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プロローグ



儂はかつて、天下を取ったことがある。


こう言うと、酒場で酔った老人が若者相手に盛っている武勇伝のように聞こえるかもしれんが、残念ながらこれは比喩でも冗談でもなく、実際に儂は、かつて大陸の王たちを膝の震えで合唱させ、諸侯の会議を沈黙させ、軍師たちの胃を痛め、聖職者どもの説教を三倍長くさせた程度には、歴史に迷惑をかけた男であった。


名前は、今は言わん。


言いたくないというより、言うと面倒が増える。


古い名には、古い血と、古い火と、古い恨みと、古い請求書のようなものがべったり貼りついておる。儂が口にしたところで、誰かが「まさか」と青ざめ、誰かが「やはり」と膝をつき、誰かが「殺せ」と叫び、誰かが勝手に復活祭の日取りを決め始めるに違いない。迷惑である。非常に迷惑である。儂はもう、儀式と軍議と大仰な肩書きにはうんざりしておる。


今の儂の名は、ナギ・フィールド。


アルヴェリア王国東部、ルクレール地方領の端っこ、王都の連中が地図を見るときに虫眼鏡を忘れたら確実に見落とすほどの片田舎、ハーゼル村に住む、しがない牧場主である。


朝は牛に起こされ、昼は羊に逃げられ、夕方は鶏に足をつつかれ、夜は帳簿とにらめっこしながら「今年の干し草は足りるかのう」と眉間に皺を寄せる、実に健全で平和で、かつ、腰にくる生活を送っている。


人間、天下を取った経験があろうと、牛舎の掃除を免除されるわけではない。


ここは大事なところじゃ。


かつて諸王の軍勢を相手にしても一歩も退かなかった儂でさえ、冬の朝に凍りかけた牛糞を前にすると、一度は天を仰ぐ。世界を支配しようとした男が、今は凍った藁を熊手で剥がしながら「これは昨日のうちに替えておくべきじゃった」と反省する。歴史というものは、なかなかに味わい深い。


もっとも、今の暮らしに不満があるわけではない。


むしろ儂は、この生活を気に入っておる。


夜明け前、山の稜線がまだ墨色を残している時間に起き、暖炉の灰をかき、湯を沸かし、牛舎の戸を開ける。寝藁の匂い、家畜の体温、乳を張った牛の低い鳴き声、外で待ち構えている黒い牧羊犬の尻尾の音。王宮の大広間に敷かれていた緋色の絨毯より、儂にはこちらの方が落ち着く。


牛は正直じゃ。


機嫌が悪ければ耳を伏せるし、腹が痛ければ餌の食いが落ちるし、搾乳の順番を間違えると明らかに不満そうな目をする。家臣のように腹の中で陰謀を煮詰めることもなければ、同盟の席で笑顔を浮かべながら背後に兵を隠すこともない。尻尾で顔を叩いてくる程度の裏切りはあるものの、あれはまあ、戦場の伏兵に比べれば愛嬌というものじゃ。


羊は少々面倒である。


群れで動くくせに、一頭が変な方向へ行くと全員で変な方向へ行く。どこぞの諸侯連合を思い出すので、儂はときどき羊相手に政治の闇を感じる。賢い者が一頭でもいれば全体が救われるかというと、羊の場合は賢い一頭が柵の抜け穴を発見し、残り全員を脱走へ導くこともある。あれはあれで革命家の素質がある。


鶏は最も油断ならん。


あやつらは小さい体で、妙に堂々としている。卵を産んでくださる偉大な存在なので粗末にはできんが、朝から足元をうろつき、餌の遅れに文句を言い、気に食わぬと嘴で突いてくる。昔、儂に対してあれほど遠慮なく攻撃してきた者は、聖盟の英雄どもか、うちの鶏くらいである。


そのような日々を重ねていると、過去の自分が本当に同じ魂であったのか、時折分からなくなる。


かつての儂は、戦場に立つだけで兵が凍りつき、軍議で一言発するだけで諸将が背筋を伸ばし、地脈の流れを読んで都市ごと動かし、遠い国の王の寝汗まで計算に入れて策を練っていた。人は儂を恐れ、従い、祈り、呪った。広大な大陸の地図は儂の机に広げられ、山も川も都市も兵站路も、駒のように動かせるものだと思っていた。


若かったのう。


いや、実際には若くなかったのかもしれんが、魂が若かった。自分が正しいと信じ、正しさには従わせる力が必要だと考え、従わぬ者は未来の平和を妨げる障害だと見なした。腹が立つほど筋は通っていた。筋が通っていたからこそ、始末が悪かった。


人は、まったくのでたらめよりも、半分だけ正しい思想に深く捕まる。


儂は争いをなくしたかった。


これは言い訳ではない。美談でもない。事実として、最初の願いはそこにあった。種族が互いを疑い、都市が資源を奪い合い、王が面子のために兵を死なせ、教義が隣人を悪魔に変え、飢えた民がまた別の民を襲う。その愚かしさに、儂は怒っていた。


ならば、すべてを一つの意志の下に置けばよい。


諸王の欲も、貴族の面子も、都市の利害も、種族の恐怖も、民衆の暴走も、全部一つの秩序に組み込めば争いは止まる。強大な中央の意思が大陸を調停し、地脈を管理し、軍を解体し、飢えを防ぎ、あらゆる声を一つの方向へ向ける。


今になって思えば、実に見事な傲慢である。


しかも、当時の儂はその傲慢を愛しておった。


大勢が死んだ。


数えきれんほど死んだ。


儂を憎んで死んだ者も、儂を信じて死んだ者も、儂に命じられて死んだ者も、儂を止めようとして死んだ者もいた。剣と炎と魔導の光で大地は傷つき、古い森は焼け、都市は沈み、川は濁り、空には黒い嵐が生まれた。最後に見た大陸の空は、夜明けではなく、割れた地脈の光で赤黒く染まっていた。


儂はそこで、ようやく気づいた。


すべてを救うために、儂はすべてを奪おうとしていた。


気づくのが遅すぎる。


遅すぎる気づきほど、世界の役に立たんものはない。鍋を焦がしきってから「火が強すぎたのう」と言うのと同じである。鍋なら洗えば済むかもしれんが、大陸はそうはいかない。焦げついた歴史は、千年、二千年と臭いを残す。


儂は死んだ。


厳密には、死んだはずであった。


あのとき、深い闇の中で、儂は初めて祈りのようなものを抱いた。祈りと呼ぶには身勝手で、願いと呼ぶには遅すぎる、ただの最後の息の残り滓のようなものじゃった。


もし、もう一度だけ生まれることがあるなら。


誰かの上に立つのではなく、誰かと並んで生きたい。


命令ではなく、挨拶をしたい。


玉座ではなく、椅子で飯を食いたい。


地脈図ではなく、畑の畝を見たい。


戦場ではなく、朝の牛舎に立ちたい。


そう思ったところまでは覚えている。


その後のことは知らん。


気づいたとき、儂は泣いていた。


赤子であった。


これがまた、なかなか屈辱的な始まりである。かつて万軍を前に睨みを利かせた男が、首も据わらず、言葉も喋れず、腹が減れば泣き、尻が気持ち悪ければ泣き、眠れなければ泣く。人生というものは、ずいぶん徹底的に人を平等にする。赤子の前では、征服者も英雄も司祭も等しく無力である。


生まれ変わった先は、人間の家だった。


魔族ではなく、人間。


その事実を理解したとき、儂は内心でひどく長い沈黙をした。前世の儂が人間の諸王とどれほど血みどろに争ったかを思えば、運命というものは皮肉の腕が良すぎる。しかも貴族でも王族でもなく、辺境の牧場家の子である。神々がいるなら、相当笑いの分かる連中に違いない。


父は牧場主だった。


大きな手をした、無口で温かい男だった。牛の背を撫でる手つきがうまく、道具の手入れを怠らず、悪天候の前には必ず柵を見に行く。村の誰かが困っていれば、黙って手を貸す。自分の手柄を話すことはないくせに、牛の具合が良いと少しだけ目尻が下がる。


母は乳加工がうまかった。


あの人の作るチーズは、今でも儂の基準である。塩加減、熟成、薬草の香り、食べる者の体調に合わせた柔らかさ。母は儂が前世で見たどの宮廷料理人よりも、食べる相手をよく見ていた。王侯の皿を飾る料理より、熱を出した子供のために作る温かい乳粥の方が、どれほど尊いかを儂は母から学んだ。


儂はすくすく育った。


というより、妙に落ち着いた子供として育った。


村の大人たちは、儂を見るたびに「ナギは泣かない子だねえ」と言ったが、泣く理由の九割は前世で経験済みだったので、今さら木の玩具を取られたくらいでは泣けなかっただけである。もちろん、転んで膝を擦りむいたときは普通に痛かった。人間の体は本当に脆い。幼児の膝など、戦場の盾より守りにくい。


五つの頃には、牛の調子を読むのが得意になっていた。


七つの頃には、村の子供たちが木の枝で戦争ごっこをしているのを見て、危うく陣形の指導を始めそうになった。


九つの頃には、森の入り口にある古い石柱の文字を読めてしまい、慌てて「変な模様じゃのう」とごまかした。


十二の頃には、商人が父に提示した乳製品の買い取り価格が不当に低いことを帳簿から見抜き、父に「ナギ、お前はいったいどこでそんな計算を覚えた」と真顔で聞かれた。


十五の頃には、村の若者が狼に襲われかけたとき、気づけば儂は斧一本で森へ入り、狼の群れを傷つけずに追い払っていた。


あのときの村人たちの目は、今でも覚えている。


感謝。驚き。少しの恐れ。


儂はその三つが混じった視線を、前世で嫌というほど見てきた。


だから儂は、それ以来、できるだけ普通に生きることにした。


普通に起き、普通に働き、普通に腹を減らし、普通に村人と笑い、普通に失敗し、普通に怒られ、普通に年を取る。これが簡単そうに見えて、実に難しい。かつて軍勢を動かすことには慣れていた儂も、隣家のおばさんから「ナギ、あんたまた昼飯を抜いたね」と叱られる生活には、なかなか適応に時間がかかった。


それでも、儂は今の暮らしを手に入れた。


ハーゼル村。


小さな村じゃ。


王都の連中にとっては、地図の端にある名前も知らぬ点に過ぎない。大河の穀倉地帯でもなければ、鉱山でもなく、港でもなく、聖地でもない。春には道が泥になり、夏には虫が湧き、秋には村中が収穫で腰を痛め、冬には雪かきで誰もが無口になる。


村長は頑固で、鍛冶屋は酒癖が悪く、司祭は説教が少し長く、子供たちは鶏を追い回し、羊は隙あらば脱走し、行商人は平気で相場をごまかし、年寄りたちは何かにつけて「昔はよかった」と言う。


なんとも面倒な場所である。


儂は、この面倒な場所が好きだ。


大きな理想などない。

世界を救おうと声高に叫ぶ者もいない。

誰もが自分の畑と家畜と家族と冬越しの心配で手一杯である。


その手一杯さがよい。


人は、自分の手で抱えられるものを抱えて生きるくらいが、ちょうどよいのかもしれん。大陸全部を抱えようとした男が言うのだから、少しは説得力があるじゃろう。もちろん、抱えようとして大失敗した側の説得力なので、ありがたみは半分くらいにしておけ。


成人してから、儂は父から牧場の実務を任されるようになった。


フィールド牧場は村の西端、白羊の丘のふもとにある。母屋、牛舎、羊小屋、鶏小屋、乳加工小屋、干し草納屋、薬草畑、放牧地。特別大きいわけではないが、手を抜けばすぐに崩れる程度には広く、手をかければちゃんと応えてくれる程度には良い土地である。


この土地には、少し奇妙なところがある。


牧草がよく育つ。


井戸の水が妙に澄んでいる。


牛の病が少ない。


薬草の効きが強い。


夜、風が止まると、地面の下から遠い鐘のような低い音が聞こえることがある。


母屋の地下には、今の文字では読めぬ古い印が刻まれている。


村の者は「フィールド家の土地は昔からそうだ」と言う。

儂は、そういうことにしておる。


掘り返さぬ方がよいものは、この世に多い。


特に古い地脈、古い施設、古い誓約、古い玉座の類いは、眠っているなら毛布をかけて子守唄でも歌っておけばよろしい。わざわざ揺り起こす者は、たいてい歴史の授業を真面目に聞いていない。


残念なことに、世の中には歴史の授業を真面目に聞かない者が多い。


最近、その気配が濃くなってきた。


森の魔獣が増えた。


商人の買い付け価格が妙に渋くなった。


村へ来る役人の顔つきが悪くなった。


領主家の財政が苦しいという噂が流れている。


王都では古代遺産の調査が進み、教会は説教で古き災いの再来を語り、どこぞの学者どもは封印された施設を掘り返して名声を得ようとし、どこぞの軍人どもは古い兵器を「抑止力」と呼んで磨き始めているらしい。


抑止力。


便利な言葉じゃ。


昔も似たような言葉を聞いた。


「平和のための軍備」

「秩序のための統制」

「未来のための犠牲」

「一時的な措置」


そういう言葉は、だいたい最後に人を泣かせる。


儂は、もうそういうものから遠く離れていたい。

天下も、玉座も、軍旗も、称号も、神話も、全部いらん。

儂に必要なのは、よく乾いた干し草、清潔な桶、丈夫な柵、牛の健康、羊の無事、村の子供たちが冬に腹を空かせずに済む程度の蓄えである。


それ以上は望まん。


本当に望まん。


ところが、望まぬものほど向こうから歩いてくるのが人生というものらしい。


その朝も、儂はいつもどおり牛舎にいた。


東の空は薄い灰色で、山の向こうから淡い光が滲み始めていた。吐く息は白く、牛舎の中には温かい獣の匂いと、湿った藁の匂いがこもっている。黒い牧羊犬は入口の近くで丸くなり、片目だけを開けて儂を見ていた。こやつは働く気があるのかないのか分からん顔をよくする。実際には誰よりも働くので、文句は言えん。


儂は搾乳用の桶を洗い、手を温め、気難しい雌牛の首筋を撫でながら声をかけた。


「おはよう、ベル。今日は機嫌がよさそうじゃな。昨日、干し草を多めにしたからかの。儂より食費がかかるくせに、顔だけは知らんぷりしおって」


ベルは鼻を鳴らした。


返事としては上等である。


乳を搾り始めると、外から足音が聞こえた。早朝の村で、あの乱暴な歩き方をする者は限られている。村の子供ならもっと軽い。父ならもっと静か。商人なら馬車の音が先に来る。役人なら、もっと偉そうに咳払いをする。


これは、村長の足音じゃ。


儂が桶を脇へ寄せ、牛を落ち着かせていると、牛舎の戸がきしみ、白い髭に霜をつけた村長が顔を出した。普段から難しい顔をしている男ではあるが、その朝の眉間の皺は、冬越し前の飼料計算を三回間違えたときの儂に匹敵していた。


「ナギ、起きておるか」


「牛より早く起きておるわ。村長こそ、こんな朝っぱらからどうした。腰でも痛めたか、それとも奥方に追い出されたか」


「冗談を言っとる場合ではない」


「冗談を言えぬほど悪い話か。なら、余計に聞きたくないのう」


村長は牛舎の中へ入り、周囲を見回してから声を低くした。


「領都から役人が来る。今日の昼には村に着くそうだ」


儂は搾乳桶の中の白い乳を見下ろした。


牛の乳は静かに揺れていた。


「税か」


「それもある。測量官も一緒らしい」


牛舎の奥で、黒い犬がゆっくり頭を上げた。


儂は笑った。


自分でも分かるくらい、あまり楽しくない笑い方だった。


「測量官とは、ずいぶん朝の乳に合わん言葉じゃな。あれは腐った葡萄酒と一緒に出すものじゃ」


「ナギ」


「分かっておる」


儂は桶を持ち上げ、こぼさぬように棚へ置いた。こういうときでも乳を粗末にしてはいけない。世界が滅びかけても、搾った乳は傷みやすい。これもまた真理である。


村長は苦い顔で続けた。


「村の西側の土地を調べるそうだ。軍用道路の候補地、魔獣対策の監視所、古い遺構の確認、いくつか名目がある。詳しいことは書状にぼかしてある」


「ぼかしてある書状は、たいてい碌でもないことをはっきり書きたくないときに使う」


「フィールド牧場も範囲に入っておる」


ベルが、のんきに草を噛んだ。


実に羨ましい。


儂も今だけ牛になりたい。税も測量も古代遺構も知らず、干し草の質だけを気にして生きたい。ところが儂は残念ながら牛ではなく、人間であり、牧場主であり、さらに言えば前世であまりにも大きな面倒を起こした魂の持ち主である。


面倒の方から嗅ぎつけてくるのも、ある意味では当然なのかもしれん。


儂は深く息を吐いた。


牛舎の温かな空気に、白い息が混ざって消えた。


「村長、書状を見せてくれ。あと、去年と一昨年の税の控えもいる。測量官が来るなら、村の境界杭と慣習地の証言を集める。鍛冶屋には午後までに西柵の修理を終わらせるよう言ってくれ。役人どもに壊れた柵を見せると、すぐに『管理不十分』などと言い出す。司祭には礼拝堂の古記録を探させろ。古い土地利用の記録が残っているかもしれん」


村長は目を瞬かせた。


「相変わらず、こういう時は手際がよすぎるのう」


「牧場主は段取りが命じゃ。牛の出産も、冬支度も、役人対策も、事前準備を怠ると後で泣く」


「役人対策を牧場仕事に混ぜるな」


「似たようなものじゃ。どちらも放っておくと余計なところへ入ってくる」


村長は一瞬だけ笑いかけ、すぐに真顔へ戻った。


外では朝日が昇り始め、白羊の丘の草が薄く光っていた。いつもと同じ朝である。牛は乳を出し、羊はまだ眠そうに身を寄せ、鶏は餌の催促を始め、村の煙突からは細い煙が上がる。


いつもと同じ朝。


その下で、古いものが少しずつ目を覚まそうとしている。


儂は牛舎の戸の外へ目を向けた。遠く、エルム古森の方角に、まだ朝靄が残っている。その靄の奥で、ほんのかすかに、地面の下を這うような低い響きがした気がした。


気のせいならよい。


気のせいで済まぬことの方が多かった人生なので、儂はあまり期待しておらん。


黒い犬が儂の隣へ来て、森の方を見た。耳がぴんと立っている。こやつがこういう顔をするときは、だいたいよくない知らせである。


「お前も聞こえたか」


犬は答えない。


答えないくせに、目だけは妙に分かったような顔をしている。


儂は肩をすくめた。


「言っておくが、儂はもう王でも将でも調停者でもないからな。今の儂は、ナギ・フィールド。牛の乳量と干し草の残りと税務官の胃袋を心配する、ただの牧場主じゃ」


犬は尻尾を一度だけ振った。


信じておらんな、こやつ。


まあよい。


儂も半分くらいしか信じておらん。


世の中には、自分で選んだ平穏と、向こうから押しかけてくる騒動がある。儂は前者を愛し、後者を心底嫌っている。嫌っているからといって、家畜と村人の上を土足で歩かせるほど、儂は人間ができておらん。


牛舎の中でベルがまた鼻を鳴らした。


鶏が外で騒ぎ始めた。


村長が書状を取りに戻るため、重い足取りで牧場を出ていった。


儂は袖をまくり、残りの搾乳に戻った。役人が来ようと、測量官が来ようと、森の奥で何かが目を覚まそうと、朝の仕事は待ってくれない。


これが牧場である。


世界の危機が近づいているかもしれない朝でも、牛は乳を出すし、桶は洗わねばならんし、羊は柵を壊すし、鶏は腹を空かせる。


儂はベルの横腹を軽く叩き、いつもの調子で声をかけた。


「ほれ、もう少し頼むぞ。儂は今日、役人どもを相手にせねばならんらしい。せめて朝の乳くらいは、景気よく出してくれ」


ベルは、まるで世界の事情など知ったことではないと言いたげに、ゆっくり草を噛んだ。


実に正しい。


世界の事情より、まず朝飯。


儂はそれを、今世で学んだ。


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