便利だが、万能じゃない
翌朝、書斎の窓から中庭を見下ろした。
荷車を押す老人。井戸端で笑い合う女たち。薪を運ぶ少年。領民の日常が、朝日の中に広がっている。
昨日、オットーの中に浮かんだあの感覚。もう一度、試してみるか。
目の奥に意識を集める。あの熱を呼び起こす。
何も見えない。
老人の姿は、ただの老人のままだ。女たちの笑い声が聞こえるだけで、その奥にあるものが浮かんでこない。
距離か。中庭までは五十メートル以上ある。昨日のオットーは目の前にいた。
なるほど。近くないと読めない。覚えておこう。
◇
「若様。巡回に出る」
廊下でヘルムートが待っていた。腰に剣を佩いた老従士が、無言でこちらを見ている。
いい機会だ。
目の奥に力を込める。ヘルムートとの距離は三歩。今度は、見えた。
最初に浮かんだのは忠義だ。ユリウス・フォン・グレンツェンという名前そのものに紐づいた、揺るがない色。だがその隣に、もう一つ。先代への負い目が、古傷のように沈んでいる。片目を失った日の記憶が、忠義を裏から支えている。
膝の動きと一致する。この男が膝を叩く時は承認。眉間に皺を寄せる時は不満。身体の言葉と、浮かび上がる優先順位が噛み合っている。
口の端が、勝手に上がった。
「行こう」
ヘルムートは頷き、先に歩き出した。
◇
馬で領内を回る。灰色の山並みが近づくにつれ、空気が冷たくなった。
最初に立ち寄ったのは鍛冶場だ。
炉の熱気と金属を打つ音。煤けた壁。その奥で、赤い髪の女が鉄を叩いていた。
無造作に束ねた赤毛。鍛冶仕事で鍛えた腕。左頬に薄く残る火傷の痕。大柄で、所作に一切の飾りがない。
リーゼロッテ。幼馴染。
振り返った瞬間、汗で張りついた前髪の下から、まっすぐな目がこちらを見た。
いい女だ。
いや、待て。こいつは幼馴染だ。昔から知っている。俺の頭の中で何を言っている。
「ユリウス。何の用だ」
敬称なし。昔からこうだ。人前ではさすがに「ユリウス様」と呼ぶが、二人の時は子供の頃と変わらない。
「巡回だ。鍛冶場の様子を見に来た」
「見ての通りだ。鉄が足りない。仕事にならん」
槌を置いて、腰に手を当てる。額の汗を袖で拭った。
「鉄鉱脈の調査を出した。北東の山沿いに見込みがある」
「本当か」
リーゼロッテの目が光った。鍛冶師にとって、鉄の供給は生命線だ。
「まだ見込みだ。帰りに寄る」
「あたしも行く」
「巡回だぞ。馬で半日かかる」
「知らない」
もう背を向けて、革の前掛けを外し始めている。「知らない」はこいつの口癖だ。反論を受けつけない時に使う。
前掛けが外れると、汗で張りついた麻の上衣の下に、鍛冶仕事で鍛えた体の線がはっきり出た。腰から尻にかけての曲線に、一瞬、目が吸い寄せられる。
喉が鳴った。慌てて前を向く。幼馴染だ。何を見ている。
静かに意識を絞った。
リーゼロッテの中に、色が浮かぶ。
一番強いのは忠誠だ。ユリウスへの、というより、この土地とこの土地に生きる人間への。その中心に俺がいる。
だが、二番目が読めない。霞がかかったように、輪郭がぼやけている。何かがあるのは感じるが、色も形も判然としない。
何だ?
首を傾げたが、リーゼロッテはもう馬を引いてきていた。深追いはやめた。
それに、忠誠が一番だとわかっても、それが命を張れるほどなのか、義務で動いている程度なのか、浮かんでこない。順位だけで、重さまでは読めない。
便利だが、万能じゃない。
三人で馬を並べ、北東へ向かった。リーゼロッテが鍛冶師の目で地形を見ながら、時折「この辺の岩は色が違う」と呟く。
山沿いの斜面に、赤みを帯びた露頭が見えた。鉄鉱石の可能性がある。リーゼロッテが馬を降り、岩肌に手を当てた。
「悪くない。粒が細かい。精錬しやすい鉱石だ」
目が真剣だった。鉄を語る時のこいつは、誰よりも頼もしい。
鉱山候補地を確認し、さらに北へ向かった。国境が近い。
ヘルムートの手が、いつのまにか剣の柄に触れていた。
そして、その空気が変わった。
それは、木立の中の小さな空き地だった。焚き火の跡。炭はまだ黒い。周囲に馬の蹄跡が三頭分。
ヘルムートが馬を降り、蹄跡にしゃがみ込んだ。指で溝をなぞり、立ち上がる。
「帝国式の蹄鉄だ。三頭。斥候の編成と合う」
五十年以上を戦場で過ごした男の目に、迷いはなかった。眉間に深い皺が刻まれている。
「若様。引き返そう」
その声に感情はなかった。だが、それがかえって重い。




