアからポーランドまでを結ぶ鉄道(=The Emperor Ferdinand Northern Railway)を経営していて、その鉄道を通じて“ルールポーレン”(=Ruhrpolen、現在のポーランドやバルト海沿いの国々(ラトビア・リトアニア・エストニアなど)からルール地方にやって来る移民のこと。彼らは中世の頃から何度かプロイセンの領土民にされてきたが、それでも少数民族が入り乱れ、言語や生活習慣もほぼ異なる為、家族連れで移民してきた場合、子供達が学校で虐めを受けたり、学校の授業でも差別され、大人も職場でドイツ人上司や役人に虐待を受けるなどして奴隷制と同じ過酷な労働環境を強いられた。それでも移民の数は増え続け、その後、労働運動を行って抵抗するようにもなったが、それもナチスの台頭で迫害を受けることとなる。)を毎日のようにルール地方に送り込んでいることから、当然、ドイツ(プロイセン)ともなじみが深かった。
そして、このヌバール・パシャの融資の申し入れにこのウィーンのロスチャイルド銀行が応じたことで、世界はこの後、“人類滅亡の危機”にまで追い込まれることになる。
(注1)
“ライン地溝帯”(=The Upper Rhine Plain)とは、全長約350km、幅約50km、スイスのバーゼル地方からドイツのフランクフルト市辺りまで続く火山活動で大地が裂けた状態になった帯域であり、ヨーロッパ大陸の真ん中を割っていてドイツとフランスの国境線にもなっている。
主にベルギー南東部及びドイツ西部に位置し、標高1,000mに満たない山が多いので丘だと思われがちだが、一応、ヒマラヤ・アルプス造山帯の一部でもあるため現在も活火山地域とも言われている。
ただし、“不思議なことに”スイスでは今も年に10回くらいはマグニチュード3~4クラスの体感地震が起き、歴史的にも1356年に起きたバーゼル地震ではマグニチュード6~7と見られる大地震で1,000人を超す死者を出したのに比べ、ドイツでは一番、噴火しやすい地域と見られている“ラーハ湖”(=Laacher See、ライン川沿いにあるコブレンツ市から西へ24kmほど行った所の、ライン地溝帯の一部のアイフェル火山山脈の麓にある直径約2kmの火山湖。ちなみに日本の火山湖で有名なのは神奈川県の芦ノ湖である。)の湖底から今も炭酸水が湧き出し、そこから約14km行った所にも冷水とは言え、高さ30~40mまで噴水する世界一の“アンデルナッハ間欠泉”(=the Andernach Geyser、1903年に鉱泉水を確保する為に深さ343mまで掘削したところ噴き出た泉。)があり、しかもドイツは温泉も多いはずなのだが、なぜか地震らしい地震はほぼなく、このアイフェル火山山脈の最後の火山活動も約1万1千年前とされている。
とは言え、そうした火山地質に恵まれているため鉄やアルミニウムを含む金属鉱石に加え、保水と水はけを兼ね備えた赤土(鉄礬土またはボーキサイトとも呼ばれ、アルミニウムの原料でもある。)も豊富で、“シュヴァルツヴァルト”(=Schwarzwald、ドイツ語で「黒い森」。全長160km、標高1,493m、総面積約6,009㎢)という、標高1,000mを超す山々に松やオーク(楢)、ブナといった大樹が群生した豊かな森が近くに広がっており、古代からアレマニ族(=Alemanni、古代ゲルマン語で「全て平等な人々」の意味。)という部族がローマ時代以前からライン地溝帯に居住し、一時期はゲルマン狩猟民族と同化してローマ帝国を脅かすまでになるが、AD6世紀頃になると“フランク王国”(=the Frankish Empire、ゲルマン民族の一つであるフランク族がキリスト教を掲げて建てたAD5世紀~9世紀まで続いた軍事大国。相続争いで国家が3つに分割されるようになり、それぞれフランス王国、神聖ローマ帝国(ドイツ)、イタリア王国に分かれるようになった。)に併合されて次第にキリスト教徒化していくようになり、アレマニ族も消えていくようになった。
だが、それでもフランク王国が消滅するまでは独自の法律を敷いて彼らだけが知る冶金術(製錬&精錬)を行っていた。
その為、アルミニウム(=Aluminium、ラテン語でAlumとは「苦い塩」を意味する。)の語源は実はこのアレマニ族から来ており、彼らが冶金して作っていたのは日本語で言う、“ミョウバン(明礬、化学用語だと硫酸カリウムアルミニウム。)”だった。
ミョウバン(明礬)は、日本では焼きミョウバンとも呼ばれ、ナスの漬物の色をきれいにしたり、ウニの煮崩れを防止したり、ケーキなどを膨張させるのにも使われる少し苦みのある食品添加物としてよく知られているが、その他にも井戸の水を浄化したり、皮を殺菌して柔らかくする皮なめし剤になったり、あるいは布を染色する際に色落ちしないようにする媒染剤としても使え、さらに止血剤や鎮痛剤にもなるという万能品で、アレマニ族はその優れた化学製品を鉄と一緒に作れたため、戦時における武器や兵器の為の鉄の技術と共に、負傷兵を治療する為の止血剤や鎮痛剤が欲しいローマ帝国やフランク王国といった軍事国家の人々に占領されることとなった。
しかし、彼らの冶金術(製錬&精錬)も戦争で人が死んで伝承者や後継者がいなくなり、アレマニ族の教えからも離れてキリスト教徒化していくと次第に廃れていくようになり、中世の半ば頃になるとごく限られた人達の間でしかその冶金術(製錬&精錬)は伝えられなくなった。
そんな最中、ライン地溝帯で分かれているフランス側の“ヴォージュ山脈”(=the Vosges mountains、全長120km、標高1,424m、総面積約6,000㎢)にあるドンレミ村から一人の少女がそのアレマニ族の冶金術(製錬&精錬)を携えてイギリス軍に包囲されつつあったフランスの王太子シャルル7世の元を訪ねた。
“ジャンヌ・ダルク”(=Janne d’Arc)である。
フランク王国の崩壊後、領土の相続争いが激化し、領土の継承権を持つフランスの王女達が度々、イギリスの王達と結婚してその子孫を生んだことからイギリス王室は1337年から(恐らく現代に至るまで・・・。)フランスが自国の領土だと主張し続けてきており、その最初の侵略戦争となったのが“百年戦争”(=the Hundred Year’s War、1337年~1453年)だった。
そして、その百年戦争の真っただ中でイギリス軍に押されつつあったフランス軍の救世主として突如、現れたのがフランスの一村民でしかなかったジャンヌ・ダルクである。
ドンレミ村はライン地溝帯にあって現在のアルザス・ロレーヌ地方にも近く、アレマニ族が居住していた地域でもある。
しかし、ジャンヌの両親はどちらも元々はドンレミ村出身者ではない。
ジャンヌの父親が徴税役人としてフランス王室に仕える武装した地主農民であり、日本の戦国時代に例えるなら豪族のようなもので、フランス王室から課税された農民達を武器でもって脅して強制的に徴収する仕事をしていたため、徴収する地域として割り当てられた場所がたまたまドンレミ村だった。
一家はジャンヌが生まれる前にドンレミ村へ引っ越し、ジャンヌ・ダルクはそこで生まれ育った。
前述した通り、アレマニ族の人々は独自の法律や高度な冶金術(製錬&精錬)を持つ高い知性と独立心旺盛な民族で、「アラマノリュム平和法」(=the Lex Alamannorum and Pactus Alamannorum、1530年にスイスの法学者ヨハンヌ・ジカルドによって一部が編纂された。)という彼らがAD8世紀~12世紀まで敷いていた法律でも教会に逃げ込んできた人を追い出そうとしたり、暴行や虐殺をしてはならないと決めていたり、強姦や婦女暴行に対しては厳しい罰金で処すといった平和を愛する人々だったらしく、アレマニ族(全て平等な人々)の名前の通り、封建制(一部の人が権力を握って多くの人々を支配する社会制度)より民主制(全ての人が平等にお互いを助け合う社会制度)を自分達の共同社会に取り入れていた。
その為、ゲルマン民族と同化してキリスト教徒化するまでは武力(暴力)でもって領土を拡大することなく静かに暮らしていたのだが、近隣に住むゲルマン民族と結婚して子孫が生まれるようになってくるとアレマニ族の人々の間でも考え方や価値観が変わってきて、そうした平和や民主主義、理性(良心)を愛する心も失いつつあった。
ところが、そのアレマニ族の教えがよく分かる別の民族がキリスト教徒のゲルマン民族に迫害され、アレマニ族の定めた難民を受け入れる平和法に助けられてライン地溝帯一帯のドンレミ村やアルザス・ロレーヌ地方などに住み着くようになった。
ユダヤ民族である。
ヨーロッパのあちこちで家族や仲間がキリスト教徒達に虐殺され、迫害されて命からがら逃げまどってきたユダヤ人達は移住先で神の智慧であるアレマニ族の冶金術(製錬&精錬)を知り、自分達が生き残る為の手段に使おうと再びそれを掘り起こしていた。
そんな様々な民族が混在するドンレミ村で生まれ育ったジャンヌは徴税役人の父親の傍で村人達の家々を回るうち、そうしたユダヤ人達とも自然と付き合うようになった。
だが、ジャンヌの両親はドンレミ村の出身でもなく、無学な上、おおよそ理性(良心)や平和的な考えとも無縁の人達だったらしく、キリスト教徒の伝統で徴税以外にユダヤ人達と口を利くことはなかったのだが、無邪気で好奇心旺盛な少女のジャンヌだけがよっぽど楽しかったのか用もないのにちょくちょくユダヤ人達の家に遊びに行ってはいろいろ物を教わったりしていた。
そんな時、ジャンヌは彼女の言う天使(天からの伝言者)のユダヤ人達からアレマニ族の秘法である冶金術(製錬&精錬)の一つを教わった。
それは“使い方や扱い方を間違えてはいけない”と教わった技術だった。
それでもジャンヌはその技術の持つ力が百年戦争で死んでいく大勢の兵士達と、その戦費の為に高い税金をむしり取られて苦しむ自分の友達のユダヤ人達やその他の村人達を救う“唯一の方法”だと信じ込んでしまった。
そうして、彼女はそのアレマニ族の秘法の冶金術(製錬&精錬)を持って堂々とフランスの王太子であるシャルル7世に「自分を志願兵にしてくれたらフランスとあなたを救える」と申し出たのである。
もちろん、最初はこの田舎から出てきたばかりの16歳の一人の少女にフランス軍を救える戦闘能力はもちろん、知恵や技術があろうとは誰も信じなかった。
だが、実際にジャンヌの言う通りに冶金(製錬&精錬)をやらせてみると、これが本当にとんでもなく恐ろしい兵器ができてしまった。
それが彼女の称号としてつけられた“ダルク”(=D’Arc、フランス語で「弓矢」の意味。)の由来であり、彼女はこの弓矢にライン地溝帯には山ほどある赤土を火薬として利用した。
この赤土を用いた弓矢については後ほど、本作品にて触れたいと思う。
とにかく、破壊力のある新兵器を得たフランス軍はこれで一気に士気が盛り上がった。
連戦連勝で沸きに沸き、フランスの王位に就くことすら怪しかったシャルル7世が見事に戴冠してフランス国中の人々からジャンヌ・ダルクはまさしく聖女、フランスの救世主と持ち上げられ、しばらくはジャンヌの家族も貴族に引き上げられて鼻高々だった。
だが、所詮、戦闘経験もなければ、権謀術数の渦巻く王侯貴族達の本音など伺う由もない思春期の娘が新兵器を引っさげただけで戦場を渡り歩いて敵はもちろん、彼女の倍以上も年上の世間の汚濁にまみれ切ってすぐに裏切りかねない味方の大人達とも非情な駆け引きをこなすなどできる訳がない。
結局、彼女は自分達の国が乗っ取られようとしていても大した打開策もなければ、働きもできない不甲斐ない大の大人の兵士達や王侯貴族達に交じり、彼らの癒しや士気を上げるのにちょうどいいマスコットかアイドルのように扱われ、20歳にもならない生娘が戦旗を振る度に腰や胸が動くのを見て男の兵士達がにやけた面持ちで喜んでいるだけとも知らず、初心で純真な彼女は命懸けで戦場に赴き、微力ながらもイギリスに侵略されている祖国を救おうと本気で戦っていたのだが、それも長くは続かず、毎度、目立つ場所に立たされて戦旗を振っている彼女は狙いやすかったのか待ち伏せされてイギリスと同盟を組んでいるフランスの諸侯達によって兄と一緒に捕縛された。
その後、兄の方はすぐに釈放されたのだが、ジャンヌだけは許されずそのままイギリス軍に引き渡されることとなった。
というのも、既にシャルル7世の方はジャンヌから彼女だけが知る弓矢と火薬の作り方を教わっていたため彼女なしでも戦えるようになっていたことと、元より王族とはオスマンの剣や草薙剣のような兵器を神器(神から授かった証拠品)と見せかけて戦争するように(第105話『欺瞞』(注1)参照)、ジャンヌが今後も彼女の持つ兵器を振り回して神の名の下で戦争していくのならシャルル7世の王権の正統性が揺らぐことになる。
だから、イギリスと同盟を組むフランスの諸侯達と既に和平を結んでいたシャルル7世はジャンヌをイギリスに引き渡すことに密かに同意していた。
むしろ、それを条件に和平が成立していたと言っても過言ではない。
イギリス軍にしてみれば戦場で散々、コケにされてきたジャンヌ・ダルクに報復できるとあって最初から死刑を前提に不当な裁判を仕掛け、何度も彼女を「魔女だ」と責め立て、拘留中も性的暴行を加えようとしたり、衣服をはがして辱めようとしたりと人非人を絵に描いたような非道の限りを尽くした挙句、彼女の味方であるべきはずのフランス側からも何の弁護も支援もないという四面楚歌状態のまま、むごたらしく火刑に処された。
たった19歳のあどけない少女はイエスの名を叫び続けながら最後の最後までイエスが神だとするキリスト教を信じ、また、自分が命懸けで尽くして戴冠させたシャルル7世や祖国フランスの国民(兵士達)が最後には自分を助けに来てくれるだろうとも願っていたが、結局、“誰一人として彼女を助けに来ることはなかった”。
あれほど聖女だ、フランスの救世主と持ち上げ、称えながら、自分達の生活や国家(共同社会)を守る為に無学で非力ではあっても精一杯、武力(暴力)で蹂躙しようとしてくる敵に立ち向かおうと立ち上がってくれたこの少女を武装もし、富も権力も持っているはずの大の大人達は何一つ、満足に国家の為にできず、彼女を散々、都合のいいように利用し尽くし、不要となったら敵と手を結んで簡単に見棄てたのである。
その悔しさと無念さはいかばかりかと思うが、とは言え、彼女が誤った方法で人を救おうとしたことで、彼女の知る兵器は他の人々に伝承されることになり、人を救うどころか、逆にもっと多くの人を殺傷してしまうようになった。
その為、ジャンヌから教えられた方法で軍拡を行ったシャルル7世は、彼女をイギリス軍に引き渡して和平を結んだフランスの諸侯であるブルゴーニュ公国のフィリップ善良公(?)(そもそもイギリス軍をフランスに引き入れた張本人なのになぜ、フランス人が未だ“善良公”と呼んでいるのか全く理解できないが)と結託してイギリス軍を迎え撃つことになり、1450年にはフォルミニーの戦いで、1453年にはカスティヨンの戦いで、いずれもモンス・メグ(=Mons Meg)と呼ばれる全長約4m、重さ6.6トン、口径510㎜という、大人の体がすっぽり入るぐらい大きな筒を持った大砲や持ち運びできる銃をこれまでとは格段に違う破壊力のある火薬と共に用いて圧倒的に勝利し、ブルゴーニュ公はジャンヌが生まれ育ったドンレミ村を始めアルザス・ロレーヌ地域も支配してそうした銃器や大砲の製造で巨万の富を築くようにもなった。
また、大砲や銃を使ったこれらの戦いの後、ジャンヌが望んだ通り、百年戦争は終結し、ドンレミ村やブルゴーニュ公国では税金もフランス革命が起きるまで免除され続けたが、それも裏があって兵士になるなら税免除されるようになっており、それ以外の塩や食料品には重い税金が課せられ、要するに武器や兵器を輸出したり、傭兵訓練を主要産業とするようになったブルゴーニュ公国(現ベルギー、ルクセンブルク、オランダ)が租税回避地にされただけで、そうした租税回避で軍資金を得た王侯貴族達によってますます次の戦争を呼ぶことになった。
こうして、ジャンヌを哀れな殉教者(生贄)に祀り上げて軍備を増強し、王権や富を得たシャルル7世やフィリップ善良公はその後、オスマン帝国と同じように戦争を繰り返し、宮廷内での権力闘争による殺し合いも絶えず行われ、武器販売の為に“十字軍遠征”(=the Crusades、キリスト教を国教とする西洋諸国がイエスの処刑が行われた場所である中東のエルサレムを聖地としてこれを領有するオスマン帝国などのイスラム教国家から奪還することを目的とした戦争のこと。歴史上、これまで行われた十字軍遠征は大体、4回ぐらいと言われているが、実際のところ、現在も続いているので1095年に東ローマ帝国がトルコのセルジューク朝への侵略戦争の援軍をローマ教皇ウルバヌス1世に要請した第一回目からの回数は様々な歴史家の意見や考え方によって異なる。)のような大戦争をけしかけようと多額の費用をかけてヨーロッパ各国の王侯貴族達を集めて宴会を開いたり(Banquet du Voeu du Faisan、1454年2月17日)、二束三文の価値しかない絵画や美術品の売買などでマネーローンダリング(脱税の為の資金洗浄)しながら何とか軍資金や戦後の復興資金をやり繰りしていたが、それでも借金に次ぐ借金で絶えず財政赤字は続き、表向きは豪奢に見えていても内情は火の車で、結局、フィリップ善良公は再度、寝返ったフランスからの裏切りに会って彼の息子も戦死し、栄華を誇ってわずか40年ほどでその領地はフランスに没収され、ついで神聖ローマ帝国(ドイツ)やスペインなどに次々、占領されていくようになった。
一方、シャルル7世も似たようなもので、自分の息子との確執で宮廷内での暗殺を恐れて病気治療も拒むようになり、糖尿病で自分の身体が足先から徐々に黒く壊死していくのを眺めながら高熱や頭痛にうなされ続け、合併症で腎臓や神経にも支障をきたして尿や便にまみれるようにもなり、痴ほうも進んで王様どころか人間として扱われることもなくなり、それでもなかなか死ねず、最後は顎に腫瘍ができて顔が大きく腫れあがり、唾を飲み込むことすら激しい苦痛となって食事もできなくなり、とうとう彼の家族は誰一人、彼の死を看取ることなく、“一人ぼっちのまま58歳で餓死した”。
そうした歴史を持つこのライン地溝帯はジャンヌ・ダルクの活躍以降、軍事兵器の開発に欠かせない土地とみなされるようになり、再び19世紀にイギリスから狙われてベルギーの独立後、運河か道路を造る予定が急遽、イギリスの介入で変更され、鉄鉱石や石炭などをライン地溝帯から採掘してイギリスの建造する蒸気機関車に積んで一部、オランダを通り、ベルギーのアントワープ港に向けて輸送する鉄道がもちろん、ベルギー国民の税金で敷設されることとなった。(the Iron Rhine Treaty of 1873)
現在、この鉄道路線をリニューアルすべきかどうかでオランダとベルギーは揉めている。
“中央高地”(=The Massif Central)とは、南フランスのリヨン、クレルモン=フェラン、トゥールーズ、モンペリエ、マルセイユの間に集まっている山地や高台のことである。
標高1,886mの“ピュイ・ド・サンシー”(=Puy de Sancy)が最高峰であり、その他にも標高1,000m以上の火山が数多く集まっていて、フランスの国土の15%をこの中央高地が占めている。
ただし、ほとんどが死火山であり、活火山とされているのは“シェーヌ・デ・ピュイ”(=Chaîne des Puy、標高1,464m)ぐらいだと思われるが、最後の噴火がBC4040年らしくそれ以降は全く噴火していない。
しかし、“不思議なことに”有史(検証できる文章のある時代)以降、噴火したことのないこのシェーヌ・デ・ピュイを、これまた、山らしい山もなく“自国で平和に暮らす限り”、一生涯、火山噴火など経験するはずもないイギリス人のジョージ・プーレットが地質学者と称して熱心に調査し、『Memoir on the Geology of Central France(邦題にすると『中央フランスの地質に関する記録』)』(1827年発刊)や『The Genelogy and extinct Volcano of Central France(邦題にすると『地質学及び中央フランスの死火山』)』(1858年発刊)といった地質学の学術書をいろいろ出版した。
実は、この男が特に研究していたのはAD79年に大噴火を起こし、麓で栄えていた大都市ポンペイを一瞬にして消滅させたイタリアの“ヴェスヴィウス火山”(=Mount Vesuvius、標高1,281mでナポリ湾岸にある活火山。これまでにも数えきれないほど噴火してきたが、近年での噴火は19世紀では1822年~1872年まで計8回、20世紀では1906年~1944年までは計4回も噴火しており、最後の1944年の噴火の際は、日本では「鬼のパンツはいいパンツ、強いぞ、強いぞ♪」と歌われるイタリアの歌曲『フニクリ・フニクラ』を宣伝歌にしていた登山鉄道や人口9,000人ほどの“自治体”(村民が政治を行う村)であるサン・セバスティアーノ村を壊滅させた。)や“エトナ火山”(=Mount Etna、噴火により標高は変化するが、2019年時点は3,326mで、南イタリアのシチリア島にあるヨーロッパ最大の活火山。同じくシチリア島に近いストロンボリ島にある“ストロンボリ火山”(=Mount Stromboli、標高924m)と合わせてイタリアの三大活火山とされている。その中でも一番、噴火の回数が多いのがこのエトナ火山で、小規模を除くと19世紀では1852年~1853年の計2回、20世紀はかなり頻繁で、2002年からは2~3年毎に噴火し、2017年、2018年と頻度が早くなってきていて、最後の2018年の噴火ではマグニチュード4.8の地震も同時に起こっている。)といった火山の研究で、実は1822年のヴェスヴィウス火山の噴火の際もなぜかこの男がそこに“偶然”、いた。
そして、全く火山に備えて防災する必要のないイギリス政府(王室)が、このプーレットの火山に関する研究や学術書を褒めたたえ、1826年に王立協会フェロー(第103話『略奪』(注4)参照)に選出している。
おかげで、プーレットが残した学術書が以後、日本も含めて欧米諸国の火山研究の教科書になったらしいが、それはともかく、火山学者というのはおかしなことにこのプーレットを始め、毎度、“偶然にも”火山噴火の場に居合わせる人達なのか、例えば、日本で起きた大きな噴火と言えば、1991年(平成3年)に長崎県雲仙普賢岳で火砕流(火山から噴出した火山灰や石などが燃えたぎった状態のまま時速100km以上で流れてくる現象のこと。)による死者が一般市民を含め43名にも上った大惨事が記憶に新しいが、この時の死者にはアメリカ人の火山学者ハリー・グッケンもその名を連ねている。
そもそも、雲仙普賢岳が“目に見えてはっきり噴火した”のは少なくとも1991年以前だと江戸時代の1792年だけなのだが、世界に無数にある火山の中で、さらに日本の中でもなぜ、長崎県の雲仙普賢岳をアメリカの火山学者が偶然、噴火時にやって来て調査していたのか謎であり、彼の他にもフランスから来て普賢岳で火砕流に巻き込まれて死んだ火山学者のクラフト夫妻にも同じことが言える。
そして、彼らの共通点は毎度、彼らが調査しに来た火山は長年、噴火してこなかったのになぜか彼らが来た途端、必ず大噴火するという点である。
クラフト夫妻はこれまでに184か所に上る世界中の火山を訪れているらしいが、1985年に南米コロンビアのネバド・デル・ルイス火山(=Nevado del Ruiz、スペイン語で「雪の冠をかぶった名王」の意味。標高5,321m、アンデス山脈にある活火山。)へやってきた際は約140年間も噴火していなかった火山が噴火し、それまで溶けるはずもなかった万年雪が火砕流で溶けて猛烈な泥流となったため噴火からわずか2時間半で麓の街を直撃し、2万人を超す人々が亡くなった。
この時、彼らは大噴火が起きることを“予測して”コロンビア政府に住民への避難勧告を呼びかけたらしいが、これをコロンビア政府が無視したことで大災害となった。
また、1991年に起きたフィリピンのピナトゥボ火山(=Mount Pinatubo、標高1,486m、フィリピンのルソン島にある活火山。)も400年ぶりという極めて噴火の確率が低そうな山にも関わらず、彼ら夫妻は事前にフィリピン政府の前で防災ビデオを上映して避難勧告を行い、この時は難を逃れたようである。
さらに、前述のアメリカ人のハリー・グッケンも雲仙普賢岳を訪れる前に自国のセント・へレンズ火山(=Mount St.Helens、標高2,549m、ワシントン州の環太平洋造山帯の一つであるカスケード山脈にある活火山。)を調査していてそこも123年ぶりの噴火だった。
この時、彼は“偶然”、私用で休暇を取っていたらしく、別の火山学者がグッケンの代わりに調査をしていたのだが、その所為で噴火に巻き込まれてその別の人が死亡した。
この1980年のセント・へレンズ火山での噴火で山が400mほども低くなり、鹿や魚などの動物も何千と被害を受け、周辺地域にあった鉄道や橋、家屋なども数多く破壊され、人も57名が死亡、または行方不明となった。
以来、グッケンはかなり精神的なダメージを食らったらしく、自分の髪の毛を引っこ抜くような自傷行為を繰り返し、周囲からも正気を疑われ、アメリカから日本へと左遷され、雲仙普賢岳に派遣されたのが最後となった。
要するに、これらの事実からして彼ら自身が何百年と眠っていた火山を故意に噴火させて調査していたことは明らかで、ジャンヌ・ダルクが火山地帯の赤土を火薬に用いたように、後世の欧米人達も新しい兵器の爆薬を製造する為に火山を研究していたようである。
そして、クラフト夫妻はそうした兵器実験で人体実験が伴うことに反対し、偽善者ながら避難勧告や防災訓練などの活動をして実験の妨害を行ったため消され、グッケンは精神を患って軍事機密を漏らす恐れがあったためクラフト夫妻と一緒に始末されたのだろう。
そう考えると、2014年の長野県の御嶽山で起きた噴火の時も、2018年に群馬県の草津町で起きた白根山噴火の時も、どうして事前にNHKやフジテレビのようなマスコミが“偶然”、その場に居合わせられたのか合点が行く。
つまり、前もって知らされていたからである、火山噴火があることを。
しかし、58名もの尊い命を奪った御嶽山の噴火の際には自衛隊の救助や死体探索活動が華々しくマスコミに報じられたが、それほど災害救助の経験が豊富にありながら白根山の噴火では雪山訓練に来ていて麓には大勢の自衛隊員達が待機していただけでなく、自分達の仲間の一人が負傷しているにも関わらず、誰一人、救助に向かわないで地元の消防団やレスキュー隊員達に救助され、噴火から数時間してようやく山頂の休憩所に避難していたスキー客達を自分達が乗ってきたヘリコプターで輸送するだけに終わっていたようだが、あの御嶽山での救助活動の活躍ぶりとやらは一体、どこで発揮するものなのか、ぜひとも自衛隊員の皆さんにお尋ねしたいものである。
ともかく、フランスの中央高地にあるこの“ピュイ・ド・サンシー”が既に休眠しているように、人間の手で噴火させようとしたり、自ら危険な場所に入り込んだりしなければ、火山というのは安全であり、あの美しいフランスの自然が地球の自然と共に今後も永久に守られることを心から願ってやまない。
(注2)
字数の関係でスピンオフとして本作品と並行して掲載させていただいております。




