4 金糸を捧ぐ
三日後、出立の朝。王城の中庭には護衛の騎士たちが整列していた。
中央には、鎧姿のカイル様もいる。
その姿を見た時、私の固いはずの決意は一瞬だけ揺れた。
「護衛隊長は私が務める」
低く、よく通るカイル様の声。指揮官らしい落ち着きに、周囲の騎士たちの背筋が伸びる。
私は儀式用の長いローブを羽織り、深くベールをかけているため、彼らに護衛対象が誰かは分からないようになっていた。
国で一番美しい髪を持ち、セレスティナ王女の解呪のためにそれを捧げる娘――死んでも守れと、護衛騎士たちには、そういうことだけ伝えられているという。
私はカイル様に、自分が名乗り出たことを言わなかった。
言えなかった。
なんて言えばいいかもわからないし、言ったところで、どうして欲しいというのだろう。カイル様を困らせるだけだと思った。
出立前、騎士達の会話がたまたま聞こえた。
「結局、誰が髪を捧げるんだろうな」
「さあな、案外すんなり決まったのが不思議だよ」
「本当にな。頭では立派なことだとわかっていても、いざ自分の結婚相手だったらと思うとな……」
そうでしょうとも。
私もそう思ったに違いない。情けないことだけれど、セレスティナ様でなければ、自ら名乗り出るどころか、お役目をどう逃げ切るか、と考えていたに違いない。
「勇気のある人だ」と、短くカイル様の声がした。
その言葉に、胸が痛んだ。
まさか、私がそんな役を引き受けるとは思っていないのだろう。引っ込み思案で、おとなしいリリアーナが、そんな無茶をするはずないと。
それでいい、と自分に言い聞かせる。
「出発だ」
カイル様が、出立の合図を告げる。
私は従者達に支えられながら、馬車に乗り込んだ。
蹄の音が石畳を打ち、馬車はゆっくりと王都を後にした。
☆ ☆ ☆ ☆
北の聖域は、深い森のさらに奥にあった。途中で馬車を降りて歩く。
長い年月、誰の手も入らぬままの石段は苔むし、踏みしめるたびにひんやりとした感触が足裏に伝わる。
空気は張りつめ、鳥の声さえも途絶えていた。
私は深くかぶったベールの下で、ゆっくりと息を吸った。
聖域へ続く石段を一歩ずつ上るたび、胸の奥で鼓動が大きくなっていく。
視界は狭く、前を行く護衛たちの背中と、白く霞む足元の石だけが見える。
周囲からは、騎士たちの鎧が触れ合う金属音が響く。
もちろん彼らの目的は護衛だろうが、私が逃げ出すのを防ぐ意味もあるのだろう。
この中にカイル様もいる――そう思うだけで、胸が騒いだ。
――怖くないと言えば、嘘になる。
この金色の髪は、幼いころから私を支えてきた。
何も取り柄のない私に、たったひとつの自信をくれたもの。
カイル様が褒めてくださったあの日からは、もっと大切なものになった。
髪は、この国では貴族女性の価値そのもの。
どれほどの家柄や魔力を持っていても、髪を失えば、その者の評価は地に落ちる。それも二十歳の儀式まで、あと一年足らずといったこの時に。私がこれからすることは、この世界で最も愚かなことかもしれない。
それでも、セレスティナ――私のたった一人の大切な友達を救えるなら。
それに、最後の最後でカイル様に私を守ってもらえるのは、少しうれしかった。
たとえ護衛対象――それが私だと知らなくても。
祭壇の前まで来ると、護衛騎士たちは少し離れた場所で待機を命じられた。
祭壇には、私と老魔導師の二人だけが向き合った。
「顔を上げよ」
老魔導師の低く重い声がして、詠唱が始まった。
私はゆっくりとベールを外す。
光が一気に流れ込み、頬をなぞる風が少し冷たく感じられる。
魔法陣が淡く輝き出す。
足元から立ち上る光が、髪にふれた。
最初はわずかな温もり。それが次第に広がり、髪がふわりと浮き上がる。
金糸のような髪が宙に揺れ、光を透かして淡くきらめく。
――さらり
耳のそばでかすかな音がした。
引かれるような感覚はあるのに、痛みはない。
代わりに、指の間から砂が零れるような、やわらかな喪失感が広がっていく。
髪が一本、また一本と光に変わり、ゆっくりと空へ昇っていく。
時間が引き延ばされているような感覚。
胸が締めつけられる。けれど、不思議と涙は出ない。
視界の端で、護衛の列の一番前に青い瞳が見えた。
カイル様――
いつも無愛想な表情の変化が、遠くからでもわかる。信じられないものを見たかのような、ひどく驚いた顔――
最後のひとかけらまで金色が溶けていき、花弁のような輝きが舞い降りた。
風が止み、魔法陣の光も静かに消える。
頬に触れるのは、軽く短い髪だけ。
おそるおそる手で長さを確かめてみる。
毛先に指がふれた瞬間、全身を冷たいものが走った。
――耳の下あたりまでしか長さがない。
背中に感じる空気が、頬を突き刺す風が、こんなにも冷たいとは知らなかった。
私は深く一礼し、儀式は無事に終わった。
視線の奥にカイル様の気配を感じたけれど、振り返ることはなかった。