元執事
憲兵隊の牢屋に収容されてどのくらい経っただろう。時間の経過が分からない。
元執事はこうなって初めて後悔した。
始まりはほんのちょっとした事だった。夜中に泣く子供が煩わしくて邪険にした。すぐにバレてお叱りを受けると思っていたら、誰にもバレなかった。旦那様は愛妻を亡くした悲しみで、子供を気遣う余裕がなかったのだ。
子供の気性が大人しかったのも悪かった。食事は食堂で摂ると決められていたので、そこで暴露するかと思いきや、黙っていたのだ。
それから調子に乗るまで早かった。気が変わって告げ口されては困るので、子供には旦那様に疎まれていると吹き込んだ。だから会いに来ないのだと。
子供の傷ついた表情は、妙な具合に元執事を高揚させた。心の片隅にあった嗜虐心を刺激されたのだ。
自分にそんな傾向があるのは知らなかった。自分が平民で、相手が貴族の子息というのも興奮材料になった。
しばらくして嫡男のサルーネが優秀だと評判になった時は、何故自分が担当でないのかと悔しくなった。
サルーネ担当のトールは同じ年頃で、領地屋敷で経験を積んだ実力者だと聞いた。家令の父も褒めていて、とても妬ましかった。
自分の担当は出来損ないの次男。自室に閉じ篭もって、いつも本を開いている暗くて弱々しい次男なのに……と苛々した。
目立つ場所に痣を残しては食堂でバレるので、痕が残らないよう力を加減しながら叩いたり蹴ったりした。
見かねた東棟の使用人が家令に訴えた時はヒヤリとした。今度こそお叱りを受けると覚悟したが、父は自分の嘘を信じてくれた。
そのお陰で邪魔者はいなくなり、すっきりした。東棟でやりたい放題になった。
子供が学校へ進学してもバレなかった。
ある年から誕生日プレゼントが届くようになったが、渡す訳にはいかなかった。旦那様に嫌われていると吹き込んでいるからだ。
だからそれらの物品は自分の部屋のクローゼットの引き出しの奥に仕舞い込んだ。一つだけ、揃いのボタンの装飾品があった時は、一つくらい無くなっていても分からないだろうと、それだけ換金した。
町の宝石商で換金したら、小さな石の粒が自分の一カ月分の給料に化けたので怖くなった。手を出すのはやめたかったが、楽に手に入る現金の魅力に屈した。
結局、その揃いのボタンは全部、売り払った。でもそれだけだ。他の物は見るからに高価すぎて手を出せなかった。
このまま学校を卒業したら、次男は放逐されるだろうと思っていた。
継ぐ家もないのに旦那様は何の対策もしていなかったし、食堂で顔を合わせても会話もなかったからだ。嫡男とは話をしても、次男とは話さなかった。
旦那様に疎んじられていると吹き込んできたが、あながち間違っていなかったのだ思っていた。
だから突然次男が失踪した時、あんな大騒ぎになるとは思わなかったのだ。まさか旦那様があれほど激昂するとは思わなかった。完全に予想外だった。
そしてこれまでの所業が全てバレて横領も発覚してしまった。
ショックのあまり旦那様が倒れてしまい、嫡男のサルーネ様が代わりに取り仕切ったが、鋭い刃のような冷たい眼差しで睨まれて背筋が凍った。それだけで全身がガタガタ震えた。
翌朝、護送されて憲兵隊に引き渡された。法に基づく処分を待つ身になったが、ずいぶん待たされている。
おそらく次男の捜索を優先しているのだろう。あれから何日経ったのか、まるで見当もつかない。
着ていた衣類は汚れていき、髪もボサボサで乱れている。粗末な食事しか与えられず、腹は絶えず空いている。どんどん痩せていっているのが、鏡を見なくても分かる。かなり窶れただろう。
その日もぼうっと高い窓から差し込む日光を見ていたら、こちらに近付いて来る足音が聞こえた。
複数人なのが分かり、顔を向ける。そして大きく目を瞠った。
「旦那様……」
牢屋の格子越しに見えるのはブロドーク侯爵と嫡男のサルーネだった。二人は冷たい目で元執事を見下ろし、口元を曲げた。
「父上、どうなさるおつもりですか? 法に照らし合わせたら労働刑が妥当らしいですよ」
「だろうな。僅かな横領と証拠の残っていない暴行の罪くらいではな」
「でもそれで許すおつもりはないのでしょう?」
「当然だ」
二人の会話を、元執事は頭を下げながら聞いていた。
「申し訳ございません」
謝罪を口にしたが、二人は無視した。謝罪を受け入れるつもりもなのだろう。
「死刑にしてしまいたいほど憎らしいが、それでは苦痛が一瞬で終わってしまう。それはよくない」
「そうですね。ナディネは十年以上、虐げられてきたのですから。最低でも倍の年数は苦しんで貰わないと」
「当然だ。鉱山での労働刑になるだろうが、模範囚でも恩赦など与えないよう指示しておく。死ぬまで労役だ」
「恩赦などとんでもない。むしろ凶悪犯の中に放り込んで、戦々恐々の日々を送って貰いましょう。鉱山での怪我は日常茶飯事です。多少の怪我は仕方ありませんよね?」
「そうだな。痛みつけても、殺さない程度にしておけと指示を出しておこう。すぐに死なれては困るからな」
「そうですね。片方の目が潰れても、片耳が聞こえにくくなっても、労働は出来ますから」
二人の会話に、元執事はガタガタと震え出した。
「だ、旦那様、お許しを……っ!」
「黙れ、クズが。誰が喋っていいと言った」
「……っ……!」
「リードも気の毒に。こんな不出来な息子を持ったばかりに……」
「父上、家令に罪がないとは言い切れませんよ」
「分かっている。屋敷内の事は全て家令の管轄だ。息子の嘘を信じて、何の咎もない使用人達を馘首したのは大きな過ちだった。決して許されるものではない。いくら私の長年の右腕でも、幼い頃からの幼馴染みでもな」
「ち、父は……どうなりましたか? 罰せられたのですかっ?」
思わず問いかけてしまった元執事に、わざと聞かせるように旦那様が言う。
「リードは侯爵家を馘首したが、遠縁の子爵家へ再就職させた。そこで執事をする予定だ」
それを聞いた元執事はホッとしたが、サルーネ様は不満そうだった。
「甘くないですか?」
「甘いと思うか?」
旦那様は皮肉そうに唇を曲げている。
「サルーネ、よく考えなさい。リードは長年ブロドーク侯爵家に仕えてきて内情を熟知している。紹介状もなしに馘首して、敵対関係にある貴族に雇われたらどうなる?」
「あぁ、なるほど」
「放逐する訳にはいかないのだよ。ブロドーク侯爵家を逆恨みしないか監視を続けていかなければならない」
「逆恨み……」
「こんな愚か者でも、妻を亡くしているあいつにとっては唯一残された家族だ。自業自得とはいえ生涯労役を命じられて、果たしてこの先ずっと恨みを抱かずにいられるのかな?」
「……家令はそういう人ではないと思っていましたが」
「今はな。だがこの先は分からない。私が信頼してきたリードはそういう人間ではないが、人は変わるものだ。年老いて人生の終わりが見えた時、息子の存在が大きくなるかもしれない。その時、どう変化するのか予測不能だ。だから監視を怠ってはならないのだ」
「納得しました」
「よく覚えておきなさい。侯爵家の当主になる身なら、線引きを誤ってはいけない。長年よく仕えてくれたからといって情に流されてはいけない。侯爵家にとって、災いの種になりかねない存在となるのなら、幼馴染みを切り捨てる覚悟も必要なのだ」
「はい。肝に銘じます」
元執事は蒼白の面持ちで二人の会話を聞いていた。長年、献身的に侯爵家に仕えていた父は切り捨てられたのだ。自分のせいで。
それをあえて自分の目の前で話す事によって罰を与えている。容赦ない追い打ちだった。
「しかし……そうですね。家族を簡単に忘れられないのなら、リードは鉱山まで面会に行くかもしれません。このクズは嘘が得意のようですから、何を吹き込むか分かったものではありません。面会禁止にしておいた方がいいのでは?」
「そうだな。そうしよう」
楽しそうに会話をする二人を前に、元執事は絶望した。
この先に待つ自分の苦難は計り知れない。誰も助けてくれない。唯一の味方であろう父にすら二度と会えない。孤独で辛い毎日……辛酸を嘗めるだろう。
貴族子息を傷つけるなんて……そんな事をすべきでなかった。
今更ながら痛感する。あの時、気弱そうな子供だからといって虐げてはいけなかった。
二人の足音が去った後、汚れた石畳の床を見詰めながら、元執事は蹲って号泣した。