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第百話 智慧(1)



アブラハムの死後、そのひ孫にヨセフという男がいたのだが、彼は父親のヤコブ(注1)の寵愛を一身に受け、父親の最愛の正妻の子でもあったことから末っ子でありながら兄弟達を押しのけて相当の財産を受け取る跡取りとも目されていた。(創世記37章参照)

その為、他の兄弟達の嫉妬と憎悪をも一身に受けることになり、貯水池に突き落とされて殺されかけたのだが、その時、運よく貯水池には水が無かったので死なずに済んだ。



だが、この時の体験トラウマが彼の生涯を変え、ピラミッド建設に携わるきっかけとなるのである。


その後、彼は兄弟達の策謀からハーブ(薬)やスパイス(香料)をエジプトへ運ぶ隊商キャラバンに奴隷として売り飛ばされるのだが、エジプトに行ってからもさらに不運は続き、売られた先の女主人からその美形ぶりに目を付けられ、強姦されかけて逆にその女主人にはめられ、とうとう、無実の罪で投獄されることとなってしまった。



そして、その投獄された牢獄の中で彼は二人の囚人に出会うことになる。

この二人が実はエジプトのファラオ(王)に仕える元高官で、一人はファラオの飲む水に毒があるかどうかを調べてエジプトの水質を管理する役人であり、もう一人はファラオの食べるパンを考案してエジプトの食糧や栄養を管理する役人だった。

二人とも自分達に下される裁きへの不安から悪夢を見てある日、それをそれぞれヨセフに語ったところ、ヨセフは二人のうち、水質を管理する役人には「その夢はきっとあなたが無罪放免になる吉兆だ」と言って励ましたが、もう一方の食糧管理の役人には「あなたは厳罰に処されて死刑になる」とはっきり彼の有罪を告げた。

その的確で嘘のない解釈が見事に的中したため、彼は無罪となった水質を管理する役人に引き立てられ、ファラオの前でも同じように悪夢の解釈をすることになった。




その時、ファラオが悪夢まで見て心配していたのが長期間、続きそうな飢饉の到来だった。


その長期間の飢饉をいかに乗り切るかという難問を解決する方策として、ヨセフは自分がかつて兄弟達に殺されかけた時の貯水池の状態を思い出したのである。

既にヨセフの時代には氷河期を思い出させるような地下の貯蔵庫は存在しなかったので、彼は自分が突き落とされたことでその地下がどれほど食糧を保存するのに適しているかを肌で覚えたからだった。

特に、この頃のエジプトの主食は小麦(一粒小麦やエマー小麦などの野生に近い古代小麦で現在の小麦の品種とは少し違う。)だったことから、その肌感覚の記憶が役に立った。



小麦の保存方法はかなり難しく、一定の冷気と湿度を保っておかなければそのうちカビて腐ってしまい、赤カビ病や黒穂病くろぼびょうなどを発生させ(注2)、食べたら中毒症状を起こしたり、次の農作で種子をまけばその病が遺伝したまま不作となる。

しかも、その種子が風に乗ってカビ菌をまき散らすこともあり、一度、小麦にカビを発生させてしまうと、それだけでエジプト全国民の(場合によっては近隣諸国の人々も含めた)生命が危うくなりかねなかった。



だが、エジプトの気候、特にこの頃の首都メンフィスを中心とした下エジプトの気候は、高温乾燥の砂漠気候でありながら石灰岩層の山々や丘陵地帯を掘ってひらいて谷間や平野にしてしまったので(大地溝帯やエジプトの隣にあるアラビア半島の成り立ちを思い出してほしい)、ナイル川を挟んだ両岸が盆地になってしまい、どうしても地中海の海水を含んだ湿気た風がこもりやすく、湿度が高くなりがちだった。




そこで、ヨセフはナイル川沿いに連なるこの石灰岩層の山々や丘陵地帯に着目し、これを逆に利用することにした。


というのも、石灰岩層はヨセフの故郷であるレバント(中東地域)の地質や地形と同じで、ソドムやゴモラの街々のように洞窟を掘って石灰岩を溶かし、死海の塩水を作っていたり、ヨセフ自身が兄弟達に突き落とされた貯水池の内壁も全て石灰岩によって造られていて、その性質をよく知っていたからだった。



石灰岩せっかいがん”(=Limestone)は、その名の通り、石灰せっかいでできた岩のことで、石灰せっかいとは動植物の死灰しかいが堆積して石になったものであり、炭酸カルシウムを主成分としていて空気中の水に溶けやすい性質を持つ。

鍾乳洞しょうにゅうどうはその石灰岩によってできている洞窟どうくつで、夏でも中に入るとひんやりとした冷気が感じられるのは石灰岩が空気中の水分をある程度、吸い取ってしまうからである。



つまり、天然の除湿機能を持っていて、食糧を保管する“冷暗所”としては最適だった。


しかも、石灰は水を含むと殺菌効果もあるため、現代では土壌を消毒したり、歯磨き粉の薬剤などにも使われている。



実際、1946年以降に発見された“死海文書”(=The Dead Sea Scroll)(注3)も石灰岩でできたクムラン洞窟で見つかっており、動植物の皮で作られた羊皮紙(第91話『ロゴス(言葉)』の(注3)参照)やパピルス紙が数千年も経っていながら保管できたのは石灰岩の作用があったとも言えるだろう。



しかし、何度も言うようだが、小麦は湿気が大敵である。


いかに石灰岩に除湿機能や殺菌効果があっても、湿気のこもりやすい盆地の上に造られたピラミッド(冷暗所)だと余計、ジメジメしてカビ菌は繁殖しやすくなる。

その為、ヨセフは風通しを良くする為にわざとピラミッド(冷暗所)を高台に作ることにした。




つまり、人類が氷河期から延々とやってきた方法と同じように、自分達の目の前にそびえ立っている山や丘そのものを削ってそれをピラミッド(冷暗所)にしたのである。


それがエジプトに最初に造られた“階段ピラミッド”(=Step Pyramid、またはピラミッドの壁に刻まれたヒエログリフ(古代エジプト語)から「ジョセル(ヨセフ)のピラミッド」(=Pyramid of Djoser)とも呼ぶ。)だった。




別に、この方法は古代エジプトでは珍しいものでも何でもない。

ヨセフの時代から後に造られた“アブ・シンベル神殿”の巨大レリーフ(彫像)や断崖の下にある“ハトシェプスト女王葬祭殿”(注4)を見ても分かる通り、元々、あった山や丘を徐々に掘り下げ、削り取って採石し、建物や彫像を建てたのである。




だから、“階段ピラミッド”も元々は、自然の岩石層でできた一つの丘に過ぎなかった。



むろん、ギザにあるピラミッドも同じく、“ギザ台地”(=Giza Plateau)と呼ばれる丘陵地帯にあった丘を削って造られたもので、人がわざわざ巨石を運んで積み上げていった訳ではない。


では、なぜ、ピラミッドの形があのような四角錐しかくすいになっているかと言うと、それも小麦を備蓄するには風通しを良くするだけでなく、一定の温度も保たなくてはならなかったからだった。


(注1)

ヤコブは、第27話『サマリアの奇跡』で話した通り、イスラエルの建国の父とされており、後にヨセフと一緒にエジプトで暮らしたが、死後は故郷に埋葬して欲しいと遺言を残したことからヨセフが防腐処理の為にヤコブの遺体を40日もの工程をかけてミイラにしてからイスラエルまで移送し、祖先の洞窟墓地に埋葬したとされている。(創世記50章)


ヤコブは、ヨセフの母となるレイチェルとの結婚の許しをもらう為に義父の下で7年間も働いたが、その義父に騙されて最初にレイチェルの姉のリアと結婚させられることになり、その後、ようやくレイチェルと結婚できるようになっても姉妹がヤコブの妻になったことで、二人の女が夫ヤコブの愛情とどちらが先に妊娠出産するかでお互い争うようになり、結局、その母親同士の争いが子供にまで波及し、異母兄弟であるヨセフとその他の子供達との間で壮絶な虐めと陰謀、未遂とは言え、殺人までも犯すといった深刻な争いに至った。


しかし、父ヤコブもまた、父親イサクと母親レベッカの価値観の違いによる確執から双子の兄エサウと争っていて、母親にけしかけられてズルをし、一時は家督と相続権を奪うのだが、結局、自分が出し抜いて兄を傷つけた事を悔いて後年、兄と和解することになる。

そしてこの時、和解の印として自分の妻のレイチェルを兄エサウとも結婚させたことから(第92話『ロゴス(言葉)(2)』でも書いた通り、この当時は多重婚社会なので)、ヨセフの次に生まれてきたのが弟ベンジャミンである。(創世記33章)

レイチェルはヤコブから強要されるようにしてエサウと結婚させられたことと、命懸けのお産になったことで生まれてきた子供を最初はベン・オニ(ヘブライ語で「私の悩みの子」の意味)と名付けたが、ヤコブはその名をベンジャミン(ヘブライ語で「私の右腕となる子」の意味)に変えさせた。

とはいえ、レイチェル自身も姉リアとの姉妹争いの中で夫ヤコブとの性交渉を引き換えに自分の欲しい物を姉からもらったり(創世記30章14-17節)、ヤコブの気持ちを無視して姉妹それぞれの召使女達に代理母として夫との子供を産ませるといった夫婦愛を自ら壊すような理解しがたい行動を取っていて(創世記30章1-4節)、その仕返しとしてヤコブは兄弟喧嘩の仲立ちになるようレイチェルと兄エサウを結婚させたようだった。

しかし、哀しいことにレイチェルはベンジャミンのお産が元で亡くなってしまい、後ろ盾(母親)を失ったことで遺された息子であるヨセフとベンジャミンは他の異母兄弟達からいっそう虐められることとなった。


いずれにせよ、兄弟姉妹、親同士の喧嘩によって過酷な運命を背負わされてきたヨセフとその弟のベンジャミンはヨセフがその運命を克服してエジプトで大成したことでその後、仲良く一緒にエジプトで暮らしたらしく、1907年にエジプトの首都カイロから約400kmのところにあるデイル・リーファ村で兄弟二人のミイラが埋葬されている墳墓が見つかり、イギリスのマンチェスター美術館に収蔵されてそのDNAを調べたところ、二人が異父兄弟だったことが判明している。

そして、彼ら二人の棺と一緒に納められていた小像には二人の名前がヒエログリフ(古代エジプト語)で刻まれており、一人はクヌム・ナクト(=Khnum-Nakht、「創造神の完全なる勝利を示す者」の意味。)、もう一人はナクト・アンク(=Nakht-Ankh、「勝利した者の生命の分身」または「勝利と復活を示す生命の証」の意味。)で、前者のクヌム・ナクトの方は高位の神官だった証拠が他にも出土している。

また、クヌム・ナクトの遺体の左足は極度に変形して障害があったことが分かっており、子供時代に貯水池に突き落とされたヨセフであることは間違いないようである。


それでも、歴史的な解明は必要だったとしても親兄弟達の争いとは裏腹に彼ら異父兄弟は死後も二人仲良く同じお墓で眠っていたところを見ると、彼らがこの世に残した“兄弟愛”は今後も永遠に語り継がれていって欲しいと思うが、もはや彼らの遺体は見知らぬ異国の地の美術館に保管されるより彼らが最初に望んだお墓で安らかに埋葬してあげて欲しいとつくづく思うばかりである。



(注2)

赤カビ病は、麦や大麦などに桃色やだいだい色のカビを発生させる植物の病気で、雨の降った日は特に黒い胞子を飛ばしてさらに穂に感染する。

実りが悪くなるだけでなく、人や家畜に下痢や嘔吐、腹痛などの急性中毒をもたらしたり、慢性中毒になると免疫力を低下させる。


黒穂病は、黒穂菌と呼ばれる真っ黒い粉粒の菌がびっしりと麦や稲の穂に寄生する病気で、一度、寄生されると、伝染して翌年の穂にも黒い菌の胞子がはびこり、穂そのものを全滅させて収穫できなくなる。

こちらも雨が多いと発生しやすく、菌によっては収穫時期になるまで潜んでいて見分けがつかないものもあり、穂が黒く変色するだけでなく、魚が腐ったような生臭い匂いを放つことから“なまぐさ黒穂病”と呼ばれることもある。



(注3)

“死海文書”(=The Dead Sea Scroll)は、第98話『不浄 (2)』(注3)でも触れたが、1946年以降(現在もまだ続けられていて2017年にも新たな発見があったようである。)、死海近くの11か所のクムラン洞窟で見つかった981点に上る旧約聖書の写本コピーのことである。

発掘された写本はBC4世紀頃からAD1世紀頃に作成された物と見られており、羊皮紙が最も多く、次いでパピルス紙、一点だけが銅板に書かれた物だった。

欠片だけの物も多いが、最初に発掘されたとされるイザヤ書は多少の破損はあってもほぼ無傷で、1章から66章までの全章が17枚の羊皮紙に書かれている。

BC3500年頃の遺跡と見られるナハール・ミシュマール洞窟のように、洞窟に写本やその他の貴重品を隠すのは戦争が起きた際の慣例として行われていたらしく、恐らく死海文書も権力者達の圧政による焚書や言論弾圧などを避ける為にBC13世紀頃から始められたものと思われる。


というのも、旧約聖書の大まかな構成として『創世記』のアダムとイブの話からモーゼのエジプト亡命と民族による共同社会コミュニティー及び法律の成立を記した『出エジプト記』や『申命記』までは氷河期~青銅器時代末期(BC13世紀頃)を生きる個人が様々な失敗や困難、争いに揉まれながら世間と立ち向かい、自立していく話に終始するのに、「ヨシュア記」以降からモーゼの後継者を名乗る僧侶のヨシュアを始め、ダビデ王やソロモン王などのイスラエル王国の王達、エジプト王のネコに、アッシリア帝国のセンナケリブ王、新バビロニア帝国のネブカドネザル2世、アケネメス朝ペルシャのキュロス2世やダレイオス1世、等々、容姿端麗、知恵者、勇者を装った英雄やデマゴーグ(大衆扇情政治家)達が神の名の下、人々に重税や徴兵制、神殿建設の為の強制労働を課しながら軍事力(暴力)で人々を圧政するという権力者達を中心とした話に切り替わっており、そうした権力者達を描いている『サムエル記』や『列王記』、『歴代誌』とは別に、『イザヤ』から『ヨエル』、『オバディア』、『ミカ』、『ホセア』、『ゼパニア』、『アモス』、『ヨナ』、『エレミア』、『ダニエル』、『ナウム』、『ハバクク』、『ハガイ』、『ゼカリヤ』、『マラキ』といった数々の預言書は、預言者その他の人達がその政権下での実態を話すと共に焚書や言論弾圧、リンチ(私刑)、拷問、迫害、虐殺などの理不尽な目に遭いながら貧困者や未亡人、母子家庭、移民、孤児のような名も知れず世間から顧みられない人々を「人間(悪)が神(善)に勝つことはない。神(善)に希望を持て!」と慰め、勇気づけ、励ます内容になっている。


中でも、預言書『オバディア』を書いたイスラエル王国の官僚のオバディアは、他国から嫁いできた女王ジェズベルが自分の信仰する宗教とは違うことを理由にイスラエル王国の僧侶達の虐殺を行ったため、深刻な飢饉の最中、100人もの僧侶達を二か所の洞窟に隠して水と食料を供与し、生命を助けたとされている。(1列王記18章2-4節)


このことからも分かるように、洞窟はそうした家や行き場を失くした人々をかくまう場所としても使われていたようで、そんな彼らを励まし、勇気づける為に死海文書(=聖書)も焚書や言論弾圧されないように一緒に隠されていたものと思われる。


なお、別作品『不正アクセスによりわたしの作品を妨害する方々へ』を読んでいただくと、よりいっそう焚書についての様子がお分かりいただけるかと思います。


(注4)

アブ・シンベル神殿(=The Abu Simbel temples)は、BC13世紀頃にファラオとなったラムセス2世に建てられた神殿で、エジプト南部のナイル川流域にあるヌビア遺跡の一つである。19世紀に砂に埋もれていたところをイタリアとスイスの探検家達が発見し、発掘されるようになった。しかし、1960年に建設が始まったアスワン・ハイ・ダムがナイル川の水を止めて貯水池(人工湖)を造るようになったことから神殿はその貯水池(人工湖)に沈められるはずだったが、考古学者や地元の建築士達がユネスコと協力して当時の金額にして4億ドルもの資金を投じ、65mも遺跡を引き上げて現在の場所に移築した。

その為、現在の神殿の場所は最初に建築された場所と異なっていて、元はもっと山の下を彫って造られていることがアスワン市内にあるヌビア博物館に飾られている模型を見るとよく分かる。

アブ・シンベル神殿が造られた経緯としては、ヨセフの死後、国内外で戦乱が続くようになり、その混乱の中から軍事力で台頭してきたラムセス2世が占領した原住民達を奴隷にしてその利益の大半を横取りする“奴隷経済政策”を採るようになり、神殿や都市の建設といった大規模な建設事業はそうした自分達、権力者に反抗しやすい原住民を一斉に集め、無賃、または低賃金で働かせることでその反発心や気力を奪って無力感に陥らせるという、軍事政権にとっては都合のいい占領事業だったからである。


その大規模な公共建設事業の一つがこのアブ・シンベル神殿であり、人々を制圧する目的以外にも世界に向けて自身の政略結婚を宣伝する為の建物でもある。


当時、エジプトの南部にヌビアという、インドやアフリカとの交易で栄えていた別の国があり、ヨセフの死後、このヌビアも戦乱状態になり、度々、市民による暴動も起きたことからラムセス2世は軍事支援という形でこれを鎮圧し、その見返りにヌビアの王女であるネフェルタリを妻にもらってヌビアと同盟を結んだ。

そして、このヌビアとの結婚以降、周辺諸国と軍事や経済の協力関係を作る“政略結婚”(=Marriage of state)が頻繁に行われるようになり、ラムセス2世はヒッタイトの王女とも政略結婚をすることで平和同盟を結んでいる。(The Egyptian–Hittite peace treaty)


そうした理由から、アブ・シンベル神殿はエジプトとヌビア両国が同盟を結んだ証として建てられたものであり、アブ・シンベル大神殿はラムセス2世とアメン・ラー神、ラー・ホルアクティ神、プタハ神がまつられていて、その隣に建てられたアブ・シンベル小神殿はラムセス2世の妻となったネフェルタリとハトホル神がまつられている。

どちらも先祖霊をまつる神殿であり、大神殿側はヨセフの時代のエジプトのファラオだったアメン王、ヌビア人の祖先であるホルアクティ王、そして度々、戦争を起こして軍事と死の象徴とされてきたエジプトのプタハ王の銅像が納められており、毎年、この当時の春分だった2月22日と秋分の10月22日にプタハ王以外の銅像にはそれぞれ日光が当たるよう設計されていて、「戦争の象徴とされるプタハ王に日が当たらないように両国が平和を守り合いましょう。」という誓いの意味が込められている。


また、小神殿側に納められているハトホル神は、結婚や出産を象徴する霊としてアムン王の妻だったハトホル女王を祀ったものであり、ハトホル女王は元々、インドからエジプトに嫁いできた女性だったことから、彼女とネフェルタリの銅像を並べることでエジプト人とヌビア人の血を引く子孫の繁栄を祈る意味も込められている。

ちなみに、ネフェルタリという名前は「美しい妻」を意味し、女王になった彼女に対してエジプト人達が称賛を込めてつけた愛称であって、彼女の本名はナプテラである。

なお、ネフェルタリとよく似た名前で“ネフェルティティ”という、ツタンカーメン王の義母であり、エジプトの女王の一人として挙げられる女性がいるが、彼女は女王ではなく、ファラオに仕えていた神官の妻であり、自分の夫を焚きつけて他国をも巻き込んだ内戦を起こしたクーデター(政府転覆)の罪で処刑されたため、エジプト人達は「美しき破壊者(ネフェルティティ)」の意味で彼女を皮肉ってつけた呼び名である。



一方、ハトシェプスト女王葬祭殿(=The Mortuary Temple of Hatshepesu)は、現在のルクソール市の反対側にある“王家の谷”と呼ばれるBC16世紀頃からBC11世紀頃まで王族や貴族達の墓が数多く埋葬されているネクロポリス(巨大墓地)の近くに建造されたテラス階段式の“神殿”と一般的には言われているが、こちらは神殿ではなく、“軍事施設”である。

元々、ルクソール市北部から約2.5kmの所にある“カルナック神殿”(=The Karnak Temple Complex)も現代ではなぜか勝手に神殿と呼んでいるが、このカルナックという言葉自体、周辺にある村の名前から名づけられており、カルナックとはアラビア語で「要塞化された村」という意味なので、神殿ではなく、要塞だった。


そして、ハトシェプスト女王と呼ばれる女性も、エジプト全土を支配する女王と言うよりネフェルティティと同じ政府転覆クーデターを狙う一神官の娘に過ぎず、エジプトの内戦が拡がるにつれ、それぞれ王権を握ろうと立ち上がる神官達(軍人)が増え、そうした神官の父親、夫、息子達が行う領土拡大の為の遠征(侵略戦争/略奪戦争)を後押ししようと軍事施設や要塞などを築いて運営する娘や妻、母親といった女性達が現れるようになった。

その一人が前述のネフェルティティであり、ハトシェプスト女王はその先駆者で、いわば、女軍人または女賊にょぞくとも言える。


その彼女が築いたハトシェプスト女王葬祭殿は、兵士達を手懐てなずかせる為に売春を提供して気晴らしさせる“慰安婦施設”(=The Special Comfort facility、戦時中に兵士達が近隣の女性住民を襲って強姦するのを防止するため国家(政府)が“税金で建てた”売春を斡旋する公的風俗施設である。第二次世界大戦中、日本軍が建てた施設が世界的にも有名だが、現代でもなくなっておらず、沖縄や横須賀、韓国、フィリピン、タイ、台湾、南太平洋の島々などでは駐留米軍基地の為の慰安レクリエーション施設が多数、乱立しており、かつてのように公然と売買春を斡旋していなくても暗黙の了解で行われていることが多い。また、慰安婦になる女性達も歌手やダンサーといった芸能活動でスカウトされ、飲み物に睡眠薬を混ぜられて強姦され、海外に売り飛ばされたり、借金の為に身売りするなど悲惨な身の上から苦界くがいに身を沈めた女性達も多い。とはいえ、売買春はあくまで双方の同意の下で成り立つ商売である以上、売春する女性も、買春する男性側にも自分の生き方に責任があり、自ら性病にかかるリスクを背負しょってまで金をもらったり、払ったりして性交することが“慰安”だと考えるのもどうかと思うが、あくまで個人の生き方なので個人的な意見は控えようと思う。そして、問題は売買春そのものではなく、強姦防止に建てられた慰安婦施設があっても、軍事基地に駐留する兵士達による近隣住民への強姦犯罪が後を絶たないという事実である。戦火においての強姦も多いが、平時であっても同じように行われ、被害を公に訴えることは被害者にとっては恥辱と感じる人も多いため統計数は当てにならないが、日本だけでも年に数十件は現在も起きている。しかも、被害を警察に訴えても起訴率はほぼ0%であり、被害者が泣き寝入りしていることの方が多い。さらに、被害はいたいけな子供にまで及び、史上最悪の例としては1995年に沖縄県で起きた12歳の一人の少女を屈強な3人もの米軍兵士達が取り囲み、拉致した挙句、強姦した事件である。しかし、日米地位協定によってこれほどの凶悪犯罪でありながら裁判は遅々として進まず、判決もかなり軽くて犯罪者達を更生させるまでには至っておらず、結局、その後も性犯罪は後を絶たなくて2016年にも沖縄県うるま市で夜8時にウォーキング中だった女性が強姦された上、殺されるといった事件が起きており、国民の生命と財産を守る為と言って軍事基地を設置し、強姦防止にと慰安施設まで税金で建てているが、実際には国民の生命と財産は全く守られていない・・・。)であり、葬祭殿にまつられているオシリス神は死神で、男根ペニスを魚に食べられて逝ったという神話が古代からエジプトでは広く言い伝えられていて、庶民の間では下ネタの象徴として親しまれていたようなので、恐らくそういうサービスを行う為にこの当時、莫大な金額で取引されていたフランキンセンスやミルラ(没薬もつやく)などの香木をわざわざインドから仕入れて葬祭殿内に植林し、自家栽培まで行っていたようである。


実は、フランキンセンスやミルラ(没薬)などの香木の樹液は、女性達が気分やおしゃれを楽しむ香油として、または宗教儀式や葬式の線香としてもよく用いられてきたものだが、それら以外で身体にすり込んでリラックスさせるローションとして使うこともあり、また、フランキンセンスの木の皮をガムのように噛むと唾液が分泌されやすくなる効能があって、ミルラ(没薬)の方も子宮を刺激して流産させやすくする副作用があるため、妊娠する訳にはいかなかった慰安婦(売春婦)達の必需品だったと思われる。


そのおかげか、ハトシェプストの父親、夫、義理の息子までも遠征(侵略戦争/略奪戦争)に出かけて行って領土を拡大するようになり、彼女自身も20年以上、権勢を振るうまでになったが、結局、自分も発がん性のあるローションを長年、使って歯や骨盤がボロボロになるほどの子宮ガンのような症状を患い、中年を過ぎた頃にあっけなくこの世を去って、その後、彼女の義理の息子が王権を握るとさすがにこの下賤で浅ましい施設を恥ずかしく思ったのか、その事実を匂わすような建築物をことごとく打ち壊してしまったようだった。

それでも壊されなかった壁画がいくつかひっそりと残されており、その中の一つは確かに男女が性交し合う様子が描かれていて、BC15世紀におけるハトシェプスト女王葬祭殿内で行われていた実態を現代にも伝え続けている。


なお、ルクソール神殿の周辺では外国人観光客を狙ったテロリスム(無差別攻撃)が度々、起きており、このハトシェプスト女王葬祭殿でも1997年に日本人の新婚カップルやわずか5歳のイギリス人の子供まで含む62人にもなる罪のない観光客達が無残にも殺害されたが、不思議なことに事件を目撃していた葬祭殿内で働く管理職員が近くに駐在している軍部や警察の検問所に知らそうともせず、45分にも渡って大虐殺が繰り広げられ、まんまと犯行グループに目の前に停まっていた観光バスを乗っ取られ、なぜかその犯行グループが軍部や警察の検問所に逃げ込んで銃撃戦になるという奇妙な経緯を辿ることになった。

その後、このような悲惨なテロリスム犯罪を失くすためと言って検問所も増やし、軍部や警察の強化も図ったようだが、全く改善されておらず、むしろ、この軍部の検問所を襲撃するテロリスム(無差別攻撃)が増えており、近年はさらに規模も大きくなってきているようである。(外務省海外安全ホームページ参照)



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