花と泥
静けさ漂う寺の中、秋風の音と微かな声が響く。
「池田直行さま――随分とお若い絵師の方ですね。玄光さまとお繋がりがあるとは意外でした。」
そう言いながら、沙月は手に持った箒を静かに地に降ろした。掃き清められた石畳の上に、風が運んだ小さな葉が舞い落ちる。
「昨晩知り合ったばかりの見習い絵師じゃ。奴には絵の才能がある。その才能はまだ眠っているようじゃが。」
沙月は目の端に小さな皺を寄せて微笑んだ。玄光の期待感がひしひしと伝わり、沙月はまたお話ししてみたい、と胸を躍らせた。
ふと、直行の姿を思い浮かべながら空を見上げる沙月の周りに、一匹の蝶が飛び回る。その様子を目で追っていると、沙月は唐突に「あっ」と声を上げた。
「噂をすれば」
寺の門の前には直行が周りをキョロキョロと伺いながら立っていた。蝶がそちらに飛んでいくのを追うように、沙月は門へ向かって向かって小走りする。
「直行さま、お久しぶりです。」
直行は小さく手を振る沙月を目に入れると、頬に熱が集まるのを自覚した。
「ご無沙汰しております。玄光さまからご依頼いただいた絵をお届けに参りました。」
「どうぞ、こちらへ。お掛けになってお話を。」
沙月がふわりと微笑むと、直行はわずかに視線を向けたまま、静かに身を屈めた。直行の目には、紅葉がこれほど映える女はほかにいなかった。その佇まいをそのまま筆に写し取りたい、そんな衝動が胸を突いた。
「おお、久しぶりじゃな。相変わらず堅い顔をしとるのう。」
「お久しぶりです」と深く頭を下げた直行に、玄光は隣へ座るよう促した。その目は、自らを絵の中の男にした春画を望んでいる老人とは思えないほどに穏やかだった。先の依頼は夢だったのではないか、と直行は一瞬疑った。だが、「春の絵は描けたのかい?」と片頬に笑みを浮かべる玄光の姿を見た途端、その迷いは霧散した。
「拙いながらも、描き上げました。お気に召してくれるかわかりませんが……」
「男なら己の絵に胸を張りなされ。ほれ、ほれ」
玄光は直行が背に携えた紙に目を留め、手招きする素振りを見せた。直行は恥じらいながら、ゆっくりとそれを差し出す。そこには二つの絵があった。
一つは横に流れるように花が咲いている。淡い茶色の和紙の上に、一本の細やかな枝が伸びる。その枝はしなやかにうねり、生命を宿したように葉を茂らせている。その先には白菊が慎ましやかに、若々しく、それでいて誘うような風情を帯びて咲いている。背景には何も描かれていない。ただ、静寂の中に、ひっそりと咲く花。
「ほぉ……」
玄光は絵をじっと見つめて下唇を舐める。はつらつと咲く花は、春画の一部とは到底思えなかった。沙月は茶室から二人の様子を羨ましそうに眺めている。二十五の直行にとって、年頃の綺麗な女に春画を見せるのは、さすがに気が引けた。
玄光は優しい手つきで紙を捲る。そこには黄金色の背景の中心で、絡み合う男女の姿があった。女の着物は乱れ、白い肌が露わになっている。女に重なる仏僧の男の手が、女の肩をしっかりと押さえつける。細められた目元は欲望で満ち、男は迷いなく、女の衣を引き裂くように肌へと口づけを落としている。一方、女の手は抵抗するように宙を泳ぐが、絡み合う肉体の中で、すでに自由を失っていた。
——菊の花は、いま散りゆこうとしている。
それは、一つ目の「咲き誇る菊」の対となるものであった。
「女が花か。まさにそうじゃな」
玄光は女の肌に触れながら、二つの絵を見比べる。白菊が咲く枝の配置と、女の体の配置は、まるで鏡写しのように重なっていた。触れることすら憚れるような純白の女を、白菊に見立てて描く。しかし、風が吹けば花びらは揺れ、やがては散る。二つの絵は、その瞬間を捉えたものだった。
だが、それを口にするのを直行は拒んだ。「作品は語るものでない。すべてを鑑賞者に委ねるのだ」という、師の教えを直行は噛み締めながら、玄光の表情を伺っていた。
「ふむ……直行、おぬしは随分と残酷よのう。咲かせるだけ咲かせておいて、無惨に散らすとはな。」
直行は誉められているのか分からなかったが、とりあえず口角を上げた。玄光の期待に添えているのならば、それでよかった。躊躇う直行の肩を玄光は温もりのある手で叩いた。
「まだ若き身で、ここまで描くとは大したものじゃ。お主の春画はこれから世に名を轟かすじゃろう。」
絵巻を太陽に向けて掲げる玄光の言葉に、直行は袖の端を指でつまんでふと息を呑んだ。心の奥底で、確かに何かが沸き立っていた。
「これで良かったのでしょうか?」
「ああ、ワシは満足じゃ。妖艶で、傲慢で、生々しい……ほれ、紙の上で女がまだ震えとるわ。なんという絶景じゃろう。」
荒くなる鼻息を女にかける玄光を見て、直行は顎を引いて苦笑した。仏僧とは思えないほど溢れ出た欲望に、直行は微かな幻滅を感じる。
それでも、己の絵が初めて誰かの心を揺さぶる光景を見て、直行は感激した。それも初めて描いた春画が、初めて描いた女体が、初めて描いた卑賤な男の表情が――。
(俺は、本当に春画が向いてるのかも知れない。)
直行は、自らの絵に興奮する仏僧の横で、青空を漂う雲を見上げながら、ふと確かな自信が胸の内に芽生えるのを感じた。