赤点回避とカンニング疑惑と奇跡のヤマ勘
季節は巡り、学園には新たな試練の時期が訪れていた。
そう、定期テストである。
一週間前だというのに、教室には早くもピリピリとした空気が漂い始めている。ノートを熱心に見返す者、参考書と格闘する者、早くも諦めて放心している者……。
そんな喧騒の中、私はいつも通り、窓際の席で安らかな眠りの世界へと旅立っていた。
「(テスト…? ああ、なんかそんなイベントもあった気がする……。まあ、まだ一週間あるし……)」
現実から目を背けるのは、私の得意技の一つだ。面倒事は、可能な限り先延ばしにする。それが安眠への第一歩である。
「ねぇ、うらら、ちょっと! もうテスト一週間前だよ!? 少しは勉強したら?」
隣の席から、友人・風祭モエが私の肩を揺さぶる。その振動すらエネルギーの無駄遣いに感じてしまう。
「んー……今、重要なエナジーチャージ中……(睡眠的な意味で)」
「またそれー! 赤点取ったら追試だよ! もっと面倒なことになるんだからね!」
「む! モエ、安眠殿の安眠を妨げるでない!」
いつの間にか近くに来ていた猪突猛が、モエを諌めるように言った。
「安眠殿は、我々凡人とは違うのだ! きっと、その眠りの中でさえ、深遠なる学問の真理を探求しておられるに違いない!」
「(してない。ただ寝てるだけ……)」
内心で即座に否定する。猛の勘違いは、もはや私の日常の一部と化していた。彼の熱血フィルターを通すと、私の単なる怠惰ですら、何か高尚な行為に見えてしまうらしい。
「……とにかく、赤点だけは取らないでよ、うらら」
モエは呆れたように溜息をつき、自分のノートに視線を戻した。
「(赤点……確かに、追試は面倒だ……それは避けたい……)」
追試という、さらなる拘束時間と労力の発生を想像し、私はようやく重い瞼を少しだけ持ち上げた。
***
そして、運命のテスト前夜。
当然のように、私はこの日まで一切のテスト勉強を行っていなかった。積み上げられた教科書とノートの山は、もはやオブジェと化している。
「(……流石に、そろそろ何かしないとマズいか……追試の面倒くささは、一夜漬けの面倒くささを上回る……)」
究極の選択を迫られた私は、消極的ながらも行動を開始することを決意した。目標はただ一つ、赤点の回避。それ以上は望まない。
「(さて……どうやって最小限の労力で、この危機を乗り切るか……)」
机の上に教科書とノートを広げる(というより、積み上げる)。だが、最初から全てを網羅しようなんて気は毛頭ない。それはエネルギー効率が悪すぎる。必要なのは、選択と集中。すなわち――
安眠流・ヤマ勘メソッド Ver.1.0、起動。
まず、過去数年分のテスト問題を(ネットで拾ってきて)眺める。出題傾向と教師の性格(授業中の口癖、やたら強調していた箇所など)を、私の睡眠学習で培われた(?)潜在意識データベースと照合する。
次に、該当教科の教科書をパラパラとめくる。文字を読むのではない。ページから発せられる「気配」や「質感」を感じ取るのだ。
「(……む、このページだけ妙に紙がツルツルしている…これはインクのノリが良く、教師が力を入れて作った可能性が高い…つまり、出る!)」
「(……逆にこっちはザラザラで、なんだか寝心地が良さそうなページだ…重要度が低い証拠だな…パス!)」
「(……この数式、見てるだけで脳のカロリーを無駄に消費しそうだ…面倒くさい問題として、あえて出してくるかもしれない…要注意)」
「(……この歴史上の人物、名前が覚えにくい…ということは、教師も覚えるのが面倒だったはず…たぶん出ない!)」
極めて独断的かつ超理論的なアプローチで、試験範囲の広大な海の中から、ほんの一握りの「出る(かもしれない)箇所」だけをピンポイントで特定していく。特定した箇所は、ノートに書き出すのではなく、教科書に直接、最小限の力で印をつけるだけ。覚えるのも、眺めて「脳の片隅に置いておく」程度だ。
「(よし、これで理論上は赤点の回避ライン、30点は固い……はず。あわよくば50点……いや、過度な期待は安眠を妨げる……)」
根拠のない自信と、達観した諦めがないまぜになった複雑な心境のまま、私は早々に教科書を閉じ、明日に備えて(というより、単に眠いから)ベッドに潜り込んだ。
***
そして、テスト当日。
最初の科目は、ヤマを張った中でも特に自信のある(気がする)現代文だ。
試験開始の合図と共に、私はまず解答用紙に名前を書く。これだけは忘れてはならない、最低限のタスクだ。
それが終わると、私はペンを置き、静かに目を閉じた。
「(ヤマが当たっていれば一瞬。外れていれば潔く散るのみ……考えるだけ無駄。エネルギーの節約だ)」
周囲の生徒たちがカリカリとペンを走らせる音や、問題用紙をめくる音をBGMに、私は早くも安眠モードへと移行する。
……数分後。
ふと意識が浮上した。試験問題に目をやると――
「(……お? これは……昨夜見たやつ)」
なんと、大問の一つが、私がヤマを張って「なんとなく脳の片隅に置いた」箇所から、ほぼそのまま出題されているではないか!
「(ラッキー……)」
私はおもむろにペンを取り、まるで答えを暗記していたかのように、スラスラと解答欄を埋めていく。迷いはない。なぜなら、その部分しか勉強していないからだ。
書き終えると、私は再びペンを置き、安らかな眠りの世界へと戻った。
……さらに数分後。
再び覚醒。次の問題に目をやる。
「(……これも見た。デジャヴュか? いや、これもヤマが当たったのか……)」
またしても、私のヤマ勘が的中していた。再びペンを取り、淀みなく解答を書き連ね、そして再び眠りに落ちる。
この「寝る → 起きる → 即答 → 寝る」という奇妙なサイクルを、私はテスト時間中、何度も繰り返した。
***
だが、その異様な光景は、当然、他の人間にも奇異に映る。
特に、今回の試験監督を務めていたのは、学園でも「鬼の霍乱」と恐れられる、厳格なことで有名な古文の教師だった。彼の鋭い視線が、私の席に注がれていることに、私は全く気づいていなかった。
「(……む? あの生徒……安眠とか言ったか……。開始早々寝ていたかと思えば、突然起き上がり、迷いなく解答を書き殴り、また寝る……。あの淀みのなさ……まるで答えを知っているかのようだ……まさか、カンニングか!?)」
教師の疑念は深まる一方だった。彼は私の席の周りを何度も往復し、怪しい動きがないか監視を強める。しかし、私がしていることと言えば、ただひたすらに寝ているだけだ。時折見せる、自信に満ち溢れた(ように見える)安らかな寝顔が、逆に教師の疑念と苛立ちを増幅させていく。
「(くっ……! 何も証拠がない……! だがあの態度はなんだ!? テストを愚弄しているのか!?)」
一方、私の近くの席の猛は、その光景に打ち震えていた。
「(なんと! 安眠殿は、問題を見た瞬間に回答が閃き、不要な思考時間を睡眠による脳の休息に充てているというのか! まさに究極の効率化! これぞ“夢幻解答”の術!)」(※夢幻解答:猛が今考えた必殺技名)
モエはモエで、単純に羨ましがっていた。
「(うらら、もう終わったのかな……いいなー、余裕じゃん……私は全然わかんないのに……)」
教室内には、私に対する様々な感情――疑念、感動、羨望――が渦巻いていたが、当の本人はそんなこととは露知らず、ただただ穏やかな眠りの中にいた。
***
テスト終了のチャイムが鳴り響く。
私は眠い目をこすりながら、解答用紙を提出した。
「(ふう……終わった……思ったよりヤマが当たった気がする……これは赤点回避できたかも……)」
安堵のため息をつき、さっさと教室を出て次の安眠スポットへ向かおうとした、その時だった。
「安眠君、少しよろしいかな」
背後から、例の厳格な教師の声がかかった。
「(げ……面倒事の予感……)」
内心で舌打ちしつつ、私は眠たげな表情で振り返る。
「はい、なんでしょうか……?」
「君のテスト中の態度について、少々聞きたいことがあるのだが……」
教師が詰問しようとした、まさにその瞬間。
「先生! この答案、ちょっと見てください!」
別の教師が、採点中だった答案用紙の束を持って、興奮した様子で駆け寄ってきた。
「どうしたね、騒々しい」
「いえ、この安眠うらら君の答案なのですが……!」
厳格な教師が、その答案用紙――私が提出した現代文のもの――を覗き込む。そして、絶句した。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
ヤマが的中した大問は、ほぼ完璧な解答で埋め尽くされている。しかし、それ以外の問題は、ほとんどが白紙。あるいは、明らかにやる気のない珍回答(例:「作者の気持ち? 多分眠かったんじゃないですかね」「この時代の出来事? すみません、まだ生まれてないので…」)が書かれているだけだった。
「こ、これは……いったい……?」
教師は目を白黒させた。カンニングならば、もっと全体的に点数が高いはずだ。しかし、この答案はあまりにも極端すぎる。
「他の教科も確認しましたが、似たような傾向です。特定の分野だけ、驚異的な正答率で……数学に至っては、解答欄に『数字は私を眠りに誘います…Zzz』とだけ…」
「むぅ……これでは、カンニングとは断定できぬ……。だが、この異様な成績は……。……安眠君、君は……天才なのか、それとも、ただの……」
教師は言葉を失い、混乱した表情で私を見つめるだけだった。
結局、カンニングの証拠は何一つ出てこず、私はお咎めなしとなった。
最終的に発表されたテスト結果は、私の予想を遥かに上回っていた。赤点回避どころか、ヤマが特に的中した現代文や、なぜか一夜漬けが冴え渡った一部の科目では、学年でもトップクラスの成績を叩き出してしまったのだ。もちろん、全く勉強しなかった数学や歴史などは、華麗なる赤点ギリギリ(あるいは本当に赤点)を記録したのだが。
***
この奇妙なテスト結果は、当然のように学園の新たな噂の種となった。
「聞いた? 安眠うらら、実はめちゃくちゃ頭いいらしいよ!」
「寝てるフリして、本当は全部わかってるんだって!」
「いや、寝ながら勉強できる特殊能力があるって話だぞ!」
「もしかして……夢の中でお告げを受けてるんじゃ……?」
猛は「やはり師匠は凡人には理解できぬ存在! あの“夢幻解答”の術、俺も会得したい!」と、私の周りでさらに熱心に修行(?)に励むようになった。
当の本人は、周囲の称賛や疑惑の目(教師からは相変わらず不思議そうな目で見られている)には全く頓着せず、「(ラッキー♪ これで追試回避決定。貴重な安眠時間が増える……赤点の科目は…まあ、次のテストで頑張ればいいか…多分)」と、もたらされた結果(安眠時間の確保)にのみ満足していた。高得点を取ったこと自体はどうでもいいのだ。
「安眠さん、どうやって勉強したんですか…?」
恐る恐る聞いてくるクラスメイトに、私はただ一言。
「さあ…? よく寝たからですかね……(眠い)」
***
次の日。
テスト期間も終わり、教室にはいつもの弛緩した空気が戻っていた。私の定位置である窓際の席では、安眠うららが今日も安らかな寝息を立てている。
教師は時折、複雑な表情でこちらを見やるが、もう何も言ってはこない。
ふと、教室の片隅の連絡ボードに目をやると、誰かのいたずら書きだろうか。小さな文字でこう書かれていた。
『安眠流奥義・夢幻解答』
「(……ふぁ……眠い……)」
私はまた一つ、小さなあくびを漏らす。
私の怠惰が生み出した勘違い伝説に、また新たな1ページが加わったようだ。
まあ、どうでもいいか。それよりも、今はただ、眠いのだから。