第五章 沈黙のバルコニー
月が静かにヴェローナの街を照らしていた。
仮面舞踏会の翌夜、ロミオは黒い外套をまとい、ロザラインの屋敷の外壁に身を隠していた。
昨夜の出来事が、胸の内にまだ焼き付いている。
ジュリエットの笑顔、紅い唇、震える手──それらが忘れられなかった。
だが同時に、それが「仕組まれていた出会い」だったのではないかという思いが、彼をこの場所へ導いていた。
スカーレットのドレス。偽の招待状。そして、肝心のロザライン自身は、舞踏会に姿を見せなかった。
──何かが、仕組まれていた。
そして今夜、答えを得るために、彼はこの場所に立っていた。
「……ロザライン」
ロミオはバルコニーを見上げた。
昔、詩を読んだあの場所。愛を伝えたあの場所。だが今は、冷たい石の沈黙がそこにある。
「君だったのか……。ジュリエットを、僕の前に差し出したのは……」
風の音だけが返ってきた。
バルコニーの向こうに気配はある。だが、姿は見えない。
「なぜ何も言わない? 君は……僕に怒っているのか? 失望したのか? それとも──」
その時、背後から声がした。
「坊ちゃま。お嬢様は……お聴きになっておりますよ」
メアリーだった。
ロザラインの侍女。白髪混じりの髪を結い上げた老女で、常に無駄のない所作と沈黙の深さをまとっていた。
ロミオは思わず振り返った。
「メアリー……ロザラインは、ここに?」
「ええ。バルコニーの向こうで、貴方の声を聞いておられます」
「……なら、なぜ……なぜ応えてくれない?」
メアリーは、静かに言った。
「お嬢様は、言葉では命じません。……けれど、貴方に託したのです」
「託した……?」
「察する者だけが、お嬢様の意思を知ることができます。貴方は、それに選ばれたのです」
ロミオは息を呑んだ。
──沈黙。
それは拒絶ではない。言葉を使わずに命じるという、彼女らしい支配の仕方。
舞踏会の夜、ロザラインは自分にジュリエットを会わせた。
ロミオが恋に落ちるように仕向けた。
そして、その後に一切の言葉を発さず、自分で結論を導けと言った。
「……つまり、彼女は……ジュリエットを……」
ロミオの胸に、ひとつの答えが浮かび上がる。
──ロザラインは、ジュリエットを許していない。
──新たな“正妻の娘”、キャピュレット家の後継者。
──それは、ロザラインにとって“奪われた地位”の象徴。
だから、自分を舞踏会に招き、ジュリエットと結ばせ、そして今──何も言わずに命じている。
「ジュリエットを破滅させろ」
そう告げるかのように。
ロミオは拳を握りしめた。
「……なぜ、僕を選んだんだ……」
メアリーは答えなかった。だが、彼の目をじっと見据え、囁くように言った。
「貴方は、ただのお坊ちゃまではありません。剣を学び、詩を捨て、力を得た。だからこそ……お嬢様は、貴方に託したのです」
──ロミオは、愛していた。
でもそれは、届かぬ愛だった。
そして今、その届かぬ愛が、彼に新たな意味を持って迫ってきている。
「……分かった。僕は……ロザラインの望みに応える」
バルコニーは最後まで沈黙したまま、ロミオの決意に対して一切の反応を見せなかった。
だが彼の中には、もう迷いはなかった。
彼は、ロザラインの“剣”となる。
ジュリエットの恋人として。ロザラインの忠臣として。
彼女の野望のために──




