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初春画

「とりあえず頑張ってみる」

 そうは言ったものの、和紙と向き合ったまま直行の筆は動かない。泥の玄光と花の女——それを表現する方法が分かるのならば苦労はない。

 ひとまず、直行は棚から鳥文斎栄之の春画を取り出してぼーっと眺めた。いつ見ても、それは艶やかでありながら、どこか可憐だ。男も女もまるで花のようである。男の肌は、夜の灯りに照らされて白く淡い光を帯びていた。まさに美男という言葉が似合う。

 しかし、玄光が欲しているのはこの男ではない。泥のような男だ。濁り、汚れ、どうしようもなく愚かで、求めずにはいられぬ生き物。そのような飢え渇いた男を——漠然とした玄光の姿を——描かなければならない。

 直行は筆を持ち直し、硯のそばに並べた絵具の皿を見つめた。ひとまず、直行は肉色を作ろうと考えた。

 胡粉(ごふん)を取り、器の中でよく練る。牡蠣の貝殻を砕いて作られたこの白は、単体では冷たく、肌の温もりにはほど遠い。そこに少量の紅を混ぜると、わずかに赤みが差し、柔らかさが生まれる。

 直行は筆の先を器の縁で軽くしごきながら、そっと腕を回す。混ざり合った色の濃淡を確かめるように、手元の紙に試し塗りをする。指先で軽くこすり、滲みやすさを確かめる。

 のっぺりとした人形のような色に、さらに淡い黄土を加える。ほんの一滴、墨を溶かし入れれば肌の深みが出るのだが――

「しまった」

 直行は手を滑らせ、墨を垂らし過ぎてしまった。袖に飛び散った墨も気にせず、筆を握ったまま肩を落とし、あまりにも濃い肉色を見つめる。これは日焼けした肌というより、まるで土偶、いや、もはや獣のようだ……。

「美人画かい?」

 落胆した直行の横から、男の声がした。反射的に顔を上げると、そこには直行の脇から顔を出す清吉の姿があった。

「お、お前! いつの間にいたんだよ!」

「いやぁ、直行の部屋から面白そうな墨のにおいがするから気になってな、つい」

「ついって……」

 直行はニタニタと意地悪く笑う清吉の頭をこつんと叩いた。部屋に入るときは必ず一声かけるように言っているが、清吉が従順に守ることは無い。直行は春画を描くことを清吉に気付かれるのが恥ずかしくて、美人画を描こうとしていたと必死に弁明した。

「ほぉ、随分と肌の色が濃い女ですな」

 清吉はすべてを見透かしたような愉快そうな気配を口元に滲ませた。「うっ」と思わず唸った直行に、目だけを真剣そうに細めた清吉。

「この色、悪趣味な男によく似合う。例えば、山の中に若い娘を引き込んで、強引に犯す山賊。うん、かなり良い。」

 やけに饒舌な清吉を見て、直行はその豊かすぎる想像力に苦笑した。

(こういう男こそが、一生のうちに幾十もの春画を描き続けるのだろうなァ)

 ただ、冷静に考えてみると、今の清吉の言葉は非常に納得できる。「男は卑しければ卑しいほど肌の色を濃くすべし」どこかで聞いた、そんな言葉がふと直行の脳裏によぎった。事実、岩佐又兵衛の作品『又兵衛様式春画巻』も、卑賎な僧の男の肌が焦げた土色で描かれている。玄光が口にした「泥のような男」とは、まさにこの色がふさわしいのかもしれない――直行は顎にしわを集めて絵具の器をじっと見た。

 清吉を急かすように退出させると、直行は再び和紙に向き合う。

 ふっと一息おくと、直行の筆が紙の上で滑らかに踊る。墨が男の身体を縁取り、みるみるうちに輪郭が生まれた。直行は月明かりに照らされる玄光の姿を必死に頭に浮かべた。そう試みるほど、美しい女が脳内に現れた。なぜだかわからないが、直行の意識が男に向くほど、しなやかな肢体の女へと引き寄せられる。それを幾度も繰り返すことで、紙の上の男が、急激に生々しさを増した。無意識に舌を湿らせ、筆を走らせる。

「ほう……」

 思わず声が漏れる。

 紙の中の男は、あまりにも挑発的だった。描いてみなければ、どんな絵でも結果は分からないものだと直行は感じた。

 泥臭い男の姿はなんとか形になりそうだ。しかし、花のような女をどう描くか。女体が描けないわけではないが、成熟した女の体を花に見立てて描くことが難しい。

 筆を握りしめたまま、直行は眉を寄せる。

「……そうだ」

 閃光のように脳内を何かがよぎって、直行は再び筆を取る。だが、まだ紙には触れない。じっと、己の中で女の姿が完全に熟すのを待つ。筆を持つ指先が熱を帯びて赤く染まった。あと少し、もう少し――。

 直行は、紙の上で生まれゆく絵に没頭し、筆を走らせること以外のすべてを忘れていた。

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