絶縁状 涙の濃度
萬華との出逢い、数週間同居する事になる。聖13歳で萬華17の夏であった。
序
絶縁状とは世の中に出すのか?或いは特定の個人に出すのか!
人間社会に対する絶縁状。
此れは神寳聖が成人前に叩きつけた社会に背いた絶縁状である。
*
環状線が混雑して迂回路を行くと町が驚く程に空いていた。
定員5名のライトバンの中9人の土方を詰め込んだ車内の空気は暑苦しい。
助手席の神寳早郎の横で聖は人生談に相槌を打ち視線は町並の手頃な物件を物色していた。
ミラーには前歯の無い口の棟梁、感情絶倫男の股下一郎が映る。ロマンエッセイを広げては衆目に構わず目玉を擦ると涙を掌に溜めてみんなに見せる。
舐めるか?とみんなに聞いている。
学のない魔來治郎が棟梁の掌に口をつけ吸い続ける。
…棟梁!今夜のおかずはあっしに下さいよ!いつもあっしはおかずに当たらない。今夜は感情欲が溜まっていますんで濃いのが出ると思います。だからあっしに順番を回してやって下さいよ!
棟梁は下品な笑顔を脂ぎらせそれもいいかと云ったが果たして真意は分からない。
…俺のこの涙を飯にかけて薯蕷飯にして喰えるなら考えてもいいぜ。
棟梁の発言にはいつも度肝を抜かれる。
飯場に戻ったのは9時過ぎになっていた。遅めの夕食を喰い始める時、酒を浴びた宴会で治郎はおかず取りに没頭する。
食卓の上に並んだ皿に向けて男どもが目玉を出し椅子に乗り立ち上がると想像力を悲しみに向ける。
治郎は炊事場で働く陰に哀愁を浮かべ、いつもより濃いのを目玉の先から噴出すると皿に溜め棟梁に擦り寄る。
…濃いでしょう、今日のは3日禁感傷したんですぜ!
目玉が重くって仕事の途中何度軽くしようと母親の死を思い浮かべたか!
でも我慢したんです。3日我慢すればおかずにありつけるって信念が勝利を勝ち取るんですね。
……負けたぜ!まらいじろう!俺のは今日は汗だ!お前のは血だ!こりゃ負けた!
涙の4段階 血と塩と汗と水!4段階評価で棟梁は血か塩だったが先程車内で出したので汗になっていた。
……おい!他のはどうだ!みんな元気が無えな!聖!お前また水だな!
聖は水だった。別におかずは欲しくないので、悲劇を読んで処理しているからだ。
棟梁は若いから露骨に漏れちまうんだと笑った。
この飯場の仲間は基本的におおらかで人限的である事に間違いない。
治郎は工員時代に競馬や競輪に熱中していたがツキに見放されてからは借金地獄に落ち飯場に流れた男だ。
棟梁はその名の通り工務店の経営者だったが酒の飲み過ぎで家庭崩壊し飯場に流れたという噂だ。
浴室では凶状持ちの神寳早郎と痴漢常習者の井尻法経が弛んだ腹と毛ガニの様な尻を見せあい罵倒する光景が見える。
飯を食うとすぐに寝込む年寄トリオがブレハブの室内に鼾と歯ぎしりの合唱を始める。以前は漫才のバックを受け持つ楽団員で、テレビ放映や地方巡業に明け暮れた3人だが、60も超え飯場で働くしか無いとは惨めな夢の結末である。
棟梁が物欲しげに食堂で飯を喰っている。今日はおかず無しかと醤油をかけた飯をすする。
班長の治郎が腹を出し炊飯娘に調理させている炊事場を覗けば、炊飯娘がフライパンでソーセージを炒める時見せる恍惚とした表情が見られる。
18才の和緒はおかずと呼ばれ炊事係と飯場の均整を果たしている。
何処から来たのか知らぬが知能が少し低く肉体的には成熟しているが何処か幼さが残る娘だ!
おかずを欲しがり競い合うのは治郎と棟梁位だ!
脳から腐っている液を垂らし時たま奇声を発する炊事場の扉では、川冠向男の不気味な前屈みの影絵が股間を膨張させて映っている。
「女に佐世保月」と云う演歌CD人生哲学なタイトルの為放送禁止になった。大衆感情の欠如で思い出ソングの比重が強すぎた演歌は1年で廃盤である。
バックの中に普段使いの日用品を詰める時、川冠がくれたCDをビールのコースターにした。……頑張ってね…と呟いた。寝込んでいる人の隙間を忍び足で通り過ぎ、浴室の裏の厠に向った。
緩んでいる窓枠の彼方。雑草の茂る資材置き場が視えた。
大便がこびりつき、酒の臭いが充満する飯場とも此れでお別れだ。
感謝の気持を込めて小走りで抜けた路上に停まるライトバンに小便をぶっかけた!
ただで働いた数日は教訓としよう。肉体労働者の生理を観察出来ただけでも良かった。
自電車を盗むと物色した町に向い夜中を走り続けた。2時間ばかりの後、視えてきた解体中の廃屋の1室で野宿を決めた。丸いぽっかり空いた屋根を見上げると壁面に剥き出された梁が月に刺さっていた。
以前は社宅であったのか?3LDKの名残が見受けられ半分積まれた廃材に立退き者の家具の残骸が観える。
なぜ途中で解体を止めたのか表の立て看板が物語っていた。
管理会社が倒産して工事がストップしている様だ。
聖は砕かれた壁に悪戯書きした頃を思い出した。
懐かしい夜気は邂逅の一時を醸す。
室内で未だ比較的居住出来る空間に落ち着くと横になっていた。
来客の気配に気付いたのは眠気が襲ってきた瞬間であった。
水流音が聴こえたので眼を醒ます。
酔っ払いが小便する場所を探して侵入したのであろう。
ただ余りに長い音なので妙な想像力を働かせた。
胎内の水分を総て排泄して干乾びた人間を見るのは恐ろしい。
寝しなの身体を起き上げ眼を凝らすと月に照らされた白い臀部から迸る滝の様な糸がエロチックに光っていた。
しゃがんでいる姿で女であると確信した。
こんな場所で、いや女だから隠れる場所を探したのかと思った。
知らぬふりで眠りの続きに没頭すると…足音がした。
………人が居たのかよ!
まあ良いや見られてたなんてね!
女は未だ酔っ払ったままの様だ!
聖の方に濡れた女神を向けたまま何かを要求した。
……おい!寝た振りはやめて起きろこの覗き野郎!
思わず聖は身を起こすと言い放った。
「大人しく小便して帰れば良いのに何だよ!」
女は睨みつけ告げた。
……自分の部屋に知らない野郎が居るなんてな!
あたし: は自宅に戻っただけだ!
管理会社の回し者か!そんな工事服着て幾らで雇われたんだよ!
萬華との奇妙な共同生活はこうして始まっていた。
その後……聖は紅葉が出した失踪届で警察に保護される!
………Fin
酒浸りで凶暴な少女、萬華は何処からか来て何処かに行った。今頃、性格の悪さから何か事件を起こさなければ良いがと聖は心配した。