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艶筆  作者: 佐々山
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未練を描く夜

 外の鳥の鳴き声が、夜の静寂を溶かすように響き始めた。遠くで鳴いていた鳥の声は、次第に近づき、やがて夜の終わりを告げるように響く。

 直行はそっと目を伏せ、昨晩のことを思い返した。

 胸の奥に、お琴の顔が浮かぶ。彼女は遊女として生きる覚悟を持つ女だったが、その奥には、佐吉への想いと後悔が滲んでいた。直行は、そんな彼女と佐吉を絵の中で生かすことを決めた。

 だが、それはお琴のためではない。――幽霊となってもなお、女の幻を求め続ける佐吉のためだった。

 長く息を吐く。微かに震える自分の吐息を感じながら、直行は思う。

(俺にできるのは、絵を描くことだけだ。)

 それが何を意味するのか。どんな結末をもたらすのかは、分からない。

 ただ、佐吉の未練を、お琴の面影を、紙の上に刻むことで何かが変わるのなら、それにすがるしかなかった。

 静かに席につき、そばに置かれた画材に手を伸ばす。筆の軸を握り、感触を確かめるように指を滑らせる。

(佐吉さんは、どんな顔をしていたのだろう。お琴を見つめるその目は? その口元は?)

 ゆっくりと筆を握り、目を閉じる。指先がわずかに震えた。まるで、誰かがそっと手を添えたかのように。

 そのとき、不意に微かな風が障子を揺らした。部屋の空気がふっと動き、壁に映る影が歪んで広がった。佐吉の気配なのか。それとも、ただの錯覚か。

 直行はゆっくりと目を開けた。

(迷わずに描こう)

 静かに硯に筆を浸す。しっとりと墨が滲み、筆の毛先に深い黒が宿る。

 まず描いたのは、佐吉の姿だった。

 生前の彼がどれほどの愛を注いでも、遊女として生きるお琴の心には触れられなかった。愛を尽くしながらも、報われることのなかった男の無念を、紙の上に刻み込むように、直行は慎重に筆を走らせた。

 次に、お琴を描いた。

 彼女は微笑んでいる。その笑みはとても甘美で、艶やかで、同時にどこか遠い。触れれば消えてしまいそうな儚さを孕んでいた。直行は迷いながらも、彼女の瞳に微細な揺らぎを与えた。そこには、ほんの一瞬だけ浮かんだ寂しげな色を滲ませる。思わず、筆の先が震えた。

 これは単なる春画ではない。もちろん、佐吉の肉欲を満たすための卑猥さを売るものだ。しかし、それだけではなく、慕情と哀切が絡み合った熱を込めたものだ。

 直行の描く春画を見た者の多くは、「理屈っぽい」と言った。春画とは、本来、男の欲望を満たすためのもの。そこに理屈も深い芸術性も必要ない。ただ、快楽のためにあるべきだと。

 だが、直行は違った。

 絵の中の欲望を満たすためには、そこに潜む感情や背景をも描かなければならないと、彼は信じていた。欲望とはただ生々しいものではなく、人の執念や未練、心の奥に沈むどうしようもない情動の結晶なのだから。

("理屈春画師"と言われても別にいいさ。)

 やがて時間の感覚が薄れていった。墨が紙に染み込むたび、佐吉の執念とお琴の哀しみが重なり、筆を通じて形を成していく。蝋燭の炎が揺れた。

 夜が更け、やがて明け方が近づくころ、直行は下絵を終わらせた。

 やっと筆を置くと心地よい静寂が流れた。直之は長く息を吐き、目の前の絵を見つめる。

(……これで、佐吉さんは満足するのだろうか。)

 胸の中で問いかけても、答えは返ってこない。

 直行は静かに筆を洗い、絵を乾かしながら、次の行動を考えた。

(ひとまず着色まで全てを終えて、早速佐吉さんに会いに行かなければ。)

 朝の光が差し込む。

 障子の隙間から覗く空は、夜の闇を払い、穏やかに白んでいく。

 佐吉の魂を鎮めるために。

 そして、お琴と佐吉――二人の関係に、ひとつの決着をつけるために。

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