カディシス伯爵家
ブロドーク侯爵が後悔しながら奥歯を噛んでいる間に、御者がカディシス伯爵家の屋敷を突き止めた。門番に突然の訪問を詫びている。
侯爵も窓から顔を覗かせて、伯爵に取り次ぎを頼んだ。門番は馬車の家紋を確認すると、急ぎ足で玄関に向かった。
しばらくして戻って来た門番に中に通され、玄関前に横付けする。馬車から降りている最中、玄関が開いて中から人が出て来た。
服装と風貌からして、伯爵家当主とその妻、息子二人だろう。執事や使用人も、突然の客人を出迎える為に慌ただしく出て来ている。
そこでブロドーク侯爵は違和感を覚えた。使用人も含めて、その場にいる全員の表情が険しいのだ。
突然の訪問で迷惑とはいえ初対面だ。しかも侯爵と伯爵では立場が違う。それなのにまるで敵襲かのように全員から睨みつけられて、ブロドーク侯爵は戸惑った。
とりあえず突然の訪問に関してはこちらが悪いので、断りを口にする。
「カディシス伯爵、先触れもなく申し訳ない。私はナリタ・ブロドーク。息子が行方不明という非常時なので、無礼をお許し頂きたい。息子の所在について何かご存じだろうか」
そう問いかけた途端、カディシス伯爵家の子息らしい若者に怒鳴られた。
「今更なんだ! 今になって!」
「こらっ、やめなさい」
「だって父上!」
憤る息子を制して、カディシス伯爵が前に一歩出た。
「初めまして、ブロドーク侯爵閣下。息子の言い様は腹立たしいでしょうが、私も同じ気持ちです。何故、今になってご子息を捜すのです? これまでずっと放置してきたくせに?」
「は? 放置?」
ブロドーク侯爵は目を丸くした。隣のサルーネも同様だ。
カディシス伯爵は不快そうに吐き捨てた。
「まさか無自覚ですか? あれだけ酷い事をしておいて?」
「酷い事? すまない、一体何の話をしているのだ?」
「そうですか。私から言えるのは一つだけ。ナディネ様を捜すのはおやめ下さい。私の息子と一緒に、親元を独立して旅立ちました。それだけです。どうかお引き取りを」
「独立? 旅立ち? どういう意味だ?」
大人数で囲うようにして迫られ、追い返されそうになったブロドーク侯爵は慌てた。
「伯爵は息子の行方をご存じなのか? 息子は無事なのか? それだけでも」
食い下がるブロドーク侯爵に、涼やかな夫人の声が聞こえた。
「中にお招きしましょう。どうやら何もご存じない様子なので、長い話になります。一つ一つ何があったのか、懇切丁寧に私達が教えて差し上げましょう」
その言葉で、剣吞な空気が少し弱まった。伯爵に促されて、屋敷に招き入れられる。
ブロドーク侯爵は困惑した。サルーネと目を合わせたが、彼も珍しく動揺している。
玄関ホールのすぐ横にある応接室のソファに、サルーネと共に腰を下ろした。
伯爵一家も全員、向かい合う位置に腰を下ろす。
当主の伯爵が覚悟を決めたように一息吐いてから、ゆっくりと話し出した。
「まず、私共がご子息と関わるようになったのは、私の四男トラとナディネ様が学校で仲良くなったからです。入学してすぐに、休日に侯爵子息を連れて来たいと、トラが願い出て来ました。私達に一般教養を教えてやって欲しいと」
「一般教養?」
この国の貴族の子供は、基本的に十三歳になる年から十七歳で成人するまで王立学校へ通う。
それまでに家庭教師に一般的な知識を学んでいる事が前提であり、授業もそれを踏まえた上で構成されている。
「ブロドーク侯爵、何故あなたほどの方が、子息に家庭教師をつけず、無学のままのいきなり学校へ放り込むような真似をしたのです。いくら要らない子供とはいえ、あまりにも酷い仕打ちではありませんか?」
「何の話だ? 家庭教師はつけたが?」
「本当に? 家庭教師と対面しましたか? 家で授業をしている様子をご覧になりましたか?」
「いや、それは見ていないが、家令に指示して……」
ブロドーク侯爵は隣の嫡男を振り返った。
「サルーネ、お前は入学前に家庭教師から学んだよな?」
「はい。当然です」
「嫡男にはきちんとつけた。次男にはつけなかった。優秀な嫡男さえいればよかったのですか?」
「いや、だからナディネにも家庭教師をつけた……家令に指示を出した」
「ではその指示が守られなかったのですよ、ブロドーク侯爵」
「そんな馬鹿な……」
「いえ、そうなのです。私達が初めて会ったナディネ様は、幼子程度の読み書きしか出来ず、算術も出来ない、国の仕組みも知らない、貴族の序列も作法も知らない、十三歳の身体をした五歳の男の子だったのです。とても驚きましたよ。言葉もたどたどしくて、本当に幼児のようでした。
ああ、テーブルマナーだけは完璧でしたね。それだけは習得されておりました」
ブロドーク侯爵は愕然とした。
「そんな筈はっ……!」
「そうなんだよ!」
認めようとしない侯爵に苛立ったのか、伯爵家の三男が怒鳴る。
彼はトラ達と一番歳が近く、長い時間を過ごしてきたと語った。ナディネを、もう一人の弟のように可愛がってきたという。
「ナディネは優秀な兄がいたせいで、先生からも生徒からも馬鹿にされてきたんだ! どうしてきちんと家庭教師をつけてやらなったんだ! 最初の年は本当に可哀相で、ナディネはよく泣いてたんだぞ!」
「……っ!」
「それでも平日の猛勉強と長期休暇の集中講習で、一年もかからず授業についていけるようになったのは優秀な侯爵家の血筋ですかね? 言葉を覚えるよちよち歩きの頃から学校入学までの期間で学ぶ知識を、たった一年で習得されました。首席だった嫡男と比べても、見劣りはしないのではないですか?」
「そんなっ……!」
「それと夜会の件もあります」
「夜会……?」
「学校は社会の縮図、社交界の練習の場でもあります。その予行演習として年に二回、学校主催の夜会が開かれるのはご存じですよね?」
「………ああ」
「ナディネ様は一度も参加した事はありません。理由を尋ねたら何と答えられたと思います? 着ていく服がないから、だそうですよ? 侯爵家の子息が礼服を一着も持っていないと」
「そんな馬鹿なっ……!」
「夜会の夜はここへお招きしました。一緒に晩餐をして、食後はカードゲームなどをして遊びました。とても楽しそうにしておられましたが、時折、寂しそうにも見えました。よその家族はこんな風なのですね……こんなに温かいのですね……としみじみと言われた事もあります」
「礼服だけじゃない! 小遣いすら全くないと言っていた。学校で必要な物は言えば揃えてくれるが、自由に使えるお金などないと。うちは金持ちじゃないけど、子供の小遣いくらいはくれたぞ!」
三男の叫びに伯爵夫婦は苦笑しているが、ブロドーク侯爵とサルーネは蒼白になっている。震える唇で茫然と漏らす。
「そんな筈は……子供達には相応の予算が割り当てられている……」
「ではその予算はきちんと管理されてないのでしょう。誰も調べない次男の予算。何年分ですか? 侯爵家ともなれば、きっと大金なのでしょうね? どこへ消えているのでしょうね?」
「そんな……そんな……」
「国庫の不正は見逃さなくても、家の管理は家令任せですか? ナディネ様が冷遇されてきたのは、そういう理由ですか?」
「冷遇? とんでもない!」
「私共の目から見れば、充分冷遇されてますがね? 卒業を待たずに独立して家を出る決意をするくらいには」
「っ……!」
ブロドーク侯爵は頭を殴られたような衝撃を受けていた。隣のサルーネも青い顔で絶句している。
「ともかく、ご子息はもう旅立たれました。もう戻られる事はないでしょう。誘拐ではないので、そこはご安心下さい」
どうかお引き取りをと促され、ブロドーク侯爵と嫡男はふらふらと伯爵家を後にした。
どうやって屋敷まで帰ったのか記憶にない。