肌の温度
小学校の頃からの同級生に空次かなという子がいる。
彼女は男女分け隔てなく喋るタイプで、毎回輪の中心にいることが多いイメージだった。
俺は彼女と6年間同じクラスで、小学生の頃は結構仲良くしていた。
でも何を話したかまでは覚えていない。
きっと昆虫に分類されるのは、足が6本のやつだけとか、そんなしょうもないことだろう。
そんな彼女とも中学に上がってからクラスが別れ、話す機会がめっきりなくなった。
家が近いってわけでもないから、行きや帰りも一緒にということもなく、新しい友人と過ごす日々の中、気づけば三年生の春を迎えた。
始業式が終わり、自分のクラスの教室に足を踏み入れる。
クラスの割り振りを事前に見ていたので、特に仲が良い奴が1人もいないのは分かっていた。
でもなんか、周りで輪ができてる中、1人ポツンと座っているのは居心地の悪さを感じた。
そんな時、彼女を見つけた。
空次かな。
彼女は入り口に一番近い列の先頭に座っていた。
ちなみに俺は窓側の一番前。
だから目に入った。
なんだろ。オセロだったら挟めるから、挟まれた前列のやつみんなポツンと座ってくんないかな。
俺は後ろが騒ぐ中、前列のやつだけが黙って座っている図を想像して、そのシュールさに口を塞いだ。
「よーし、お前ら席につけ。分からんやつは黒板見ろ、書いてあるぞ」
先生が入ってきたので、俺はオセロをやめた。
簡単な自己紹介が終わると、今日は即下校となった。
放課後、俺が教室で顔見知り程度のやつと談笑していると、他のクラスから親友が迎えに来て、俺は帰路に着くことになった。
「なぁ、お前のクラスに可愛い子いた?」
「ああーいた。バレー部の宮下」
「宮下か。うちは内田いたぞ」
「へぇ。まぁ、だからどうしたって話だが」
「付き合うだろ」
「お前帰宅部に彼女出来ると思ってんの?」
「一応帰宅部のエースだし。学校まで10分かかんねーぞ」
「は、親が建てた家が学校に近いだけのカスがよお!」
「ツッコミが辛辣すぎだろ!」
俺は親友木見乃友にヘッドロックをキメる。
「やめろ、頭が割れるうう!」
「そんな力入れてねぇわ」
俺は技を解く。
「まぁ、そんなことしてる間に家に着いたわけだが」
「近すぎるだろ」
「まぁエースだから」
「家が近い分、彼女までの道のりは遠いぞ」
「……なんか悪いことしたか?」
「胸に手当ててみ」
「うん。うんうん。神様が祝福してるわ」
「お前注射痕とかない?」
「ないわ!シラフじゃ」
「じゃあお前はこれからクレイジーヒューマンな」
「意味わからん!」
俺たちは2人とも狂っていた。
次の日。
教室に入ると少しガヤガヤしていた。
理由はすぐ目に入った。
机の上に置かれた花だ。
それは花瓶に入っていて、まるでその席の人間が亡くなったことを連想させた。
この席って、空次だよな。
え、あいつ死んだのか?
そんな風に考える俺の横を彼女は通って行った。
あれ?生きてる。
すると彼女は顔色ひとつ変えず鞄を置き、花瓶を手にまた俺の横を通り教室から出て行った。
久しぶりに見た彼女の顔が、記憶の中の彼女より少し大人びていて、なんかドキッとしてしまった。
6月下旬。
新しいクラスになって二ヶ月以上が過ぎた。
俺にも新しい友達が無事でき、クラス内でも色々なグループが出来上がっていた。
そんな中、空次かなは1人だった。
別に彼女だけが1人でいるわけではない。他にも1人で馴染めない奴はいる。
でも多分、彼女はいじめられている。
彼女の机や下駄箱にゴミが詰められていたりするのを見かけるようになった。
クラス内で陰口を耳にするようにもなった。
もちろん今までの学校生活で、はぶられてるやつを見たことがないわけじゃない。
でもなんでか、彼女を放っておけない自分がいた。
「もしお前が久しぶりに会うやつがいたら、なんて話しかける?」
「は?心理テスト?」
友との帰り道、俺は質問をした。
「いや、なんか、今度久しぶりに会うやつがいてさ」
「ふーん……よ、久しぶり。なんか変わった?あれ爪伸びたなぁーお前。伸ばしてんの?あれ、もう乳歯なくね?ま、変わりに入試が来るんですけどね、なんて」
「もっとスベっていいぞ」
「おい、誰のためにやってると思ってんだ!」
「俺を思ってスベるなや」
次の日の放課後。
結局話しかけれなかった俺は、空次の後を追って図書室に来ていた。
図書室はその広さの割に利用されておらず、俺を含めても利用者は3人しかいなかった。
ここまで来てグダグダしたくなかった俺は、彼女の座った席の斜め前に思い切って座ってみた。
1分、2分、3分。
なぜ座ったのか後悔が広がっていく。
彼女の顔をチラッと伺うと、真っ直ぐに分厚い本と向き合っていた。
その眼差しに表情に胸が高鳴った。
「何か用?」
「ほえ」
俺は間抜けな声を漏らしてしまう。
「ずっと私をつけてきてたよね」
「いや、ええ?」
「少し見ない間にそんな趣味になったの?」
「そんなわけないだろ!」
「こら、図書室では静かにしなきゃ」
彼女は目を細めて指を鼻に当て、シーと言う。
ああ、そういや空次はこうゆう表情をする奴だったな。
「なに、じっと見つめて」
「いや、図書室の分厚い本読んでるやつ初めてみるなって」
「ああ、確かにね。私も人が読んでるのは見たことないかも。で?」
「ん?」
「なんでつけてきたの?」
そう言う彼女の顔は、少し意地悪そうな笑顔だった。
「あーーーと、そういや乳歯抜けたな」
「はい?」
「そんな俺たちには入試が控えてるわけで、一緒に勉強とかどうかなって?」
引きつってるであろう笑顔で彼女を見る。
「私高校行かないけど」
「えっ?」
「でもいいよ。せっかくの実田楽君のお誘いだし。勉強見てあげる」
「……なんで上から目線」
この後は流されるままに数学を教わった。
でも全然頭に入ってこなかった。
もっと知りたいことが頭の中に溢れていたから。
7月に入り、すっかり放課後は図書室で勉強をするのが日課になっていた。
友には放課後は一緒に帰れんと言ったら浮気者と言われた。
ぷんすかするので、俺は毎朝一緒に登校することと、日曜は遊ぶことを約束した。
あいつのクラスに行ったことないけど、あいつぼっちなんだろうか?
「ねえ、ここスペル間違ってる」
あいつの孤立無縁生涯孤独を心配する俺を、現実に戻してくる声が聞こえた。
「あ、ほんとだ」
「この間違え二度目ね」
「随分手厳しいことで」
「はい、ここも違います」
「もう許してくれ」
向かい合って座る空次に俺は頭を下げる。
「頭を上げて実田楽君。私は鬼よ。価値のない頭は踏み潰しちゃうから」
やだこの人怖い。
「図書室で頭踏み潰すとか言わない方がいいよ」
「図書室じゃなくて基本的には言わない方がいいわ。貴方以外ならね」
「ええー。そんなに間違ってた?」
「うーん、68点です。でも名前無かったから0点ね」
「いやいいだろ別にっ。ほんとのテストじゃないんだから」
「実田楽君。人生に練習なんて無いんだよ」
「え、なにこれ、道徳のテストですか?」
慌てふためく俺を、彼女はケラケラ笑い見ている。
教室では決して見せない顔。
「なぁ、暑くないの?」
「ええ?」
「いや、その。制服ずっと衣替えしないし。ブレザーも、脱がないし」
俺は歯切れ悪く彼女に言う。
その理由は耳にしたある噂だった。
それはリスカの傷跡隠してんじゃないかとか、虐待の跡があるんじゃないかとか。
根も葉もない噂だが、俺は心配になっていたから、さり気なくいつか聞こうと思っていた。
で、今失敗した。
空次は俯き黙ってしまった。
初夏の暑さとは違う理由で汗が噴き出す。
ああ、この関係も終わりか……。
「ねぇ」
「はいっ」
「小学校の頃の私覚えてる」
「え、うん。元気なお子さんで」
彼女にジト目で見られる。
「いやごめん。ふざけてるわけじゃなくて」
「ふふ。分かってるよ。実田楽君てそんな感じの子だもんね」
彼女の中で俺はどんな感じの子なんだろうか?
「私が半袖だった記憶ってある?」
一瞬何のことだと思ったが、確かに言われてみて気づいた。
「ない」
小学生の思い出の彼女はいつも長袖長ズボンだった。
「私はそういう子です」
彼女はイタズラな笑みを浮かべる。
「いや、理由になってなくない?」
「なってるよー。肌を見せたくないの」
「……なんで?」
「そういう子だから」
「なんだよそれ」
「いいじゃん私の問題なんだから、実田楽君には関係ない」
「関係ないって」
なんだよその言い方。
「さあ勉強勉強」
彼女がそう言い机の上に置かれた問題集に手を伸ばす。
その瞬間、俺は咄嗟にその手を掴み袖を捲ろうとした。
「や!」
が、捲れなかった。ブレザーすら。少しも。
それに、なんだこの感触?
バチン!
頬に痛みがじんわりと広がってゆく。
「最低」
彼女はそう言い残して図書室を出て行った。
残された俺は放心状態ながらに、彼女の制服の感触を思い出していた。
夏休み直前も、あれから空次とは話せていない。
教室では元から話してないし、図書室にも彼女は行かなくなった。帰り道も別方向。
正直、制服を捲ろうとしただけなのに、と思ってないと言ったら嘘になる。
でも彼女にとってはそれが裸を見られるのと同じくらい嫌だったのかなとも思う。
だからちゃんと謝りたい。
でも結局謝れずに終業式の日を迎え、気づけば放課後になり、そして彼女を見失った。
俺は急いで下駄箱に向かい彼女の靴を確認、まだ校内にいると分かった俺は、降りてきた階段とは違う階段を上がりつつ、廊下を確認しては校内を駆け回った。
しかし彼女はいなかった。
「はあああ」
何してんだろ、俺。こんな風にすんならもっと早く行動できただろ。バカが。謝るだけだろ。なんなんだよお前。
トボトボと下駄箱に返ってくると、三人の女子が何かをやっているのが目に入った。
俺は咄嗟に視線を逸らし、一旦下駄箱を通り過ぎる。
まさかな。
俺は確認のため踵を返し、もう一度下駄箱を横目に通り過ぎる。
あー、やってるわ。
彼女たちが空次の下駄箱に何かを入れていたのを俺は確認した。
俺は少し離れてその様子を横目に伺いつつ、彼女たちが帰るのを待った。
そして彼女たちが姿を消し、少ししてから俺は空次の下駄箱を開けた。
すると中の靴には泥が詰められており、一緒に異臭を放つビニール袋も入れられていた。
どうすんだよこれ……。
とりあえず靴の泥を洗い出すか?
そう考えて靴を取り出した時、背後から声をかけられた。
「何してるの?」
「え」
振り返った俺の目に映ったのは空次だった。
「それ、私の靴?なんで実田楽君が私の下駄箱開けてるの?」
この場面。どう見ても俺がやったようにしか見えない。
ああ、終わった。
こないだの仕返しだって思われて、学校に報告されて、親に勘当され、最終的に死刑。
俺は頭が真っ白になった。
が、彼女の笑い声が俺を引き戻した。
「なんて顔してるのよ、やめて、面白いから」
彼女はケラケラと笑う。
「大丈夫よ。貴方がやったんじゃないのは分かってるから。さっきからずっと下駄箱の方伺ってたの見てたし」
「え?」
「監視の監視役してたの」
靴を洗い流した俺は彼女に靴を渡す。
「ありがとう」
彼女はパンパンと靴を勢いよく叩き合わせる。
「いや、こんなことになるなら、止めるべきだった」
「うーん。なんで止めなかったの?」
「それは……勇気が無かったから……なぁ」
「んん?」
「ごめん」
「いいよ、慣れてるし」
「違う!今日のことじゃなくて、いや今日のこともなんだけどっ、こないだのこと」
空次は焦って喋る俺に近づいてきてニコッと笑った。
「いいよ。許してあげる」
「ほんとに?」
「うん。下駄箱行ったり来たりしてたの可愛かったし」
「はああ?いつから見てたんだよ」
「ふふ。私もごめんね。最低なんて言って」
「いや、俺は気にして、る。許さん」
「ええー」
「絶対に許さん」
「じゃあ、私とデートしたくないんだ」
「……は!ん?」
「夏休みだしデートしようよ」
こうして俺の春が始まった。
デート当日。
友からの必勝法、取り敢えずハグからキスしろは頭に入れず置いてきた。
待ち合わせ場所には先に着き、20分ぐらいして空次はやってきた。
「お待たせ。待った」
長袖のパーカーにジーンズ姿で彼女はやってきた。
「いや、今来たとこ」
「本当は待ったんでしょ?」
「お前、また監視してたのか?」
「あ、やっぱり待ったんだ」
「……鎌かけたな」
俺たちは動物園の中を歩いていた。
「見てゾウさん」
空次が近づいていくと、ゾウは逃げるかのように逆サイドに行ってしまった。
「見て見てライオン」
ガオオオと凄い威嚇を空次はうけた。
「見てお猿さん」
猿たちは檻から出してくれと言わんばかりに、空次の接近に伴い騒ぎ始めた。
「ふう、楽しいね」
「ああ、そうだなぁ」
まぁ、本人が楽しいならいいか。
「あれ、楽しくない?」
「いや、空次と入れて楽しくないわけないだろ」
あれ、今なんて言った俺。
「あ、あはは、そうだよね。私と一緒にいて楽しくないわけないか」
「お、おう」
「あ、あれしたい」
彼女の指差す方に顔を向けると、そこにはウサギと触れ合える場所があった。
「あー、大丈夫か」
「え、何が?」
「いや、行くか」
「うん。早く早く」
脱兎の如くとはこのこと、となるかと思ったが真逆だった。
空次が来た途端、引き寄せられるようにウサギが集まってきた。
「見て見て可愛い。キャー」
ウサギと遊ぶ空次はすごく楽しそうだった。
「ほら、実田楽君もこっちきて遊ぼ」
「おう」
しかし俺が近づくと、ウサギは蜘蛛の子を散らすように離れて行った。
あれ、今までのもの俺が原因か?
動物園の帰り道、展望台。
満月を見上げながら俺たちは話していた。
「今日は楽しかったねー」
「ああ。動物園とか久しぶりだったけど、たまにはいいもんだな。また、来るか?」
「……また行きたい。けど、無理だと思う」
顔を伏せる空次。
「えぇっと。俺、何かした?」
「違う違う違う!実田楽君は悪くないよ。ただ……」
「ただ?」
「私がもう帰らなきゃいけないから」
俺は言葉の意味を考える。
「え、引っ越すってこと?」
「本当はね。誰にも言わないで帰るつもりだったんだ。でも君が私にくれたものの大きさを考えたら、黙っていなくなるのは無理だった」
「ちょっと待て」
「小学生の頃も、今も。実田楽君がいたから楽しい思い出ができたよ。今までありがとうね」
「ちょっと待てよ!1人で話進めんなって!引っ越したって会いに行くよ」
「無理だよ」
「どこだよ!どこに」
「月」
「はっ?」
俺の言葉に被せるように放たれた言葉に、俺は目を丸くした。
「お、お前ふざけるなよ!」
「ふざけてないよ。だって私、宇宙人だもん」
宇宙人。
空次かなは確かにそう言った。
「は、はは。どうゆうボケだよ」
「はい」
彼女は右腕を差し出してきた。
「え、なに?」
「いいよ。袖を捲って」
「いや、今?」
「今しかないよ」
俺はタイミングがおかしいんじゃないかと思いつつも、彼女の腕を掴んだ。
その感触に彼女の目を見る。
パーカーの感触なんて差があれど、誰だってだいたいの予想はできる。
でもこの感触は、あの制服を捲ろうとした時と同じで、まるで肌そのものだった。
「ほら。捲って見てよ」
俺は袖をつまみ捲ろうとした。
でも、捲れなかった。
代わりに肌を摘んで伸ばした感じになった。
「ね」
「いや、ねって言われても。この服が変な材質で作られてるだけで、そもそもなんでこれで空次が宇宙人てことに」
俺が動揺する中、彼女は制服姿に変わった。
「おーい、固まってるぞ」
「あ、ああ。いや、えぇ」
「ほら触ってみて」
彼女は俺の手を掴み、自分の胸に押し当てた。
「あ、ちょっ、とぉ?……熱いな」
少し手を離したくなるような熱と、脈打つ鼓動が掌に感じられた。
「これが私の体。私は体質上服を着れないの。服を着ると熱が逃げなくて死んじゃうから。だから体を擬態して服に見せてたの。私が暑くてもブレザーすら脱がなかったのは、こうゆうカラクリでした」
「でも、半袖とかにすれば」
「肌色って難しいんだよねー。今の私には多くの部位を肌色にするのは無理だからさー」
「そう、か……靴は?」
「めちゃくちゃ聞いてくるね」
彼女がニヤニヤする。
「いや、ごめん」
「いいよ。先っぽぐらいは熱こもっても大丈夫だからさ、砂利とか痛いから履いてるの」
「そっか……」
「ね、信じた?」
「……信じたくはない」
「じゃあ、信じたってことだ」
「……なんで月に帰るんだ?いじめが原因?」
その質問に彼女は笑いながら答えた。
「違うよぉ。あんなのは何とも。私の制服の着こなしが一年中同じだとか、ちょっと触ろうとしたら過剰に拒否られたとか、そんな小さな理由でごちゃごちゃ言ってくる相手なんて眼中に入んないよ」
「めちゃくちゃ強いんだな」
俺と違って。
「強くないよ。実田楽君こそ強いよ」
「俺が?」
「うん。私なんかと根気強く向き合おうなんて、イカれてるね」
「はは、何だよそれ」
2人でケラケラと笑う。
すると彼女はいきなり俺を抱きしめてきた。
俺は指先まで綺麗に伸ばし、きょうつけで固まってしまう。
「私が帰る理由はね、君のそばにいると溶けそうになるから」
俺の顔を覗き込みながら彼女は続ける。
「小学生の頃は分かんなかったけど、この一ヶ月でよく分かったんだ。私は君が好きなんだって」
俺は何も言葉が出てこない。
ただ心臓が爆発しそうだ。
「でも、この星で私たちが恋をするのは死ぬことを意味するの。本当はこんなに抱きついてたら危ないんだよ?」
「いやじゃあっ」
「最後だからいいの」
俺は抱きしめ返していいのか葛藤し、手を彼女の背中に回そうとしたところで彼女は離れてしまった。
「あっ」
「はぁはぁ。ごめんね。今抱きしめられたら、私多分死ぬ。へへ」
冗談ぽく言う彼女に、返す言葉を見つけられない。
今も体から湧き出る汗のように、気持ちも言葉にして流してほしい。
「さてと、じゃあ、行くね」
「え、もう?月に帰るってこと?今から?」
「うん」
「急すぎだろ!2、3日後とか」
「今日が満月だから」
彼女が空を指差す。
「……満月の日にしか」
「そう、引力的なやつ?理屈はよく分かんないけど」
「……行ってほしくないな……でも、死なれるほうが嫌だな。俺」
「うん。ありがとう……そうだ、10秒目を閉じて。いいものをあげよう」
「いいもの?」
「はぁやく。目、閉じて数えて」
彼女は満面の笑みでそう言った。
俺は整理のつかない頭で、彼女に従った。
「1、2」
「ねぇ、そのまま目閉じて聞いててほしいんだけど」
何だろうか?
「6」
「あんま意識してないから言うけど、君が見てきた私はずっと裸なんだよ!もっと意識しろおっ!」
風圧を感じるような声に目を開けると、彼女はもう居なくなっていた。
ただ代わりに手紙と、その上にウサギのキーホルダーが地面に置かれていた。
「はぁ」
やっぱり、そんな気はしてた。
「……はぁ」
目を開けるべきだったんだろうか?
いや、でもそしたら記憶の中の最後の彼女が、満面の笑みではなくなっていたかもしれない。
お互い涙でさよならよりマシだな。
俺は自分にそう言い聞かせた。
「…………うぅ」
あれから数年の月日が流れた。
今でも満月を見ると、暑い夏の熱い空次を思い出す。
「もうすぐ、いくよ」




