婚約者1
ユリア・マサーレルは公爵令嬢である。上に嫡男の兄がいて、下には弟もいる。政略結婚が当たり前の環境で育った。
だから王立学校に入学してすぐに婚約が整った時も、すんなりと受け入れた。相手は侯爵家で格下ではあったが、本人が首席で優秀だったからだ。しかも嫡男。ユリアはブロドーク侯爵家の次期当主夫人となる。
本人と初めて対面した時、怖い印象を持った。顔の作りは整っているが、目つきといい鼻筋といい、引き結ばれた口元といい、顔のパーツが全部鋭くて怜悧な印象が強い。
本人には睨んでいるうもりはないかもしれないが、目が合うだけでギロリと睨まれたように感じてしまうのだ。
婚約して何年も経った今では慣れたが、当時小娘だったユリアとしては当然の反応だった。友人達は今でも怖がっていて、ユリアを心配してくれるが。
実を言えばユリアも人の事を言えない。ユリアの顔も眦が吊り上がっているせいで、きつい印象を与えるらしい。
公爵令嬢という肩書もあり、友人でない貴族令嬢からは恐れられている。公爵令嬢として恥ずかしくない礼儀作法の教育を受けてきたユリアの所作は完璧だった。
だからパーティーなどで並び立つと、よくお似合いだと言われた。二人とも下位貴族達を寄せ付けない雰囲気を醸し出すと言われている。
冷たい印象の婚約者だが、話してみると案外普通である。口数が多い方ではないが、気を遣って話しかけてくれる。努力をしてくれる人なのだ。
婚約者としてパーティーがあれば同伴するし、贈り物も欠かした事がない。ドレスも贈られたし、お互いの色の宝石も交換している。
婚約者が騎士団に就職して数年経ち、落ち着いてきたので、今年になってから結婚の話が本格的に動き出した。
ところが一年後に決まった結婚式に向けて本格的な準備を始めた途端、急に手紙が届いて茶会の約束を破られた。これまでそんな事は一度もなかったので驚いた。
多忙を極めるブロドーク侯爵が倒れたという。その名代として、跡取りであるサルーネが動かなくてはならなくなったと。
理由を知って納得し、何か手伝える事があればと手紙を返した。将来的に領地経営に携わる可能性があったので、ユリアは勉強していたのだ。
優秀なサルーネは騎士団に所属しながら領地経営もこなせるかもしれないが、普通の貴族には無理である。
だから妻として支えるつもりであった。サルーネほどではないが、ユリアも成績優秀者で何度も名前を貼り出された経験がある。
でも謝罪とお礼の手紙が届くだけで、ユリアが出来る事はなかった。ブロドーク侯爵が回復したと聞いた後もサルーネは忙しそうにしていて、ユリアと会う機会ががくんと減った。
会えてもほんの数刻で、事務的な話で終わった。結婚式の手筈を整えなければならなかったが、すぐに時間切れになった。
元々さらりとした性格の人で、婚約者といっても甘い空気になった事がない人だが、それでもユリアは不安になった。ぽかりと心に穴が空いたような感じがする。
自分達は政略結婚だからお互いに恋愛感情はないと思っていたが、違っていたのだろうか。順調に会えていた時も、そんなに頻繁に会っていなかったというのに。
自分の気持ちを掴みかねて、ユリアは戸惑っていた。
そんな中、武術大会が開かれた。
サルーネはあの有能な第三騎士団所属なのに、代表に選ばれたらしい。
ユリアの父も兄も本当に凄いと褒めていた。優秀な男とユリアを婚約させた父は、自分の功績だと鼻高々だ。
会場にはマサーレル公爵家の馬車で乗り入れ、家族と一緒に貴族席で見学したが、第三騎士団の戦いぶりは圧倒的だった。
父や兄が興奮して拍手する中、ユリアの心はしんと冷えていた。
婚約者は本人の纏う雰囲気と魔法属性から『氷の騎士』とか『氷の貴公子』と呼ばれている。所属する騎士団でも一目を置かれていると、友人令嬢から聞いた事がある。
その彼が。
誰からも『氷』扱いの婚約者が。
魔法陣使いのローブを羽織った男に満面に笑みを向けている。他の騎士団の戦いでは魔法使いも魔法陣使いも一定の距離を置いて戦っていたのに、サルーネの隣にはローブ男がぴったりと貼り付いていた。
そして素晴らしい連携で巨体の魔獣を仕留めて、会場を湧かせた。ほとんど二人で斃したようなものだ。本当に一瞬の事だった。
勝利の興奮からか、サルーネはその男を両手で抱き上げて喜んでいる。あんな嬉しそうな顔、ユリアは見た事がない。
それは同じ所属の騎士団員もそうなのだろう。みんな揃って目を丸くし、あんぐりと口を開けていた。
ユリアは思わず胸を押さえた。心臓の辺りで何やら嫌な感じのものがジワッと広がっていく。これは何なのだろう。
嫉妬……?
わたくしはあのローブ男に嫉妬しているの?
政略結婚なのに、いつの間にか婚約者に恋愛感情を抱いていたの?
婚約者にあの笑顔を向けられている、あのローブ男が羨ましい。どうしてあの笑顔を向けられるのが婚約者の自分ではないのか。それが堪らなく悔しい。
悲しくなったユリアは、滲んできた涙をそっと拭った。
国王から労いの言葉があり、大会の終了が告げられる。観客席にいた貴族や一般市民がぞろぞろと帰っていく中、父がユリアに言った。
「婚約者に会ってから帰るか?」
「はい……」
父は娘の婚約者だと自慢したいのだろう。
ほくほく顔の父に嫌とは言えず、ユリアは悲しい気持ちを押し込んで微笑んだ。公爵令嬢たるもの、感情を表に出さない術は心得ている。
家族と連れ立って観客席を離れ、婚約者を探した。第三騎士団のテントに姿はなかったので少し探したら、思わぬ光景が目に飛び込んできて驚いた。
王族観客席の出入口から少し離れた場所で、大勢の護衛騎士を引き連れた国王と王妃が、あのローブ男と対面していた。婚約者はその後ろに控えていて、ブロドーク侯爵の姿もあった。
予定外の行動だったのだろう。たまたま近くにいた貴族達は動けなくなり固まっている。護衛騎士は焦った表情で周囲を警戒している。
その一帯、誰もが動けなくなっている中で、あのローブ男が国王と王妃に直接話しかけられていた。声は聞こえないが、先ほどの戦いぶりを褒められているのが分かる。
国王の友人であるブロドーク侯爵が何か言い、二人は護衛騎士に囲まれながら立ち去った。馬車に乗り込んで消えて行く。
緊張感の解けた周囲の貴族達から「はああぁ……」と詰めていた息を吐く声がする。
それを尻目に、ユリアは足を進めた。貴族達が散り散りになっていく中、視線を一点に定めて歩み寄る。
その間に、ブロドーク侯爵は文官に連れられて行ってしまった。
ユリアは心の中で残念に思う。ブロドーク侯爵は多忙な方なので滅多に会えない。久しぶりに挨拶をしたかったが仕方ない。
ブロドーク侯爵とも睦まじく会話するローブ男。彼の正体を知りたかった。
近付くユリアに気付いた婚約者が、驚いたのかふと目を見開いた。そしてローブ男に惜しみない笑顔を向けて紹介した。
「ああナディネ、紹介した事がなかったな。私の婚約者のユリア・マサーレル嬢だ」
「え?」
ローブ男はユリアを見て、零れ落ちそうなほど大きく目を見開いた。そして何を思ったか、キラキラと大きな瞳を輝かせてユリアを見詰めてきた。
「なんてお似合いな……」
「……え?」
思わぬ反応に、ユリアの頭は真っ白になる。
「兄さま、とても素敵な婚約者様ですね! とてもお美しい方……こんなにお似合いな方がいらっしゃるなんて……兄さまと並んだら本当にぴったり! これ以上ないというくらいお似合いで眩しいほどです!」
「そうか……?」
婚約者は満更でもないといった感じで、照れ笑いをした。
ユリアは婚約者の笑顔を間近で見て絶句する。
兄さま……?
「ユリア嬢、こちらはナディネ、私の弟だ。紹介が遅くなってすまない」
「いえ……初めまして……」
「こちらこそ初めまして! お会い出来て嬉しいです!」
そういえばブロドーク侯爵家には次男がいると聞いた事があるような気がする。
婚約の時の顔合わせも、ブロドーク侯爵があまりに多忙な為にどうしても都合が合わず、本人だけが公爵家を訪れて対面したのだった。だから弟とは初対面になる。
弟……弟だったの……。
だから笑顔なの……? 家族だから……?
先ほどまでの悲しみがどこかへ消えて、ユリアは呆然となる。表情を繕う余裕などなかった。




