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艶筆  作者: 佐々山
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情を売らぬ女

 夜の帳が降りた遊郭の奥座敷。襖を閉じれば、外の喧騒はまるで遠い異国の出来事のように感じられる。部屋にはほのかに香が焚かれ、ゆらめく灯りが障子に影を落としていた。

 彼女は、細い指をすっと伸ばし、直行の頬を撫でた。

「じゃあ、まずは——膝をついて、私の足に口づけて」

 直行は、思わず息を呑んだ。お琴の足元に目を落とす。白粉の塗られた細い足首が、ちらりと見えた。

「……冗談じゃない」

「冗談じゃないわよ」

 お琴は、にっこりと微笑んだ。

「そうしなければ、何も教えられないわねぇ」

 その言葉は、甘美で、そして残酷だった。

 直行は反論のしようがないと言うように、顔を歪めて、唇を膝下に持っていった。白い足に唇の形が浮かび上がると、顔を上げた直行を、お琴は光悦した表情で見つめる。

「いい子」

 そうして、 紫乃の手が直行の衣の帯にそっと触れた。その指先が少しずつ力を込めるたび、布がゆるみ、肌に冷たい空気が触れる。 まるで紫乃に全てを預けるかのように、直行の身体はじわりと熱を帯びていった。

 紫乃は、そんな彼の反応を楽しむように、細めた目で彼を見つめる。そして、ゆっくりと身を寄せると、柔らかな吐息が耳元をくすぐった。

「さあ……おいでなさい」

 その瞬間、直行の中で何かが弾けた。

 目の前の女に抗う理由は、もはやどこにもなかった。


 ***


 初めてお琴と体を重ねた時と同じ――気づいたら果てていて、空は白くなっていた。

「あら、もう少し寝ていてもよかったのに」

 お琴は目を擦る直行を横目に、櫛で髪を整えていた。

 直行はぼんやりとした意識のまま、乱れた布団の上で上体を起こした。部屋にはまだ夜の余韻が漂っている。酒と香の甘い残り香、肌に残る紫乃の爪の感触――すべてが生々しく、だがどこか現実感がなかった。

「……随分と余裕だな」

 かすれた声で呟くと、お琴はくすりと笑う。櫛を滑らせる手を止め、ゆるりとこちらに振り向いた。

「十分に楽しめたもの。私にとってはこんなものどうってことないわ」

 そう言いながら、お琴は直行の横に座り、直行の衣の中に手を入れようとした。布越しに覗く鎖骨が艶やかに灯りを反射している。

 直行は小さく息を吐くと、衣をしっかりと閉じ、片手でお琴の手首を掴んだ。

「……佐吉の話、聞かせてもらおうか」

 その言葉に、紫乃の動きがぴたりと止まる。

「あら、随分とせっかちね」

 挑発するような微笑み。しかし、その奥に一瞬だけ、何か別の感情が過ったのを直行は見逃さなかった。お琴は退屈そうに衣を正すと、目を真っ直ぐに向けた。

「佐吉さんはね……哀れな人だったわ」

 窓の外では、白んだ空に鳥が鳴く。直行はじっとお琴の横顔を見つめた。

「さっきも言ったけれど、私は”紫乃”っていう名前で働いていたの」

 お琴は、ゆっくりと櫛を置いた。指先で髪を払う仕草は優雅だったが、その目はどこか遠くを見つめているようだった。

「でもね、その名があまりに知れ渡りすぎたのよ。この界隈での名声は、時に足枷になるわ。特に、身請け話が持ち上がるとね。どこかの旦那が大金を積み、囲おうとする。でも、私はそんな生き方を望んではいなかった。」

 お琴の声には、ほんの僅かに棘が混じっていた。

「だから、ここを離れて少し時間を置き、”お琴”という別の名前で戻ってきたの。新しい名を使えば、また一からやり直せる。もう誰かに買われる心配もなく、ただ遊女として生きていける。」

 直行は、驚きとともに彼女を見つめた。普通の遊女なら、身請けされることこそが夢のはずだった。だが、お琴――いや、紫乃はそれを拒んだのだ。

「……お前は、ずっとここで生きていくつもりなのか?」

「さて、どうかしらね。でも、私は”誰かのもの”になりたくはないのよ。」

 その言葉に、直行は思い当たることがあった。

「……佐吉のことか?」

 お琴は、ふっと目を伏せる。そして、そっと盃を手に取ると、中の酒をゆらりと揺らした。

「彼は……馬鹿な人だったわ。」

「……あんなにお前を想っていたのに?」

 お琴はくすりと笑う。しかし、その笑いには、どこか寂しさが滲んでいた。

「あの人はね、私が見せる”紫乃”という幻に恋をしたのよ。夢を見続けていたの。」

「でも私は、彼に現実を見せるつもりはなかった。佐吉さんは、ただのお客よ。どれだけ尽くされても、どれだけ金を積まれても、私は彼を愛する唯一の女にはならない。」

 お琴はゆっくりと瞳を閉じる。そして、静かに続けた。

「でも……それを理解する前に、彼は全てを失ってしまった。」

 直行は、言葉を飲み込んだ。

「……後悔しているのか?」

 お琴は、驚いたように直行を見た。

「いいえ、これは私が選んだ道だもの」

 そして、少しだけ考え込むと、肩をすくめて微笑んだ。

「でも……時々、あの人の目を思い出すことはあるわ。」

 直行は、それ以上何も言えなかった。

 窓の外では、朝の光が淡く部屋を照らし始めていた。

「今度は私から質問。なぜ貴方が佐吉さんのことを知りたがっているのか教えてちょうだい」

 直行はハッと顔を上げると、小さく唇を噛んだ。本当のことを言うべきか躊躇ったが、黙っている理由はない。これは、佐吉のためにもお琴のためにも伝えなければならないのだろう。

「佐吉さんは、まだこの世にいるんだ」

 その瞬間、お琴の目が大きく見開き、指がわずかに震えた。盃の縁にかけられていた手が、かすかに力を失い、酒が静かに揺れる。

「……何を言っているの?」

 かすれた声でそう呟くと、お琴は直行をまじまじと見つめた。その目には、困惑と疑念、そしてどこかに怯えの色が滲んでいた。

「佐吉さんが……まだこの世に?」

 直行は静かに頷いた。

「ああ。幽霊になった佐吉さんは、俺に会いに来た。そして……成仏させてほしいと、泣きながら頼んできた。お前のことをどうしても忘れられないんだと。」

 お琴の唇が、かすかに震えた。

「そんな……どうして……」

 紫乃として生き、お琴として名を変えてなお、彼女は過去を振り払ってきたつもりだった。すべてを終わらせ、遊女としての生を貫くと決めていた。それなのに、こんな形で佐吉と再び向き合わなければならないとは。

「あの人は……本当に、私のことを……」

 お琴は視線を落とし、胸の前でそっと指を組んだ。その指は力を込められ、爪が白くなるほどだった。

 直行はそんな彼女の横顔をじっと見つめる。

「……俺は、二人を繋げてやりたい」

 お琴がゆっくりと顔を上げる。

「繋げる……?」

「ああ。佐吉さんはお前を忘れられずにいる。ならば、俺が絵の中でお前たちを繋げてやる。それが、せめてもの手向けになるかもしれない。」

 直行の言葉に、お琴は息を呑んだ。

 しばしの沈黙が流れる。

 お琴は、障子越しに差し込む薄紅色の光をじっと見つめながら、ゆっくりとまぶたを閉じる。そして、長く息を吐き出し、ぽつりと呟いた。

「……そんな絵、描いてもらったところで、あの人が満足するのかしらね」

 その声は、どこまでも弱々しかった。

 (佐吉さんの愛は彼女の想像以上に強い……きっと、満足するはずだ……きっと)

 直行は、不安を払拭するように息を吐いた。

「満足するさ。佐吉さんはお前を愛していた。どんな形であれ、お前を忘れることはできないんだ」

 お琴は微かに眉を寄せ、視線を外した。白粉を施した白い指先が、盃の縁をなぞる。

「……直行さん、貴方は優しい人ね」

 そう呟いた声には、いつもの軽やかさはなかった。

「でも、優しさだけじゃ、この世は渡れないのよ。遊女というのは、時に情けを捨てなければ生きていけない。佐吉さんがそうだったように、私も……」

「それでもいいんだよ」

 直行の声は静かだったが、強い意思を感じさせた。

「お前がどんな生き方をしても、佐吉さんが何を思っていようと、それを裁くつもりはない。ただ、少しでも救われるなら、それでいい。」

 お琴は、驚きを隠せないまま直行を見つめ続けた。長い沈黙が落ち、その間に彼女の瞳から鋭さが消えていく。代わりに浮かんだのは、儚く、壊れやすい微笑みだった。

 彼女は何も言わずに立ち上がり、窓辺へ向かう。開かれた窓から朝の光が差し込み、淡い紅を帯びたその光が、彼女を現実と夢の境目に立たせているように見えた。

「いいわ、直行さん。貴方の絵で、佐吉さんに何かを届けられるのなら……私はそれに身を委ねましょう」

 彼女の声は静かだったが、確かに覚悟が滲んでいた。

 直行は言葉を探したが、結局ひとつも見つけられなかった。ただ、目の前に立つ彼女の姿を、逃がすまいとするように胸の奥へ刻みつける。

 佐吉の魂を鎮めるための絵――

 それがどのような形を取るのか、まだ自分にも分からない。けれど、描くべきだということだけは、はっきりとしていた。

 直行は、静かに筆を執る決意を固める。それが、佐吉のために、そして彼女のために、自分ができる唯一のことだった。

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