失恋
時鳥が春の訪れを告げる鳴き声が響く。街の子供たちは桜の葉が溢れる地面に円を描き、石ころを蹴りながら片足で進んでいる。
そんな無邪気な子供の様子を机の上に頬杖をつきながら見つめるのは、絵師見習いの池田直行だ。今日も今日とて師・葛飾北斎の教室で、門下生たちと絵画に励んでいた。
「はぁ――」
直行は深いため息をつく。幸せと充実に満ちた夢見心地の吐息だ。走り回る子供達の一人が転んで、泣きべそをかいている様子をふっと笑いながら見つめている。直行の朋輩・清吉はそんな友の様子を見て、にやりと口元を歪めた。
「……なんだかしおらしくなったじゃねえか、お前」
清吉の声に、直行はゆるりと振り向く。
「ん?」
「前なら、ガキどもなんざ目もくれなかったろうに。最近のてめぇは、やけに穏やかだ」
直行は苦笑し、袖で軽く鼻をこする。
「そりゃまあ……人間、変わるもんさ」
遠くでは、転んだ子供を別の子が励ましている。やがて、泣いていた子供は鼻をすすり、また元気に駆け出した。その光景を見届けながら、直行はどこか感慨深げに目を細める。
「……お前、もしかして好きな女でもいるのか?」
突然の問いに、直行は肩をびくりと震わせて手のひらから頬を離した。平然と装い「恋ねえ……」と呟きながらも、その狼狽ぶりはあまりにもわかりやすい。清吉はそんな直行を冷やかすように軽く口笛を吹く。
――今から1ヶ月前、直行は街の仏僧・玄光に絵画の依頼を受け、人生で初めて春画を描いた。玄光は大層その絵が気に入り、直行に十分な報酬を与えた。それだけでもこの貧乏な若者には夢のように嬉しかったが、何より度々玄光の寺へ訪れる習慣ができたことが無上の喜びだった。寺の世話役を務める娘・沙月と会って他愛のない話をすることが、うぶな直行の密かな楽しみなのである。
この日も、絵画の授業が終われば寺に行く予定だ。直行の明らかな浮かれ様に、初めこそ怪訝に思っていた門下生たちも、「沙月」という彼が想いを馳せている女がいることを風の噂で知ると、微笑ましく見守るようになった。
「コラァ、直行! 何をぼんやりしとるんだ。もっとしゃんと胸を張って描け、しゃんと!」
高田はゆっくりと立ち上がると、直行の額をコツンと軽く叩いた。鬼のような形相の師の眉間を見た瞬間、直行は青ざまり、「も、申し訳ございません!」と慌てて筆を取る。周囲が笑いをこらえている気配を感じ、鋭く睨みつけると、大きく息を吸い込み背筋を正した。
夕暮れ時。直行はいつものように筆を収めると、そそくさと支度を整え、門をくぐった。
空には朱が差し、柔らかな風が町を撫でる。夕餉の支度を始める家々からは、焼き魚の香ばしい匂いや煮炊きの湯気が漏れ、通りを歩く人々の足取りもどこか軽やかだ。
そんな賑やかな町を抜け、直行は寺へと続く坂道を登っていく。足取りが軽くなっていくのを直行は自覚した。
境内へ足を踏み入れると、線香の香りが鼻をくすぐる。鐘の音が静かに響き、どこか厳かな気配が満ちている。ふと視線を巡らせば、いつものように掃き清められた庭で、ひとりの娘が箒を手にしているのが見えた。黒髪が夕陽に照らされ、金色のように輝く。直行はその横顔を見つめていたが、ふと我に返って声をかけた。
「沙月さん」
「あら、直行さん!いらしていたのですね」
直行を見つけると、ぱっと笑顔を咲かせた沙月に、直行は軽く咳払いをしながら、照れ隠しに額を掻いた。今宵もまた、彼女と他愛のない話をしながら、この静かな寺で時を過ごす――そのことが、何よりも心を満たしてくれるのだった。
しかし、どうも今日の沙月は複雑そうな顔をしている。直行は思い切って沙月の顔を覗き込むと、沙月はどこか戸惑ったように視線を彷徨わせた。
やっと口を開いたかと思えば、その言葉は直行の心臓をひゅっと掴むものだった。
「私、縁談が来たんです。」
「え……」
相手は隣町でも名の知れた商家の跡取り息子で、端正な容姿でも評判だという。
その話を聞いた瞬間、直行の頭に衝撃が走り、まるで金槌で殴られたように視界がチカチカと揺らいだ。それ以降、どんな言葉も耳に入らなかった。ただ茫然と相槌を打つだけで、気づけば夕方になっていた。「ごめんなさい」と目を伏せたり上げたりを繰り返す沙月に、ぎこちない笑みを浮かべた直行は重い足取りで寺を後にした。
(俺の恋もこれにて終わりかぁ……)
直行は近くの山の頂上から街を見下ろすと、情けないため息をもらした。夕焼け空を飛び回るカラスが、そんな男の心を見透かすように哀れげな声を響かせた。