紙に眠る
外は、深い夜の闇に沈んでいた。遊郭の喧騒もすでに収まり、しじまが広がっている。
直行は、絵をしっかりと抱え静かに夜の街を歩いている。
暗がりに沈んだ道を進むにつれ、気温がほんの少しだけ下がる。肌を撫でる夜風は冷たく、どこか異界の空気を孕んでいた。
以前と同じく佐吉のいる裏路地へ入ると、月光に照らされた物置が目に入った。
(目に留めなかっただけで、こんなところに物置があったんだなァ)
直行は、夜の静寂に耳を澄ませながら足を進める。
微かに、潮の香りがする――いや、違う。これは、人の体の匂いに近い。
闇に沈んだ小屋の入り口に立ち、直行はゆっくりと障子を開けると、そこには――
――ぬらり。
「お! 久しいですなァ!」
「うわッ!」
闇の中に、異形の男根が腕を組んで座っていた。直行は驚いて思わず尻餅をついた。
(やはり、この恐ろしい姿には目が慣れぬ)
異様に膨れ上がったそれは、まるで自らの存在を誇示するかのように光を反射していた。
「お前、なんでこんなところに居るんだ?」
「それは、まぁ……自分の欲を抑えるために閉じこもっているのさ。それに、こんな姿を見られて石を投げつけられるのは、もうごめんだしな。」
苦く笑った幽霊に、直行は眉をへの字に曲げる。
「それより、お前さんの春画はどうなったんだい?」
佐吉が身を乗り出し、待ちきれない様子で尋ねる。
「ああ、今日は完成した絵を持ってきた。お前が――」
直行は言葉を飲み込んだ。「お前が満足してくれるか自信はないが」――そう言いかけたものの、口にするのをやめた。
(俺は、どれだけ自分の作品に言い訳を用意しているんだ)
横目で見ると、佐吉は黄土色の短い腕を突き上げ、子供のように喜んでいた。
その姿に苦笑しつつ、直行は頭をかいた。そして、ゆっくりと布を解く。
絵が、静かに闇の中に広がった。
「お前のために――紫乃のためにも描いた。」
その言葉が落ちた瞬間、佐吉の動きがぴたりと止まる。
長い沈黙が続いた。
やがて、低いうめきのような声が漏れる。
「……これは……」
絵の中には、遊郭の奥まった一室で抱き合う男女の姿があった。
片方は、決して報われることのなかった男だ。目元は映っていなく、舌なめずりをした口元だけが画面にある。彼の身体は、かつての痩せ細った影ではなく、女の顔の二倍もある男根を備えた力強い肉体だ。
その男に腰を抱かれているのは、極上の衣を纏った遊女だ。男の手に力強く乳を揉まれ、男根を体の入り口に捩じ込まれている。まるで極楽の夢のような微笑みを浮かべ、甘美な吐息すら紙の上に滲んでいた。
薄暗い灯りの中で、二人は絡み合い、まるで生死の境すら超えて繋がるかのように描かれる。直行の筆は、その熱を、紙の上に封じ込めるように細やかな線をしている。遊女の指先が男の背を撫で、男の体温が、肉筆の中に閉じ込められるような錯覚さえ生む。
荒々しく燃え上がる男の欲望をそのまま映し出した作品だ。抑えきれない衝動に突き動かされ、獣のように貪る男とそれを受け入れる女の姿。
しかし、ただの淫靡な情景ではない。その筆致の奥には、言葉にできなかった切なさと、手を伸ばしても届かぬ幻のような儚さが滲んでいる。まるで、夢の中でしか交わることのできない二人が、紙の上に閉じ込められたかのようだった。
佐吉は、絵に釘付けになったまま、微動だにしなかった。直行は、幽霊とはいえ、ここまで静まり返るものかと訝しんだ。
やがて、絵を見つめる佐吉の身体が小刻みに震え始める。
「お……おおお……」
佐吉の黄土色の腕が、まるでその紙の上に描かれた女を抱きしめるように震えながら伸びる。
しかし、当たり前のように、それはただの紙だ。どれだけ伸ばしても、どれだけ触れようとしても、そこにいるのは墨と絵具で形作られた影にすぎない。
――それでも、佐吉は手を止めなかった。
震える指が、遊女の微笑みをなぞる。まるで確かめるように、確かめるように、何度も。
直行は、彼の背中をじっと見つめた。
月明かりの下に浮かぶ、異形の幽霊。だが今の彼は、ただの男だった。報われることなく、愛を尽くしても捨てられ、それでも愛し続けた男。彼女に縋り付くしかなく、女の味を知ることもなく死んだ哀れな男。
春画の中では、彼女は笑っていた。男の腕に抱かれ、甘く唇を開き、淫らに身を任せていた。
「俺は……」
佐吉は、喉の奥で言葉を詰まらせる。手が震え、唇が震え、かすれた声で呟いた。
「俺は……この絵の中でなら……お琴に愛されているのか……?」
直行は答えなかった。
いや――答えられなかった。それが真実か、それとも幻か、直行にも分からない。
けれど、佐吉にとっては、それでも良かった。彼は、自らの異形の身体を忘れたかのように、春画に頬を寄せた。まるで愛しい者を抱きしめるように。
「しばらく、どこかへ行っていてくれないか? きっと、すぐ終わる」
「おう……わかった」
直行は、佐吉の顔に滲む抑えきれない欲望を見て、すべてを察し、そっと視線を逸らした。
背を向けたまま立ち去ろうとしたその瞬間、佐吉がたまらず声をかける。
「本当にありがとうな、直行。ワシ、生まれて初めて女を抱けたかもしれん……まあ、もう死んどるがな」
佐吉はふっと力を抜き、欲に満ちた表情を和らげると、照れくさそうに笑った。
直行は静かにその言葉を受け止める。
佐吉にとって、これはただの春画ではない。それは、報われることのなかった想い。未練と慕情が絡み合い、なおも消えぬ愛の形だった。
直行は、佐吉に背を向けると海の近くへと歩き出した。ふと、夜風が吹いた。潮の香りが、微かに鼻をかすめる。直行は、海沿いの小道に腰掛け、潮の香りを吸い込んだまま目を閉じていた。
佐吉の言葉がまだ耳に残っている。
ーーワシ、生まれて初めて女を抱けたかもしれん
まったく、絵に欲情する幽霊とは前代未聞だ。
だが、直行は自分が何かとんでもなく意義のある仕事をしたような気さえしていた。佐吉が満足し、未練が消えていくのを感じたからだろうか。
風が冷えてきた。
(そろそろ戻るか)
直行は腰を上げ、佐吉のいたところへと足を向けた。
闇に沈んだ裏路地は、先ほどと変わらぬ静けさを保っていた。
そこには、ただ物置があるだけで人も幽霊の気配もなかった。佐吉がいた物置の入り口は、わずかに開いている。
「佐吉……?」
直行はそっと物置の中を覗き込んだ。やはり、異形の幽霊はどこにもいない。
物置の前にぽつんと残されていたのは、直行の描いた春画だった。紙の上に刻まれた男女の姿は、描いたときと何一つ変わっていない。
けれど、どこか温もりがあるように見えた。いや、それは錯覚だ。絵具と墨で描かれたただの画だ。
……なのに、直行はふっと笑った。
佐吉は、満たされたのだろう。死してなお抱え続けた渇望を、ほんの少しだけ癒せたのだ。
ふと、直行の視線が、床の端に転がる何かを捉えた。
小さな、光沢のあるもの――佐吉の片腕だった。
直行はゆっくりとそれを拾い上げた。不気味にぬめる、異形の質感。だが、奇妙なことに、持ち上げた瞬間、それは砂のように跡形もなく消えていった。
佐吉は、男根の幽霊ではなくなったのだ。
絵師としての出発点が幽霊相手の春画というのは、縁起がいいのか悪いのか分からない。それでも、最後に佐吉が見せた満ち足りた表情を思い出せば、悪くないと思えてくる。
(……まぁ、女を知らないままくたばっちまった男の未練を、少しは晴らしてやったってことでいいか)
直行は地面に落ちていた自分の絵を拾い上げた。紙の隅には、「池田理春」の印がしっかりと刻まれている。指先でそっとなぞりながら、苦笑する。
(まさか、幽霊相手に描いた春画が、自分の名を世に出す最初の仕事になるとはな……)
直行は絵を懐にしまい、夜の静けさの中へと歩き出した。
冷たい風が頬を撫でる。月明かりが照らす道を、ゆっくりと踏みしめながら。




