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汗と涙と省エネと ~うららの不本意なファインプレー~

 初夏の太陽が容赦なく照りつける季節。学園は年に一度の熱狂――体育祭の準備期間に突入していた。

 グラウンドからは、クラスTシャツに身を包んだ生徒たちの威勢の良い掛け声や、応援団の練習の音が鳴り響いている。

 その熱気とは完全に無縁の場所、すなわち教室の窓際の指定席で、私、安眠うらら(あみん うらら)は、耳を塞ぎ、意識を遠い夢の世界へと飛ばそうとしていた。


「(うるさい……エネルギーの無駄遣いの極みだ……体育祭なんて、文明の退化じゃないだろうか……)」


 体を動かすこと、特に集団で目的もなく走り回るなど、私の省エネ哲学とは最も相容れない行為だ。汗をかくなどもってのほか。体温調節という重要な体内機能を、無意味に酷使するなど愚の骨頂である。


「安眠殿! これを着て、共に勝利の汗を流しましょうぞ!」


 むわっとした熱気と共に、クラスメイトの猪突猛が、蛍光イエローの眩しいクラスTシャツを差し出してきた。デザインは…まあ、普通だ。問題は、これを着てグラウンドに出なければならないかもしれない、という事実である。


「(汗…? 最も避けたい生理現象の一つ……このTシャツ、吸水性悪そうだし……)」


 受け取るのを一瞬躊躇する私に、隣の風祭モエが「わー! 派手だね! でも楽しみ! うらら、リレー頑張ろうね!」と無邪気に声をかけてくる。

「(リレー……? 聞き間違いであってほしい……)」

 不吉な予感が私の背筋を這い上がった。


 ***


 その予感は、残念ながら的中した。

 放課後のクラスミーティング。体育祭の花形種目である「クラス対抗リレー」の選手決めが始まったのだ。

 私は当然、気配を消し、壁と同化することでこの難局を乗り切ろうと試みた。存在を認識されなければ、指名されることもない。完璧なステルス作戦だ。


 ――だが、私のステルス能力をもってしても、猛の熱血レーダーからは逃れられなかった。


「リレーのアンカーは!! 我がクラスの最終兵器にして、勝利の女神! 安眠うらら殿しかおるまい!」


 猛が、クラス全員に響き渡る大声で私を指名した。一斉にこちらを向くクラスメイトたちの視線。


「え? 私? いやいや、無理だって。足遅いし、体力ないし」


 全力で拒否する。嘘ではない。走るのが嫌いなので、当然体力もない。しかし、私の必死の抵抗も虚しく、


「えー、うららなら大丈夫だよ!」「いざとなったら、あの時みたいに何かすごいことやるんでしょ?」「そうそう、伝説の安眠さんなら!」


 クラスメイトたちは、これまでの私の数々の不本意な伝説(勘違い)を引き合いに出し、妙な期待感を膨らませている。どうやら、私の「怠惰」は「いざという時に隠された力を発揮する」という、都合の良い設定に脳内変換されているらしい。


「(秘密兵器? 伝説? 何の話だ……私の安眠枕のことか…? いや、違う……もうダメだ、詰んだ……)」


 結局、多数決(という名の同調圧力)により、私は最も走りたくない、最も目立つアンカーという大役(厄災)を押し付けられてしまったのだった。


 ***


 アンカーに選ばれてしまった以上、当日走る(フリをする)ことは避けられない。私は絶望に打ちひしがれながらも、思考を切り替える。


「(こうなったら仕方ない……どうすれば、最も少ないエネルギー消費で、この屈辱的な状況を乗り切れるか……?)」


 私の脳内で、安眠流・省エネ走法のシミュレーションが開始された。


 **構想1:『重力落下走法』改。**

 僅かな下り坂を利用し、最小限の脚力で前傾姿勢を保ち、あとは重力に身を任せて転がるように進む。平地での応用として、空気抵抗を極限まで減らすフォームを模索する必要がある。もはや走法というより、漂流に近いかもしれない。


 **構想2:『究極・他力本願走法』。**

 前の走者たちが、私が走る必要すらないほどの圧倒的な差をつけてくれることをひたすら祈る。そのために、練習中から前の走者に対し、無言のプレッシャー(期待の眼差しという名の、眠たげなジト目)を送り続ける。


 **構想3:『擬似・棄権走法』。**

 スタート直後に盛大に転倒し、負傷したフリをして棄権する。ただし、演技力と、周囲からの非難に耐える精神力が必要とされる。リスクが高い。


「(……どれも決定打に欠ける……。やはり、当日の奇跡に賭けるしかないのか……)」

 結論が出ないまま、体育祭当日を迎えてしまった。


 ***


 そして、クラス対抗リレー決勝。

 抜けるような青空の下、各クラスの応援合戦が繰り広げられている。私はアンカーとして、トラックの隅でひっそりと出番を待っていた。もちろん、ストレッチなどという無駄なエネルギー消費はしない。ひたすら日陰を探し、体力の温存に努める。


 レースは始まった。第1走者、第2走者……私のクラスは健闘を見せ、上位をキープしている。だが、トップとの差はなかなか縮まらない。

「(頼む……! 奇跡よ起これ……! 差を広げてくれ……!)」

 他力本願走法に全てを賭ける私。


 そして、ついに第3走者のモエから、私へとバトンが渡されようとしていた。順位は3位。トップとは絶望的な差ではないが、私のやる気を考慮すると、逆転はほぼ不可能と言っていい。


「うらら、お願い!」

 モエからバトンを受け取る。軽い。軽いが、今の私には鉄の塊のように重く感じられる。


「(よし、これはもう諦めて流そう……。完走すれば、最低限の義務は果たしたことになる……)」


 私は、完全に力を抜き、のろのろと走り出した。まるで早朝の散歩のようなペースだ。観客席からは「おい、アンカー!」「走れー!」といった野次が飛んでくるが、気にするだけエネルギーの無駄だ。


 ところが、その時だった。

 最終コーナー手前で、トップを争っていた1位と2位の選手が、激しいデッドヒートの末、まさかの接触! バランスを崩し、二人とも派手に転倒してしまったのだ!


「(お、ラッキー。これで走る距離が大幅に短縮された……)」


 予想外の展開に一瞬だけ目を見開いたものの、私の思考は相変わらず省エネモードだった。棚ぼたのチャンス到来である。


 転倒した選手たちを避けようと、私はわずかにコースを変える。しかし、その瞬間、日頃の運動不足が祟ったのか、あるいは突然の出来事に脳が処理落ちしたのか、私の足はもつれた。


「(……あ、やば……)」


 バランスを崩し、体が前のめりになる。受け身を取るエネルギーすら惜しいと感じた、その刹那。

 私の体は、まるで意思を持ったモップがひとりでに滑り出すかのように、あるいは物理法則をほんの少しだけ無視したかのように、地面すれすれを低空飛行し始めたのだ!


 ザザザーーーーーッ!!


 土埃を巻き上げながら、私は信じられない体勢――後に猛が「地を這う龍」と命名する、低空スライディングゴール――で、ゴールラインを駆け抜けていた。

 しかも、転倒して立ち上がろうとしていた選手たちよりも、ほんのわずかに早く。


 ゴールテープが、私の体に、まるで運命の赤い糸のように、しかし迷惑千万に絡みつく。

 ……あれ?


 結果、私のクラスは、まさかの**大逆転優勝**を果たしてしまったのだった。


 ***


 ゴール付近で一部始終を見ていた生徒や教師たちは、一瞬の静寂の後、爆発的な歓声と、若干の困惑、そして爆笑に包まれた。


「な、なんだ今の!?」「スライディングゴール!? すげええええ!!」

「計算された神業だ! まさに神速!」

「最後まで諦めない闘魂の表れだ!」

「……え、今の何? 新しいギャグ?(困惑)」

「ぶはっ! うららの走り方、ウケるんだけど! でも勝ったー!」


 クラスメイトたちは歓喜の渦に巻き込まれ、私のもとへ殺到した。

「うららー! やったー!」「すげーよ安眠さん! 何者だよ!」

 誰かが私を胴上げしようと持ち上げようとする。


「(やめろ! 触るな! エネルギーが奪われる! 服が汚れる!)」


 全力で抵抗する私に、猛が涙ながらに駆け寄ってきた。

「安眠殿!! あなたの諦めない心、最後まで勝利を信じるその魂、しかとその目に焼き付けましたぞ! あの最後のスライディング、まさに“地を這う龍”! 天地を揺るがすほどの衝撃でしたぞ! 感服いたしました!!」


「(違う、ただ転びかけただけだって……龍って何……? 天地は揺れてないだろ……)」


 モエも「うらら、めっちゃかっこよかったよー! ちょっと笑っちゃったけど!」と、土埃まみれの私に遠慮なく抱きついてくる。


「(やめて、砂が……服が汚れる……洗濯面倒くさい……)」


 私の内心の悲鳴は、勝利の歓声とクラスメイトたちの笑い声にかき消された。


 ***


 結局、私は体育祭のMVP(Most Valuable Player / Most Vague Player?)的な扱いを受け、校長先生から直々に賞状と、副賞として大量のスポーツドリンクを贈られる羽目になった。


「(疲れた……スライディングとか完全に想定外……服も靴もドロドロだし……最悪……)」


 内心では疲労困憊、不満たらたらだったが、キンキンに冷えたスポーツドリンクのボトルは、ちゃっかりと受け取った。


「(……まあ、水分補給は大事だ。今日の無駄なエネルギー消費を補わねば……寝る前に飲もう……)」


 それが、この不本意な勝利に対する、私のささやかな報酬だった。


 ***


 次の日。

 体育祭の熱狂も嘘のように過ぎ去り、学園にはいつもの日常が戻っていた。グラウンドに残る白線だけが、昨日の喧騒を物語っている。

 私の「神業スライディング」も、「まあ、うららだし、なんかよくわかんないけど面白かったし勝ったんだろ」程度の認識に落ち着きつつあった。


 猛だけは「師匠! あの“地を這う龍”スライディングの極意を、ぜひ!」とまだ興奮冷めやらぬ様子だが、私は新品のアイマスク(昨日もらったスポドリのおまけ)を装着し、彼の言葉を完全にシャットアウトしていた。


 ふと、自分の席の机に目をやると、隅の方に小さな落書きが。

 なんとも言えない表情の龍(?)が地面を滑っている絵と共に、こう書かれていた。


『地を這う龍・うらら(爆笑)』


「(…………センスないし、失礼だな……)」


 私は小さく息をつき、アイマスクのフィット感を確かめながら、再び安眠の世界へと旅立った。

 私の意図とは裏腹に、また一つ、くだらなく、そして少しだけ笑える伝説が生まれてしまったようだ。

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