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恋のキューピッド(仮眠中)と暴走バレンタイン

 二月十四日。

 世間では、なんだか甘ったるい空気が漂う特別な一日らしい。

 そう、バレンタインデーである。


 教室は朝から落ち着きがない。女子たちは、ラッピングされた小箱を手にソワソワと誰かを探し、男子たちは、期待と不安が入り混じったような、妙に浮ついた表情をしている。

 そんな喧騒の中、私、安眠うらら(あみん うらら)は、机に突っ伏し、ただひたすらにこの騒がしさが過ぎ去るのを待っていた。


「(甘い匂いがそこかしこから……チョコの匂いか……落ち着かない……完全に安眠妨害だ……)」


 眉間に皺を寄せ、外界からの刺激をシャットアウトしようと試みる。恋愛だの、告白だの、私にとっては最も縁遠く、そして最も面倒くさいイベントの一つに過ぎないのだ。


「うーらーらー! 大変! どうしよう!」


 しかし、私のささやかな平穏は、今日もまた友人によって打ち砕かれる運命にあった。

 風祭モエが、顔を真っ赤にして私の席に駆け寄ってきた。その手には、明らかに本命と分かる、ハート型の豪華な箱が握られている。


「(……始まった。面倒事の季節が……)」

 私は内心で深くため息をつく。


「私、やっぱり今日、佐伯さえき君にチョコ渡したいんだけど……! 全然勇気が出なくって……! ねぇ、お願い! うらら、手伝ってくれない!?」

 佐伯君。クラスでも人気の、爽やか系イケメンだ。成績優秀、スポーツ万能、性格も良いと評判だが、私にとっては「特に害はないが、関わるのも面倒なクラスメイト」の一人に過ぎない。


「無理。そういうのは自分でやるものでしょ」

 私は即座に、そして冷徹に断る。他人の恋愛沙汰に巻き込まれるなど、時間の無駄、エネルギーの無駄だ。

「そこをなんとか! お願い! うららがいれば百人力だから!」

「いや、私いても何も変わらないと思うけど……」

「お願いだよぉ……!」

 モエは、目に涙を浮かべて懇願してくる。それでも私の決意は揺るがない――はずだった。


「……お、お礼に! この前うららが食べたいって言ってた、あのデパートの、すっごい高級なチョコ、あげるから! ね!?」


 ……高級、チョコ……。


 その言葉は、私の鉄壁の防御(怠惰の壁)をいとも容易く貫いた。

 あの、一粒数百円はするという、幻のショコラティエの逸品……。睡眠と同レベル、いや、場合によってはそれ以上に私の欲求を満たす至高の存在……。


「(……高級チョコ……。……仕方ない……。ミッションと割り切ろう……。ただし、関与は最小限に……)」


 脳内で高速で損得勘定を弾き出した結果、私は渋々ながら、この厄介な依頼を引き受けることにしたのだった。


「……わかった。でも、本当に最小限しか手伝わないからね」

「やったー! ありがとう、うらら!」


 こうして、私は不本意ながら、モエの恋の応援という名の、超絶面倒なミッションに巻き込まれることになった。


 ***


 さて、ミッション開始。とはいえ、私がやることは極めて少ない。

 まず、モエが佐伯君に直接チョコを渡す勇気がない、という問題。


「じゃあさ、直接渡さなきゃいいんじゃない? たまたま通りかかったフリして、佐伯君の机の中にそっと入れておくとか」

 私が提案したのは、接触を最小限に抑える、超消極的アプローチだった。

「えー! でもそれじゃあ、誰からか分かんないじゃん!」

「メッセージカードとか付ければ?」

「そ、そっか! さすがうらら!」

 何がさすがなのか分からないが、モエは納得したようだ。


 次に、佐伯君の居場所を探す、というタスク。

 モエが「佐伯君、どこにいるかなー?」と校内を探し回っている間、私は自分の安眠スポットを探して校舎を徘徊していた。


「うららー! 佐伯君、見つからないよー!」

 半泣きのモエに遭遇する。

「さあ……? そういえば、さっき屋上に行く階段のあたりで見かけたような……気がする……?」

 屋上は日当たりが良く、人が少ない。新たな昼寝スポット候補としてチェックしに行っただけなのだが、モエは私の不確かな情報を鵜呑みにした。

「本当!? 行ってみる!」


 モエが屋上へ向かった直後、実はその屋上では、佐伯君が別の女子生徒から告白を受けている真っ最中だった。

 階段を駆け上がってくるモエの気配に気づいた佐伯君は、「(やばい、誰か来る!)」と焦り、咄嗟に目の前の女子生徒に「ご、ごめん! 気持ちは嬉しいけど、受け取れない!」ときっぱり断ってしまったらしい。

 もしモエが来なければ、佐伯君はもう少し悩んでいたかもしれない……とは、後の噂だ。


 そして、最大の問題。モエの本命チョコ(かなり大きく、重い)を、なぜか私が一時的に預かる羽目になったことだ。

「ちょっとこれ持ってて! 佐伯君見つけたらすぐ戻るから!」

 そう言って、モエは再び走り去ってしまった。


「(重い……邪魔……なんで私が……)」

 この物体を持ち歩くのは、私の省エネ哲学に反する。即座に、安全かつ目立たず、そして何より私が楽できる隠し場所を探す。

 ……あった。普段は誰も使っていない、音楽準備室の、グランドピアノの裏。ひんやりとしていて薄暗く、まさに安眠にも最適な場所だ。


「(よし、ここに隠しておこう……後でモエに場所だけ伝えればいい……ついでに、ここで少し仮眠を……)」

 私はピアノの裏のわずかなスペースにチョコの箱を置き、そのまま壁に寄りかかって意識を手放した。


 ***


 数十分後。満足のいく仮眠から覚めた私は、そろそろチョコを回収し、モエに場所を伝えようと音楽準備室を出ようとした。

 すると、ちょうど音楽室のピアノの前に、探し人――佐伯君がいるではないか。彼は一人で、静かにピアノを弾いていた。


「(……げ、佐伯君……。わざわざ声をかけて説明するのも面倒だな……)」

 私はしばし逡巡する。そして、名案(?)を思いついた。

 ピアノの裏から、隠しておいたモエのチョコの箱を、そっと押し出す。箱は、静かに床を滑り、ちょうどピアノのペダルを踏む佐伯君の足元あたりで止まった。


「(これでよし。あとは彼が気づくかどうか……気づかなかったら、それはそれで仕方ない……)」

 私は、任務完了(?)とばかりに、そそくさと音楽準備室を後にした。


 ピアノを弾き終えた佐伯君は、ふと足元に置かれた見慣れぬ箱に気づく。

「……? なんだこれ……プレゼント?」

 手に取ると、それは明らかに手の込んだ、高級そうなチョコレートだった。ハート型の箱には、小さなメッセージカードが添えられている。『佐伯君へ いつも見てます。 モエより』

「(風祭さんの……? でも、なんでこんなところに……さっき屋上で断った子のかと思ったけど……)」


 佐伯君は混乱した。そして、ここ数日の出来事を思い返す。

 なぜか最近、よく安眠うららの姿を見かける気がする。屋上の階段、廊下の曲がり角、そして今、この音楽室……。

(まさか、安眠さんが、俺のために……? 屋上で告白を断るきっかけを作ってくれたのも? このチョコも、風祭さんに頼まれて、わざわざここに……? いや、だとしたら、なんであんな渡し方を……? もしかして、彼女自身が……いやいや、それはないか……? でも……)


 佐伯君の頭の中は、うららに対する疑問符と、そしてほんの少しの(完全に勘違いに基づいた)淡い期待でいっぱいになっていた。


 一方、モエはチョコがないことに気づき、半狂乱になっていた。

「うららー! チョコがない! どこ置いたの!?」

「え? ああ、佐伯君、さっき音楽室にいたから。そこに置いといたよ」

 私は、事実を簡潔に(そして極めて説明不足に)告げる。

「えええ!? 直接!? 置いてきたってこと!? うわー! どうしよう! でも、うらら、ありがとう!」

 モエは、私が佐伯君に直接チョコを手渡した(もしくはそれに近い状況を作った)のだと盛大に勘違いし、顔を真っ赤にして音楽室へと走っていった。


 結局、音楽室で鉢合わせしたモエと佐伯君は、ぎこちないながらも言葉を交わし、佐伯君はモエのチョコを受け取ったらしい。

 その時の二人の間にどんな会話があったのか、どんな表情が交わされたのか、私には知る由もないし、正直、どうでもよかった。


 ***


 だが、学園の噂好きたちは、この一連の出来事を見逃さなかった。

「なあ、聞いたか? 安眠さん、風祭と佐伯のキューピッド役やったらしいぜ」

「屋上の告白現場に風祭を誘導して、邪魔者を排除したって噂だ」

「音楽室でのチョコの渡し方も、計算され尽くした演出だったとか…」

「あの眠そうな目で、全てを見通してるのかもな……恐ろしい子!」


 いつの間にか私は、「影のキューピッド」「恋愛戦略の達人」「策士・安眠うらら」といった、新たな(迷惑な)称号を手にしていた。


「恋愛すらも、安眠殿の掌の上か! 人間の感情さえも戦略的にコントロールするとは……! さすがは我が師!」

 猛は、もはや畏敬の念を抱いている。

「あらあら、安眠さんのおかげで、クラスにカップル誕生かしら? 青春ですねぇ」

 綿貫先生は、和やかに微笑んでいる。


「(キューピッド? 駆け引き? 違うって……ただ面倒だったのと、眠かったのと、高級チョコのためだって……)」


 私の内心の叫びは、バレンタインの甘い空気の中に虚しく溶けていった。


 ***


 ミッション完了後、私は約束通り、モエから幻の高級チョコレートを受け取った。

 口の中に広がる、濃厚で複雑なカカオの香り……。


「(……ふふ。やはり、これだ。これこそ至福……。面倒事に巻き込まれた甲斐があったというものだ……)」


 他人の恋模様などどうでもいいが、この報酬には大満足だ。


 ***


 次の日。

 バレンタインデーの浮かれた空気はすっかり消え、教室にはいつもの日常が戻っていた。

 モエと佐伯君は、どこかぎこちない様子で挨拶を交わしている。まあ、私には関係ない。


 私の「影のキューピッド伝説」も、数多ある他の伝説と同じように、人々の記憶から薄れ始めていた。

 それでも、クラスの掲示板の隅っこには、こんな落書きが残されていた。


『恋愛成就のお守り? A・U様の眠り顔写真(無断転載禁止)』


「(……肖像権の侵害だな……まあ、消すのも面倒か……)」


 私は小さくため息をつき、今日もまた、高級チョコの甘い余韻に浸りながら、次の安眠スポットを探し求めるのだった。

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