シグナスの根回し
すぐに結果が出る仕込みではなかったので、シグナスはしばらく静観していた。
あれは毒ではないし、そもそも祖父が自ら飲もうとしなければ害のないものだ。しかしあの性格の祖父なら手を出すと、シグナスは確信していた。
予想通りすぐには効果が出なかったので次の一手を考えている最中、その知らせが届いた。
祖父が倒れたという。
それも若い妾とお励みの最中に頭を押さえて意識を失ったと。そのまま他界するかと思いきや、やはりあの祖父の生に対する執着は半端なかったらしい。二日後に目覚めたが、以前のようにはいかなくなっていた。
シグナスもお見舞いと称して確認しに行ったが、王都屋敷の豪華な主寝室で横たわる祖父の左半身は動かなくなっていた。
顔の半分、左腕、左足が全く思うように動かせなくなっていて、機嫌の悪い祖父は使用人に八つ当たりしていた。
早々に退散する事にしたシグナスは、領地から駆け付けた伯父とも再会した。
あの病状を理由に、当主交代を国王に願い出るらしい。おそらく何の問題もなく受理されるだろう。
祖父は領地の端の田舎町の別宅に移されて、そこで隠居生活を送る事になる。
若い妾はついて行くのを嫌がったので一人だ。介護が必要なので最低限の使用人をつけるが、それだけだ。華々しかった公爵家当主としての人生の終着を、そこで迎える事になる。
伯父にそれを聞いたシグナスは、笑顔で屋敷を後にした。
何となく確信した。あの若い妾を仕込んだのは伯父だ。もしかしたら精力剤の差し入れも被っていたかもしれない。
伯父を敵に回さないよう、シグナスは心に刻んだ。
一番の懸念が払拭できたシグナスの心は軽い。
残るのは母だが、祖父を失った母には何も出来ないだろう。離宮に押し込められて、情報が入るのが遅い。
退屈な毎日に飽きたのか、第二妃夫人の座を失ってもいいから公爵家に戻りたいと伯父に申し出たようだが、やんわりと却下されたらしい。
王都屋敷にも領地屋敷にも入れないと、伯父は決めたそうだ。
伯父には子供が四人もいるし、元第二妃夫人だと威張る妹を受け入れるつもりはない。昔から我が儘な妹を嫌っていたと聞く。
だから第二妃夫人を辞めるのは構わないが、領地の端の別宅なら受け入れると告げた。
母は難色を示した。そこに引っ越しても離宮と変わらない。派手好きな母はあちこちのパーティーに参加して元第二妃夫人としてちやほやされたいのに、そんな田舎ではそれを望めない。
だからまだ離宮に留まっている。
祖父がこうなった今なら、問答無用で祖父と同居だ。確実に拒否するだろう。
あれだけ祖父に世話になっておきながら簡単に見放す。母はそういう人だ。
シグナスの結婚と相手の事を知ったら、母はどう動くだろう。
まず激昂する。そして矢のように手紙を送りつけてくる筈だ。もしかしたら屋敷に乗り込んで来るかもしれない。
屋敷の警備を強化するのはもちろんだが、伯父に頼んで馬車を出さないよう協力して貰わなければならない。
母がどんなに怒ろうと、離宮からシグナスの王都屋敷までは距離がある。歩いては来られない。馬車がなければ突撃したくても出来ないのだ。
よし。そうしよう。先代父王にも頼んで、母に馬車を使わせないよう手配しておく。それだけで厄介な母を隔離出来る。
母の血管もブチ切れるかもしれないが、シグナスの知った事ではない。
何よりも優先すべきは愛しいナディネの安全だ。彼と無事に婚姻を結べるまで、考え得る最善の手段を講じる。その為の労力は厭わない。
父王の許可は既に取ってある。
離宮に内々に会いに行き、心の内を全ての晒して説得した。
シグナスは兄と対立する気は微塵もないこと。玉座に興味はないこと。兄の御世を支えて、兄の子供に順当に世襲できるよう協力すること。自分の子供を持つつもりもなく、魔法陣研究などで世のために役立つ存在であろうと努力すること。
父王は探るような目をして聞いていたが、ナディネの治癒魔法陣について言及すると目の色を変えた。
「今はそれを応用して解毒の魔法陣を開発中なのです。王族にとって毒味が要らなくなるのは、とても大きいと思います」
「……それが発明されたら素晴らしいな。急げないのか?」
今でも温かい食事を摂れない父王は尋ねてきたが、シグナスは首を横に振る。
「ナディネはまだ学生なので無理を言えません。でも卒業後は私の屋敷に招き入れて、研究に集中して貰う予定です。私と協力して二人の知恵を絞れば、もしかしたら早い段階でお目にかける事が出来るかもしれません」
「ふむ。期待しているぞ」
父の言質を取って満足し、帰ろうとした時に不意に言われた。
「お前の御世を見てみたい気もあったのだがな」
「……っ」
シグナスは思わず足を止めた。あまりに思いがけなかったのだ。
「そもそもお前は兄に対して微塵も敵対心を持たなかったが、何故だ?」
「それは兄が優しくしてくれたからです」
シグナスは内緒話を打ち明ける。
「幼い頃……兄の立場も母の立ち位置も何も分かっていなかった頃に、私は兄に会いに行ったのです。お目付役の目を盗んで庭を回って」
「ふふ。いかにもお前のやりそうな事だ。お目付役など、簡単に出し抜けたのだろう」
「兄という人に純粋に興味があったのです。兄は政敵である私にも優しくしてくれましたよ。それから度々抜け出しては会いに行って、兄から窘められました。母上に叱られるよと」
シグナスは小さかったが、祖父や母の微笑みよりも兄の微笑みの方が好ましく思えた。
祖父も母も自分を可愛がってくれたが、どこかその笑顔を胡散臭く感じていた。それが何なのか自分でもよく分かっていなかった。
でも兄の笑顔は彼等と違うと感じた。本能で察したとしか言いようがないが、そう直感したのだ。
それからシグナスは兄に心を寄せている。成長してもその気持ちは変わらなかった。
二度とない機会かもしれないので、シグナスは父王に更に深く内心を吐露した。
「兄上には支えてくれる友人がたくさんいます。しかし私の周囲に群がってくるのは、何と言うか………みんな友人とは言えない、崇拝者なのです」
「ああ、なるほど」
「崇拝者は諫言してくれません。私が暴君になっても愚王になっても止めてくれません。だから向かないのです」
父王は納得したように頷いた。
「よく分かった」
何度も頷いた父王は退出間際に解毒魔法陣開発を急ぐよう言い、シグナスを見送ってくれた。
離宮を後にしたシグナスは、それを兄王にも伝えに行った。
父王は解毒の魔法陣開発を急ぐよう言っただけだが、ナディネを屋敷に招き入れるのを了承した、即ち結婚も了承したと拡大解釈してそう告げた。もちろんわざとだ。
兄王は友人であるブロドーク侯爵の身を案じる様子だったが、父王が許可したものを反対出来る訳がない。
「ナリタの息子を望むとは……」
兄王は頭を抱えている。
「無理矢理ではありません。本人の意思を尊重します」
堂々と胸を張るシグナスの宣言に、兄王は困ったように眉を下げた。
「お前に全力で口説かれて、落ちない子がいるかな?」
「頑張ります!」
「いや、そうではなく……」
噛み合わない会話を強引に終わらせて、シグナスは立ち去った。
背後で兄王の大きな溜め息が聞こえたが、きっと気のせいだろう。