仏僧
遊廓での一夜を過ごした直行だったが、翌日からも普段と変わらぬ表情で絵に向き合っていた。周囲の目には、いつもの生真面目な――いや、それ以上に真剣な姿に映った。
しかし、一時も直行の頭から鳥文斎栄之の春画が離れることはなかった。何度見ても、彼の春画は直行の胸をくすぐり、妙な焦燥を掻き立てた。
(俺は本当に、春画を描かぬままでいられるのか?)
単なる興味ではない。線の流れ、色の配し方、男女の交わる瞬間に宿る生気――そのすべてが、己の中に眠る何かを刺激してやまなかった。
窓の外から、遊郭の方角に目をやるとあの一夜の記憶がふと蘇る。夢のようなあの感触を、紙の上に刻むことはできるのか。
もし描けるなら、それは己の「筆が変わる」瞬間なのかもしれない。
清吉の何気ない一枚の絵に端を発した興味は、いつの間にか直行の内に根を張り、彼を見知らぬ境地へと駆り立てていた。
その夜、直行は師に御使いを頼まれて小石川養成所まで足を運んでいた。絵師仲間のひとりが持病を悪化させてここに運ばれ、見舞いの品を直行に託したのだ。直行はそれを届けると、長い廊下を抜けて外へ出た。すっかり冷え込んだ空気のなか、門前の石畳を歩きながら息をつく。
帰路につこうとしたそのとき、ふと、寺の境内からかすかな読経が聞こえた。夜更けに響くその声は、どこか異様だった。まるで己自身に言い聞かせるような、孤独な祈り。
直行は導かれるように足を向けると、灯りの消えた本堂の縁側に、ひとりの老人が座っているのを見つけた。
「……おまえさん、絵描きだね?」
唐突に声をかけられ、直行はびくりと体を震わして筋肉を固くした。
「そ、そうですが」
思わず後退りする。
「なぜ分かるのです?」
男は静かに立ち上がると、夜の闇に沈む直行をじっと見つめた。細い目が、月光を宿して妖しく光る。
「その目が、ただの景色ではなく“形”を見ている。」
「は、はあ……」
随分と哲学的な物言いをする仏僧に、直行は眉を顰めた。その後も、仏僧は絵師の特徴をぶつぶつと語っていた。「墨の香りがする」とか、「筆を持つ者の手は、僧の数珠より雄弁だ」とか。ついには、「手先を見れば、色欲にまみれた絵を描くか、清らかな仏を描くか、わかるものよ。」と言った。
「己の手はどちらでしょうか?」
直行は興味本位で仏僧に訊ねる。月に照らされた仏僧の顔が、あまりにも優しくて恵比寿様のようで、自然と気を許してしまった。
仏僧は手招きして直行を縁側に座らせた。直行の手の甲を覗き込むと、仏僧は「ふむ」と顎を撫でた。
「これはおまえさん、真っ白じゃな」
「真っ白、ですか」
仏僧の言葉の通りだった。「生真面目な絵描きじゃ」と、仏僧はほっほっほと愉快に笑った。全て見透かされているようで、直行はぎこちなく口角を上げて手を引っ込めたが、ふとこの穏やかな老人に全てを打ち明けてみたい衝動に駆られた。
「……春画が描けません。どうしても、筆が進まないのです。」
直行は苦笑しながら、自分でも驚くほど素直に言葉をこぼした。仏僧は静かに目を細めると、微かに口元を緩めた。
「書けぬとな?」
「筆を取れば、線は引ける。だが、女の肌に血が通っていない。ただの輪郭しか描けねぇんです。」
「なるほどな。おまえさんは、女の色を知らぬのじゃな。」
直行は反論しようと口を開いたが、すぐに言葉を飲み込んだ。女を抱いたことは何度かある。遊郭に足を運んだこともある。だが、それと「描けること」は違うのだ。
仏僧は穏やかに直行の手をとり、指の節を撫でるように押した。
「筆を握る手には、心が宿る。おまえさんの筆には、まだ“熱”が足りぬ。」
「熱……?」
「そうじゃ。情の熱、欲の熱、人の熱。春画とは、肉と心の交わりを描くものじゃろう。」
直行は唇を噛んだ。
「ならば、どうすればいいのですか?」
仏僧は微笑むと、夜空を見上げた。
「私に描いてみせよ。」
「……は?」
「私はこの年になるまで、女を抱いたことがない。だが、一度でいいから、心で女と契りを交わしたい。筆で叶えてくれまいか?」
月明かりの下、仏僧の表情はどこまでも穏やかだった。しかし、その言葉の意味は、直行の胸に鋭く刺さる。
「……筆で、心の交わりを?」
直行は己の手を見つめる。今の自分に、それが描けるのか――?
夜風が吹き、寺の境内の木々がざわめいた。直行は、しばらく無言で月を見上げていた。