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艶筆  作者: 佐々山
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事件

 直行が幽霊・佐吉のために春画を描いてから、約二ヶ月が経った。

 その間、彼は門下での修行に励みながら、密かに春画の筆を握り続けていた。

 通常の絵とは異なる技術――肌の柔らかさを出す筆使い、衣の乱れの色気を際立たせる構図、そして見る者を物語の中に引き込む流れ。

 それらを習得するため、夜な夜な行灯の下で試行錯誤を繰り返した。

 当然ながら、春画修行のことは門下の誰にも言えない。師匠に知られれば、破門されかねないし、真面目な仲間たちに知られれば変態扱いされるのがオチだろうと考えている。

 だが――朋輩の清吉と彦兵衛だけは、例外だった。

 この二人には、とうの昔にバレていた。それどころか、筆名を決める際には、茶屋で夜通し議論するほど、協力的な仲になっていたのだ。

 その日、直行が昼の修行を終え、長屋へ戻ろうとすると、すでに清吉と彦兵衛が入り口で待ち構えていた。

「よう、理春先生!」

 彼らの顔を見るなり、直行はため息をついた。

「なんだ、お前ら。また春画の話か?」

「そろそろ新作を拝ませてくれよ」

 彦兵衛がにやにやしながら言うと、清吉も腕を組んでうなずいた。

「そうだな。俺たちが名付けた『池田理春』が、どれほど腕を上げたのか気になるところだ」

「うるさい」

 直行はぶっきらぼうに返したが、二人が春画に興味を持ち続けているのは悪くないと思っていた。

 清吉は茶屋や遊郭に顔が広く、色町の流行に詳しい。彦兵衛は観察眼が鋭く、構図や表現に対して率直な意見をくれる。

 この二人の助言は、春画を磨く上で案外役に立っていた。

「とはいえ、お前らに見せてばかりじゃ意味がないんだがな」

「なに? まさか、もう他に見せる相手がいるのか?」

 彦兵衛が意地悪く眉を上げる。

「まさかァ……ただ、ちょっと変わった奴に絵を描いたことがあるだけだ」

「ほう、そりゃ気になるな」

 彦兵衛が顎に手を当ててニヤつく。横で清吉も興味深そうに腕を組んだ。

「お前が『奇妙な奴』なんて言うくらいだ。よっぽど変な依頼人だったんだろ?」

「どんな奴だったんだ? まさか、幽霊とか?」

 彦兵衛が軽口を叩く。一瞬、背筋が冷えたが、すぐに清吉が話を続けた。

「幽霊ってのも面白いが、俺は天狗が頼んだんじゃないかって思うぜ。"天狗の男根"なんて春画が出回ったら、さぞ評判になるだろうな!」

 妄想を膨らませる二人を見て、直行は安堵の息をつく。

(全く、ビビらせるなよ……)

「で、実際のところ、どんな奴だったんだ?」

 清吉が身を乗り出す。

「……まあ、変わった奴だったのは確かだな」

 直行は腕を組みながら、ぼんやりと思い返した。

 ふと、佐吉の顔が脳裏をよぎる。あの異様な姿は二度と見たくないが、もし今どこかで話せるなら、少し語り合ってみたい気もする――。

 しかし、直行が「奇妙な相手」と呼んだその男よりも、さらに奇妙な出来事が待ち受けていることを、まだ誰も知らなかった。

 夜が明け、町がゆっくりと動き出すころ。

 直行は薄い布団の中でゆっくりと目を覚ます。早朝の寒さに身震いをし、布団にくるまり直すと二度寝をしようと寝返りを打った。

 (……ん?)

 目を閉じようとしたが、直行の目がふと床の隅に向いた。

 そこには、昨晩まで確かに置いていた一枚の春画があるはずだった。しかし、どこを探しても、それが見当たらない。

 (……あれ?)

 直行は眉をひそめた。

 散らかした覚えもないし、誰かに貸したわけでもない。いや、そもそもこの春画は、誰にも見せるつもりがなかったものだ。佐吉のために描いた、ただ一枚の絵。門下の誰かが見つけて持ち出したなら、大問題だ。もし師匠にでも知られたら――破門されるかもしれない。

 直行は焦りを覚えながら、部屋の中を探し回った。

 (どこかに紛れ込んだか? いや、そんなはずは……)

 机の下、襖の隙間、衣の間――どこにもない。

 何か嫌な予感が胸をよぎる。

 (もしかして、誰かに盗まれたのか?)

 さっきまで感じていた寒さや眠気は全て吹き飛び、直行はただただ部屋の中を右往左往した。

 (盗んだとしても……いや、それならいったい誰が、何のために?)

 直行の手が、知らず知らずのうちに震えていた。

 ただの春画ならまだしも、あの絵には、何かが宿っていた。佐吉の未練を、欲望を、そして報われなかった哀しみを――。

 それが今、どこかへ消えてしまった。

 直行は唾を飲み込み、ふと障子の向こうに目を向けた。

 外は、いつもと変わらぬ朝だった。だが、胸の奥にざわめく感覚は、何かが確実に狂い始めたことを告げていた。

 

「……なくなったんだ。あの絵が」

 茶屋の裏手、ひさしの下。午後の陽が差し込む縁台に腰を下ろし、直行はぼそりと呟いた。

「は?」

 先に来ていた清吉が茶碗を手にしたまま動きを止める。隣では彦兵衛が、団子を口に運ぼうとして固まった。

「……絵って、まさか春画か?」

「他にない」

 直行は湯飲みを置き、額に手を当てた。額際にはじんわりと汗がにじんでいる。

「昨夜まであった。とある依頼主のために必死になって仕上げた一枚だ。誰にも見せてないし、しまった場所もはっきり覚えてる。……なのに、今朝起きたら、跡形もなく消えてた」

「盗まれたってことか?」

 清吉が声を潜めた。彼もすぐに事の重大さを悟ったらしい。

「春画が……どこかに出回ったら、洒落にならねぇぞ」

「冗談抜きで破門だな」と、彦兵衛が額に手をやる。

 直行はゆっくり首を振る。

「金も道具も無事だ。盗まれたのは、あの春画一枚だけ。妙だろ?」

「そりゃ妙って言葉で片付けられることじゃねぇぞ。一体何のために……」

 清吉が湯飲みを置いて腕を組む。

「で、その絵って……どんな内容だったんだ?」

 直行は一拍、黙った。視線をそらし、答えに詰まる。流石に、男根の形をした幽霊のためだとは言えない。また、それを描くために遊女と一晩過ごしただなんて、口が裂けても言えない。幽霊――佐吉のことは、誰にも話すつもりはない。信じてもらえるはずがないし、何より、自分の中でもまだ整理がついていない。

「あー……まあ、ちょっと気合い入れて描いたやつだ」

 直行は短く答えた。そこから先は、口にできなかった。

「……変わった依頼人だったんだな」

 清吉がそれ以上は追及せず、静かに言った。

「まあ、いいさ。問題はその絵がどこに消えたかってことだ」

「そう。誰が、なぜ、それを持って行ったのか」

 彦兵衛が縁台に身を乗り出す。

「春画を一枚だけ盗るってのは、素人の仕業じゃねえ。趣味人か、もしくは……その絵に何か感じたやつがいたんだろ」

「……感じた?」

 直行が眉をひそめる。

「ある種の“念”ってやつだよ。描いたお前が、何か入れちまったんじゃねぇの? 情とか、思いとか、そういう……得体の知れないもんをさ」

 彦兵衛の言葉に、直行は息を飲む。

 ――それは、まさしく自分が思っていたことだった。

 あの絵には、佐吉の未練と、自分の筆が呼び寄せられるような妙な感覚が宿っていた。

 清吉が、ふと立ち上がった。

「よし。放っておくわけにはいかねぇな。俺は、茶屋や遊郭に顔を出してみる。最近怪しい噂や、新顔の流れ絵がないか、聞いてくるよ」

「俺は骨董屋を当たる。新しい春画が流れたら、誰かが知ってるはずだ」

 彦兵衛も団子を放り込んで立ち上がる。

「お前ら……本当にすまねぇ。ありがとうな」

 直行は二人から視線を逸らす。

「なに言ってんだよ」

「お前の春画に俺たちも名を貸してんだ。最後まで見届ける義務ってもんがあるだろ」

 清吉がにやりと笑い、彦兵衛が拳をこつんとぶつけてきた。

 その時、茶屋の奥からふと風が抜け、小さな鈴の音がかすかに響いた。

 気のせいか、背中にぞくりと何か冷たいものが走る。

 (……誰かが、呼んでいる?)

 直行は茶屋の裏口の方を見やった。けれどそこには、何もいなかった。

 ただ、胸の奥に漂う不安だけが、しんと重く残っていた。

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