保健室のヌシ? うららの不健康(?)健康法
人間には三大欲求があるという。食欲、睡眠欲、そして性欲。
私、安眠うらら(あみん うらら)の場合、その比率は睡眠欲が9割、食欲が1割、残りは測定不能、といったところだろうか。とにかく、私の人生は安眠を中心に回っている。
そんな私が、学園内で新たな聖地を発見してしまったのは、ほんの数週間前のことだった。
体育の授業で軽い捻挫をして訪れた、保健室。
その奥にある、白いカーテンで仕切られたベッド。
試しに横になってみた瞬間、私は衝撃を受けた。
「(な……なんだこの……包み込まれるようなフィット感……。シーツの清潔な匂い……外の喧騒が嘘のような静寂……。ここは……天国か……?)」
教室の硬い椅子や、中庭のベンチとは比較にならない、極上の寝心地。まさに、安眠のために設計された空間。
私はその日、許可された時間を大幅に超過して眠り続け、養護教諭の薬師寺先生に呆れ顔で叩き起こされた。
だが、一度知ってしまった極上の安眠を、私が手放すはずがない。
その日を境に、私の保健室通いが始まったのだ。
***
「せんせー……なんか、頭が重くて……あと、全身の倦怠感が……」
「はいはい、安眠さん。またですか。熱は?」
「平熱です」
「……どうぞ。ベッド、空いてますよ」
薬師寺先生は、もはや私の仮病(頭痛、腹痛、めまい、謎の倦怠感など、レパートリーは豊富だ)を疑うことすら諦めたようで、体温計を渡すのとほぼ同時にベッドへ案内してくれるようになった。プロの仕事だ。
「(よし、今日もミッションコンプリート……)」
私は、白いカーテンの内側に入ると、慣れた手つきで靴を脱ぎ、ベッドに身を横たえる。
ああ、やはりここのベッドは最高だ。適度な硬さのマットレス、ひんやりとしたシーツ、そして何より、誰にも邪魔されない静かな空間。
私は、最も体が楽になる姿勢――仰向けになり、両手両足を微妙な角度に開き、全身の力を完全に抜く、いわゆる『大の字』に近いが、より脱力感を重視した『安眠デッドポーズ』とでも呼ぶべきか――をとり、速やかに入眠する。
「(……今日も、良い眠りが訪れそうだ……)」
これが、私の新たな日課となりつつあった。
授業を抜け出す口実を作り(大抵は体調不良を訴える)、保健室のベッドで至福の睡眠時間を確保する。まさに理想的な省エネライフだ。
***
しかし、私のこの完璧な安眠ライフにも、予期せぬ邪魔が入るようになる。
私の保健室での生態(主に寝姿)が、他の生徒たちの目に留まり始めたのだ。
「ねぇ、うらら、また保健室? 大丈夫?」
ある日、軽い擦り傷で保健室に来たモエが、カーテンの隙間から私の寝姿を覗き込んだ。私は例の『安眠デッドポーズ』で熟睡中だった。
「……すごい寝相。なんか、ミイラみたい」
「む! あれはただの寝相ではないぞ、モエ!」
遅れてやってきた(おそらくサボりだろう)猛が、私の姿を見て目を輝かせた。
「見よ! あの四肢の伸びやかな角度! 全身の筋肉が完全に弛緩し、血流が最適化されている! あれぞ、疲労物質を体外に排出し、短時間でエネルギーを回復させるための究極のポージング、『安眠流・超回復睡眠術』に違いない!」
「(……違う。ただ一番楽なだけだって……超回復とかしてないし……)」
半分眠りながらも、猛の相変わらずな勘違いに内心でツッコミを入れる。
だが、猛の熱弁は、モエだけでなく、その場にいた他の生徒たち(軽い怪我や体調不良で来ていた)の興味を引いてしまった。
「へぇー、あの寝方、体にいいんだ?」
「確かに、安眠さん、いっつも保健室で寝てるけど、起きた時すごいスッキリした顔してるよね」
「長時間寝てるのに、寝起きが良い秘訣って、あのポーズなのかな?」
噂はあっという間に広まった。
「保健室に行けば、安眠さんの『超回復睡眠術』が見られるらしい」
「あのポーズを真似すれば、疲れが取れるってホント?」
「最近、体育の後とかに、あの『デッドポーズ』してる奴、増えたよな」
いつの間にか、私の単なる楽な寝相は「うらら式健康法」として、一部の生徒たちの間で奇妙なブームを巻き起こし始めていたのだ。
休み時間になると、教室の隅や廊下で、あの気の抜けたポーズを真似する生徒の姿が見られるようになった。効果があるのかどうかは、甚だ疑問である。
当然、保健室にも「安眠さんの寝方を見学しに来ました!」という、ふざけた生徒が現れるようになり、私の安眠は著しく妨害されることになった。
養護の薬師寺先生も、この奇妙なブームには頭を抱えているようだった。
「安眠さん……あなたのせいとは言いませんけどね……。最近、保健室が妙に賑やかで……。健康な生徒まで見学に来るんですよ……。本当に困ったものです……」
先生は、大きなため息をつきながら、私に言った。
「(……知らんがな……。私の安眠を返してほしい……)」
私こそ被害者だ、と内心で訴える。
***
そんなある日。
いつものように保健室のベッドで眠っていると、薬師寺先生がそっとカーテンを開けた。
「安眠さん、ちょっといいですか?」
「……(むにゃ)……なんでしょうか……?」
眠い目をこすりながら起き上がる。
「これ、どうぞ」
先生が差し出したのは、上質なシルク製のアイマスクと、高性能そうな耳栓だった。
「……?」
「あなたがここにいるのは、もう仕方ないとして……。せめて、他の生徒の目を気にせず、静かに眠れるようにと思って。……まあ、気休めかもしれませんが」
先生は、諦めたような、それでいて少しだけ優しい笑みを浮かべていた。
「(お……これは……! 確かに、光と音を遮断できれば、安眠の質は格段に向上する……!)」
私は、予想外のプレゼントに内心で喜びつつ、ありがたく頂戴することにした。
「あ、ありがとうございます……」
「どういたしまして。……ただし、仮病の使いすぎはほどほどにしてくださいね」
先生はそう言い残し、カーテンを閉めて去っていった。
***
こうして私は、不本意ながらも「保健室のヌシ」として、学園内でその地位を確立(?)してしまった。
そして、私の「安眠流・超回復睡眠術(?)」は、未だに一部の生徒たちの間で、効果不明のまま、奇妙な健康法として信じられているらしい。
私は、薬師寺先生からもらった最新装備(アイマスクと耳栓)を装着し、再び保健室のベッドに横たわる。
視界は完全に闇に包まれ、耳には心地よい静寂だけが訪れる。
「(……ふふ。これはいい……。やはり保健室は最高だ……。多少騒がしくても、これなら問題なく眠れる……)」
外野の勘違いなど、もはやどうでもいい。
私の目的はただ一つ、最高の安眠を得ること。
そして今、私はその目的を、また一歩達成に近づけたのだ。
保健室のヌシ、安眠うらら。
今日もまた、白衣の天使(薬師寺先生)の諦観に見守られながら、深い眠りの世界へと旅立つのであった。