決断
「私が、大名家に……絵を?」
直行は言葉の意味を飲み込めないまま、玄光の言葉を断片的に繰り返した。
(一体、この老人は何を言っているんだ?)
直行は怪訝な表情で玄光の瞳の奥を見つめた。
「そう、大名の正室が其方の春画をお望みじゃ。」
玄光もまた直行の瞳の奥を見つめ返す。直行は玄光の言葉に心が傾きそうになって、思わず目を逸らした。
「大名の正室……それが本当なのかどうか分かりませんが、今の私には春画など到底描けそうにありません。」
目を伏せて「残念ですが」と玄光の依頼を断ろうとした直行。玄光はそんな彼の目の前に人差し指を突き出した。
「本当にそうか?」
玄光の人差し指が、まるで直行の胸の奥を突くかのように、彼の目の前で揺れた。
「今の其方が春画を描けぬ? ほう……ならば聞くが、春画とは何じゃ?」
直行は不意を突かれたように、玄光を見上げた。
「……春画は、男女の交わりを描くものです。」
玄光は「ちっちっち」と舌を鳴らしながら、人差し指を左右に振る。
「違う違う、そんな表面の話ではないわ。春画とはな、人の情念を描くものじゃ。愛し合う男女の悦びもあれば、叶わぬ恋に焦がれるもどかしさもある。時には、欲望に身を委ねる滑稽さや、哀れさすらもな。」
直行は息を呑んだ。
情念を描くもの――その言葉が、胸に鈍く響く。玄光は鋭い眼差しで直行を射抜き、静かに続ける。
「つまりのう、お前さんのように心がぐちゃぐちゃに乱れとる時こそ、良い春画が描けるのじゃよ。うむ、間違いないわい。」
直行の指が、小さく震えた。玄光はその様子を見逃さず、にやりと口元を歪めた。
「女にふられた男ほど、えげつない春画を描くものよ。筆を執れば分かる――お前の心に渦巻く嫉妬、未練、焦燥、それら全てを絵にぶつければ、きっと見たこともない春画が生まれるじゃろう。」
(……なぜ、俺が振られたことを? 誰にも話していないのに。いや、この方の目は、常に人の心を見透かしているようだからな。)
怪訝に思った直行だったが、玄光の言葉は妙に胸の奥深くまで染み込んでくる。
確かに、今の自分は満ち足りた気持ちで春画を描くことはできない。だが――もし、今のこの心のざわつきを、絵に叩きつけることができたなら? 沙月を思う気持ちが、そのまま筆先に乗ったなら?
そんな考えが、直行の胸にぽつりと灯った。玄光は直行の思考を見透かしたように、声を低めて囁く。
「描いてみぬか? これはただの春画ではない。大名の正室が求める春画……女の欲する春画じゃ。」
直行は、唇を噛んだ。
「……」
玄光はゆっくりと直行の肩に手を置く。直行は目を閉じ、深く息を吐いた。そして、静かに目を開き、玄光を見据えた。
「……筆を、貸してください。」
玄光は満足げに微笑んだ。
「よしよし、これで一つ、面白いものが生まれそうじゃな。」
直行は、満月に照らされながら、ゆっくりと拳を解いた。
(またもや玄光の口車に乗せられて春画を描くことになりそうだ。)
そんな己を直行は乾いた声で笑った。
(仕方ない、引き受けたからにはやるしかない。心のざわめきを、すべて筆に乗せよう――。)
だが、大名の正室が望む春画というのは直行の想像以上に複雑なものだった。
その依頼主である大石綾乃は、筑前国・大石宗恒の正室であり、名門・松平家の姫として育った気品ある女性だ。夫・宗恒は、若い側室たちばかりを寵愛し、綾乃のもとへはほとんど訪れない。いつしか彼女の居る座敷は閑散とし、まるで形だけの空間と化していた。家中の者たちもそれを察し、陰では「もはや名ばかりの正室」と囁く者もいた。
それでも、綾乃はただ耐え続けるだけの女ではなかった。もう一度夫に目を向けさせるため、彼女は自身を写す春画を求めている。
その春画の依頼がなぜか見習い絵師の直行のもとに来た――当の本人は当然混乱して、天を仰いだ。
「もともと、わしと綾乃様にはご縁があっての。それで、お悩みを聞いたときに、お前さんの名を思い出したのじゃ。」
まるでわが子を見つめるような誇らしげな顔をした玄光に、直行は苦笑するほかない。冗談かと思いかけたが、玄光が「一度、綾乃さまに会ってみてはどうかね」と勧めると、直行の表情が次第に真剣なものへと変わった。
(俺が本当に大名家に絵を描くのか? これは師匠に相談すべきだが……春画を勝手に描いていると知られたら厄介なことになりそうだ……)
迷いに迷った末、直行は一つ年上の彦兵衛と連れ立って酒屋へ向かった。困り果てた時は、一人で考え込むよりも、頼りになる仲間と杯を交わすに限る。
「で、お前さん、何をそんなに難しく考え込んでるんだ?」
盃を傾けながら、彦兵衛が不意に問いかける。直行は手元の酒を見つめ、しばし沈黙したが、やがてぼそりと呟いた。
「俺の話ではないんだが、どうやら友が春画の依頼を受けたそうなんだ。それも大名の正室に差し上げる絵なんだとか。奴はまだ春画を描き始めたばかりで、依頼を引き受けるか否か迷っているんだとさ。」
直行が饒舌に友のことを話すと、彦兵衛は「友ねぇ」とすべてを悟ったように含み笑いを浮かべた。彦兵衛は勘が鋭く、面倒見のいい兄貴分として門下生たちに慕われている。日々共に修行をしている――それも馬鹿正直な――仲間のつく嘘などすぐに見抜けるのだ。
「で、その"友"ってのは、一体何を怖がってるんだ?」
直行は少し言葉に詰まりながら、盃の中をじっと見つめる。
「……自分は、そんな絵が描ける器じゃねぇって言っているんだ。」
「馬鹿言え。そいつは、ただ筆を握るのが怖ぇだけだろうよ。」
直行はぴくりと瞼を震わせた。
「たかが春画、されど春画だ。筆先一つで人の心を動かせるとすりゃ、それはもう、並の絵よりもよほど価値があるじゃねぇか。」
直行は黙ったままだったが、その指が盃の縁をなぞる仕草が、心のざわつきを物語っている。彦兵衛はさらに続けた。
「だからよ、もしその"友"がまだ迷ってるなら、こう言ってやれ。迷うぐらいなら、描いてみろ。どうせ、筆を持たなきゃ何も始まらねぇんだからよ。『描かねぇうちから出来ねぇと決めるな。失敗したらその時考えろ。』って、師匠もおっしゃっていたぞ。」
直行は目を伏せたまま、僅かに笑みを浮かべた。彦兵衛の言葉は、じんわりと胸の奥深くに響いた。
(迷うぐらいなら、描いてみろ……か。)
酒を一口飲み干すと、微かに熱が喉を通った。直行は盃を置き、すっと息を吐いた。
「……ありがとうな、彦兵衛。」
「おうよ。"友"にも、ちゃんと伝えてやれよ?」
彦兵衛は、悪戯っぽく目を細めて笑った。
(彦兵衛は本当にいい人だ。俺もこんな人になりてぇや。)
直行は、彦兵衛が全てを見透かしているとも知らず、その人柄の良さに惚れ惚れとした。彦兵衛はそんな直行の顔を肴にゆっくりと酒を啜った。