学者人外のとある夜
私は数万年の時を生きるスライム状知的生命体である。地形の変化や気候変動、生物の栄枯盛衰までもを間近に見ながら、しぶとく生にしがみついてきた。
この日本という国にひそみ、都合のよいヒトの形を模倣して成り代わってから早3年。今はめまぐるしき日々の中で知的活動に励む『学生』として生活を送っている。
そんな私に、研究に追われている一学年下の後輩が「大学に一緒に泊まってくれ」と泣きついてきた。普段使いの個人PCが壊れたために、学生居室のものを借りないと資料が作成できないのだという。
こうして誰かに頼られたとき、自分自身の存在理由を生まれて初めて見つけられたような気がして、私はどうも断れなくなってしまう。それもかわいい年少者の頼みだ。ちょうど明日は予定がなかったので、二つ返事で了承した。
研究室全体のゼミが終わったあと、くだんの後輩と一緒に大学前の通りに建つラーメン屋に立ち寄った。腹を満たさねば動けなくなるから、だそうだ。
再び研究棟に戻るころには日はとっぷり暮れており、無機質な壁と床でつくられた廊下の電灯も落とされ真っ暗闇になっていた。仕方なくスマホの明かりを頼りに通路を進んでいると、後輩に突然指摘された。
「なんも食べなくてよかったんですか。まさかラーメン嫌いとか?」
私は「ああ、まあ……」と言葉を濁す。
あの飲食店で私が注文したのは飲み物だけだったが、そのことがこの子の目には奇妙に映ってしまったらしい。怪しまれないよう急いで話題を変えなければ。
「い、今さらだが私は作業の邪魔じゃなかろうか?」
「いいえー。先輩は自分が寝落ちしてたら叩き起こす役です。あとは、人肌が恋しいので」
「徹夜したことは?」
「休みのときは5時くらいまで起きてますよ。昼夜逆転してます」
「なんのために。ヒトは朝型社会のはずだろう」
「なにって、そりゃあメンタルケアですよ」
呆れ気味に問いかけると、並び歩く横から明るい声が返ってきた。私がなんと言葉を放つべきか悩む一方で、後輩はこう続ける。
「自分、実家暮らしでそこそこ淋しがりなんですけど、どうしてもひとりの時間が欲しくなるときがあって。でも昼間は家族がいるので、そういうときはわざわざ夜ふかしして広々としたリビングを独占するんです。
12時を回ると窓の外は真っ暗だったり、基本は静かなのにたまに車が通る音がしたり。明かりがリビングの電灯ひとつだけの中でぼんやりすると、落ち着くというか安らげるというか、世界が自分だけになったような気分に浸れて。夜空に月が出てるのを見るのも、わりと好きかなあ、なんて」
「……わからない」
正直な感想を口にすると、後輩ははっと我に返ってぺこりと私へ頭を軽く下げた。
「あ……なんか語っちゃってすいません。要するに、たまには他人に気を遣わない時間があって、趣味に没頭できたらいいなってだけですよ」
「みんなそんなものなのか?」
「さあ。自分だけかも」
からからと楽しそうに笑う。背が私よりも高いせいで、見上げて表情をうかがうことはかなわない。
「よくわからないが、夜にひとりでいるのが好きならここにも残れたんじゃないか。一晩くらい」
「それは話が別なんです。家で寝るのと外泊ってぜんぜん違いますよ、安心感が」
「そうか……」
私は理解できないなりに頷くと、合鍵を使って重いドアを開き、部屋の明かりを点けた。
*
我らの居室はけして広いとはいえないが、壁際に机が並んでおり、個人の本棚やPCまで完備している。研究室の所属人数が少ないことのメリットのひとつだ。
さっそく後輩は割りふられたデスクに着席し、PCのモニターとの睨み合いに取りかかった。私は部屋の隅の古びたソファに腰かけて、モバイルバッテリーに繋いだスマホを手に電子書籍に没頭する。ときおり後輩の質問攻めに邪魔されるのを繰り返しながら時間をつぶした。
「あー、もう無理です。休憩っ!」
「ん……?」
「寝てしまう……起こしてくださあい……」
――大きな独り言に呼ばれた気がして顔を上げる。後輩はつきっぱなしのモニターの前で机につっ伏して、まさしく疲労困憊の様相だった。キーボードが反応して、資料の文面に空白が高速生成されて大変なことになっている。
スマホを確認する。ちょうど日付が変わったところのようだ。まだまだ夜はこれからだと言うのに、なんてふぬけているのか。
「こら、寝るなよ。顔を洗え」
「じゃあ〜〜コーヒー淹れててください」
「はあ。仕方ないな」
図々しい後輩が席を外すあいだ、私はポットで湯を沸かし、インスタントコーヒーを一杯つくる。この作業にも慣れたものだ。もっとも、元が形をもたない光合成生物である私は水しか口にできないので、本来なら学習することもなかったであろう作業だが。
*
ソファに並んで腰を下ろし、私たちは穏やかに息をつく。少し心細いような、あたたかいような、どちらともいえぬ気分だ。
「先輩って、なんで地質方面に進んだんですか?」
マグカップを両手で包みこんだ後輩が藪から棒に訊いてきた。突然の質問に答えかねる私を見て、いくつか情報を付け加える。
「えと……地質学専攻って珍しいじゃないですか。わりとマイナーな分野でしょ。ほら、この国って地震とか災害だらけなのに地学勉強できる高校は少ないし、入学試験ではハブられてるし、な〜んか軽視されてるとこないですか?」
「そう言う君は、なぜ」
「自分はなんとなくですね。ほかに向いてそうなのがなかったから、ここにしました」
それだけ話すと後輩は再びコーヒーに口をつけた。言い出しっぺのくせに理由になっていないような気がするが、まあ深入りすることもない。
私は知っている。こんな対話はヒトとヒトが関わるためだけの、ただの表面的なコミュニケーションだ。実際にはさして私に関心などない。
しかし、わざわざ嘘をつくことはない。この子のひとときの安寧に繋がるのなら、この身を削ってでもなにか話をしてやるべきだ。
「……私は水月湖のコアを研究してるだろう。福井県の若狭湾にある湖の」
「ああ、年縞のとこですね」
コアとは、機械などを使って地中を掘削することで手に入れることができる、円筒形の地層サンプルのことだ。海や湖や川では、水の作用によってれき、砂、泥などが層状に積もっていき、順々に地層を形成するのである。
そして、季節ごとに湖底に堆積する物質が違うために地層に形成される年輪のような縞模様――それが年縞だ。世界でも数少ない特殊な地形条件を満たす水月湖は、湖底の堆積物が7万年も連続する奇跡の場所だとされている。
「あれは、たまらないな……」
私はうっとりしながら口に出す。
「時の流れに思いを馳せられるのが、特に良いと思うよ」
「なるほど。人間の歴史よりずっと古いですもんね。エジプトでも5000年前だし」
「ああ。それでもわりと最近だな。火だの光だの、夜でも眩しくてしょうがない」
私の長い生についてこられるものは数少ない。意外と淋しさに身を焼かれやすい私が郷愁に駆られたとき、すがることのできるものといえば――それこそ地質時代の岩石や化石だけだ。
今の私をつくった地続きの過去は、もはや一見地味で質素に思える『土』や『石』の中にしかない。この学問分野がようやく発展してくれてよかった、なんてひそかに思っているくらいである。
すると、スプーンでコーヒーをかき混ぜていた後輩が意外そうな口ぶりで告げた。
「千年前とかでも『最近』って言うんすね。ぜんぜん生まれてないのに」
しまった! 口を滑らせたか。
「い、いや……言い間違いだ! すまない……」
慌ててごまかそうとする。それらしい嘘をつくのは苦手だ。簡単にぼろを出すクセは、そろそろなんとかしたほうがいいとは思ってる。
もし私の正体が他者に悟られてしまえば、この居場所も捨てねばならなくなる。良い暇つぶしだと思っていたのに、もう潮時が来てしまったというのか。
しかし、あたふたする私をよそに、後輩はぱあっと花を咲かすように顔をほころばせた。
「地質の人あるあるだ。時間スケールが大きいの、なんかいいなあ」
ふっと体の緊張がとけた。
……問題なかったらしい。まったく肝が冷える。たった今そばにつけているのが正真正銘の化け物だと知ったら、君の淋しさとやらはまったく別の感情に置きかわるのだろうに。
「先輩は好きだから研究するって感じなのか。あこがれますね」
そしてじつに簡単な言葉で片づけてくれた。逆に助かったかもしれないが……どっと疲れた。
「もうそれでいいよ。そろそろ作業に戻ったらどうだ」
「ふふ。そうします」
小休止を切り上げて、後輩は再びデスクに戻った。
「先に寝ていいですよ。あ、寝れます? ソファで……」
「問題ないさ。意識を休めるくらい」
私は薄手のブランケットを広げながら、ソファにヒト型の体を横たえて視界を閉ざした。
それからはほとんど会話もなく、ふたりきりの学生居室は真夜中の静けさと後輩の作業する音だけに支配された。
私の聴覚は妙に鋭くなり、奏でられるタイピング音や後輩のうなり声をいちいち拾い上げる。どこでも休眠できるのが私の特技のひとつなのに、今日はなぜかうまくいかない。
ぐるぐると思考を巡らせ、悩んで、気がついた。
ああ、そうだ。
この静寂は私の生まれたころのものに似ている。あくまでなんとなく想起される程度のものだが、よもやこんなところにも『あのころ』を感じられるとは。
……あたらしい発見だ。
私のことなど忘れたようにモニターを睨んでいるこの子の奇妙な趣味は、最初に予想したよりもずっとちかしい場所にあるのかもしれない。そう思って、ついヒトみたく笑い声を漏らした。
そうして時間が過ぎゆく。眠る気が起きない。
それでも、すりガラスの窓の外がいつまでも暗いままであってほしいと思いながら、その静けさに体をゆだねた。
*
翌朝、後輩は目の下に大きなクマをつくりながら、無事資料を完成させたことを報告した。期日に間に合ったようでなによりだ。一睡もしなかったせいか異常に興奮しているのが心配である。
「ありがとうございました! なにかお礼します! ご飯おごりますよ。あ、食べ物の好き嫌いがたくさんあるのなら、他のでも」
「いや……大丈夫だ」
食い気味に提案するのを片手で制して断った。別に社交辞令とやらではない。
「えっ、いいんですか、すみません」
彼がさらに頭を垂れるようすを眩しく思いながら、私は言った。
「気持ちだけで充分……満たされたからな」
終




