婚約者2
それどころか無邪気と言えるほどキラキラした眼差しを向けられて、ユリアの方が眩しいくらいだ。何だか不思議と穏やかな気分になり、自然と目尻が下がる。
武術大会に参加するのだから成人だろうが、成人男性とは思えないほど幼い印象がある。
この年齢で兄の事を『兄上』ではなく『兄さま』と呼ぶのもそうだ。その呼び方が許されるのはせいぜい学校へ入学するまでだろう。
おそらく婚約者は指摘せずにあえて黙っている。その方が好ましいからだ。
「何とお呼びしたらいいのでしょう。『姉さま』とお呼びしてもいいですか?」
「はい」
だってユリアも『義姉上』よりも、そちらの方がいい。
ユリアが握手を求めると、彼は嬉しそうに破顔して手を差し出してきた。ニコニコと笑う表情につられて、ユリアも儀礼的でない本物の笑顔を浮かべる。
その時、またしても思いがけない人が現れてユリアは驚いた。
「ナディネ、終わったから帰ろう」
護衛騎士を引き連れてやって来たのは王弟だ。
ユリアは反射的に姿勢を正して頭を下げる。幼い頃から鍛え上げてきた所作は完璧だ。
「ん? そちらはサルーネの婚約者か」
「はい。ユリア・マサーレル嬢です」
「マサーレル公爵家か。ふむ」
婚約者が背中にさり気なく手を添えてくれて、ユリアは顔を上げる。
「気に留めておこう」
「はい……」
どういう意味だろうとユリアが考えを巡らせていると、王弟はナディネを伴って馬車止めに向かった。
その背中に向かって婚約者が言う。
「遠征の件、お願いしますよ」
「分かっている」
婚約者が王弟に向けた言葉が、ずいぶん砕けていたので驚いた。ブロドーク侯爵家と王弟が親しい間柄だと聞いた事はない。
ユリアが不思議そうな目を向けると、婚約者はユリアの背後の父に向かって話しかけた。
「マサーレル公爵閣下、お久しぶりでございます。ご無沙汰して申し訳ありません」
「いやいや、構わないよ。そちらが色々と大変だったのは私も聞き及んでいるから」
「ありがとうございます」
「しかし先ほどの戦いぶりは見事だった。これからの活躍も期待するよ」
ユリアの父が偉そうに胸を張ると、婚約者は「恐縮です」と殊勝に頭を下げた。
「ユリア嬢は私の馬車で送ってもよろしいでしょうか。最近、あまり時間を取れなかったので」
「ああ、サルーネ君。ぜひそうしてくれたまえ」
ご機嫌な父を先頭に、マサーレル公爵一家は帰って行った。
ユリアは婚約者にエスコートされて、一旦、第三騎士団のテントに向かう。荷物を手に戻って来た婚約者は、すぐに馬車止めに向かった。
二人で乗り込んだ馬車の中で色々と話をした。たくさん疑問があって、若干頭が混乱している。
「サルーネ様、王弟殿下と親しいのですか? 先ほどのやり取りは、とても驚きました」
「ああ。色々とあってね。王弟殿下がナディネを独り占めしようとするから、何とか隙を見ては捻じ込んでいるんだ」
「え? 王弟殿下が独り占め?」
目を丸くするユリアが珍しいのか、サルーネがくすっと笑った。
ユリアはドキッとする。
冷たい印象の婚約者が笑うと、こんなに柔らかくなるのか。元から整った顔をしているが、こんな風に笑顔を向けられるとドキドキしてくる。
思わず頬に熱が集まるのが分かり、ユリアは冷静になろうと努めた。
「王弟殿下は隠すおつもりがないし、そろそろ公表されるかもしれないから言っておくけれど。ナディネは王弟殿下に伴侶として求められているんだ」
「伴侶……?」
「父も私もナディネを外に出すつもりはなかったのだけれど、王弟殿下に見つかってしまったんだ。そこから怒濤の囲い込みが始まった。エグいんだ王弟殿下は、本当に……」
そこから婚約者の愚痴が始まった。
事情を聞きながら、ユリアはなるほどと思った。
子供の頃にあのキラキラした眼差しで兄さまと呼ばれた婚約者は、尊敬されたいと、幻滅されたくないと死に物狂いで勉強に剣術にと励んだという。その結果の首席だったと。
なるほど。あの頑張りは弟のためだったのか……。
話に聞くだけならピンとこなかっただろうが、ユリアにはその気持ちがよく分かった。先ほど体験したばかりだからだ。
あの大きな瞳で純粋な憧れの眼差しを向けられては、何が何でも理想の兄でいようと頑張りたくなるだろう。
「よく分かります。わたくしも先ほど見詰められて、何だかふあーっとなりましたから。あの方は、人をほのぼのとさせる癒やしの魔法か何かの使い手ですか?」
「いや、属性はないが……分かってくれるか!」
「はい」
ガシッと手を取られて、ユリアは驚く。いつも冷静な氷の騎士が、今は目を輝かせてユリアを抱き寄せていた。対面の位置に座っていたのに、一瞬で隣に来たのにも驚いた。
ユリアは自分がカアーッと赤面したのが分かった。動転しながらも、婚約者の逞しい身体の感触に手を添える。
「ナディネは可愛いんだ。本当に」
「ええ、よく分かります。とても可愛いらしくて微笑ましい人です。見ているだけなのに、こちら側を幸せな気分をにしてくれる稀有な方です」
「ユリア嬢!」
同士を見つけた! とばかりにギュッと抱き締められて、真っ赤なユリアは羞恥に身悶える。
婚約者はユリアを抱き締めたまま、いかに弟が可愛いか、凄いか力説した。
抱き締められた姿勢での話は半分しか内容が入ってこなかったが、王弟も認める魔法陣の使い手なのは、先ほど武術大会でも目にしたので納得した。
ブロドーク侯爵からもサルーネからも王弟からも溺愛される義弟……。
そういえば国王と王妃からも何か言われていた。王弟との結婚話が出ているから注目されているのだろうか。
あの王弟から本気で求婚されているという義弟が、これからどうなるのか。
ユリアは父と兄に報告すべきか迷ったが、いずれ耳聡い父の耳に入るだろうと放置しておく事にした。
時期がくれば発表されるので、それを待てばいいだけだ。王弟が上手く取り計らうだろう。
その前に余計な事をすれば大騒ぎになるのは目に見えているので、どこでどんな風に義弟に迷惑をかけるか分からない。公爵という地位は良くも悪くも影響力が強いのだ。
ユリアは公爵家よりも義弟を守る事を優先した。あの無邪気な笑顔を向けられただけで、心を射貫かれていたのだった。