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フェアリーテール

作者: Chia

以前、短編小説の章に公募したものです。

真っ逆さまに吸い込まれてしまいそうなほど澄み切った青さ。

丘にある高級住宅街を歩きながら空を仰いでそう思った。洋風な景観が並ぶこの場所では自然と姿勢を正し軽快に、かつ上品な歩き方を気取ってしまう。この前買った、赤いミュールの踵の縁が足首の後ろに擦れて痛い。大丈夫、もうすぐ目的地に着く。そう私の足首を励ましながら歩を止めることなくモデルウォークを続ける。早く、早く、早く。見えた。荊の館。赤、黄色、紫、そしてピンク。色とりどりの薔薇が咲き誇る庭園を持つこの洋館を、私は荊の館と呼んでいる。高級住宅街の中でもひときわ目立つ敷地面積の大きさと日本離れしたロココ調の造り、庭には小さいながらも噴水、テーブルや椅子が備わっているこの家には少し風変わりな紳士がたった一人で暮らしている。いたずらをするわけでもないのに、こっそりと館の庭に踏み入れる。この一歩を踏み出すとき、なぜかいつも冒険心が私の中に燻る。それは隠された高揚感という名の冒険心。この気持ちはいつしか足首の痛みなど忘れさせる。

「また邸に踏み入れたね、お嬢さん」

 背後から声をかけられ、一瞬心臓が飛び跳ねる。声の主は誰だか検討がつくのに、鼓動が波を打ったかのように加速する。

「もう!びっくりさせないでよ、叔父さん」

わざと怒ったような顔を作って振り返る。少し目線を上に上げると太陽の光を背負った叔父さんの、優しい顔があった。

「はは、ごめんエミリ。機嫌を直して。改めていらっしゃいませ、荊の館へ。今日は天気がいいから、外でお茶でも飲もうか」

 叔父さんは「椅子に座ってて」と言って、館に吸い込まれるようにお茶のセットを取りに向かった。私は叔父さんが向かった方向の逆にある庭先のテーブルに歩を進めた。もちろん足取りには気を使って。木の造りの椅子に腰をかけ、上を仰ぐ。若葉色の大きな木々の葉が私を木陰で被いつくし、初夏のそよ風が髪の毛を踊らす。

「おまたせ。アップルティーでいいかな」

 叔父さんもそよ風のごとく颯爽に現れて、私の返事を聞かずアップルティーをエンジェルモチーフのカップに注ぐ。

「叔父さんの入れるお茶、好きだよ」

 叔父さんは歯に噛んだような笑顔でお皿にクッキーを広げ、木の椅子に腰掛けた。優しげな栗色の髪の毛が風に揺れている。そしてシュガーポットを私に差し出した。

「砂糖はお好みで」

「砂糖なんて要らない。綿飴の髪の毛の妖精さんに魔法をかけてもらえばもっと甘くなるから」

 叔父さんはまあるく目を見開いて怪訝そうに私の方を見やる。もしかして、私変な子と思われた? もしかして、叔父さん忘れちゃったのかな? その考えを否定したくて、「でしょ?」と付け加える。

「エミリ、記憶力がいいね。そうだよ、綿飴の髪の毛の妖精は物を甘く、唐辛子頭の精霊は物を辛くするんだ」

 やっぱり叔父さんは覚えている。その確信は私を一気に高ぶらせ嬉々とさせる。自然と満面の笑みになって、両手で叔父さんの腕を掴む。

「私ね、叔父さんの作ってくれるお話が大好きだったの! エミリーの冒険。この世でたった一つしかない私が主人公の物語が」

 興奮で無意識的にマシンガントークになる私を宥めるように叔父さんは私の腕を軽く擦って、優しげに目を細めた。

 叔父さんは翻訳家だ。二十代の頃翻訳を手掛けた「空飛ぶ吟遊詩人」という児童小説が大ヒットし、その印税でこの邸を建てた。当時この館は一部のマスコミの間で空飛ぶ吟遊詩人御殿という名前で呼ばれていたが、私はそんな安直で俗っぽい名前を認めない。ここは、荊の館だ。他の者からすればその名前も安直な部類に入るのかもしれない。叔父さんが作ってくれた物語の冒頭は「エミリー」が「荊の館」へ踏み入れる所から始まる。だからこそ私にとって叔父さんの邸は荊の館でなくてはならないのだ。そう、叔父さんが尊敬する作家ルイスキャロルの名作になぞらえたエミリーの冒険は、たしかにこの館から始まったのだから。

「あれは即興で作った作り話だよ。そんなに大袈裟に褒めてもらえるようなものじゃない」

 意外と後ろ向きな意見に一瞬ひるんだけど、私はさっきまでの勢いを保ちながら続ける。

「そんなことないよ。私、小さいときあのお話の続きが聞きたくて叔父さんの家に来るのがすごく楽しみだったもん」

「さてはそれでまた聞きたくなったから、最近僕の家に通いだしたのかな」

 叔父さんは少し意地悪さを含んだような不敵な笑顔で私を見つめた。顔が熱を持つ。その熱さを叔父さんに見通されたくなくて、妙に真剣な顔で「そうだよ」と答えた。

 都心に数ある大学の中でも叔父さんの邸に近い学校を選んだのは、叔父さんに会える機会を自分で作れるという理由からだった。正直、自分の学力ならワンランクもツーランクも上の大学を目指せただろう。だけど結局そんな大学を選ばなかったのは、自分の根底に叔父さんに会いたいという気持ちが強く根を張っていたからだ。その気持ちに気づくと同時に、私は叔父さんのことが好きなのだと実感した。自分の恋心を認識したのに、なぜか驚きだとか恥ずかしさだとかの感情は沸かなかった。いつかそうなるのが当然だと言うように、前からそうなることを望んでいたかのように、私は冷静に自分の気持ちを受け入れた。私という体はひとつしかないのに、心臓も脳ももちろんひとつしかないのに、自分が二体いるような感じだ。叔父に恋する私、そしてそれを客観的に当然のごとく受け入れる私。昔からメルヘンやファンタジー、薔薇の花、国語や英語が好きで、外国文学科を受験したのも叔父さんに全て起因している。

「だから叔父さん、物語の続きを聞かせて」

「あの物語はもう終わってしまったよ。エミリーは幼かったから妖精達が見えた。大学生になった今、エミリーに妖精は見えないだろう。君の望みは申し訳ないけど叶えられない」

 叔父さんは伏し目勝ちに、音を立てずアップルティーを飲み干した。若葉が風に揺れてざわざわと動いている。物語は終わった。その言葉を反芻し、幼かった頃から今までの叔父さんと私の空白の時間の流れを少し呪った。



 エミリーが足を踏み入れた薔薇が咲き誇る荊の館には、毎日同じようなブラウスを着ている男爵が暮らしていました。男爵は変わり者で怠け者。時々浮かんだ詩を詠うことと三時のティータイムの用意以外は何もしません。だから、館に住み着く住人達は住まわせてもらうお礼に、男爵の代わりに料理や洗濯をします。料理は綿飴の髪の毛の妖精と唐辛子頭の精霊が、洗濯は綺麗好きのドブネズミが、それぞれ担当するのです。


「絵美里、フランス現代文学史のノート借りてもいい?」

 友達のクミの声で現実に引き戻される。辺りを見渡すと四限目の講義は終わっていて、生徒達は他愛もない会話をしながら教室を後にしようとしていた。

「あぁ、ごめん。今日寝坊して私も一限出れなくて、ノート取れてないんだ」

「えー。そっかぁ」

 思い切り興ざめしたクミを尻目に私は机に出した筆記用具を薔薇模様がモチーフの鞄に片付ける。そういえば、男爵の荊の館にはもう一人住人がいた。なんていう名前だったっけ。たしか私は、その登場人物だけが好きにはなれなかったのだ。

「フランス現代文学史のノートなら、俺取ってるから貸そうか?」

 テノールの穏やかな声の方に目を向けると、小柄で丸顔の男が得意げに微笑んでいた。たしか、彼は上山くんだ。同じ天文学サークルだけど、一、二回しか話をしたことがない。もっともそれは、サークルに入ってから一ヶ月経つのに私が今まで二回しか顔を出さなかったからという理由が大きいのだけど。

「えーほんと!? ありがとうっ!!」

 クミはもとから高い声を一層甲高くして、大袈裟に喜んだ。少し鬱陶しいけど、クミのこういうところが、女子力、なんだろう、と妙に羨ましい。

「絵美里ちゃんもよかったら写して。俺字汚いけどさ」

 なんだか、気を使われているみたいだ。この気遣いが本物なら、サークルにほとんど来ていないけど一応メンバーという不安定な自分の立ち位置や、サークルに入った理由は星なんて興味がなかったけど、クミに一人じゃ入れない一緒に入ってと強引に誘われたからということを含めて、なんだか彼に申し訳なくなる。

「今日、サークル行く?」

「もちろん行くよー。絵美里は行かないと思うけど」

 クミに話を振られ、そうなの、ごめんと小さな声で謝った。

「いや、謝ることじゃないよ。そうだ、俺さ、小さい望遠鏡買ったんだ。今度うちに遊びにきてよ」

「えー。上山くん一人暮らしじゃん。女の子だけで行くの気まずいよ。サークルの人何人か誘ってだったらいいけど」

 しれっとそういうことを言ってのけるクミに上山くんはそうだね、と苦笑する。私にはクミの魂胆が分かっている。クミはサークルの林先輩が好きだ。それも、一目見たときから恋に落ちたらしい。サークルの勧誘を受けたとき、絶対にこの人の彼女になるのだと予感したらしい。それでクミは全く興味もない天文学のサークルに林先輩狙いで入部した。だからクミはサークルに星を研究するのではなく林先輩に会うために行っている。だから、林先輩のいない天体観測なんてクミにとって一ミリの価値もない。つくづく、女なんてそんな生き物なのだと呆れる。クミも私も、そこに思い人が在るからこそそこへ通うのだ。場所や出来事など何の価値もない、要は人だ。今の私の生活は、叔父さんという軸の元で回っている。

「じゃあ、夏休み辺りに泉先輩や林先輩あたり誘って、僕の家で天体観測兼飲み会しよっか」

「うん。夏の大三角見れるかな。超楽しみー」

 どうやら、クミの魂胆はうまく転びそうだ。



 サイズがきついのに赤いミュールを選んだのは、やっぱり叔父さんの影響で、物語の中でエミリーが赤い靴を履いている設定だからだ。赤い靴を履いていると物語の中へ吸い込まれそうな気がする。すぐにでも男爵のもとへ近づいていける気がする。靴擦れの痛みを我慢しながら今日も左足は邸へと踏み入れた。庭先に叔父さんの姿はない。この前みたいに後ろから叔父さんが声をかけてくれるのを少し待ってみたけど、その気配はない。淡い期待が崩れ去ったので、玄関のドアをそっと開け叔父さんを呼ぶ。返事がない。もう一度、大きな声で呼ぶ。すると奥から「はーい」と返事がひとつして足音が近づいてきた。

「エミリ、いらっしゃい。今、晩御飯を作っていたんだよ」

 白いエプロンを纏った叔父さんが優しい声と共に現れた。そのエプロンと叔父さんとのギャップがアンバランスでにやけてしまう。

「叔父さんが料理なんて珍しいね。お茶を入れることと翻訳しかしなさそうなのに」

「僕だって一人暮らしだから自炊くらいするさ。けどやっぱり何年経っても慣れないものだね、家事は。いつもご飯を作るとなると苦労するんだ」

 叔父さんが妙に真顔で話すものだから、余計に面白くなって吹きだしてしまった。

「エミリも食べていくといいよ。量のことは気にしないで。家事をするのが面倒だから、一週間分を一遍に作るのさ」

 やっぱり叔父さんは面白い。冗談めいたことを真剣に言うから、どこまでが本気なのか分からない。そんな所が昔から、私は好きで好きで仕方ないのだ。

 ダイニングに通され、座るように視線で促されるまま椅子に腰をかけた。テーブルの中央には、瑪瑙色の花瓶に数本の薔薇が生けられている。あぁ、思い出した。薔薇の皇女様だ。男爵の館には薔薇の皇女様というそれはそれは美しい女性が一緒に暮らしていた。彼女だけは「エミリーの冒険」の中で唯一好きにはなれなかった。むしろ、登場しなければ良かったのにとすら思った。彼女が登場しなければ、登場人物の中で人間は私と男爵だけだったのに。

「さぁ、食べよう」

 叔父さんは黒糖パン、ボンゴレのスパゲッティ、コーンスープを次々に運び、最後にグラスを差し出した。その瞬間、何か手伝えばよかったかなと少し後悔しながらも「ありがとう」と最大限の笑顔でグラスを受け取る。

「エミリはまだ未成年だから、お酒は無理かな?」

 いたずらっぽく叔父さんは笑う。叔父さんにその気がないのは分かっていても、「まだ」とか「未成年」という言葉を使われたのが子ども扱いされているみたいで少し虚しくなった。

「大丈夫だよ。もう十八なんだから。外国じゃお酒が飲める年齢だし」

 わざと強気な素振りをして、叔父さんの反応を煽った。叔父さんは意外に、そうだねと言って何の迷いもなく私のグラスに白ワインを注いだ。その、そうだね、がいつもの叔父さんの声よりワントーン低くて少しドキっとした。

「じゃあ、乾杯」

 カンと涼しげな音が鳴った。グラスとグラスがぶつかる音。初めて叔父さんと交わす杯。何もかもが新鮮で、眩しい。これが幸せなのかもしれない。この気持ちがきっと長い人生の中で指折り数えるくらいの幸せと呼べるものなのかもしれない。グラスに口を付ける。今まで味わったことのない苦味と辛さが喉を伝ったと思えば後味はすっきりしていて心地よかった。

「美味しい」

 背伸びをして、心にもない感想を唱えた。叔父さんは

「エミリはなかなかいけるね。僕は初めワインを口にしたときは美味しいと思えなかったのに」

と驚いた。そっか、叔父さんもそうだったんだと共感と安心感が込み上げてきてなんだか嬉しくなる。

「ねぇ、叔父さん。やっぱりエミリーの冒険の続きは聞かせてくれないの?」

 気分が良くなってきた私は上擦った声で尋ねてみた。もしかしたらお酒が入っている今なら、叔父さんも物語の続きを作ってくれるかもしれない。

「もう、あの物語は完結したからね。続きを作ることは僕には無理だよ」

 別に嫌な気はしなかった。小さい頃の私は「あの物語」でしか叔父さんと繋がれる術がなかった。だけど、今私はこれと言った口実がなくてもこうして叔父さんの家を訪れる事が出来る。なら、もうそれでいいのではないか。

「僕にはエミリーの冒険の続きを作ることは出来ない。あの物語の続きは君が作るんだ」

 え、と理解に苦しんで目を見開く私をよそに、いつもより少しお喋りになった叔父さんは続ける。

「物語の主人公は君だ。だから君の選択が物語の続きを作る。エミリ次第で物語はどうとでもなるんだ。君はもう幼くないから、自分で物語の続きを作っていける」

 幼くない、その言葉のおかげで今口に含んだワインが甘くなった気がした。不思議。綿飴の髪の毛の妖精はもういないのに。 

「君はこれから、いろんな人に出会ってやがて誰かと恋に落ちるだろう。恋を知って、もしかしたら嫌な思いもするかもしれない。だけどいつかは本当に大切な人を見つけることが出来るよ」

 一気に心に鉛が落とされた気がした。今、私は叔父さんに恋をしている。叔父さんが私の大切な人なのに。そんなこときっと叔父さんは微塵も予想していないのだろう。叔父さんの指す『誰か』に叔父さん自身は含まれていないのだろう。幼くない、そう叔父さんは言ったけど、それは世間一般に私の年齢が幼くないだけで、叔父さんにとって私は永遠に幼いままなのだ。永遠に私は小さいお嬢さんなのだ、あの物語のように。

「いや、その物語を作るのはエミリ自身か」

 叔父さんは自分で自分を詰るように苦笑した。ほろ酔いが冷めてきたのだろうか、一転して心地いい気分から一気に虚しさに突き落とされたような気持ちになる。

「叔父さんは……恋はしないの?」

 擦れそうになる声を振り絞った。

「僕?」と、目を丸くして怪訝そうな顔をしたと思ったら、叔父さんはおもむろに含み笑いをした。

「もう、僕の歳じゃねぇ。それにこんな変わったオジサンを相手にしてくれる人なんて」

「いるよ! 絶対。叔父さん素敵だもん。歳だってまだ三十代じゃない」

 叔父さんの言葉を無理矢理遮って、今まで貯めてきたものを吐き出すような勢いで声を張り上げる。叔父さんは私の勢いに若干辟易したが「ありがとう」と優しく目を細めた。これが私の最大限の告白。否、告白に最大限近い台詞。今の私には頑張ってもこの言葉が最大限でしかない。急に情けなくなって涙が込み上げて来そうだ。それを塞き止めようとするかのように手を額に当てる。

「それに…」叔父さんは遠くを眺めるように宙に視線を向けた。

「僕は今でも恋をしているんだ」

 心臓が強く握られたような気がした。一気に喉が渇く。全身の水分が目に集中してしま

う前ぶれなんじゃないだろうかという馬鹿げた考えが巡る。そんな私を他所に叔父さんは穏やかな口調で話を繋げるのだった。

「今から十五年ほど前になるね。僕には結婚を誓った愛しいひとがいた。彼女は翻訳の仕事を通じて知り合ったひとでね、薔薇の花が大好きだったんだ。だからきれいな薔薇が咲き誇る邸に一緒に暮らそうと約束をして、この家を建てたんだ。僕達が出逢うきっかけとなった本『空飛ぶ吟遊詩人』の印税でね」

 その女性の存在を今日初めて聞かされたのに、私にはその女性がどんな人なのか容易に想像がつく。懐かしさが蘇った。本当は、心のどこかで分かっていたのだ。薔薇の皇女様は叔父さんの思い人なのだと。

「薔薇の皇女様なんでしょ。薔薇の花のように美しくて、薔薇の棘のように少し我儘。だけど本当は誰よりも優しく、そして儚い人」

 叔父さんは照れるように頭を掻いて、分かっちゃったかと照れたように舌を出した。そんな動作をしながらも心なしか嬉しそうにすら見えた。

「そう、皇女様のモデルは彼女さ。そう、儚い人。彼女は昔から体の弱い体質らしくて、よく病気にかかったりもした。そして結局病気で死んでしまったんだ」

 叔父さんの視線は未だ、はるか遠くにある。少し寂しそうに宙を見ている。だけどその瞳には強い意志の光が宿っているようだった。

「彼女が死んでしまった後も、僕は彼女に恋をしている。十五年間ずっと。きっとこれから先も僕の心は彼女に在る。この薔薇の館と、彼女と共に生きていく」

 きっと今叔父さんの目に映っているのは、宙でもここにある物質でもない。おそらく、彼は十五年前の幸せな光景を見ているのだ。叔父さんの愛しい人が生きる、楽しく美しい日々を。遥か遠い懐かしく幸せな過去。



叔父さんの家を出たのは、夜八時過ぎだった。危ないから送っていくという叔父さんの申し出をこの時期は日が長いからという適当な理由で断ったのは、自分の家に着くまで涙をもち堪える自信がなかったからだ。告白したわけではないけど、まるで叔父さんが私の気持ちを知っていて、婉曲的に振られたような感じがした。その真意は結局本人にしか分からないけど、事実上これは私の失恋にあたることは確かなわけで。叔父さんの心は永遠にあの人の許に在って、私のものにはならない。別に私のものにならなくてもいい。今までだって、そうだった。だけど何より辛かったのは、私が頭に描いていた『薔薇の館、叔父さん、エミリ』という構図は叔父さんの頭にはなくて、叔父さんにとって薔薇の館は自分と最愛の人のためだけに在るのだというビジョンが存在していたことだ。叔父さんに婉曲的に振られてしまったような虚無感と、自分の故郷が絶たれたような喪失感が私の中でマーブル上に募り、私の心を蝕んでいく。ただ夜の静寂だけが私を優しく包んだ。日が長いとはいえ、相当暗くなった空の下で叔父さんの邸を振り返ると、咲き誇る深紅色の薔薇が美しくも不気味に見えた。その妖しさは暗がりの中夜の光を受けて一層増す。たいてい昼間にしかまじまじと薔薇を見たことがなかったから、夜の薔薇がこんな風に見えることを知らなかった。

痛い。一瞬棘が刺さったような痛みを感じ、左足に目をやる。足首の後ろ、アキレス腱の辺りがミュールに擦れて、血が滲んでいた。鞄を漁ったけど絆創膏はない。よりによって今日、叔父さんの家に引き返す気にもなれない。家まで足首の擦り傷とミュールが擦れっぱなしなのを考えると、途方にくれてしまった。もう一度叔父さんの邸のほうを振り返る。意外と歩くのが早いらしく、かなり遠く離れていた。ここまで離れたなら、もう大丈夫だろうか。泣いても、大丈夫かな。答えが出る前に涙が目に溢れてきた。鼻が苦しくなって、鼻水を啜ったら涙が一滴地面に落ちた。

「絵美里ちゃん?」

 背後からいきなり名前を呼ばれ、びくっと肩が上った。おもむろに振り返るとそこにはチェック柄のシャツを羽織った青年が自転車をついて立ち尽くしていた。青年と言うより、少年に近い見かけだよな、彼は。

「どうしたの?」

 上山君は自転車を止めて心配そうにこちらに向かってきた。私は溢れ出た涙を悟られたくなくて、強引に腕で顔をワイパーのように拭く。

「何にもない。今帰るとこ。上山君は?」

 わざと声高に尋ねる。尋ねた瞬間に、あぁ今日はサークルがあったんだということを思い出した。そして此処が丁度、高級住宅街と学生用の安価なアパート街の境目だということに気づく。

「俺も帰るとこ。絵美里ちゃん下宿だったよね。もう夜遅いし、送ってくよ」

 上山君は自転車をつきながら、私のスピードに合わせて歩いてくれた。横に並んで歩くと、意外と彼の背がそれほど低くないことに気づいた。男性らしからぬ高い声、丸顔、垢抜け切れていない服装と雰囲気、それらの特徴が私の中で『自分より幼い』という彼の虚像を作り、勝手に背が低いと決め付けていた。

「わ!大丈夫!?」

 いきなり上山君は何かにとり憑かれたかのようにいつもより更に高い声を上げ、屈んで私の足元を凝視した。苦虫を噛み潰したような痛々しい顔をしながら「うわぁ。痛そう」と独り言のように呟いた。ああ、そうだ。私、左の足首から血が出てるんだった。

「なんで言ってくれなかったの? 気を使わなくたっていいのに。すごい痛そうじゃん、これ!」

 捲し立てる様な言い方で、少し怒っているような感じがした。苦笑いでやり過ごそうと彼の顔を見ると、その顔は思いの外真剣で驚嘆した。妙に張り詰めた空気が二人の間に流れる。

「俺の家、もうすぐだから。一旦、そこで手当てしよう」

「ありがとう。そうだ、たしか上山君望遠鏡買ったんじゃなかったっけ?」

 予想外に真剣に咎められ、少し気まずくなったので、話を逸らすように望遠鏡の話題を出す。上山君ならその話題に直ぐに乗っかって来てくれるという変な自信があった。

「うん。学校にあるような高級なのじゃないけどさ、結構良く見える。俺、マンションの七階に住んでるから結構眺めよくて、折角だから天体観測しなきゃ勿体ないような気がして」

 上山君は歯に噛んだように笑う。その優しい笑顔がいつもの上山君っぽくて、さっきまでの妙な緊張感が解けて安心感が戻る。

「ここ、俺のマンション」

 上山君は駐輪場に自転車を止め、巨大な集合体に吸い込まれるように入っていく。マンションの色は夜だからいまいち何か分からない。草臥れたようなそら豆色の小さな箱に乗って、七階まで上る。七階から見下ろす街は、遠くに光が点々と散らばっているものの、意外と落ち着いたものだった。空気は澄み切っていて、涼しい。夜ってこんなに優しいんだ、と漠然と思った。一番右端が俺の部屋、と上山君は教えてくれた。その部屋に二人で入る。一瞬、クミの顔が浮かんで「上山君一人暮らしじゃん。女の子だけで行くの気まずいよ」という台詞がフラッシュバックした。今、私は一人暮らしの男の子の部屋に一人で足を踏み入れている。改めて事実を反芻すると、体が強張った。上山君もその事実を認識しているかのようにマンションに着いた途端に口数が少なくなった。

「上って。部屋、汚いけど」

 言われるままに、ミュールを脱ぎ捨てて、素足で床に上る。やっと踵との摩擦の痛みから解放された。その解放感から、このまま倒れこんで眠りたい気分になる。ゆっくりと自由になった足を動かし、上山君の後を追うように奥へと入る。そこには、あちこちに物が散乱した、足の踏み場のない狭い空間があった。彼の言葉通り、汚い部屋。

「ごめん、どっか座れるとこ座って」

 上山君に促され、やっとの思いで見つけた、人が二人座れるほどのスペースに体育座りをした。上山君は引出を漁り、絆創膏を探し出してこっちに持ってきてくれた。

「ありがとう」

 私は上山君から絆創膏を受け取り、傷口にそれを合わせ慎重にフィルムを剥がしていく。

「何か辛いことあった?」

 絶句した。やっぱり、さっき泣いていたことを知ってたんだ。少し焦って、弁解の言葉を必死に探す。その言葉が見つかるより先に上山君は私を抱きしめた。

「話してほしいんだ。力になりたい。俺じゃ駄目かな?」

 一瞬、脳裏に叔父さんの優しい笑顔が過ぎった。私は自分で物語を作っていけるって本当なのだろうか。

 上山君の抱きしめる力は一向に弱まることなくて、私は抱きしめられた体勢のまま染みのできた低い天井を仰ぐ。ねぇ、叔父さん。私の物語は薔薇の咲く館ではなくて、こんな汚く狭い箱の中からでも始めることは出来ますか。


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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして、未玲です。 いきなりの感想、失礼します。 ふわふわと優しい雰囲気の漂う、素敵なお話でした。 エミリちゃんがつくる物語、これからどうなるのでしょうか? とても気になります! 執筆…
2011/02/22 21:36 退会済み
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