リーゼロッテの告白
砥石の音が聞こえた。
鍛冶場の扉を開けると、鉄と汗の匂いが顔にぶつかった。炉の残り火が室内を赤く染めている。あの夜と同じ構図だった。リーゼロッテが砥石の前に座って、剣を膝に載せている。
あの時と違うのは、こちらを見たことだった。
「あんた、明日出るんだろ」
砥石の上で刃が止まっている。琥珀の瞳が炉の火を拾って、俺をまっすぐに見ていた。
「ああ」
「一つだけ言わせろ」
リーゼロッテが剣を砥石から上げた。膝の上に置いて、両手をその上に重ねている。鍛冶仕事で荒れた指先。タコの浮いた掌。あの手が刃を研いでいた。あの手が殿軍で剣を振った。あの手が包帯の隙間から俺を見上げて、「そっか」と言った。
利得の目は起動しなかった。
使おうとも思わなかった。必要がなかった。二話の鍛冶場から、ずっと霞んで読めなかった二番目が、今夜は見えている。霞が晴れたのではない。リーゼロッテが隠すのをやめた。
剣の上に重ねた手が震えていた。
「あたしは——」
声が詰まった。言いかけて、唇を噛んで、もう一度口を開いた。
「あたしはずっと、あんたの隣で戦えればそれでいいと思ってた。忠誠で十分だと思ってた」
炉の火が爆ぜた。赤毛が頬に張りついて、火傷痕の縁に触れている。
「でも、違った。あの鍛冶場であんたが——」
指が剣の柄を握った。あの夜の続きだった。俺が火傷痕に唇を寄せて、リーゼロッテが胸を押して、「行くぞ」と追い返した夜。あの押し返しは拒絶ではなかった。あれ以上近づいたら、隠せなくなるという境界だった。
今夜、境界を捨てている。
「言えよ」
自分の声が低かった。
「言わなくていい。顔見りゃ分かる」
リーゼロッテの目が据わった。怒っているのか笑っているのか分からない顔だった。
「分かるなら聞くな」
「俺が言いたい」
足が動いた。砥石の前にしゃがんで、リーゼロッテの左頬に手を伸ばした。指先が火傷痕に触れる。ざらついた表面。周囲の肌より温かい。あの夜と同じ感触だった。
だが今回は、言葉が付いた。
「気にしない、じゃない。好きだ」
リーゼロッテの息が止まった。琥珀の瞳が揺れて、睫毛の先に光が溜まった。
「……バカ。今更」
声が割れている。怒りと喜びと諦めが全部混じった、一番不器用な声だった。セラフィーナの「バカ」は敬語が溶けた包容。カタリナの「バカね」は自分を嗤いながら手放す声。リーゼロッテの「バカ」は、何も纏っていない。裸の声だった。
涙が頬を伝った。火傷痕の上を流れて、俺の指先を濡らした。リーゼロッテが泣いているのを見るのは初めてだった。あの殿軍の後も、包帯だらけのベッドの上でも、こいつは泣かなかった。
鍛冶師の荒い手が伸びてきた。俺の胸を掴んだ。引き寄せるように。今度は押し返さなかった。
唇が触れた。砥石の粉と涙の塩の味がする。不器用で、角度が合わなくて、鼻がぶつかる。リーゼロッテが小さく笑った。泣きながら笑っている。
手が背中に回った。タコの浮いた指が背骨を辿る。力が強い。鍛冶師の腕力だった。だがその手が震えている。
炉の火が二つの影を壁に落としていた。
蝋燭は一本だけだった。
リーゼロッテの部屋は質素だった。武具の手入れ道具が棚に並び、寝台の脇に革の前掛けが掛かっている。セラフィーナの白檀もカタリナの香水もない。鉄錆と汗の匂いだけがある。
リーゼロッテの手が俺の頬に触れた。指先がざらついている。柔らかい手ではない。剣を握り、鉄を打ち、火傷を重ねてきた手だった。
その手が、震えていた。
「笑うなよ」
「笑わない」
「……手、荒いだろ。こういう時に」
「知ってる」
指が首筋に降りてきた。鎖骨を辿って、止まった。その先に進む勇気を集めているようだった。
俺の手がリーゼロッテの手首を取った。脈が速い。鍛冶場で鉄を打つ時より速い。
布が擦れる音がした。蝋燭の火がリーゼロッテの肩の線を照らしている。火傷痕が鎖骨まで続いていた。知らなかった。頬だけだと思っていた。
指で痕を辿った。リーゼロッテの喉から、押し殺した息が漏れた。
「……っ」
計算がない。駆け引きがない。セラフィーナの夜は暗闇の中の手探りだった。互いの仮面を外す儀式だった。リーゼロッテには最初から仮面がない。裸の感情が、裸の体温になっただけだった。
◇
目が覚めた時、隣に体温があった。
リーゼロッテが横を向いて眠っている。赤毛が枕に散って、火傷痕が朝の光に晒されていた。隠す気がない寝顔だった。
「……起きてたのか」
目を開けないまま、掠れた声が言った。
「今起きた」
「嘘つけ。さっきから息が変わってた」
目が開いた。琥珀の瞳が至近距離にある。泣いた後の赤みがまだ残っていた。
「あたしも行く。あんたの隣で戦う」
リーゼロッテの声に震えはなかった。昨夜泣いた分を全部使い切ったような、乾いた声だった。
「知ってる」
「……あんたのその『知ってる』、ムカつく」
口の端が上がっている。怒っている顔ではなかった。
寝台を出て、廊下に出た。
朝の光が窓から差している。階段の下に、白金の髪が見えた。セラフィーナが中庭に向かって歩いている。扇子を右手に持っている。
振り返った。
翡翠の瞳が、一瞬だけこちらを見た。微笑みの奥にある温度が読めなかった。利得の目は起動しなかった。起動できなかった。
セラフィーナは何も言わず、中庭に消えた。扇子の骨を指で辿りながら。




