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挑戦

 直行は鉄瓶の湯を注ぎ、冷めかけた飯を軽く蒸らす。昨夜の残りの味噌汁を火にかけると、湯気とともに香ばしい味噌の匂いが立ち上った。箸で鍋の中をかき混ぜながら、ぼんやりと昨夜の出来事を思い出す。

 (そうだ、俺は人生で初めて絵の依頼を受けたんだ。その人のためだけに描く絵、それも春画だ。)

「俺にはできる気がしねぇよ」

 直行は弱々しく呟いた。それでも不思議なくらい腹は減った。直行は麦飯をかきこむと、塩気の効いた沢庵をぽりぽりと噛み、ため息をつく。

 直行はよくわからなかった春画が、さらにわからなくなったような気がしたが、吉原での傷心はだいぶ癒え、いくらか心の中につっかえていた重りが軽くなったように感じた。

 (とにかく、もう一度仏僧を訪ねよう。)

 直行は、麦飯の米の一粒まで食べ切ると、勢いよく長屋を飛び出した。


 昨日は暗闇でよく見えなかったが、仏僧のいた寺は紅葉に染まっていて趣のある雰囲気を纏っていた。直行は、境内の庭で落ち葉を掃いている一人の娘の姿を見つけた。

 娘は気配に気づくと、そっと直行の方を振り返り、小さくお辞儀をした。彼女は小柄で、小動物のような愛らしさを持っていた。雪のように白い肌には、淡く紅が差し、その頬の色が小さな唇と美しく調和している。

 直行は娘の視線に小さく狼狽すると、慌ててお辞儀を返した。ゆっくりと近づくと、娘もこちらに向かって歩いてきた。

「あの、仏僧さんはおいでですか?」

「仏僧さん?」

 直行は「ああ」と焦ったそうに頭を掻いた。名前を聞いておくべきだったと今になって後悔した。

「ええと……丸坊主で、痩せてるようで意外と腹は出ていて、恵比寿様みたいな顔で……」

 娘は一瞬ぽかんとした後、ふっと笑みを浮かべた。

「ああ、玄光(げんこう)さまのことですね。いつもあのお寺の縁側でお月様を眺めておられますよ。」

 直行は思わず肩の力を抜いた。どうやら、そう間違った形容でもなかったらしい。

「玄光……いかにもそれらしい名ですね。でも、本人の言葉は意外と俗っぽい。」

 娘はくすくすと肩を揺らす。笑うと糸のように細くなる目が愛らしくて、直行は思わず名を尋ねた。

「私はこのお寺で経を読み、掃除をしております。沙月(さつき)と申します。」

 沙月は琴のように儚く、しかし芯のある声をしていた。

「直行様はどのようなご用で?」

「絵画の依頼を……受けまして。」

 直行は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。「春画を描いてくれと頼まれた」、寺の娘の前でそれを言うのは憚られた。沙月の澄んだ目が、まっすぐに自分を見つめているのが、なんとなく気まずい。

「玄光さまに、少し話を伺いたくて参りました」

「絵画の依頼……? 玄光さまに?」

 当然の疑問だった。坊主が絵を描くでもなし、ましてや画師に何を語るというのか。直行は適当に話を逸らそうとしたが、沙月はふと、思案するように口元に指を添えた。

「……玄光さまは、時折とても不思議なことをおっしゃいますからね。」

「やはり、そういうお方なのですか。」

「ええ、昔からそういうお方なのです。少々お部屋でお待ちください、玄光さまを呼んでまいります。」

 沙月は箒を縁側の近くに置くと、直行を寺の中へと案内した。「ありがたい」と、直行は胸の内でほっと息を吐きながら沙月の後ろを歩いた。

 室内は質素ながらも整えられ、几帳面に敷かれた畳がほのかに古い茶の香りを含んでいる。直行は襖の隙間から、色とりどりの葉がひらひらと舞い落ちるのを見ていた。

「直行さま、失礼いたします。」

 沙月の声がして、直行は「はい」と姿勢を正した。玄光がいるのだろうと胸を張っていた直行だったが、部屋に入ってきたのは長い髪を1つにまとめた沙月だけだった。

「玄光さまですが……」

 沙月は一息おいて口を開く。

「どうやら、直行さまとお会いになるつもりはないようです。」

 直行はゆっくりと息を吸ったまま、口をあんぐりと開けて固まってしまった。

「あ、会うつもりはない……ですか?」

「はい。私には事情は分かりませんが、『わしの姿を思い浮かべながら描いてみよ』と仰ると、そのまま奥へ籠もってしまわれました。」

 直行は、しばしの間、呆けたように瞬きをした。墨のついた小袖の端を弄りながら、沙月の言葉を頭の中で何度も反芻する。直行は膝の上で手を組み、眉を寄せながらしばらく沈思していた。

「――まったく、厄介なことになった……」

 ぽつりと呟いたその声は、自分でも思いのほか力なく響いた。そんな彼の様子を見て、沙月はさらに思い出すように目を細め、続けた。

「もうひとつ、こんなことをおっしゃっていました。」

 彼女は少し首をかしげ、玄光の言葉をそのまま口にする。

「"この身は泥のようなもの。だからこそ、女を花として咲かせてくれ。"」

 彼の胸に、玄光の言葉が深く響く。

 直行はじっと己の手を見つめた。

 泥と花、全く対照的な2つ――

 玄光はただ春画を求めたのではない。彼は己の姿を闇の中に隠すことで、殊更難しく清廉で淫靡な絵を欲している。

 そう分かった時、直行は深いため息をついた。

(まったく、よりによってあんな無茶で風変わりな老人に出会うとは。)

 表向きは毒づきながらも、その心の奥では好奇心が鋭く光っていた。

「感謝します、沙月さん。」

 直行は両手で頬を叩くと、挑むような笑みを浮かべて立ち上がった。沙月も慌てて立ち上がると、困ったように眉を下げて直行の名を呼ぶ。

(とりあえず、頑張ってみるか……)

 直行は大きな紅葉の木の前で両手を広げると、ゆっくりと深呼吸をする。紅葉の燃えるような色が、静かに直行の決意を映していた。

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