第百五話 欺瞞
怒りの日(=Dies iræ(イラ))
https://youtu.be/Arx4kzyB6tk
(URLを範囲指定して右クリックし、移動を選択するとすぐに聴けます。)
By Verdi
Dies iræ, dies illa 怒りの日、怒りの日、
Solvet sæclum in favilla, その日は世界が灰塵に帰す日
Teste David cum Sibylla. ダビデ王も巫女シビルと共に証言する
Quantus tremor est futurus, 人々はどれほど震えおののくことだろう
Quando Judex est venturus, 最後の審判がやって来る時は
Cuncta stricte discussurus! 全ての出来事が厳しく調べ上げられている
Tuba mirum spargens sonum, トランペットの音が鳴り響き、
Per sepulchra regionum, あらゆる場所の墓の中から
Coget omnes ante thronum. 神の御前に死者が集められる
Mors stupebit et natura, 死も自然も驚くだろう
Cum resurget creatura, 創られし者達が再び蘇る時を
Judicanti responsura. 最後の裁きに応える為に彼らは蘇ってくる
Liber scriptus proferetur, そして書物が差し出される
In quo totum continetur, 全ての出来事が書き記された書物が
Unde mundus judicetur. 世界の全てを裁く書物が
Judex ergo cum sedebit, そうして神の裁きが下される
Quidquid latet apparebit: 隠されていた事が明るみとなり、
Nil inultum remanebit. 何一つ、裁きが下らない事はない
その裏工作の甲斐あってか、ナポレオン戦争後、イギリスが武器や資金を密かに提供して飼い慣らした“バーバリアン(野蛮民族)の海賊”(=Barbary Pirates、北アフリカ周辺でヨーロッパの船舶などを度々襲った海賊達のこと。北アフリカに住む現地人というより、ヨーロッパ出身のならず者が主犯になっており、特にこの頃、彼らは奴隷貿易の奴隷狩りを担っていた。その為、奴隷を売買している欧米から資金が出ていてもおかしくなかった。)がうまく暴れてくれると、地中海を航行する船舶を守る為だと言って正義の軍隊よろしく度々、エジプト周辺に軍事介入したり、また、ギリシャのマケドニア出身でキリスト教徒の多いアルバニア人のムハンマド・アリを焚きつけ、13世紀から19世紀に至るまでトルコから中東、さらに北アフリカにかけてイスラム教の超大国を築いてきたオスマン帝国(注1)が支配するエジプトを乗っ取らせることにも成功した。(1805年)
一応、表向きは当時、オスマン帝国の支配下にあったマケドニア出身のムハンマド・アリが国の衰退を憂えて武装蜂起し、エジプトで“ムハンマド・アリ王朝”(1805~1952年)を築いたことになっているが、実際のところ、全ての軍資金がイギリスと、ナポレオン戦争で負けてイギリスの傀儡(操り人形)になっていたフランスから出ており、ムハンマド・アリ王朝もフランスと同じく、単なるイギリスの傀儡政権でしかなかった。
その為、後のスエズ運河につながるマモーディヤ運河(The Mahmoudiyah Canal、1820年着工)や、これまた後のアスワン・ダムの布石となるデルタ河口堰(The Delta Barrages、1843年着工)と、次々と大規模な公共事業を打ち出してはイギリスやフランスから外国人技師(明治時代の日本で言うお雇い外国人)を招き入れ、それと同時に莫大な建設資金も両国から借り入れて、まさしくエジプトは借金地獄でがんじがらめになっていった。
そして、その借金の返済をネタにまた、イギリスがゆすりをかけてきて、再び公共事業をしてその利権を自分達に回すようエジプトに迫ってくるのだが、“スエズ運河”(=the Suez Canal、インド洋から紅海を通って地中海までつながるように造られた運河。1859年着工)にしても、別にエジプトにとって“国益”になるものではなく、単にイギリスが植民地にしていたインドまでの船の航行距離を短くしたかったのと、自分達の国では手に入らない鉄と“鉄でできた武器や兵器”を運搬するのに必要だっただけで、また、“アスワン・ダム”(=the Aswan Low Dam、現在のアスワン・ハイ・ダムと区別してアスワン・ロー・ダムとも呼ばれ、現在のダムの場所から10kmほど下流に建てられた高さ36m、長さ1950mのバットレス式ダム。バットレスとは、ダムの止水壁を土手のように斜めに盛って造る際、コンクリートの量を減らせるよう止水壁の間に隙間を設けて造られる為、「土手(盛土)が無い」という意味からバットレスと呼ばれる。1899年着工)も同じく、ナイル川の氾濫を調節して乾期に放水し、エジプトの農業を潤わせることが目的ではなく、これまで本作で何度か説明してきた通り、鉄を製錬するには膨大な水が必要となるので、あくまで鉄製錬に必要な水を貯水しておく為に造られたものだった。
だから、1907~1912年にダムは5mほど高く拡張され、1929~1933年にもさらに9mも引き上げられて、農業の発展につながるどころか(一応、水をそれほど必要としない木綿の栽培に力は入れていたようだが)、ナイル川の氾濫で肥沃な土壌が運ばれて田畑が潤ってきた自然のたい肥機能はこのアスワン・ダムの建設によって失われていった。
その後もこのアスワン・ダムは軍備拡大の為にしか機能せず、イギリスの傀儡でしかないムハンマド・アリ王室に飽き飽きし、“エジプト・チェコスロヴァキア武器協定”を結んでソビエト(現ロシア)(注2)から軍資金を得たエジプトの軍人ガマル・アブデル・ナセルが軍事クーデター(the Egyptian revolution of 1952)を起こして“アスワン・ハイ・ダム”(=the Aswan High Dam、高さ111m、長さ3830m、貯水量が日本の琵琶湖の6杯分にもなる1570億㎥のロックフィル式ダム。ロックフィルとは止水壁を岩石や土砂で埋めてそのまま土手にし、中心部だけ水を通さないよう粘土やコンクリートで固めてしまう建築方式のこと。コンクリートの量(=経費)を効率よく減らせることから巨大なダムを造りやすくなる一方、洪水の規模によっては決壊しやすくもなる。1960年着工)を建造したが、こちらも発電や洪水対策、“エジプト国民の生活用水を確保する為”と言いながら、実際はアスワン国際空港近辺に常駐する軍隊にダムを守らせ、鉄鋼産業も国が独占し、エジプト国民の暮らしが良くなるどころか、当初からアスワン・ハイ・ダム建設にも携わり、国家事業として爆薬などを生産している“アブ・ザーバル化学専門会社”(=Abu Zaabal Company for Specialty Chemicals、略してAZC。創業1950年。)を始めとした兵器工場からダイナマイトの原料や放射性物質の除染にもよく使われている珪藻土(二酸化ケイ素)などが垂れ流されているせいか、ナイル川の水質汚染によってエジプト国内の田畑は塩害に脅かされ、食物連鎖で貝毒が発生して貝に寄生している寄生虫に感染した住血吸虫症にかかる人達が続出し、発熱や蕁麻疹、自覚症状はなくても慢性的に内臓を痛めるなどして毎年5歳以下の子供達が約3,500~4,000人も下痢で死に(世界保健機関(WHO)World Health Statistics 2015参照)、結核菌や風疹、腎臓障害などを患う人達も多く、人間だけでなく、魚も死んで下流域の漁業が立ち行かなくなり、さらに国民が生活するのに必要な水を確保しているはずが近年、周辺諸国も巻き込んだ渇水にも悩まされていてナイル川が“氾濫”して困るどころか、一体、どこに水が消えてしまったのかも定かではない。
一方、エジプトから鉄を仕入れることとなったイギリスは元々、植民地にしていたインドから鉄や鉄鋼製品を輸入していたのだが、エジプトとそれを支配下に置いたオスマン帝国では、言うまでもなく、青銅器時代から鉄器時代にかけて栄えたヒッタイトやアッシリア帝国の冶金術(=金属製錬&精錬)、特に兵器や軍備に関する冶金術がかなり進んでいて、3世紀から“ダマスカス鋼”(注3)(=the Damascus Steel)が造られ、15世紀になると“ウルバン砲”(=Urban)や“ダーダネルスガン”(=the Dardanelles Gun、1464年に製造されたネジで組み立てられて持ち運びができる大砲。トルコにあるダーダネルス海峡での実戦で使われたことから名づけられた。Dardanelles Operation (1807))と呼ばれる、重さ約17トン、長さ約5mもの、いわゆる“大砲”(=Cannon)も登場するようになり、古代から軍拡し続けて既に鉄鉱石は採掘し尽くし、戦争で技術者も死んで鉄鋼製品の品質や技術は時代を経る毎に廃れる一方だったが、それでもイギリスを含めた欧米と比べたらはるかに最先端を行っていたため、鉄を大量生産したくてたまらないイギリスはインドはもちろん、トルコやエジプトといった東洋の知識と技術に頼らざるを得なかった。
しかし、産業革命の発祥国であると豪語し、アフリカやトルコ、エジプト、中東、インドといった“東洋”諸国をトロイア戦争以来の伝統で今なお、バーバリアン(野蛮人)の国と呼び(第92話『ロゴス(言葉)(2)』の(注7)参照)、“それらの国に住む人々を強制的に引っ張ってきて奴隷にしてきた彼ら欧米人達”にしてみれば、(とは言え、オスマン帝国やモンゴル帝国なども同じようにヨーロッパを襲っているのだからお互い様なのだが・・・)まさか彼ら東洋人達の知識や技術を世界に向かって称賛する訳に行かず、やたらと自分達が発明したと言っては“特許”(=Patent)を申請し、統一した知識や技術で造られた製品でないと事故が起きやすいと言っては彼ら欧米人達だけで決めたルール(規定)に基づく“工業規格”(=International Standard、工業製品の製造ルール)(注4)も作ってそれで世界中を統制しようとしてきたが、そもそも産業革命の代名詞とも言える蒸気エンジンはAD1世紀にはエジプトのヘロン(第90話『分かれ道(2)』の(注1)参照)によって発明されていたし、工業規格にしても、“世界の工業水準と比べたら欧米の鉄鋼に関する知識や技術が曖昧できちんと確立されていなかった”からこそ、1847年には鉄橋の設計ミスから5名もの死者を出したディー鉄道事故(the Dee Bridge Disaster)が起き、同じく鉄橋が崩落して60人以上が死んだテイ橋崩落事故(the Tay Bridge Disaster 1879年)、さらにアメリカでもボイラーの爆発で1,450人以上も死傷者を出し、今も史上最悪の蒸気船事故として語り継がれるサルタナ号沈没事故(the Sultana incident 1865年)、そして、現代においても度々、映画化もされるほどかの有名なタイタニック号沈没事故(1912年)(注5)なども発生し、この他にも数千件以上にも上る事故や災害を引き起こしているのだから、単に自分達、欧米人の富や名声を守る為だけにそんな虚栄と欺瞞だらけの特許や工業規格をひけらかしたところで一体、何の役に立つと言うのだろう?
むしろ、そんないい加減な特許や工業規格に基づいて作られた鉄橋や蒸気機関車、蒸気船などが起こす故障や不具合によって、大勢の罪のない人々の生命と健康が無残に奪われ、さらに事故原因も明らかにされず、遺族や後遺症を負った被害者が無念のまま泣き寝入りさせられていることを思えば、「どっちが先に発明したか?」とか「国際的に有名な規格に合格した製品」など、どうだっていいような気もするが、既に“物づくりに対する真心”を失った彼らには所詮、それは通じない思いなのだろう。
結局、ディー鉄道事故の原因である鉄橋を設計した技師のロバート・スティーブンソンがその後、何のお咎めもなく、事故があった直後の1847年には国会議員にまでなり、さらに海外に派遣されてノルウェーやカナダでは国有鉄道の建設に携わり、エジプトにおいてもアレクサンドリアからカイロまでの鉄道の敷設に関与し、その上、ヨーロッパ各国の王室から勲章まで授与されているのを見ても分かるように、事故を起こした張本人である技師と会社は何の罪にも問われないまま、全ての真相は闇に葬られ、その後も彼らが関与した鉄道や建造物は死者が出るような大きな事故を起こしていたようだが、その事故の原因もあらかた運転士やら乗客などの責任にされて、どうやらうやむやになったようだった。
そうして、何もかも嘘で固めたようなイギリス政府(王室)の思惑通りにエジプトを侵略する計画は進んでいったのだが、ところが、思わぬところからこの計画に待ったをかける事態が発生した。
飼い慣らしたと思っていたムハンマド・アリ王朝から造反者が出たのである。
元々、ムハンマド・アリ王朝自体、アルバニアの煙草商人の息子でマケドニアの徴税役人でしかなかったムハンマド・アリがイギリスの裏金でもってエジプトをオスマン帝国から独立させて興した王朝だったが、息子、孫と代が替わるにつれ、祖先がやってきた裏取引の顛末をあまり知らされてこなかったのか、自分達の持つ王権を勘違いし、あからさまにイギリスから独立して自分達でエジプトを支配しようとし出した。
そして、その勘違いの犠牲となったのがムハンマド・アリの孫のアッバス・パシャだった。
アッバス自身は何も知らなかったのだろう。
というか、自分は王位を継ぐべくして生まれてきたと幼少から思い込まされ、立派な王様になれと育てられてきた以上、彼は真面目に「良い王様になるんだ」と本気で思っていたに違いない。
だから、彼が“エジプト国民の為に良かれと思って”戦争の負担を失くそうと軍縮に努め、エジプトの富を搾取し続けるイギリスとフランスの外資系企業を追い出そうとし、さらにスエズ運河などの公共事業にも反対したりしたが、そうした彼のあからさまな離反政策は当然、イギリスの不興を買い、かえって彼の寿命を縮めることになった。
結局、彼は根も葉もない噂をまかれて散々、こき下ろされた挙句、あえなく暗殺された。
だが、そうやってイギリスが非道にもアッバス・パシャを惨殺し、エジプトを封殺しようとしたことが、逆にエジプト側にさらなる造反者を増やすきっかけとなった。
というのも、アッバス・パシャという王位に就く者ですらイギリスがためらいもなく始末したことから、彼の側近だったヌバール・パシャも自分の身の安全に大きな不安を覚えるようになったからだった。
少しでも逆らえば容赦なく殺される。
だが、誰もが富や利権を奪い合うエジプト宮廷内やイギリス、フランスの外資系企業内で足の引っ張り合いがない訳ではなく、お互い競争相手の悪口や中傷を広めて疑念を抱かせ、いつでも相手を蹴落とそうと虎視眈々と狙っている。
いくら従順にしていても誰かの中傷で疑念を抱いたイギリスがいつ、自分を殺しに来てもおかしくない。
だとすれば、今後、後ろ盾のないままイギリスと渡り合っていくことは自殺行為に等しいと判断した彼は、それまでヨーロッパ各国へムハンマド・アリ王室を承認してもらう為に度々、派遣されていたこともあって、当時、イギリスにとって最大の競争相手とも言えるドイツを頼ることにした。
というか、ドイツという国家を成り立たせている資金源を頼ることにした。
(注1)
オスマン帝国(=the Ottoman Empire)とは、西洋のローマ文明を代表する東ローマ帝国(ビザンチン帝国とも呼ぶ。)と、東洋のインダス文明からの流れを汲んで狩猟遊牧民族の国家を造ろうとしたモンゴル帝国の狭間にあった“テュルク系民族”(=Turkic peoples、テュルク語を話すモンゴルなどの中央アジアやトルコなどの東ヨーロッパ、シベリアなどの北アジア地域に住む狩猟遊牧民族のこと。)の一つであるカイ部族から“オスマン・ガジ”(=Osman Gazi、オスマンは元々、インドのサンスクリット語で「魂、生命」を意味するAtmanというヒンズー教で使われる言葉をアラビア語風のOsmanに変えたものであり、Gaziは、アラビア語で「イスラム教の為に遠征を行う戦士」という意味。)という、本名も定かでない怪しい男がイスラム教の高位僧だったエデバリの娘マルハン・ハトゥンと結婚したことによりイスラム教の正統な継承者を名乗って人々を宗教で扇動し、軍事力で周辺諸国を制圧して興したAD13世紀から20世紀初期まで続いた王朝である。
元々、AD7世紀に現れたイスラム教の開祖であるムハンマドが東洋(インダス文明)での神の智慧(知識や技術)を受け継いだ証として現在、メッカのカアバ神殿で祀られている“黒石”(=the Black Stone、黒曜石または空から降って来た隕石と言われているが、元のサイズが不明で10世紀頃は長さ46cmぐらいだったのが、17世紀になると1.4m×1.22m、19世紀では76cm×46cmと時代を経る毎に大きくなったり、小さくなったりしてサイズが異なる。現在のサイズは見た目で約20cm×16cmと思われる。)を掲げて軍事力で周辺地域を制圧していったように、オスマン・ガジ(オスマン1世)も“オスマンの剣”(=The Sword of Osman、日本で言えば3種の神器の一つである草薙剣のようなもの。)なる神器を掲げて人々に神通力(神にその意思が通じる力)があると見せかけ、AD13世紀の東ヨーロッパや中東、西アジア、北アフリカに住む人々を軍事力で制圧し、イスラム教(ムハンマド)を主神とする封建国家を造り上げていった。
このオスマン帝国がなぜ、それほどまでに大きくなったのかと言うと、キリスト教も含め(第103話『略奪』(注1)参照)イスラム教を信仰する人々が増大するのと同じで、彼らオスマン帝国の人々は青銅器時代の人々を跡形もなく滅亡させたほどの強力な軍事技術を身に着けることこそ、富と権力を得ることができ、豊かに繁栄する世界帝国を築ける礎だと“心底、信じていた”。
その為、彼らは“オスマンの剣”に隠された冶金術(製錬&精錬)はもちろん、インダス文明やメソポタミア文明などの青銅器時代の知識と技術の中で特に軍事技術(自然科学や数学、化学、医学など)を研究していた。
そうして、古代文明において遺されてきた数々の文献を参考にモスク(神殿)やマドラサ(=madrasa、مدرسة)と呼ばれる学校、水道、病院、市場などの都市設備も整え、軍事を中心とした教育を行っていたが、当然、戦争は絶え間なく続き、戦地以外の宮廷(政府)内でも熾烈な権力闘争で武力行使(殺し合い)が行われ、君主も家臣も、親も子も兄弟も関係なく殺し合い、そうした権力闘争で政治家が変わる度に政治方針も変えられて政治も不安定になり、また、戦争の度に戦費だけでなく戦後の復興資金で莫大な金がかかるため借金が膨らむだけとなって、結局、オスマン・ガジ(オスマン1世)が死んでからは日本の戦国時代と同じく軍人や英雄が覇権を競い合うだけの群雄割拠の時代となって統一した国家ではなくなった。
それでもお互いイスラム教(ムハンマド)を主神にしていることに変わりなかったのと、兵数や軍資金といった“多勢の協力なしに戦争はできない”ため、名ばかりではあってもオスマン・ガジ(オスマン1世)の子孫を君主に据え、同盟を組んだり、裏切ったりしてお互いけん制し合いながら統一国家の長に君臨する機会を伺っていたのだが、そのうち、ハレム(後宮)に自分の息のかかった奴隷女を送って君主の子供を産ませ、妾や君主の母に出世した女達を通じて宰相や重臣に成り上がろうとする人々も台頭してくるようになり、そうした人々がオスマン帝国と敵対するヨーロッパの出身者であることも多かったため、ヨーロッパの宗教であるキリスト教徒が増えていき、もはやオスマン帝国はイスラム教の国家とは言えなくなった。
そうして、15世紀にはもはや国家と言うより単なる“軍産複合体”(=Military-industrial complex、軍隊と軍需産業が国家経済の主体となり、国家そのものが軍需工場と化すこと。)でしかなく、そこに住む人々や都市を防衛する為に武器や兵器、軍隊があるのではなく、自分達が開発した新しい武器や兵器を自分達の領土内やその周辺地域で起こす実戦で試し、その効果のほどを宣伝してヨーロッパ各国に販売する為だけに国家があるようになった。
その為、領土内での一般市民の安全など全く保障されておらず、むしろ彼らは人体実験の格好の材料となってしまい、15世紀のオスマン帝国の領土は556,700㎢と日本の倍近くもありながらその人口はたったの650万人ほどで、現代の日本の千葉県ぐらい(2015年で約622万人)の人数しかおらず、さらに時代を経て17世紀にその領土を5,200,000㎢まで拡大してもそれでも人口は3,000万人と、アメリカの半分ほどにもなる広大な領土を持ちながら日本の人口の多い都市である東京都と神奈川県、大阪府、この3都市の人口を足した数(2015年で約3,148万人)にさえ満たないという過疎状態に陥ってしまった。
これでは豊かに繁栄するどころか税収を徴収することすら難しく、新たな産業を創造する人材もいないため麻薬や奴隷貿易、海外の商人達が持ち込んでくる輸入品に関税をかけるぐらいしか収入を得られなくなり、労働人口の減少で自給率が低下して食糧はもちろん、ありとあらゆる日用品が高騰する“スタグフレーション”(=Stagflation、景気が悪いのに物価だけが高騰し続けること。)が続くようにもなり、都市部では商人や役人達を襲撃する暴動や強盗が多発し、治安も悪化して暮らしにくさから人口はますます減る一方となり、仕方なくヨーロッパから迫害されてきたユダヤ人などの外国人移民やお尋ね者の犯罪者、借金で夜逃げ中の生活貧困者などを受け入れ、何とか急場しのぎの労働力(税収)不足を補おうとしたが、それでも彼らの国家経済(生きる為)の手段は軍事(人殺し)技術しかない以上、ひたすら自らの手でその労働人口を削り続けるしかなかった。
その結果、オスマン帝国は19世紀までに財政悪化で主要産業の軍事技術を開発できる人材さえも事欠くようになり、その領土を足掛かりに新たな東洋の植民地を獲得しようとするヨーロッパ各国との戦争に負け続け、その賠償金のかたにその領土を切り売り(植民地化)されることとなり、オスマン帝国の王族は欧米とトルコ国民の支援により“トルコの象徴”として残されたものの、国家そのものは第一次世界大戦での敗戦を最後に歴史の闇の中にひっそりと消滅していった。
(注2)
“エジプト・チェコスロバキア武器協定”(=The Egyptian-Czechoslovak arms deal)は、エジプトの首相となったガマル・アブデル・ナセルが当時、ロシアが“ソビエト連邦社会主義共和国”(=the Union of Soviet Socialist Republics、ロシアを中心にアルメニア、アゼルバイジャン、ベラルーシ、エストニア、ジョージア、カザフスタン、キルギスタン、ラトビア、リトアニア、タジキスタン、ウクライナ、ウズベキスタン、トルクメニスタン、モルドバといった国々に住む人々が労働者の政党として共産党を立ち上げて政権を樹立し、自給自足経済に軍産複合体を併せて形成した国家のこと。存続期間は1922年~1991年。略してUSSR、日本語ではソ連と呼ばれる。)だった時代の1955年、イギリス、アメリカを筆頭とした西ヨーロッパ諸国によるスエズ運河や軍需産業の独占から脱却しようとしてソ連共産党の第一書記のニキータ・フルシチョフと手を結び、2億5千万ドルにもなる武器及び軍資金をチェコスロバキアの仲介によって提供してもらうことで合意した公約のこと。
元々、エジプトもソ連も、イギリスやアメリカからの軍資金でエジプト革命やロシア革命を起こしていて、ガマル・アブデル・ナセルはイギリスが傀儡政権にしていたムハンマド・アリ王室によるエジプト統治が難しくなり、イギリスやムハンマド・アリ王室に反発する民衆をまとめる為に雇われたスパイであり、彼の父親が手紙や通信を傍受して外国に売る情報スパイだったため、少年の頃からイギリスの外務大臣だったサミュエル・ホアレとも通じていて、新たな傀儡政権を造るべくエジプト革命を起こした。
しかし、発足したばかりのエジプト政権で新たな権力闘争が起こり、首相になりたかったナセルはイギリスやアメリカからの支援を受けている競争相手だったモハメド・ナジーブを追い落とそうと、当時、法案可決の根回しの為に政治資金を必要としていただけでなく、外務大臣としてチェコスロバキアとも親しかったサミュエル・ホアレと結託し、イギリスやアメリカを密かに騙すことにした。
エジプト革命の成功を見せかけるため、イギリスが一旦、スエズ運河から撤退することに合意し、実際に軍を引き始めると、ナセルは早速、ホアレからチェコスロバキアを介し、ソ連のフルシチョフに連絡を入れ、アスワン・ハイ・ダムへの投資やエジプトとソ連間における軍事貿易の合意を取り付け、“エジプト・チェコスロバキア武器協定”としてこれを世界に向けて発表した。
この協定によって飼っていたはずのスパイにまんまと騙され、世界中から笑い者にされたイギリスは怒り狂い、属国であるフランスと連合してエジプトに再び侵攻しようとしたが、既に“世界人口の3%にも上る8,500万人以上の死者を出した第二次世界大戦での心痛で”侵略戦争の愚かさと悲惨さを味わい尽くした世界中の国民が再び同じ侵略戦争に同意するはずはなく、イギリスは戦争を正当化する為にエジプトと常々、敵対しているイスラエルとセーブルの密約(第98話『不浄 (2)』参照)を交わし、イスラエルとエジプトの戦争を支援する形でスエズ動乱(第二次中東戦争)を起こして武力行使に打って出たのだが、老獪なナセルはイギリスにとっては“石油や物流の生命線”とも言えるスエズ運河の封鎖や破壊活動を始め出した。
こうなってはたとえ強大な軍事力を誇るイギリスやフランスでも全く手も足も出なくなり、石油や物流が止まることはイギリスを始めとした欧米諸国の国家経済を瓦解させてしまうほどの衝撃となるため、それ以上、イギリスはナセルとの戦争を続けられなくなった。
結局、世界経済が混乱し、国連で各国政府があれやこれや揉めに揉めて議論した末、欧米の船舶もスエズ運河を航行できるようアメリカが裏でソ連とも交渉してナセルとの合意に至り、1956年にスエズ運河と一緒にイギリスやフランスの銀行もエジプトが国有化して、一時はナセル自身も欧米の支配から逃れられたと錯覚したかもしれないが、元々、卑劣な手段でエジプト国民を騙してエジプト革命を起こし、自身の権力闘争や利害の為に多くの生命を犠牲にしながら権力を握ったところで所詮、“自分とそっくりな殺し屋や裏切り者に狙われるだけ”なので、報復を目論むイギリスやアメリカがエジプト周辺のアラブ諸国と連携してOPEC(石油輸出機構)(=The Organization of the Petroleum Exporting Countries、1958年にクーデター(政府転覆)でイラク王国を倒した軍人でアブドゥル・カリーム・カーシムが石油利権を石油産出国で掌握しようと呼びかけたことから、イラン、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラなどが賛同し、1960年に結成された組織団体。本部はオーストリアのウィーン。2018年時点で加盟国14か国。世界の約81.5%の石油を保有し、約44%の石油を生産して文字通り、世界の石油価格を決めている団体でもある。)を築き、もはやスエズ運河(エジプト)に頼らなくてもいい石油や物流の体制を整えると、早速、エジプトに仕返しを始めた。
民間の輸送船を装った15隻の船舶がスエズ運河で攻撃を始め、それに乗じてイスラエルがパレスチナ解放機構(=The Palestine Liberation Organization、略してPLO。1948年に再び中東に国家を造り出したイスラエルに対し、同じ土地に長く住んできたパレスチナ人(古代ではサマリア人、第27話『サマリアの奇跡』参照)達がイスラエルからの分離独立を求めて始めた戦争(第一次中東戦争)を支援しようと“アラブ諸国によって結成されたと言われている”テロ組織。)との武力衝突の延長のようにしてスエズ運河へと入り込み、エジプトに戦争を仕掛けた。(1967年~1970年 第三次中東戦争)
この戦争で、欧米やアラブ諸国の政治家達と会ったこともなければ、彼らの権力闘争など知ったこっちゃない全く無関係な赤ん坊を含めた多くの一般市民はいつも通り、労働後、疲れて家でぐっすり眠っていた深夜や早朝に空襲で叩き起こされた挙句、18,000人以上の死者や行方不明者を出し、一瞬にして家も財産も家族も友人も恋人も失った。
その後もエジプト(ナセル)とイスラエル(イギリス)の戦争は続き、家も仕事も失った75万人もの一般市民が路頭に迷って難民となり、1970年にとうとう、何度か失敗していたナセルの暗殺が成功したらしく、長年、イギリスの植民地でもあるクウェートを心臓発作で亡くなった兄から継いで首長となったばかりのザバーハ3世がOAPEC(アラブ石油輸出国機構)(=The Organization of Arab Petroleum Exporting Countries、既に結成されているOPEC(石油輸出機構)とは別にクウェートが中心となってリビア、サウジアラビアの3か国で石油利権をアラブ民族で掌握する為に創設した国際組織団体。1968年創設)にエジプトも加盟して欲しいと誘いに来た会談の直後、エジプトの首相ガマル・アブデル・ナセルは突然、心臓発作であの世へと旅立っていき、ようやく第三次中東戦争は終結した。
なお、ナセルと共謀してソ連と武器協定を結ばせたあのイギリスの外務大臣サミュエル・ホアレも、ナセルよりも早い1959年、自宅で同じく心臓発作のため亡くなっている。
(注3)
“ダマスカス鋼”(=Damascus steel)とは、釈迦が生存していたBC6世紀にインド南部やスリランカで鋳造され始めた“ウーツ鋼”(=Wootz steel)を原料にして鍛造されている波状、または砂模様が入った鉄鋼のことである。
現在のシリアのダマスカス市でオスマン帝国時代の18世紀まで製鋼されていたことから“ダマスカス鋼”と呼ばれているが、その製法が一子相伝(後継者と定めた人にのみ知識と技術を伝承すること。大体、自分の子孫を後継者にすることが多い。)で誰も元の製法を知らないためダマスカス市で開発されたかどうかも不明であり、今も再現されていない。(世界で数人が再現したと主張しているが、ダマスカス鋼の原料とされているウーツ鋼の製法が分かっていないため、彼らの再現は否定されている。)
このダマスカス鋼で作られた刀剣は切れ味が抜群な上、薄くて軽い割に強靭で(しなやかで強い)刃こぼれもせず、しかも錆びず、そして表面が真珠のような光沢を放って波状、または砂模様のある装飾の美しさまで兼ね備えた優れ物であり、オスマン帝国を植民地にした欧米諸国ではこのダマスカス鋼を再現することこそ、刀剣の他、銃身や大砲といった新たな武器や兵器を作る上でも強力な軍事技術になると信じ、19世紀から研究してきたが、今もその結晶構造が非常に緻密で電子顕微鏡でしか確認できないぐらい優れた素材なため、次世代の素材、カーボンナノチューブ、ナノマテリアルとも呼んで世界各国の技術者達が競って研究し続けている。
しかし、ダマスカス鋼も原料にしているインドやスリランカで作られたウーツ鋼の製法がどうしても分からなかったため、同時代の軍事大国である中東のアケネメス朝ペルシャやギリシャのアレクサンダー大王、エジプトのプトレマイオス朝などがこぞってその製法を解明しようとウーツ鋼を輸入し、それを研究する際にいろいろ焼き入れ(熱した鉄の塊を急冷すること)や焼き戻し(再度、焼き入れを行うこと)などの鍛造を行って作ったのがこのダマスカス鋼だった。
なので、いくらダマスカス鋼を研究しても元のウーツ鋼の製法が解明されない限り、誰もこの鉄鋼素材を再現することはできず、その為、AD5世紀頃から今もインドのデリー市に建てられている高さ約7.2m、重さ6,000kgも超える“デリーの鉄柱”(=the Iron pillar of Delhi)がなぜ錆びないままおよそ1500年間も建っていられるのか誰も分からず、世界の七不思議の一つとされている。
― わたしはお前を金属の測定器にしてやろう。
そして、わたしが創った人間達は鉱石だ。
お前は彼ら(鉱石)が
どうその心が製錬され、
鍛錬されるかを観察し、測るだろう。
彼らはまさしく
頑固でねちっこい反逆者達である。
すぐに悪口や誹謗中傷に走り、
その心は銅や鉄のように鈍くて固い。
そして、誰もが堕落しきって不正を働く。
彼らは炉でふいごを吹くようにして
罵声や怒声を浴びせるだろう。
そうしてその憎悪や怒りの炎で
鉛のように柔らかく弱い人々を
焼き払おうとするだろうが
彼らの鍛造(戦闘)など
全くもって無意味である。
いくらやっても不純物が
取り除けない彼らの鍛造と同じで
彼らがいくら戦っても
彼らとそっくりな悪意ある敵が
追い払われることはない。
だから、彼らは拒否された銀(ねずみ鋳鉄)
と呼ばれるだろう。
なぜなら、主は彼らを拒否するからだ。
(エレミヤ記6章27-30節)
(注4)
“工業規格”(=Technical Standard)とは、アメリカ機械学会(第103話『略奪』(注2)参照)と同じく、工業製品に使われるネジやボルト、ナットに至るまでその形状、寸法、成分、製造方法からその開発に携わる特許なども事細かく標準化させ、侵略戦争時点での兵站活動や破壊活動の利便性以外で、平時においても市場独占ができるよう作られている国家的、もしくは国際的な“工業製品を製造する上での絶対規則”である。
元々は1928年にスイス、ドイツ、ベルギー、フランス、オランダ、スウェーデン、チェコスロバキアの技術者達がニューヨークで設立した万国規格統一協会(=International Federation of the National Standardizing Association)という団体を設立し、建築、機械、電化製品、自動車、飛行機、船舶、鉄鋼製品、非金属製品、化学製品、繊維製品、鉱業、農業、木材、紙製品やパルプ、ガラスや陶磁器といった分野の製品規格を決めていたが、第二次世界大戦後に改めて25か国の代表者がロンドンに集まり、この万国規格統一協会を“国際標準化機構”(=The International Organization for Standardization、略してISO)として新たに立ち上げ、引き続き、様々な工業製品その他の商品を自分達の意見や考えに基づいて標準化させるようにした。
しかし、このISO(国際標準化機構)は国家(政府)と関わりのない民間人及び民間団体によって設立された“非政府”組織(=Non Governmental Organization、略してNGO)と名乗っているのだが、実際のところ、一国につき一団体(機関)しか参加できないことになっているので、明らかに政府組織(=Governmental Organization)である。
2018年時点で加盟国数164か国、標準化させられている製品は2万点以上に上り、当然、それらの特許は全てこのISO(国際標準化機構)に関わる国(政府)や企業で独占され、何らかの製品を製造する場合は彼らの仲間内の技術者が仕事を請け負うことになっており、このISO(国際標準化機構)の規格から外れた技術者や製品がどれだけ優れていようともそうした技術者や製品を排除し、全世界の工業製品を独占支配する為に創られているのがこのISO(国際標準化機構)である。
つまり、あらゆる工業製品がISO(国際標準化機構)に関わる人々で決められている以上、一国家の国民の総生産額や総所得額にも直結するため、ISO(国際標準化機構)の分担金も各国の国民総所得額や貿易収支に応じて負担することになっている。
その為、この海外にある“一”民間組織団体(NGO)でしかないISO(国際標準化機構)に日本の経済産業省に設置された日本工業標準調査会(JISC)という行政機関も1952年から加盟しており、その分担金として2019年は1億7,000万円もの税金を“特定の民間の非営利団体”に支出している。
なお、ISO(国際標準化機構)は、“国際電気標準会議”(=International Electrotechnical Commission、略してIEC)という電気工学製品やインターネット技術などの標準化を行う別団体も同じくロンドンで創設したが、その事務局はどちらもスイスのジュネーブにあり、一般市民には税金を「払え、払え」としつこく脅して迫る癖に自分達は脱税や租税回避、マネーローンダリング(=Money Laundering、資金洗浄とも言う。違法なお金を福祉団体や非営利団体などに寄付するなどして一旦、きれいなお金に見せかけてから自分に戻してもらうこと。)と、まともに税金を払うこともなければ、むしろ、税金にたかって生活費を稼ぐような連中の預金をあの手この手で闇に葬ってきたスイスの銀行がご近所にたくさん群がっているのだから、世界各国の税金が資本となっている分担金とやらを集めているISO(国際標準化機構)の方々にはさぞかし便利なことだろう。
ちなみに、スイス銀行協会によると2018年時点でスイスの銀行にある預金額は6.5兆ドルだそうで、世界資産の25%を占めているらしく、生活保護を拒否されておにぎり一つ満足に食べられず餓死した貧困者の無念を思うと、食費も学費もままならず腹をすかしている母子家庭の子供達、1日たった2ドルの生活費しか稼げずにゴミ拾いするしかない貧困国にされてしまった子供達に腹一杯、ご飯を食べさせてやってすくすく成長してもらい、将来に向けて新しい産業や技術を生み出す優秀な人材に育ててあげたいので、ぜひともそこに違法に貯め込まれている税金を、今すぐ全世界の真面目に働いて納税してきた一般市民に返していただきたいと心から願うばかりである。
(注5)
“タイタニック号沈没事故” (=Sinking of the RMS Titanic、RMSとはRoyal Mail Shipの略で、郵便配達の為の船舶を意味する。RMSと名付けられた船はイギリス王室(政府)と直属の郵便配達契約を結んでいる船だけなので、言うなればタイタニック号はイギリス王室(政府)直属の船舶でもある。)とは、1912年にイギリスの豪華客船タイタニック号がイギリスのサウサンプトン港からアメリカのニューヨーク港に向かって処女航海をした際、大西洋沖で氷塊にぶつりかり、沈没した事件である。
乗客2,224人のうち1,500人以上が死亡したという人類史上で最も死者の多かった最悪の海難事故である。
タイタニック号は全長269.06m、幅28.19m、最上階の船橋(船長が船体を見渡して指揮を執る場所)までの高さ32m、総重量46,328トンの“砕氷船”(=Ice breaker)である。
砕氷船とは、文字通り、“氷を砕く為に造られた船”のことで、イギリス、スカンジナビア諸島、ロシアのような流氷や氷河の多い北極海やノルウェー海周辺諸国にとって砕氷船は必要不可欠な船であり、特に砕氷船と名乗らずとも軍艦はもちろん、一般客船や輸送船、観光船を建造する上で砕氷ができるよう設計が施されていた。
その為、タイタニック号は船体が全長に比べてずんぐりと太った形になっており、船首は氷が削りやすいよう尖っているのと、氷にぶつかってからその上に乗れるよう船首の底を少しだけ斜めに削り込み、当時としては世界最大級の船の重量でもって氷が砕けるようにもなっていた。
また、砕氷船はその強力なエンジンでもって氷にぶつかりながら前進していく船なので、タイタニック号のエンジンも“レシプロ4気筒蒸気エンジン”(=the Reciprocating Steam Engines、4つに並んだシリンダーが上下にピストン運動しながら蒸気を吸い込み、それを圧縮して、再び燃焼させ、最後にその燃焼させた蒸気をシリンダーから押し出して動力にするエンジンのこと。今は石炭は使わなくても似た仕組みのレシプロエンジン(4サイクルエンジンとも言う。)を軽自動車からF1カーまで採用している。)が2基、“蒸気タービン”(=the Steam turbine、蒸気を当てて羽根車を回し、船のスクリューも同時に回転させるエンジン。)が1基と、合計3基のエンジンで46,000馬力という、北極海を砕氷しながら航行した世界初のロシアの砕氷艦イェルマク号(=Yermak、多段膨張式蒸気エンジン8基、全長97.5m、総重量8,730トン、1898年建造)の9,000馬力と比べても破格の馬力であり、一見、タイタニック号は単なる豪華客船に見えるかもしれないが、武器や兵士を載せればそのまま戦艦に転用できるよう造られた当時のイギリスにとっては最新式の巨大戦艦でもあった。
だから、設計した技術主任のトマス・アンドリュースは沈没寸前まで「タイタニック号は“人類のほぼ完璧な頭脳”によって造られている。」と自慢するほど絶対に沈むはずはない、ましてこれほど巨大な砕氷艦が多少の氷ごときで沈む訳がないと思い込んでいたのだが、出航してわずか4日でその氷塊が原因で海の藻屑と消えたのである。
しかも、そんな自惚れ切った絶対の自信でもって出航させていたため、当然、載せるべき乗客人数分の救命ボートをきちんと積んでいなかった。
加えて、タイタニック号の操縦の指揮をしていた船長のエドワード・スミスも問題のある男らしく、他の船舶と何度か衝突事故を起こしていて、タイタニック号の事件の直前にも別の巨大客船を操縦していて軍艦とぶつかり、船体を損傷させる大事故を起こしていたのだが、彼の見た目が船長らしい風格を備えていて上流階級の間では人気があったせいか、腕前は別として宣伝効果を狙ってタイタニック号の船長として雇われたようだった。
そうしてこの豪華客船を装った虚栄の軍艦は見事に氷にぶち当たり、その2時間半後には沈んでしまうのだが、その間の救助活動も最悪で、設計している自分が誰よりも避難経路を知っているはずの技術主任のトマス・アンドリュースを始め、彼と一緒に乗船していたタイタニック号の所有者である海運会社社長のジョセフ・イズメイや船長のエドワード・スミスら全員が“この船の責任者であり、船賃をもらいながら”乗客の避難誘導など全くせず、自分の保身ばかりを考えてオロオロするだけで、結局、彼らは子供を連れて家族で仲良く旅行を楽しんだり、海外出張で乗船した二等の乗客達や、高い船賃を工面してでも遠いアメリカへ移住するしか生きる道が無かった三等の乗客達を見捨て、自分達だけ避難しようと救命ボートの争奪戦でごった返す人混みに紛れ、貴族や上流階級の一等船客達と共に全員、救命ボートに乗って避難した。
だが、他の二人はともかく、技術主任のアンドリュースだけはおめおめ生きて帰る訳にはいかなかった。
なぜなら、彼は兄は北アイルランドの首相候補だったジョン・アンドリュース、弟も同じ北アイルランドの最高裁判所裁判長候補だったジェームズ・アンドリュース、さらに妻はバーボー準男爵家(元は庶民だが、イギリス王室の中で下位の貴族に属し、称号を持つ人以降は世襲となる。つまり、税金でその家系を存続させることになる。)で大手繊維会社の社長の娘であるヘレン・バーボーで、親戚にはイギリスでも屈指の造船企業ハーランド・アンド・ウルフ(=Harland and Wolff Heany Industry、アイルランドのベルファストで1861年に設立。2015年総売上高6,670万ポンド(現在のレートにして約93億円))の社長のウィリアム・ピリー子爵までいる、アイルランドでは知らぬ人のいない名門中の名門のアンドリュース家の次男だった。
しかも、彼の設計したタイタニック号の成功いかんでハーランド・アンド・ウルフが次の戦艦や船舶の受注をイギリス政府からもらえるかどうかだけでなく、イギリス王室とその配下の貴族達(=神に生まれつき選ばれた人々)によるアイルランド統治が続けられるか、それともアイルランドがイギリス政府から分離独立するかという緊張した社会情勢の中、首相や最高裁判所の裁判長になろうとしている兄弟の将来をも左右しかねない一大企画であり、イギリス政府(王室)としても何としてでも成功してほしい艦船でもあった。
その一大国家事業であり、氷を砕かなければならないはずの艦船が氷にかすったぐらいで沈没したのである。
そんな不良艦船を設計したアンドリュースが生きて帰ってくることは後の事故責任を問う裁判はもちろん、あれほど世界中にタイタニック号の処女航海を宣伝した手前、内外からの大きな非難と嘲笑は避けられなかった。
その為、アンドリュースとその家族、そしてその後ろに控えているイギリス政府(王室)は禁じ手を使った。
トマス・アンドリュースを死んだことにさせたのである。
それはそれは手の込んだやり口でまず、仕事にあぶれていたアイルランド人の作家志望のシャン・バロックに公務員にさせてやると言って買収し、乗ってもいないタイタニック号の最後の様子とトマス・アンドリュースがいかに悲劇的な最後を遂げたかを脚色した小説を書かせ、これを大衆に向けて大いに宣伝した。(『Thomas Andrews, shipbuilder(邦題にすると『トマス・アンドリュース、命懸けで船を造った男』)』シャン・バロック著1912年発刊)
ほぼ作り話なのだが(多少、アンドリュース自身が監修して事実も混ぜているが)、これが幻想的な小説や映画が大好きだった19世紀の一般大衆には大いに受け、アンドリュースは果敢に最後まで乗客達を避難させようと尽力し、豪華客船の暖炉の上に掲げられた港の絵を眺めて溜息をつき、そのまま船と共に沈んだと誰もが信じた。
だが、本人は至ってピンピンしており、愛する妻と1歳を過ぎたばかりの娘のいる自宅に戻っていた。
しかし、死んでいることになっている以上、たとえ広大な大邸宅に隠れて住んでいるとは言え、表を出歩く訳にはいかない。
しかも、妻との間にこれ以上、子供が産まれたらもっと怪しまれることになる。
そこで、彼は自分の同僚で以前、妻のヘレンとの政略結婚を争ったこともあるヘンリー・ハーランドに事業を譲る取引を持ちかけ、妻を表向き再婚させることにした。
つまり、重婚させたのである。
だが、ハーランドはヘレンに全く興味はなく、事業の拡大だけに精力を傾けたがる家庭的とは程遠い冷たい男であり、結婚も事業の一環と思っていたのでわずらわしい女の相手をしなくても済む上、莫大な資産と絶大な権力が見込めるこの重婚話にすぐに同意した。
そうしてアンドリュース本人は妻の実家であるバーボー家の長男として長い間、ドイツに留学していてイギリスやアイルランドでは不在だったかのように装い、ミルン・バーボーと名乗ってタイタニック号事件のほとぼりが冷めたぐらいの1921年から北アイルランドの政府役人として働くようになった。
その間、兄弟達は政界や司法界で順調に出世し、もちろん首相や最高裁判所の裁判長にもなり、ハーランドはヘレン(とアンドリュース)達と一緒に知り合いの少ないロンドンの郊外に引っ越し、その後、ハーランドとの間にヘレンは息子1人と、アンドリュースの子を含めた3人の娘達を生んだことになっているが、全員、アンドリュースとの子供だった。
だが、偽名を使って生活しているアンドリュースにも男一人で家族がいないと世間からは不思議がられる。
だから、アメリカ人女性と海外で結婚してその女性は出産時に死亡したよう再び偽装し、その後、再婚もせずにハーランド一家と“全く同じ家族構成で”1人息子に3人の娘がいるように世間には話していた。
しかし、そもそも準男爵(庶民から成り上がった貴族)とは言え、18世紀から続いてきたバーボー家の長男ミルン・バーボーなる人物がアイルランドで育つことなく、イギリスにとっては敵国であり、1914年から第一次世界大戦で争うことになるドイツに長く留学するとは考えにくく、まして貴族の子息でありながら1921年まで全く役職らしい役職も持っておらず、極めつけは何の家名も持っていない一介のアメリカ人女性と自由恋愛で結婚するなど19世紀のイギリスの貴族社会ではまずあり得ないことで、この人物自体、怪しさ満点なのだが、その行動もかなり怪しかったらしく、世に再び出てきてからは大学の役員とか病院の理事長とかいろいろ立派な肩書のついた役職には兄弟や妻の実家のコネで就かせてもらっていたものの、既にこの世にはいない幽霊である以上、どれだけ自分の人生に夢や希望があろうと二度と表舞台に出てくることは絶対に許されず、“フリーメイソン”(=Freemason、表向きは石工関係者同士で集まる同業者組織という触れ込みになっているが、実際は軍事機密やその技術情報の交換をする為に集まる反社会的組織である。)のメンバーとなって生涯、闇の中でこそこそと人目を避けて暮らさなければならなかった。
加えて、それだけ世間(一般国民)を欺いた“生身の軍事機密”であるため、その動向は常に監視されており、少しでも事実を漏らしたり、裏切りが発覚すれば謀殺されることは必至だった。
だから、アンドリュースが生涯を懸けて守り通そうとした彼の家族も、結局、両親の秘密に気づいた一人息子は20歳になるかならないかで飛行機事故ということでアイルランドの海に消え、ヘレンと重婚して事業を引き継いだハーランドも事業以外に政治に野心持った所為で目障りに思われたのか64歳で選挙に立候補しようとした途端、亡くなった。
そして、アンドリュースも偽名のまま78歳でひっそりとその生涯を終え、その長女も既に真相を知っていたのか早くからフリーメイソン(軍事機密スパイ)として活動し、従軍中、軍用車で事故を起こして死に、彼の妻のヘレンも謀殺を恐れながら痴ほう症を患っているとされて老人ホームで息を引き取った。
ちなみに、トマス・アンドリュースの偽伝記を執筆した作家のシャン・バロックも確かにしばらくは小説が売れてタイタニック号事件の5年後までは公務員の職も一時、もらえて勤めていたが、わずか半年ほどでその職もなくなり、アメリカかどこか外国で働かないかと誘われたのかそれっきり姿が見えなくなり、生前、彼が書き貯めていたとみられる小説や詩が時々、出版されるだけとなった。(シャン・バロック著『The Loughsiders』1924年発刊。アイルランド英語でLoughは「入り江」を意味するが 、1文字変えればl“a”ugh sidersとなり、意味は「笑う側の者達」となる。)
― 神の御目は人々の歩みに注がれている。
神はそれぞれの一歩毎を見つめている。
だから、暗い闇も、深い影など
どこにもない、
どう、悪意ある者たちが
その悪事を隠そうとも。
神はわざわざ人に尋ねたり、
調べる必要など何一つなく、
“全てを知った上で”裁きを下す。
なぜなら、神は彼らの行いの全てを
ちゃんと記録しているから。
神は一夜にして
全てをひっくり返すこともできるし、
あらゆるものを壊すこともできる。
神は誰もがはっきりと見える場所で
彼らの悪意の全てを明らかにし、
そして罰を下す。
そうして彼ら悪意ある者達が
いかに神に逆らい、
神の教えを侮ったかを知らしめ、
どれほど彼らの悪意の所為で
弱く貧しい人々が
傷つけられ、苦しめられて
慟哭してきたか
ちゃんと人々に明らかにする。
神は弱く貧しい人々の
慟哭をちゃんと聞いているから。
(ヨブ記34章21-28節)