ブロドーク侯爵
ナディネの父、ブロドーク侯爵は多忙だ。社交シーズン関係なく領地と王都を行き来していて、家でゆっくり過ごす事はほとんどない。
それというのも国王と王妃、宰相に何かにつけて王宮に呼び出されるからだ。彼等とは学生時代からの友人で、長年親しく付き合ってきた。
相談内容が多岐にわたるのは、ブロドーク侯爵が優秀で領地経営だけさせておくには勿体ない人材だからだ。『相談役』というある意味便利な肩書きが幾つもついていて、王宮にはブロドーク侯爵専用の部屋まで用意されている。王都に屋敷があるにも拘わらず、そこに寝泊まりする日も多い。
そんな忙しい日々の中、珍しく二日続けて王都の屋敷に帰れた。
日が暮れる時刻に馬車が門を潜ると、玄関近くに別の馬車が停まっていた。
そこから降りて来たのは嫡男のサルーネだ。こちらに気付いて足を止めている。一緒に入るつもりのようだ。
サルーネは第三騎士団に所属する騎士で、立派な体格をしている。先代の祖父譲りで逞しく、がっちりしている。容貌は悪くないが目付きが刃物のように鋭いので、まず女性には怖がられる。
ブロドーク侯爵も元騎士団長なので体格では負けてないが、冷たい雰囲気で迫力があるのはサルーネの方だ。
立派に育った自慢の息子に思わず口角が緩む。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。珍しいな、一緒になるなんて」
「そうですね」
二人で連れ立って玄関に入ったが、その日は様子がおかしかった。
いつもは馬車の音を聞きつけた家令と執事が並んで待ち構えているのに、それがない。それにあちこちからバタバタと走る音が響いていて、やけに騒々しかった。
ブロドーク侯爵は眉を顰める。
「何事だ」
たまたま通りかかった使用人に声をかけると、彼はハッとして頭を下げた。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「リードはどうした」
家令の所在を尋ねると、使用人は「今お呼びします」と早足で消える。
すぐに家令がやって来たが、その顔は青ざめていた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「何があった?」
家令は頭を下げたまま答えた。
「ナディネ様がお戻りになりません」
「なに?」
「いつもは夕食に間に合うよう帰宅されますが、今日はこの時刻になってもまだ……」
「馬車はどうした? 学校まで迎えに行ったのだろう?」
「それが……ずっと迎えの馬車は断っていらしたので」
「なに? どういう意味だ」
「いつも仲のいい伯爵家の馬車に送っておられたようで。授業が終わっても一緒に残って勉強するからと」
「伯爵家……どこの伯爵子息だ?」
「それが……」
家令は自分の背後にちらりと視線を向けた。
そこには家令の息子、ナディネ担当の執事が控えていた。彼の顔も蒼白だ。
ブロドーク侯爵は改めて尋ねた。
「どこの伯爵子息と懇意にしていたのだ?」
執事は意を決したように答えた。
「……存じません」
「なに?」
「伺っておりませんでした。申し訳ございません」
「何故だ。お前はナディネ担当だろう? 知らないでは済まされないぞ」
「はい。申し訳ございません」
ナディネに一番近く、傍に侍る執事が知らないなんて有り得ない。
ブロドーク侯爵は鋭く目を眇めた。隣のサルーネも同じ表情をしている。
家令が息子を庇うように前に出る。
「とりあえず学校へ使いを出しました。途中の道で事故か何かあったのかもしれません。もう少ししたらお戻りになると思いますので、もうしばらくお待ち下さい」
「………………」
険しい表情の侯爵とサルーネが、家令に促されるまま中へ向かおうとした時、ちょうど使いが戻って来た。
とにかく急ぎだったので、使いは馬で行かせた。騎士は馬から降りると、慌てた様子で玄関に走り込んで来た。
家令がすかさず駆け寄る。
「どうだった? 学校で何か分かったか?」
「それが、ナディネ様は退学されたと……」
「なに?!」
息を切らした騎士を問い詰めると、学校の事務員にそう言われたという。
馬で学校に行った騎士は、まず門番に止められた。それはそうだろう。
しかし侯爵子息が学校から帰って来ないという用件を伝えると、すぐに学校関係者に取り次いで貰えた。
何人も集まって来た関係者の中には、教師の他に事務員がいた。彼によるとブロドーク侯爵子息からは退学届が出ているという。
騎士は仰天した。
「退学届?!」
何かの間違いだと目を瞠る侯爵とサルーネに、騎士は首を横に振る。
「事務員によると、間違いではないそうです。あと半年で卒業というこの時期に、退学する者はほとんどいません。なので何度も確認したそうです。親の承諾書も必要なので必要書類を渡したと」
「承諾書? そんな物は知らないぞ」
「この時期になって退学など……一体なぜ……」
「ナディネ様と仲のいい伯爵子息も一緒に退学したようです。彼の方は既に成人済みで、書類も揃っていたので受理したと……」
「どこの伯爵家だ?」
「カディシス伯爵家だそうです」
「カディシス……」
ブロドーク侯爵は頭の中の貴族名鑑を広げる。
カディシス伯爵家とは付き合いがない。西部地区に領地を持つ平凡な伯爵家で、これといって目立つ存在ではないが、悪い評判も聞かない。子供が多いと聞いた事があるくらいだ。
ブロドーク侯爵は踵を返して玄関に向かう。
「馬車を出せ」
「お待ち下さいっ」
既に歩き出していたブロドーク侯爵を、家令が止めた。
「使いは私共にお任せ下さい。旦那様は夕食もまだでございましょう?」
「呑気に夕食を摂る気分ではない。直接、確認する」
「承知しました」
「父上、私も参ります」
厩舎に戻りかけていた馬車を引き留め、サルーネと二人で乗り込む。
伯爵家の王都屋敷がどこにあるのか知らなかったが、大体の位置は分かる。王都の高位貴族の屋敷は爵位で場所が定められていて、伯爵家が集中して建ち並ぶ通りがあるのだ。そこで尋ねれば、どれがカディシス伯爵家の屋敷か分かるだろう。
馬車の中で、侯爵は眉間に皺を寄せて黙り込んでいた。サルーネも同様だ。
次男のナディネが何を思って退学を言い出したのか分からない。親しいというカディシス伯爵家の子息に何か唆されたのだろうか? 何か面倒事に巻き込まれたのだろうか?
侯爵子息が行方不明となれば、まず誘拐が疑われるが、今回はどうやら違うようだ。二人で退学すると計画していたのなら、自発的に家に戻らないのだ。
ブロドーク侯爵はとてつもなく不安になった。
昨晩、珍しく家族と共に夕食を摂った。ナディネの顔を見られた。
その際、席を立ったナディネに唐突にお礼を言われたような気がする。前置きがなかったので、ナディネが何を言おうとしたのか、はっきりとは分からなかった。
何を言おうとしたのだろうか。あの時、きちんと問い詰めておくべきだった。
ブロドーク侯爵は後悔していたが、カディシス伯爵家で人生最大の衝撃を受ける事になるとは、その時はまだ知らなかった。