第九章 乳母の使命
夏の陽が真上に差し、ヴェローナの石畳を白く照らしていた。
人々が市場に集まり、野菜や葡萄酒を売り買いする喧噪の中、ひとりの老女が汗を拭いながら進んでいた。
キャピュレット家の乳母──マルタである。
彼女は心の中で何度も愚痴を零しながらも、足を止めることなく歩いた。
「まったく……お嬢様も無茶をなさる。こんな老骨に秘密の使いなど……」
その声を遮るように、柔らかな声が響いた。
「マルタ殿、お探しは僕ですか?」
ロミオが人混みから姿を現した。
汗ばむ陽射しの中でも、その顔は輝いて見えた。
覚悟を決めた男の瞳は、以前のように頼りないものではなかった。
「まあ! 本当にいらっしゃった……」
マルタは胸に手を当て、安堵の息を漏らした。
「見つけられなければ、わたしはお嬢様に顔向けできませんでしたよ」
「ジュリエットからの使い、ですね」
「そうですとも。あの子は、すっかり貴方に心を奪われてしまって……。ですが、事は急を要します。パリス様との婚約が進められているのです」
ロミオの胸に冷たいものが走った。
──パリス。
彼はかつてロザラインを奪った相手。
その婚約が成立すれば、ジュリエットもまた彼に縛られる。
そしてロザラインの立場は、完全に奪われる。
「……それで、ジュリエットは?」
マルタは周囲を見回し、声を潜めた。
「もし貴方が真にお嬢様を愛しておられるならば、今夜、修道僧ロレンス様のもとで結婚の誓いを交わしてほしいと」
ロミオは即座に答えた。
「承知しました。必ず行きます」
その即答に、マルタは目を見張った。
「まあ……なんと真剣な。昨日まで恋に泣いていた青年が、もう夫になる決意を固めるとは」
ロミオは微笑んだ。
「……彼女が望むのなら、ためらう理由はありません」
だが、その言葉の奥には別の影が潜んでいた。
ロザラインの沈黙。
──“察して行動せよ”という命令。
ジュリエットとの結婚は、ロザラインの計画の一部にすぎない。
それを理解しているのは、ロミオただひとりだった。
「では、今夜に」
マルタは深く頷き、買い物袋を抱えて踵を返した。
「お嬢様に必ずお伝えいたします。どうか……どうかお二人をお守りください、神様……」
群衆に紛れて消えていく乳母の姿を見送りながら、ロミオは空を見上げた。
「ロザライン……僕は貴女のために、この愛を誓う。たとえそれが、ジュリエットの未来を破滅に導くとしても」
太陽は眩しく輝いていた。
だがその光の下で、ロミオの誓いは冷たく影を落としていた。




