モテたいから始まる辺境伯の朝
帳簿を開いた瞬間、頭が痛くなった。
銀貨の桁が足りない。いや、足りないどころか赤い数字が並んでいる。前世で散々見てきた債務超過の匂いがする。
グレンツェン辺境伯領。俺、ユリウス・フォン・グレンツェンが治める予定の、この寒くて貧しい辺境の土地。
歳入、金貨720。
歳出、金貨830。
毎年金貨110の赤字。蓄えは金貨240。計算するまでもない。二年保たない。
「ユリウス様、これが直近三年分の帳簿です。ええと、その、あまり良い数字ではないのですが」
オットーが羊皮紙の束を抱えたまま、申し訳なさそうに立っている。眼鏡の奥の目が泳いでいた。こいつはいつもこうだ。数字を突きつけるくせに、その数字が相手を傷つけることを恐れている。
「良い数字じゃないのは見ればわかる。農業税が歳入の半分以上、軍事費が歳出の四割。稼いだ端から剣に食われてる」
「はい。しかも人口が毎年百人前後減っています。若い者が王都方面に流れて」
「そりゃ流れるだろ。こんな寒い土地で、帝国の連中がいつ攻めてくるかわからない暮らしだ。俺だって逃げたい」
冗談のつもりだったが、オットーの顔が強張った。羊皮紙を握る手に力が入る。
しまった。こいつにとっては冗談に聞こえない。
「逃げないけどな」
付け足すと、オットーの肩がわずかに下がった。眼鏡をずり上げる。安心した時の癖だ。
◇
窓の外に目をやる。灰色の山並みが連なり、その向こうに帝国がある。
十七年前、俺はこの世界に生まれた。
前世の名前はもう思い出せない。覚えているのは、東京大学の経済学部を出て、メガバンクの投資戦略部門で十二年働いて、三十四歳で死んだこと。
過労死だったらしい。
まあ、仕方ない。人間関係が壊滅的で、仕事に逃げるしかなかった。恋人はいなかった。友人は片手で数えるほど。ゲーム理論の研究に没頭し、投資戦略で成果を上げ、金は稼いだ。
それで、どうなった?
好きだった女に言われた一言だけが、やけに鮮明に残っている。
あなたといると疲れる。
笑顔で言われた。嫌味じゃなく、本当に疲れたという顔だった。
思い出すな。
俺は窓から視線を戻した。今は前世の感傷に浸っている場合じゃない。目の前には赤字の帳簿がある。金がない。兵がない。人がいない。
だが、モテたい。
前世で三十四年間モテなかった男が、異世界に転生して得たものは何か。若い体と、ゲーム理論の知識と、そしてひとつの力。
この三つで、俺はモテる男になる。金を稼ぎ、名を上げ、女に囲まれて生きる。前世の轍は踏まない。
まずは、この詰みかけた領地をなんとかすることからだ。
◇
廊下で待っていたヘルムートが、壁に背を預けたまま口を開いた。
「若様。旦那様から言伝だ」
白髪交じりの短髪。古傷だらけの巨体。片目を失った老従士。父の代から仕える武人で、俺の剣術の師匠でもある。
「父上は」
「熱が引かん。だが、意識ははっきりしておられた」
ヘルムートの声には感情がない。事実だけを伝える男だ。
「伝言の内容は」
「『お前に任せる』。それだけだ」
それだけ。
たった六文字で、この赤字の領地が俺の肩に乗った。
「......了解した」
ヘルムートの膝が、こつん、と小さく鳴った。古傷だらけの手で自分の膝を叩いている。承認の合図だ。この男が言葉の代わりに使う、数少ない身体言語。
「ヘルムート。帝国の動きは」
「国境の斥候が増えた。向こう側の要塞に、兵が入っている」
「数は」
「まだ少ない。だが、匂いが変わった」
「匂い?」
「戦の匂いだ」
五十年以上を戦場で過ごした男の勘を、俺は笑わない。データがなくとも、老兵の直感は時に統計より正確だ。
「わかった。まず金の問題を片づける。話はそれからだ」
ヘルムートは何も言わずに頷き、廊下の奥に消えた。
◇
書斎に戻った。
オットーがまだ立っている。帳簿を広げ直し、何か数字を書き込んでいる。俺が戻ったことに気づくと、慌てて姿勢を正した。
「ユリウス様。あの、一つ提案があるのですが」
「言え」
「歳出の内訳なんですが、項目が雑すぎます。軍事費の中に兵士の食費も装備の修繕も全部まとめて入っている。これでは何にいくら使っているのか」
目の奥が光っている。数字の話になると、この男は別人になる。
「分類を細かくしたいってことか」
「はい。学院時代に港の商人が見せてくれた帳簿は、もっと整理されていました。品目ごとに出入りを分けていた。あれをこの領地の会計に応用できれば」
「それだけじゃ足りない。記帳の仕組みそのものを変える。俺が教えるから、帳簿を全部出せ。過去五年分」
「仕組みそのもの......?」
「言った通りだ。それと、鉱山の調査に人を出したい。領地の北東、山沿いに鉄鉱脈がある可能性がある」
「鉄鉱脈。それも勘ですか」
「そうだ」
オットーは一瞬黙り、それから小さく笑った。
「ユリウス様の勘は、計算上ありえないほど当たりますね」
だが、深くは追及してこない。こいつは疑問より目の前の数字を選ぶ男だ。
帳簿の山を眺めた。
金貨720の歳入。金貨830の歳出。二年で枯渇する蓄え。帝国の影。流出する若者。
前世なら、こんな案件は「再建不可」のスタンプを押して終わりだ。
だが、前世の俺には持っていなかったものがある。
さて、ゲームを始めよう。
その瞬間だった。
目の奥に、熱に似た何かが灯った。視界の色が、ほんの一瞬だけ変わる。
オットーの姿が、違って見えた。こいつの中にあるものが、透けるように浮かび上がる。
最初に見えたのは、この領地だ。存続への執着が、一番強く光っている。
次に、俺。忠誠という色が、ぼんやりと滲んでいる。
そしてもう一つ、一番奥で小さく震えているもの。夜更けに一人で帳簿と向き合う時の、あの顔だ。数字が噛み合わないことへの恐怖。
こいつは怯えている。領地の数字が壊れることを、誰よりも。
何だ、この力。
子供の頃から、なんとなく人の本音が見える気がしていた。だが今、初めてこんなにはっきりと。
俺は帳簿に視線を落とした。口元が自然と歪む。
使える。




