依頼、再び
朝日が差し込むというのに、直行の気分は晴れなかった。
昨夜はほとんど眠れず、頭の中では沙月の「縁談」という声が何度も反響していた。
(相手は男前の若旦那だ。俺なんかと比べものにならないほど、男としての格が違う。)
直行はネガティブな思考を繰り返すたびに、心が重くなり、胸の奥がじくじくと疼いた。
寺へ向かう足取りは、いつもなら弾んでいたはずなのに、今はまるで鉛を引きずるようだ。いや、行こうとすら思えなかった。そのまま、直行は絵の稽古が行われる教室へと向かった。
教室に着くと、すでに何人かの門下生たちは筆を走らせていた。普段なら直行は真っ先に席に着き、筆を持つのだが、この日はどこか気怠げに腰を下ろし、ぼんやりと机に肘をついていた。
清吉がそんな彼の様子を見て、片眉を上げる。
「……おい、どうしたよ。いきなり落ち武者みてぇなツラしやがって」
他の門下生たちもちらちらと直行を窺っていた。いつもなら、「今日は予定があるからな」と嬉々として絵を描く彼が、今朝は覇気もなく筆を握る気すらなさそうだった。
直行は気怠げに息を吐き、肩をすくめる。
「……べつに」
「べつに、じゃねぇだろうが」
清吉は呆れたように直行の背中をぺしんと叩いた。
「何があったか知らねぇが、今日は試験の日だぜ。しっかり気合い入れねぇと、師匠の雷がドッカンと落ちて、あっしらまとめて炭になっちまうぞ!」
清吉は頭上に鬼の角を作る素振りを見せ、歯茎を剥き出しにした。彼らの教室では、月に一度「絵画試験」が行われる。師が課す題目に従い筆を振るい、その出来栄え次第で居残るかどうかが決まる。ちなみに、直行はこれまで一度もできの悪さで叱責されたことはない。それどころか、門下生の中でも特に高い評価を受けていた。
直行は、清吉の脅しを「へいへい」と気のない様子で聞き流した。あまりにも素っ気ない態度に、清吉もさすがに呆れ、「まったくよう」とぼやきながら席へ戻っていった。
しばらくすると、北斎が静かに部屋へ入り、何も言わずに和紙と筆を配り始めた。瞬間、教室内の空気が張り詰める。門下生たちは背筋を正し、誰もが真剣な面持ちになった。
「本日の題目はこれだ」
短く告げると、門下生たちは無言で紙に向き合う。
「始め」
その合図と同時に、部屋の中には一斉に筆を走らせる音が響いた。
直行も筆を取るが、今日はどうにも調子が出ない。いつもなら迷わず進む線が、今日は揺れ、形をなさない。焦るように筆を進めるが、納得のいく形にはならなかった。
試験が終わるころには、彼の和紙には、まるで魂の抜けたような絵が残されていた。
「なんだこれは!」
突如、室内に葛飾の怒号が響き渡る。門下生たちがびくりと肩をすくめる中、葛飾は直行の前に立つと、鋭い目で直行の作品を睨んでいた。
「お前、これが本気で描いたものか?」
直行の作品を手に取ると、厳しい眼差しを向ける。
「お前の筆には、いつも確かな勢いと迷いのなさがあった。だが、これはどうだ? 線は生気を失い、まるで借り物のような筆致だ」
直行は悔しさを滲ませながら、唇を噛んだ。
「……申し訳ございません」
葛飾は深くため息をつき、静かに言った。
「このままでは、絵師として失格だぞ」
その言葉が、鋭く胸に突き刺さる。
「今日はここに残り、月が昇るまで自らの絵と向き合え。」
満月が空高く昇った頃、直行はどんよりとした気分で教室を後にした。
(恋にも破れ、挙げ句に師匠には失格呼ばわりか……俺はもう、何者でもないじゃないか。)
月光を背中に浴びて、長家へ続く道を歩いていると、ふと立ち止まる。無自覚のうちに沙月のいる寺に足を運んでいた。
(ふん……こんな俺を見たら、清吉はなんて言うかね。)
そんな時、ふと目の前に僧侶の影が立ちはだかった。
「……お前さん、随分と沈んだ顔をしているな」
直行が顔を上げると、そこにいたのは玄光だった。
静かな眼差しでこちらを見つめる玄光に、直行は小さく苦笑した。満月の光があまりにも白々しく、気まずさに襲われた直行は静かに目を伏せた。
しばらく沈黙が流れると、玄光はゆっくりと口を開く。
「お前さんに絵画の依頼が来ている」
「……え?」
直行は途端に顔を上げて、ひゅっと息を呑んだ。白い光が玄光の朗らかな表情をくっくりと映し出す。
「大名家が春画をお望みじゃ。其方、ぜひ描いてはくれまいか?」