安眠姫と逃亡インコと謎の掃除術
人間には平等に一日二十四時間が与えられている。
その限られた時間をどう使うか。自己研鑽に励む者、趣味に没頭する者、友人との交流を楽しむ者。様々だ。
だが、私、安眠うららにとって、その最適解はただ一つ。
「……あと、五分……」
鳴り響くアラームに対し、私は究極の選択肢を行使する。すなわち、二度寝だ。
体内時計――という名の野生の勘――が、遅刻しないギリギリのラインを正確に告げている。無駄な覚醒はエネルギーの浪費に他ならない。
時間ぴったりに覚醒した私は、重力に身を任せるようにベッドから流れ落ちる。立ち上がるという能動的な行為すら億劫なのだ。最小歩数で洗面所へ向かい、顔を洗い、歯を磨く。靴下を履く際も、片足立ちのバランスを取るエネルギーすら惜しみ、壁に背中を完全に預け、だらりと垂らした足に滑り込ませるのが私のスタイルだ。
朝食は、咀嚼という高カロリー消費行為を最小限に抑えるべく、飲むヨーグルトを一気に流し込む。
これが私の、省エネを極めたモーニングルーティン。
「(ふぁ……眠い……)」
太陽の光すら億劫に感じながら、私はのろのろと学校への道を歩む。通学路も当然、最短かつ最も日陰が多いルートを選択済みだ。信号待ちでは、直立不動などという無駄な筋力は使わない。近くのガードレールがあれば即座に寄りかかり、体重を分散させる。これもまた、私の美学に基づいた最適行動なのだ。
***
授業という名の拘束時間。私は常に最適解を求める。
教師の死角、隣の生徒の頭の位置、窓から差し込む太陽光の角度――これらを瞬時に計算し、最も発覚リスクが低く、かつ最も快適な睡眠が得られる安眠ポジションを確保するのだ。
私の集中力は、黒板の文字や教師の声ではなく、ひたすらに快適な睡眠環境の維持に全振りされている。
「ねぇねぇ、うらら、昨日のドラマ見た?」
隣の席の友人、風祭モエが能天気に話しかけてくる。彼女は元気で明るいが、時に私の安眠を妨害する要注意人物だ。
「んー……」
「すっごい展開でさー!」
「へー……(聞いてない。というか、もうどうでもいい……私の安眠さえ確保できれば……)」
適当な相槌でエネルギー消費を抑える。脳のリソースは現在、レム睡眠への移行準備で手一杯なのだ。
「(あー……この古典の先生の声、絶妙な催眠効果あるんだよな……。あと何分……? 早くお昼寝したい……)」
私の学園生活は、いかにしてこの長く退屈な時間をやり過ごし、至福の睡眠時間を確保するかにかかっている。
昼休み。待ちに待った自由時間(という名の睡眠時間)。
私は迷わず中庭の日当たりの良いベンチへ向かう。ここは、私の長年のリサーチによって導き出された、学園内でも屈指の安眠スポットなのだ。
「安眠殿! お早い到着ですな!」
……げ。最も警戒すべき人物の一人、猪突猛だ。クラスメイトで、なぜか私をやたらと師匠扱いしてくる熱血単純男。彼の暑苦しいエネルギーは、私の安眠空間をいとも容易く破壊する。
「そのベンチへのアプローチ! 最短距離かつ最小限の動作! 実に効率的だ! さすがは師匠!」
「(師匠じゃないし、ただ眠いだけだって……頼むからあっち行ってくれ……)」
内心で全力で毒づきながらも、外面では軽く会釈だけして応じる。反論するエネルギーすら惜しい。
幸い、猛はすぐに別の「修行!」と叫びながら走り去っていった。ようやく訪れた平穏。私はベンチに深く身を沈め、ゆっくりと意識を手放した……。
***
その日の放課後、私のささやかな平穏は、無慈悲な現実によって打ち砕かれた。
「本日の掃除当番は、安眠さん、風祭さん、猪突君。担当は……理科準備室です」
担任の綿貫ほのか先生が、ほわわんとした雰囲気で告げたその言葉に、私は内心で絶叫した。
理科準備室。そこは、埃と薬品の独特な匂いが混じり合い、薄暗く、得体の知れない器具や標本が並ぶ、学園の魔境。安眠とは対極に位置する、まさに死の谷。
「うぇー、理科準備室!? なんかジメジメしててヤダー!」
隣でモエが素直に嫌悪感を示す。
「よし! 我々三人で、この知の聖域を浄化するのですぞ!」
猛は相変わらず意味不明なテンションで燃えている。
私だけが、この絶望的な状況を正しく認識していた。
「(無理…絶対無理…こんな場所、一刻も早く脱出したい…どうすれば楽できる…? どうすれば掃除したフリができる…?)」
現実逃避と打開策の模索を同時に行う私の耳に、綿貫先生の「皆さん、綺麗にお願いしますねぇ…ほわわ…」という呑気な声が追い打ちをかける。プレッシャーという名の重圧が、私のなけなしのやる気を押し潰していく。
***
理科準備室に足を踏み入れると、やはり空気が重い。
猛は早速、高い棚の上の埃を払うべく脚立によじ登り、モエは「なんかベタベタするー」と言いながら床掃除の準備を始めた。
私は、ホウキとチリトリを手に取ったものの、まず部屋全体をゆっくりと見渡す。特に、部屋の隅、棚の上、そして換気扇のダクトあたりを、何とはなしに――ただボーッと見ているだけなのだが――視線でなぞる。
「(どこが一番、人の目が届きにくいか…どこが一番、サボりやすいか…)」
私の脳内では、安眠流・省エネ掃除術のシミュレーションが高速で展開されていた。
掃除の本質とは何か? 汚れを物理的に除去することか? いや、違う。それはあくまで手段の一つに過ぎない。
本質は「掃除をした」という事実、あるいは「綺麗になった」という結果(に見えるもの)を作り出すことにある。ならば――
安眠流・省エネ掃除術 Ver.1.0、起動。
作戦1:『汚れの擬態化』。
私は、最も埃が溜まっていそうな薬品棚の前に移動し、静止した。息を潜め、気配を消す。まるで自分が棚の一部であるかのように。
「(私が動かなければ、汚れも動かない…はず。存在を認識されなければ、掃除の必要もない…)」
完璧な理論だ。少なくとも私の脳内では。
作戦2:『風圧誘導掃討』。
猛が脚立から降り、モエがワックスがけを始めると、室内にわずかな空気の流れが生まれる。私はその流れを読み、ホコリが自然と部屋の隅に集まるよう、最小限の足運びと体の傾きで、空気の流れをコントロールしようと試みる。
「(風よ…塵を導け…私の労力を最小限に抑えるのだ…)」
傍目には、ただゆらゆらと揺れているだけに見えるだろうが、これは高度な計算に基づいた行動なのだ。
作戦3:『モップとの一体化』。
最後に、私は壁に立てかけてあったモップを手にする。しかし、それで床を磨くのではない。おもむろにモップに体重を預け、凭れかかる。
「(掃除用具と一体化すれば、それはもはや掃除しているも同然…理論上は)」
目を閉じれば、ここはもう安眠の地だ。
「うらら、何その変な踊り? サボってないでちゃんとやってよー!」
モエがお気楽にツッコミを入れてくる。
「む! あれぞ安眠殿が編み出した“無の境地”! 自身の存在を希釈し、汚れすら寄せ付けぬオーラを発しているのか! なんたる深淵!」
猛はいつものように斜め上の解釈で感嘆している。
「あらあら、安眠さん、瞑想かしら? 掃除にも集中力は大切ですものねぇ」
いつの間にか様子を見に来た綿貫先生までもが、私の怠惰をポジティブに捉えている。
「(違う、全部違う! ただ楽したいだけなんだってば! ……まあ、勝手に解釈してくれるなら、それはそれで楽か……)」
私の内心の叫びは、諦めの境地へとシフトし始めていた。
***
事件は、私の省エネ行動が引き起こした。
『風圧誘導』をさらに高めるため、私は窓をほんのわずかに、絶妙なタイミングで――モエと猛が一番騒がしく動いている瞬間に――開けた。その瞬間だった。
「ピギャーーーーーー!!」
甲高い叫び声と共に、先ほど何とはなしに視界に入っていた換気扇のダクトの奥から、鮮やかな黄色い影が飛び出してきた!
それは、一羽のインコだった。
「えっ!?」「鳥!?」「な、なんで!?」
準備室は一瞬でパニックに陥る。黄色いインコ――ピーちゃんと後に判明する――は驚いた様子で室内を狂ったように飛び回り始めた。薬品の瓶を掠め、ビーカーを倒しそうになり、人体模型の頭上で旋回する。
「きゃー! 危ない!」「ピーちゃん様!?」「落ち着いて!」
モエは目を輝かせ「かわいいー! 写真撮らなきゃ!」とスマホを構えて追いかけ回し、猛は「ピーちゃん様! 我々がお守りいたしますぞ!」と、どこからか持ち出した昆虫採集用の網を振り回し始めた。
「(なんでインコが!? しかも私のせいっぽい!? 最悪…うるさくて眠れない…早く帰りたいのに!)」
完全な巻き込まれ事故だ。混乱の中心で、私だけが低いテンションで立ち尽くす。とにかくこの騒ぎから離れたい。私は壁際へと、そっと後ずさった。
***
そして、その時、奇跡(という名の偶然)は起こった。
逃げ場を失い、猛の網とモエのスマホカメラに追い詰められたピーちゃんが、ふらふらと高度を下げた。
そして――私が掃除をサボるために壁に立てかけていたモップの柄に、まるで指定席であるかのように、ピタッと静かに止まったのだ。
「「「…………え?」」」
一瞬の静寂。
私も驚いて固まった。目の前のモップの柄に、小さな黄色いインコがちょこんと乗っている。
「(え? なに? 鳥……? なんでここに?)」
状況が理解できず、目をぱちくりさせることしかできない。
だが、その静止した私の姿と、大人しくなったピーちゃんの対比は、パニック状態だった周囲の人間の目には、全く異なる光景として映った。
「おおおおっ!!」
最初に声を上げたのは猛だった。
「見たかモエ! 安眠殿が、その静謐なるオーラで、荒ぶるピーちゃん様の心を鎮めたのだ!」
「え、えぇ!? すごーい! うらら、鳥さんと心通わせられるの!? まるでプリンセスじゃん!」
モエも興奮してスマホのシャッターを切りまくる。
「まあ……!」
騒ぎを聞きつけて駆けつけた綿貫先生も、私の姿を見て目を丸くした。
「安眠さん、まるで魔法使いのよう……! 不思議な力をお持ちなのねぇ……」
「(オーラ? プリンセス? 魔法使い? ……違う。偶然だ。多分。きっと。……もう勝手に言っててくれ……)」
私の内心の否定は、もはや完全な諦観に変わっていた。
【理由付け(という名のこじつけ)】
後で知ったことだが、そのモップには前日の掃除当番だった生徒が、こっそり飲んでいたリンゴジュースを微量こぼしていたらしい。ピーちゃんはその甘い匂いに誘われたのかもしれない。
あるいは、私の極限まで抑えられた殺気ゼロのオーラ――要するにやる気ゼロの雰囲気――が、鳥にとって警戒心を解く安全な空間を提供したのかもしれない。
どちらにしても、私には知る由もないことだった。
***
私が固まっている間に、猛がそっとピーちゃんを保護することに成功した。
「ピーちゃん! 無事か!」
そこに、文字通り血相を変えた校長先生が駆け込んできた。ピーちゃんは、数日前から校長室から逃げ出し、先生が血眼になって探していた愛鳥だったのだ。
「おお……! ピーちゃん! 我が愛しのピーちゃんよ!」
校長先生はピーちゃんを抱きしめ、涙ながらに無事を喜んだ。そして、次に私の手を取った。
「安眠君! 君が……君がピーちゃんを! 君こそ我が校の救世主だ! 本当にありがとう!」
号泣である。
「いえ、私は別に……」
「謙遜することはない! 君のその特殊な掃除術――あれはピーちゃんを安心させるための、特別な儀式だったのだろう!? 私にはわかる!」
「(特殊な掃除術? 儀式? いや、だからあれは省エネ……)」
私の説明は、感動に打ち震える校長先生には届かない。
こうして、安眠うららは、本人のあずかり知らぬところで、理科準備室の掃除をサボろうとした結果、逃亡インコを捕獲した英雄となった。
その日のうちに「鳥使いの安眠姫」「沈黙の猛獣(?)使い」という不本意なあだ名が、一部で囁かれ始めたという。
さらに、話はそれで終わらなかった。
「それにしても安眠君……あの冷静さ、あの落ち着き払い……。準備室に入った時、妙に換気扇の方を見ていたようにも見えたが……。まさか、ピーちゃんが準備室に隠れていることを、最初から知っていたのでは……?」
校長先生が、ふと真顔で呟いた。(私がボーッとダクトを見ていたのは事実だが、インコがいるなんて微塵も思っていなかった)
「え?」
「いや……だとしたら、君は一体……? あの窓を開けたタイミングも、まるで……」
一部の生徒の間でも「あの無表情……実は全部計算だったりして」「もしかして、すごい策士なんじゃ……」といった、斜め上の憶測まで流れ始めたらしい。
「(計算? 策士? ……はぁ……もう、どうでもいいや……好きにしてくれ……疲れた……)」
勘違いが明後日の方向にまで飛躍していくのを、私はただただ達観した面持ち(内心は疲労困憊)で受け止めるしかなかった。
***
騒動の後、私は校長先生からお礼として、最高級デパートのフルーツ詰め合わせ(もちろんピーちゃんの大好物である高級リンゴ入り)を贈られた。
「(……まあ、これは素直に嬉しい。今日のカロリー消費に見合う報酬だ)」
内心の疲れとは裏腹に、高級フルーツの輝きに、私の目は少しだけ輝いた。ちゃっかり受け取ることに躊躇はない。それが私、安眠うららの流儀だ。
***
次の日。
教室で、私は早速もらった高級メロンをもぐもぐと味わっていた。昨日の騒動など遠い昔のことのように、心地よい眠気が私を襲う。
隣では、モエが「ねぇ、今日発売のゲーム、予約した?」と、すでに全く別の話題で盛り上がっている。
猛だけは「師匠! 昨日の“鳥寄せの儀”、ぜひ俺にご教授ください!」と目を輝かせて迫ってくるが、「さあ……なんのことやら……」と眠たげに答え、軽くあしらう。彼の熱意も、どうせすぐに別の何かに向かうだろう。
ふと、教室の隅の黒板に目をやると、誰が描いたのか、「うらら姫&ピーちゃん」の可愛らしい落書きが、チョークの粉と共に、昨日の騒動の小さな余韻として残っていた。
「(……ふぁ……眠い……)」
私は小さくあくびを一つ。
こうして、私の怠惰はまた一つ、世界に小さな奇跡(と、大きな勘違い)を生み出してしまった。
安眠うららの非凡なる(?)日常は、まだ始まったばかりである……たぶん。
(ナレーション)
「彼女はまだ知らない。このささやかな一日が、これから始まる数々の伝説(と、さらなる面倒事)の、ほんの序章に過ぎないことを……」