06 狂気の供物
エリシエルは、白いチョークを持って地下室の開けた空間の真ん中に立ち、それを徐に地面に突きつけた。
そしてそれを平坦な石床に走らせると、いくつもの端正な円と、複数の図形を描いていく。
ただの図形の重なりであったそれは、最後に描かれる二重の大円によって秩序を持ち、一つの幾何学模様の姿を成した。
それは魔法陣と呼ばれるものに非常に近しいものであったが、同一のものではなかった。
魔力を循環させて魔術を起動する陣とは異なり、
魔力を循環させつつ、ぶつかり合わせることで物質を生み出す陣。
この陣は錬金術を構築するための「錬成陣」だった。
「ふぅ……」
錬成陣を完成させたエリシエルの息は、やや揺らいでいた。
彼がなぜ、誰もいないこの部屋でこっそりと陣を完成させ、その真ん中に立ち、不安げな表情でそれを見下ろしているか。
その行動の理由を知るのは、ロウグレアの村で一人しかいない。
「エリシエル、また__やっているのか」
エリシエルが陣に両手をつけようと、片膝をついて屈んだ時、背後から声がかかった。
その声の主はロエム。
ロウグレアの村の長であり、村民をいつも見て、朝から晩までずっと皆を気にかけている人間だ。
彼の洞察眼は、早朝に一度外に出ただけのエリシエルの感情の機微すらも見逃さなかった。
ノーティルとアレシアという客の対応を妻や村民に任せ、ロエムは最も危うげな彼の前に現れた。
「……どうしてここに?」
「早朝に見かけたお前の顔を見て、もしやと思ってな__言ったはずだろう、お前の錬金術に関する全ての研究を、を固く禁ずると」
ロエムはやや表情を憤りに傾けて言った。エリシエルの錬金術を幾度か見たような口ぶりだった。
それに対し、エリシエルは視線をロエムには向けずに、相手を背にしてその態度を示す。
「……誰に迷惑がかかるわけでもない。錬金術は等価交換だ、結果的に失うものは何もない」
「……錬金の知識は私が教えたんだ、お前が何をしようとしているのか、見抜けないほどボケてはいないぞ」
錬金術。
それは等価交換という絶対のルールのもとに行われる物質の構築、あるいは召喚。
生み出すものと同等の価値のものを代償にする。
それ以外の明確な条件は、未だ解明に至ってはいない。
ただ、錬金術の作法は至って単純明快だ。
生み出したいものに適したサイズと種類の錬成陣を描き。
差し出すものを錬成陣の中央に捧げる。
そして術者は、陣の外側から魔力をこめ、錬成を始める。
それが、錬金術というもの。
だが、エリシエルがいるのは__
「なぜお前が、錬成陣の上に立っておる」
差し出すものを置くはずの場所__陣の真ん中に、彼は居た。
「死ぬ気かエリシエル」
「……」
沈黙するエリシエルのそばまでいき、ロエムはエリシエルの腕を陣から引き剥がすように引っ張った。
そして怒号が地下室に響き渡る。
「お前にはシエナという妹がいるだろう。
母親を失ってもなお、ともに支え合って生きてきたたった一人の妹が__!
それを捨ててまで、シエナを独りにしてまで、お前が術を使おうとする理由は何なのだ__?!」
ロエムのしゃがれて老いた喉の震えが止んだ後、エリシエルは口の端を釣り上げた。
緑色の髪の隙間から覗くトパーズのような目が、獣の瞳のような眼光をロエムに向ける。
「独り__それは違うぞロエムさん。
人間の体の全てを代償に捧げる錬金は、すなわち命を捧げることに等しい。
錬金術における等価交換のルールに則れば、
それは『生命回帰』を実現させることが可能なはずなんだ。
だが、体をいくら差し出しても足りない、足りないんだよ!
魂が__生命体の核に宿る『本質』がなければ!
本質こそ、命を正しく錬成するための鍵だ!
__僕はこの命の錬成を完成させる!
そうすれば僕が死んでも、これ以上失われるものは何もない!
あの炎に奪われた何もかもを、取り戻せるんだッ___!」
エリシエルの眼光に。
開き切った瞳孔に。
水分も食事もろくに取っていないかのようにか細い喉から発せられる叫びに。
奥底に眠る、絶望と憤怒の蠢きに。
ロエムはある種の畏怖を覚えた。
老いて力も弱くなったロエムは手を振り解かれ、突き飛ばされ、石床に腰を打つ。
エリシエルは陣に両手をつけ、嬉々として魔力を注ぎ込む。
ロエムは、エリシエルの術の完成を目前にして思う。
「エリ__シエル……」
全てを顧みずに、未来を見通さずに、己の痛みなど考えずに。
自身の全てを差し出してまで、意思を貫き通そうとする。
それは英雄の自己犠牲などではない。
人はそれを、
『狂気』と呼ぶのではないだろうか。
____
「さぁ、帰ってきてくれ__母さん」